明智家臣

諏訪盛直(諏訪飛騨守)~明智光秀家臣~山崎の戦いでの激闘で華々しく散る!淀古城・京都諏訪氏とは?

諏訪盛直



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諏訪盛直

諏訪盛直(すわもりなお)は
元々は足利義昭の家臣でした。
官途は飛騨守。
淀城淀古城)の戦い」では、
足利義昭方の石成友通に拠して
淀城(淀古城)に籠城したとあります。
そして織田信長方の細川藤孝と戦いましたが、
羽柴秀吉の調略によって降伏したそうです。

幕府滅亡後、諏訪盛直は明智光秀に仕えましたが、
天正10年(1582年)の山崎の戦い
討ち死にしたとのことです。

山崎の戦では、
伊勢貞興、御牧景重・御牧量則(御牧勘兵衛)兄弟と共に、
明智本体軍の右翼隊だったと伝わっています。
奮戦するも、総兵力は圧倒的に羽柴軍が多かった模様です。
やがて、明智軍は総崩れとなり、
四分五裂となって敗走していきました。
其の後の諏訪盛直の詳細は判明していません。

けれども、諏訪盛直は、
旧足利幕臣の伊勢貞興と共に、
池田恒興池田元助父子と中川清秀高山右近らと
激しく戦ったとされています。
そして、伊勢貞興と同じく、
華々しく討死したと言われています。

【淀古城】

淀古城(よどこじょう)は、
京都府京都市伏見区納所(のうそ)北城堀にあった日本の城でした。
納所は木津・桂・宇治の三川が合流する
ポイントの北岸にあたりに築城され、
3面を川に囲まれた天然の要害で、
古くからの商業地「淀」の中核都市でした。

【築城】
築城は室町時代の中頃とされており、
守護畠山政長が応仁の乱
西軍の畠山義就に備えるため、
守護所を勝竜寺城から
当城に移したのではないかと考えらえています。
その後、明応2年(1493年)以降に、
細川氏が山城を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、
摂津と河内の抑えの城として使用されてきました。

【淀古城の役割】
淀古城は水陸交通の要街として、
槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つでありました。
また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、
対岸の山崎城と並んで京都の要害で、
淀古城の東側には現在は存在していない
巨椋池(おぐらいけ)が存在していたと思われています。




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【巨椋池と明智光秀】
巨椋池は、明智光秀が山崎の戦に敗れて、
坂本城へ逃げのびる際に、
醍醐・山科を通る道にどんと存在していたために、
道が狭くなり、難所であった模様です。
特に、敵方がここで待ち受けていれば、
一網打尽に討ち取ることが可能である
極めて危険な場所であったのでした。
そして、結果は周知のとおりとなります。
こうした地形に詳しい誰かの指示で
伏兵を忍ばせていたのだとしたら・・・?
明智光秀は、
単なる農民や盗賊に襲われたのでしょうか?
ナゾが深まりますね・・・。

【別名】
岡城、淀城
【形態】
平城
【遺構】
なし。現在は石碑があるのみです。

【所在地】
京都府京都市伏見区納所北城堀46
(妙教寺の住所)

【交通アクセス】
<鉄道>
京阪電車・本線「淀」駅 徒歩10分程度。
<車>
京滋バイパス 久御山淀IC⇒
京都府道15号宇治淀線⇒京都府道126号新町淀停車場線
⇒京都府道・大阪府道13号京都守口線
近隣に無料の駐車場はないそうです。

<場所>
淀古城の石碑は「妙教寺」の境内にあります。

淀古城の戦いは2回あります。

【第一次淀古城の戦い】
永正元年(1504年)の
赤沢朝経と細川政元が対立からだとされています。
細川政元は同年3月9日に
摂津守護代の薬師寺元一に
槇島城に攻城するように命じます。
赤沢軍は600~700兵を従えて
城から撤兵します。
それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び、
交通、軍事の要所であった
淀古城を攻城してきました。
細川軍は、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、
内藤軍も入城させ、
畠山軍からの攻城戦に備えたとあります。

【薬師寺元一の謀反】
このとき別の局面が展開されていました。
細川軍に属していた薬師寺元一が、
細川政元の養子細川澄元を擁立し、
細川政元に謀反を仕掛けたとあります。
これに呼応した山城国人衆と、
槇島城から赤沢軍が、
援軍として淀古城に籠城しました。
けれども、薬師寺元一の弟長忠は、
細川軍に属したまま兄と袂を分かち、
香西元長と共に淀古城を攻城、
淀古城は細川軍の勝利となりました。
淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、
薬師寺元一は捕えられて同年9月20日、
京で自害、赤沢朝経は大和へ敗走しました。

【畠山氏VS細川氏】
この戦いがやがては、
畠山氏と細川氏との対立が本格化します。
やがて、
山城、河内、和泉、摂津、大和に戦線が拡大していきます。
この戦いでは細川軍に属した薬師寺長忠、
香西元長でしたが、
3年後の永正4年(1507年)では、
永正の錯乱で細川政元を暗殺し、
細川政元のもう1人の養子である細川澄之を擁立します。
けれども、すぐに細川澄元一派に反撃され、
細川澄之と共に戦死したとあります。

その後は細川氏の被官が代々淀古城を治めていました。
そうして、細川政権から三好政権に移っていきます。
永禄2年(1559年)には、
三好長慶が畿内を統一すると
淀古城も細川氏綱が城主となりました。
永禄7年(1564年)に細川氏綱が死去すると、
三好長慶の甥に当たる三好義継が城主となり、
ついで松永久秀方の武将が城主となったとあります。




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永禄9年(1566年)7月に、
勝竜寺城と共に、
三好三人衆軍に淀古城が攻城されると、
三好長逸方の金子某が城主となったとあります。
永禄11年(1568年)に
織田信長が上洛を果たすと、
淀古城も織田軍の焼き討ちにあい、落城しました。

【第二次淀古城の戦い】
元亀4年(1573年)2月に、
織田信長とかねてより対立していた
15代将軍足利義昭は、
織田信長を討つことを決意して、
二条城で自ら兵をあげました。
けれども、織田信長の動きが素早く、
早々に岐阜城を出立、二条城を攻囲しました。
この時は正親町天皇の勧告により、
二条城を織田信長に明け渡しました。
同年7月に槇島城に籠もり、
再び織田信長討伐の兵を挙げました。
足利義昭の要請に応じたのが三好三人衆の1人である
岩成友通で、足利義昭の重臣となり、
淀古城に立て篭もりました。
けれども、槇島城が織田軍に攻城され)、
足利義昭は2人の人質を差し出して
降伏し河内に逃亡しました。

【足利幕府滅亡】
なお、この戦いで足利義昭が京都から追放され、
室町幕府は実質的に滅亡しました。
この戦の後の7月28日、
元亀から天正への改元が行なわれました。

【三好三人衆の終焉】
一方、淀古城に立て篭もる岩成軍に対しては、
木下秀吉(羽柴秀吉)隊が布陣しました。
木下秀吉は、計略を巡らし淀古城の番頭である
大炊頭義元、諏訪飛騨守(諏訪盛直)三將らを
味方につけたとあります。
更に織田信長は、
近隣の勝竜寺城城主細川藤孝に出軍を命じ、
細川藤孝はこれに従って攻城軍に加わりました。
これに対応するため、
岩成友通は淀古城を出軍し奮戦したとあります。
防御施設が整っている城から、
わざわざ討って出たのは番頭大炊頭、
諏訪三將(諏訪盛直)らが強く進言したためと
言われてたそうです。
岩成友通は奮戦しましたが、
最後には細川藤孝の家来である
下津権内(おりつごんない)と
組み合いとなり堀に落下、
水中で討ち取られ戦死したとあります。
この戦いで岩成友通と併せて、
岩成方の軍勢340名が
戦死したと伝えられています。
首は近江の高島に出軍中の
織田信長の元に届けられました。

三好長逸は行方不明となり、
三好宗渭は既に死去していました。
この戦いの結果、三好三人衆は完全に崩壊しました。

【その後の淀古城】
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後、
「兼見卿記」によりますと、
明智光秀が淀古城を改修したと
記録されているとのことです。
羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いでも
淀古城は利用されていました。
豊臣(羽柴)秀吉の天下となってからは、
天正17年(1589年)3月に、
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が淀古城を改修し、
豊臣秀吉が側室である茶々に
与えて産所としたとあります。
そのために茶々が後に
淀殿」と呼ばれるようになったのでした。
この城でのちに鶴松が産まれましたが、
天正19年(1591年)に夭折してしまいました。




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鶴松が夭折した後は、甥の豊臣秀次
豊臣秀吉の養子となりましたがが、
淀殿が秀頼を産むと叔父である豊臣秀吉と軋轢が生じ、
文禄4年(1595年)、切腹を命じられます。
家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、
こうして淀古城は廃城となったのでした。

【京都諏訪氏】

諏訪氏(すわし/すわうじ)は、日本の氏族の一つ。
諏訪大社上社の大祝(おおほうり)、
または信濃国諏訪郡の領主を司った家柄です。
神氏(みわし/じんし)とも。
中世以降の通字は「頼」(より)。
江戸時代以降の諏訪藩主家は
「忠」(ただ)を通字としているとのことです。

室町時代には、
庶流・小坂家出身の諏訪円忠が
(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)
建武政権で雑訴決断所の成員を務めていました。
後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従い、
室町幕府の評定衆や引付衆、
天龍寺造営奉行などを務め、
在京して将軍直属の奉公衆としても活躍し、
幕府滅亡までその職を世襲したとのことでう。
諏訪円忠の嘆願が受け入れられ、
信濃の諏訪氏は幕府より存続を許されたとあります。
また「諏方大明神画詞」は
諏訪円忠による著作物と伝えられています。
諏訪流鷹術はこの家に伝えられたとされています。

文正元年(1466年)諏訪貞郷は、
幕府の祐筆を辞して信濃使節となり、
京と信濃を往復していました。
諏訪貞通は幕府奉行人を務め、
文明8年(1476年)、
諏訪大社の大般若経転読法会の再興に関する
後土御門天皇の綸旨を得て、
長享元年(1487年)、8代将軍である足利義政や
その妻日野富子ら幕府要人から
諏訪法楽和歌の短冊を集め、
京都の諏訪神社に奉納しています。
また京都諏訪氏は足利義昭の帰京や
将軍擁立にも奔走していました。

元亀4年(1573年)2月~7月の槇島城の戦い
足利幕府の滅亡後に、諏訪盛直は明智光秀に
仕えました。

【諏訪円忠】
諏訪 円忠(すわ えんちゅう、
永仁3年(1295年)⇒ 貞治3年(1364年))
鎌倉幕府と室町幕府の奉行人。
京都諏訪氏の祖とされています。

【生い立ちなど】
信濃国諏訪郡生まれで諏訪盛忠の子。
諏訪神党の「神氏系図」によりますと、
諏訪大社上社の支族で、
埴科郡船山郷の地頭小坂氏を継いだので
小坂円忠とも称していたとされています。
諏訪氏は北条氏の得宗被官で、
叔父の諏訪時光も鎌倉幕府の奉行人であったので、
その養子となり鎌倉で元服したと伝わっています。

【足利幕府の奉行】
北条氏が滅亡すると上洛し、
夢窓疎石の仲介により足利尊氏に仕官し、
室町幕府の評定衆から守護奉行を経て、
天竜寺の造営奉行を務めたとされています。
さらに禅律方奉行人となり
主に禅宗寺院関連の案件を担当していたそうです。
中先代の乱以後に衰亡した諏訪宗家の再興にも助力し、
諏訪上社の花会が信濃一円の武士の御頭奉仕で
行われるようになったとあります。




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【鷹匠の秘術の故実】
延文元年(1356年)、
足利尊氏の奥書を持つ「諏方大明神画詞」を完成させ、
当時の公家社会をはじめとする各方面に
諏訪信仰を普及させたほか、
足利尊氏が発願した一国一寺の
安国寺利生塔創建にあたり、
信濃安国寺を諏訪上社の近くに建て、
夢窓疎石を開山者としたとあります。
また諏訪円忠は、
諏訪神党祢津氏が相伝した
鷹匠の秘術の故実を受け継ぎ、
子孫の京都諏訪氏の惣領に代々伝授され、
文明5年(1473年)には
飛鳥井氏と諏訪忠郷が鷹に関する和歌に
註釈をつけて
8代将軍の足利義政の上覧に応えているそうです。
諏訪忠郷の子諏訪貞道も
「鷹聞書少々」という鷹狩の故実書を
編纂していたとのことです。

【夢窓疎石】
夢窓疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石)
臨済宗の禅僧で、
六角頼綱の兄・経泰(つねやす)の孫とされています。
創建した寺は多くあり、
甲斐牧の荘の浄居寺、
龍山庵(後の天龍山栖雲寺
美濃国に古谿庵、
同地に観音堂(虎渓山永保寺)、
鎌倉の瑞泉寺、
甲斐国の恵林寺も創建しています。
伊勢国で善応寺、京都の臨川寺も開山しています。
そして京都嵯峨野に天龍寺を建立しました。
生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、
死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と
7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与されており、
七朝帝師とも称されています。

【夢窓疎石設計による庭園】
西芳寺庭園⇒京都市西京区。世界遺産、国の特別名勝
天龍寺庭園⇒京都市右京区。世界遺産、国の特別名勝
永保寺庭園⇒岐阜県多治見市。国の名勝
瑞泉寺庭園⇒神奈川県鎌倉市。国の名勝
恵林寺庭園⇒山梨県甲州市。国の名勝
覚林房庭園⇒山梨県身延町。町指定文化財ほか

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