明智家臣

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法然寺・並河城




並河易家

並河 易家(なみかわ やすいえ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
明智光秀の家臣で。通称は兵庫介、
後に掃部介を称します。
並河因幡守宗隆の弟とされており、明智掃部と同一人物の可能性があります。

【経歴など】
並河易家は丹波国亀岡の国人です。
居城は亀岡市に存在してた並河城とのことです。
元は内藤五郎兵衛忠行の家臣でした。

天正3年(1575年)6月16日付の
並河因幡守、同兵庫介宛に
織田信長朱印状写が遣わされています。
この頃より、
織田信長の丹波侵攻へ協力し、
明智光秀に丹波衆の一人として
従うようになったとされています。
その内容とは、
「丹波守護代・内藤忠俊(内藤如安)と、
宇津城主・宇津頼重は、
元亀4年(1573年)の京都騒動の際、
15代将軍・足利義昭方に付き、
織田信長に対して逆らい出頭もしないので、
誅罰を加える為、明智光秀を遣わした。
協力すれば、本領安堵する。
もし、内藤・宇津側に付く者があれば、
同じく成敗せよ、信長に忠節を尽くすように」
という内容とのことです。

同年12月2日、明智光秀が、百姓宛てに、
一年季売買の田畠・賭け事の銭・未納年貢
を破棄する徳政令を発布した際、
永代売買地・質物を徳政から除き、
年寄層を保護しました。
同月27日、曽祢六郎左衛門宛の書状で、
これを伝達した人物が「掃部助某」とのことですが、
この人物は、並河易家かもしれません。
現在の処はまだ断言はできていません。

天正4年(1576年)1月15日
丹波の赤鬼の異名をとる赤井直正の策にかかり、
波多野秀治が離反してしまい、明智光秀は大敗し、
坂本を指して敗走していきました。
この時、並河易家は、松田太郎左衛門・開田太郎八、
荻野左兵衛・波々伯部五郎三郎と共に
案内者を勤めたとされています。
明智光秀は並河一族の案内で、
辛うじて丹波を脱出できたということです。





天正5年(1577年)、
亀山城主である内藤備前守定政が死去します。
明智光秀・長岡忠興(細川忠興)が、
同年10月16日から
三日三晩亀山城を攻めて降参させ、
内藤の家人は
明智光秀の旗下になったとされています。
この時、並河易家も
明智光秀の旗下にしたがったとされています。
同月、波々伯部権頭が篠山城に楯籠った時には、
並河易家は、長岡藤孝(細川幽斎)に、
「福知・綾部・久下・長沢・太田等の諸城を押え、
割城にして攻められよ」
と、進言したとあります。

天正7年(1579年)6月1日、
明智光秀が、波多野秀治を神尾山城で、
和議と偽り捕らえた時、
並河易家は同席して波多野秀尚を捕らえています。
同年9月、織田信長の命で、
明智光秀・と細川藤孝(長岡)・忠興父子が、
丹後国建部山城田辺城)の一色義道を囲み攻めた時、
並河易家は、明智秀満の隊1500に属して、
参戦していました。
同月5日に一色義道が自害死、
子の五郎義俊(一色義定)が弓木城に籠ると、
それを囲んだ将の中にも
並河易家の名が見られるとのことです。

山崎の戦】
山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として
子供である並河八助と共に出陣したと伝わります。
山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、
浅野弾正(浅野長政)父子等と
激戦となったとされています。
妻木忠左衛門、波々伯部権頭、
酒井孫左衛門、同與大夫等と共に、
敵を追散したとのことです。
500余人討ち取って、
300余人討死したと伝わっているそうです。
其の後、討死にしたとも、生き延びて、
羽柴秀吉より大坂で扶助を受け、
摂津国で病死したとも言われ、
最期は判明していません。

戦後、茶会に名を連ねた明智掃部という人物とは
同一人物であるという説があるそうです。

【子孫】
嫡子である並河志摩守宗為は、
加藤清正に仕え、家老職となったそうです。
並河宗為には3人の息子がいたそうです。
嫡子の志摩守宗照、左近右衛門令直、久左衛門宗久です。

並河宗為の嫡子である金右衛門、
後の志摩守宗照(並川宗照)は、
加藤忠広家臣でしたが、
加藤忠広が配流の後、浪人となります。
其の後、土佐藩主である
山内忠義に2000石で仕え、
養子の安豊(山内之豊)が
山内一安の跡目を継ぎ、
3000石の家老職となったとのことです。
其後、深尾重昌三男で
養子に迎えた並河主税重康は、
延宝元年(1673年)乱心し、
二代で断絶してしまいました。





並河宗照の弟で
左近右衛門令直の孫である幸太兵衛令義は、
250石で阿波徳島藩の
蜂須賀家に仕えたとのことです。
並河宗為の子である久左衛門宗久は、
織田信雄4男の織田信良の小姓でしたが
浪人となります。
其の後、若狭小浜藩主で、
徳川家光の老中酒井忠勝に
15石で仕えたとあります。

【並河城】

【所在地】
京都市亀岡市並大井町河38
(法然寺付近の住所)
法然寺を含む寺の東側の台地一帯がお城だったようです。

並河(なみかわ)氏の居城でしたが、
お城の名前は並河(なびか)城とのことです。

【交通アクセス】
JR山陰線「並河」駅より東南方向へ700m程

【形態】
平城

【遺構】
土塁・堀跡など

【駐車場】
法然寺の参拝者用駐車場

<法然寺の南側の通路>
法然寺・南側

【交通の要所】
今はのどかな風景が広がる町並みですが、
南側を流れる犬飼川とその支流。
そしてそれらが東側の大堰川につながっており、
それはやがて桂川となり、合流して宇治川
更に合流して淀川となり、
大阪湾まで続いています。

現にお城の下まで、
川からの水路が引かれ、
本丸の南側には船泊が設けられていたそうです。
内陸部にありながら、交通の要所でした。
当然、城主であった並河氏は、
交通情勢に詳しく、
明智光秀が丹波入定をした際、
成果を上げています。
更に、明智光秀が坂本まで敗走した際にも、
案内役を務めていた程です。





【廃城】
詳細は分かってはいませんが、
天正10年(1582年)頃に、
明智光秀の命により、並河易家は
出雲に行くことになりました。
其の後、本能寺の変がおこり、
並河城に戻れなくなり、
其のころに廃城になった模様です。
或いは、並河易家が八上城に入っていたとの説もあり、
廃城の時期は定かではありません。

<法然寺の東側・本丸があった辺り>
並河城址付近
竹藪が綺麗に刈り取られていました。

<場所>
青印は参拝者用の駐車場です(3台程度)。

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