明智家臣

明智千代丸 (明智伊勢千代丸) 小畠国明 小畠永明

明智千代丸



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明智千代丸(明智伊勢千代丸)は、明智光秀が「明智姓」を与えた武将となります。
この明智千代丸は、諸説ありますが、小畠国明の孫である遺児とあります。
小畠氏(こばたけ-し)は丹波・宍人城の国衆で、家系図からは戦国時代に、小畠国貞 → 小畠国明 → 小畠永明と続いたことがわかります。

小畠国明は、明智光秀の丹波攻めにて、1575年の攻略開始から、丹波衆としては中心的な役割を担ったようです。
しかし、1579年、八上城の戦いにて、小畠国明(小畠越前守国明)は討死した模様です。
また、小畠国明の子と考えられる、小畠永明もケガをしたと推測されます。




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小畠永明(こばたけ-ながあき)に対して、1575年に、明智光秀が宛てた書状が見つかっています。
となると、この時点で、小畠国貞が家督を小畠国明に譲っていたとも推測されますが、その手紙の内容によると、宍人城主・小畠永明は、丹波攻略で織田家に味方しており、戦闘で傷を負ったようで、寒さに気を付けて傷の養生をすることが大切だと記載されています。
他にも、小畠永明に対して「田中方より人質をうけ取って余部まで来るように」や「明日には余部近所まで来るように」と書状を送っております。
この余部城は、丹波・丸岡城と言う事ですね。
そのため、明智光秀は、丹波・亀山城を改修する前には、丹波・丸岡城(余部城)を拠点にしていたとも考えられます、同じ1575年に小畠左馬助と言う武将が、織田信長より所領安堵を受けていますので、小畠左馬助(おばた-さまのすけ)と小畠永明は同一人物かも知れません。

また小畠一族と見られる小畠助大夫に対して、小畠左馬助がまだ若いので、小畠助太夫が船井郡2万石の支配(後見)を認めている様子もうかがえます。
なお、小畠左馬進なる武将が宇津城の改修普請にあたりましたが、この小畠左馬進は小畠左馬助(小畠永明)と同じ武将と推定して良いでしょう。




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このように、小畠氏は、波多野秀治との戦いで小畠国明(小畠越前守国明)が討死し、その子の小畠永明(小畠左馬助)もケガの具合が良くなかったためか?、その子である明智千代丸に対して、明智姓を与え、小畠一族を安心させたと言えるでしょう。
ただし、明智千代丸が、その後、どうなったのか?、不明です。

余部城(丹波・丸岡城) 明智勢攻略の城も天守があったか?
丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)と波多野氏の盛隆・八上城の戦い

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