史跡・城跡

清水山城・高島七頭惣領・高島氏の居城

清水山城跡




清水山城
清水山城(しみずやまじょう)は
滋賀県高島市新旭町熊野本・同市新旭町安井川にあった日本の城。山城。
所在地:滋賀県高島市新旭町安井川
安曇川(あどがわ)や鴨川によって
形づくられた平野が広がっています。
この安曇川の北岸の西方に饗庭野(あいばの)と呼ばれる
標高約200mのゆるやかな山々が広がっていて、
その南東に清水山城は位置しています。
饗庭野は昔、「清水山」と「熊野山」に分かれていました。
饗庭野のふもとには、西近江路が南北にのびていて、
南方には安曇川が流れており、
湖西最大の河川です。
この地は安曇川~琵琶湖の水運と陸路が交わる
「陸路・湖路」の「要」の地点でした。
清水山城

<遺構>
曲輪・土塁・空堀・堀切・堅堀
城の主郭からは住宅跡の様な
大規模な礎石建物跡が確認。

<築城・歴史>
嘉禎元年(1235年)佐々木高信が築いたとされています。
子孫は高島氏(高島越中守)を称し、代々治めていました。
元亀3年(1572年)、
織田信長の高島郡攻略により落城したと推定されています。
城跡は、2004年(平成16年)2月27日、
「清水山城館跡」として、国の史跡に指定されています。
また公園として整備されているそうです。
主郭からは、
琵琶湖を挟んで【小谷城跡】【長浜城】【山本山城跡】
佐和山城跡】【彦根城】が見えるそうです。
西近江からの琵琶湖
注:上の写真はイメージです。

【構造】
<主郭>
清水山城は、主郭(しゅかく)を中心として
南東・南西・北西の三方に伸びる尾根の上に曲輪が並びます。
主郭の東面と北西にのびる尾根には
畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)がつくられています。
主郭の発掘調査では、たくさんの土器とともに
6間×5間の大規模な礎石建物跡がみつかりました。
出土した土器は、1550~1570年頃の時期に集中しています。
清水山城の主郭から出土した土器の最も新しいものは、
信長の高島郡攻略の時期とほぼ一致します。

<清水山遺跡>
山城の南側の斜面にひろがっている清水山遺跡には、
「西屋敷(にしやしき)」や「東屋敷(ひがしやしき)」の地名とともに、
南北約350m✖東西約550mの範囲に
土塁などによる、一辺を約20m~25mに規格された方形の区画が残っています。
西屋敷には大手道と推定される道が南北にのびていて、
山城の南東に伸びる尾根の曲輪に続いています。
この道のまわりには
「ショウモンヤマ」「オウテ」「ダイモン」の地名が残っているそうです。

<清水山遺跡の南東側>
更に、清水山遺跡(屋敷地)が所在する丘陵の南東側には、
「御屋敷(おやしき)」や犬追物(いぬおうもの)を開催した馬場とされる
「犬馬場(いぬのばんば)」の地名が残っています。
本堂谷遺跡(井ノ口館)は、
清水山城、清水山屋敷地や御屋敷・犬馬場の地域と
西谷川をはさんで西側にひろがる大宝寺山(だいほうじやま)の
丘陵のゆるやかな斜面上に立地します。
東西約350m✖×南北約200mの範囲に
清水山屋敷地と同じような
土塁と堀で囲まれた方形の区画群が確認されているそうです。





<残る地名>
遺跡内には「ジョウロウグチ」「エンショグラ」の地名が残っています。
また、遺跡の南方にも「ハコヤマ」の地名が残っていて、
かつて土塁や堀で仕切られた地域がさらに南方にまで広がっていたそうです。

<祖である佐々木氏の氏神を祀る>
遺跡の西側には、佐々木高信が佐々木氏の氏神を勧請したと伝えられる
大荒比古神社が鎮座し、この神社の例祭である
七川祭は、
(奴振(やっこふ゛り)が(滋賀県選択無形民俗文化財となっている)
佐々木氏が出陣の際に12頭の流鏑馬と
12基の的を献納したのが始まりとされています。

<交通アクセス>
JR湖西線「新旭」駅から徒歩20分強。
湖西道路滋賀IC⇒国道161号線
<駐車場>
新旭森林スポーツ公園の無料駐車場
<地図>
青印は新旭森林スポーツ公園の無料駐車場出入り口付近

新旭森林スポーツ公園後ろ(JR湖西線の線路とは逆方向)の山地を登っていきます。

【高島氏】
高島氏(たかしまし)は、日本の武家。
宇多源氏の一派近江源氏 佐々木氏流。
佐々木信綱の次男高島高信を祖とします。

六角氏京極氏・高島氏>
近江本領の佐々木嫡流は、佐々木信綱の死後、
近江は4人の息子に分けて継がれ、
三男佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となりました。
弟の四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となります。
そして次男の高信が高島氏となります。

鎌倉幕府の御家人>
鎌倉時代にはゆっくりではありますが、
確実に勢力を拡大していました。
高信の後は長男の泰信が高島氏を継承しました。
泰信は鎌倉幕府に仕える名門の御家人として活躍しています。

<高島氏から朽木家輩出>
弘安8年(1285年)の霜月騒動では、
高島高信の次男である朽木頼綱が内管領平頼綱側に参陣し、
武勲を立て出羽守に任ぜられています。
頼綱は急激に地位を向上させ、
高島郡の所領のうち本家高島氏から朽木谷を分与され、
子の義綱の代から正式に朽木氏を名乗っています。

<分家輩出、やがて高島七頭へ>
高島氏は以後も朽木氏のほか
永田氏・平井氏・横山氏・田中氏などの分家を輩出。
愛智氏系列の山崎氏を一族に加え、
高島一族は高島七頭を形成し西近江に勢力を張りました。
本家高島氏を継いだ高信の長男泰信の嫡男高島泰氏も、
幕府の推挙により朝廷より越中守に任じられるなど、
本家の家格は幕府内で上昇しています。
この官職を代々世襲したことから、
高島氏を佐々木越中氏、
佐々木越中家と呼ぶこともあります。
六角氏からも佐々木公称を許され、
他の高島庶子家とは区別されています。





<室町時代から戦国の世へ>
西近江に地盤を有することと、
強力な戦闘力から在京御家人の名門として重んじられ、
室町時代にも幕府奉公衆として存続、
足利将軍家の直属部隊として重用されていました。
北近江十二の関の関守も独占して勢力を拡大しました。
米づくりなどができる平野の支配だけでなく、
陸路や水運などの交通路の支配も一族の収入源であったことがわかります。
戦国時代に入ると田中氏、朽木氏らと共に
戦国大名六角氏の傘下に入り勢力を維持しましたが、
六角氏の滅亡により没落していきました。
そして、浅井氏と同盟を結びますが、
織田信長の近江侵攻を迎えることとなります。

<織田信長の高島郡攻略>
信長公記(しんちょうこうき)』によると、
「織田信長は元亀4年(1573年)7月に高島に大船で出陣し、
陸から木戸・田中両城を攻め、
海からは大船を着け、馬廻を従えて攻めた。
木戸・田中両城は、降参し明け渡した」と記されています。
そして、ここに記されている「田中城」は明智光秀のものになったことから、
信長の高島郡攻略には、光秀が深く関わっていました。
実際に、高島郡攻略の報告の手紙を信長に出しています。

<清水山城の城下町がお手本>
城下の北の端になる今市は、
西近江路と熊野山(清水山)を通って
若狭にいたるルートの交わる地点に位置しています。
今市の集落の氏神をまつる佐々木神社の竹馬祭(高島市指定文化財)は、
清水山城主の佐々木氏との関わりを示す伝承が残っていて、
子どもが竹馬にまたがって流鏑馬の神事を奉納します。
織田信澄(岳父は明智光秀)が築いた大溝城下町には、
新庄町、南市町、今市町の地名がみられ、
城下町がつくられるのに際して
高島郡内の町場(まちば)が移転されたとのことです。
新庄町は新庄城下の町場、
南市町は安曇川南岸の田中の町場と推定され、
今市町は清水山城下の町場である今市と考えられています。

<城はなくなっても名前は残る>
「清水山」の名前が初めて古文書に見えるのは城がなくなった
文禄4年(1595年)の古文書です。
この古文書には豊臣氏が支配するため、
地元の領主や有力者が住んでいた土地や支配していた土地、
交通や流通など要となる土地が記されていました。
この中には「大溝城山」とともに「清水山」も名前も見られます。
以上より、城がなくなった後も
「清水山」の土地が重要視されていたと推測できます。

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