史跡・城跡

三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。    

三方原古戦場碑



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三方ヶ原三方原古戦場 

元亀3年(1572年)、
武田軍は兵を3つの隊に分けて、
遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始しました。

山県昌景隊】
山県昌景は、「当代記」によりますと
秋山虎繁とともに別働隊を率いて
信濃から三河へ侵攻したということです。
軍勢は5千人とされています。
9月29日、信濃国・諏訪より
東三河に侵攻、徳川氏の支城である
武節城の攻略を初めとして南進。
東三河の重要な支城である
長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻します。

【秋山虎繁(信友)隊】
秋山虎繁(信友)は、
信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)の城代で、
「下伊那郡司」として
信濃下伊那郡から
美濃・三河・遠江方面の軍事・外交を担っていました。
「当代記」では、秋山は山県隊とともに
ほぼ同時に居城・高遠城より
岩村遠山氏の領地を通って、
徳川氏の本拠地の三河へ
攻め込もうとしたため岩村遠山氏と
徳川氏との連合軍との間で
上村合戦が勃発しました。
秋山隊の軍勢は2千5百人とされています。
秋山隊の勢いに押された徳川方は
殆んど戦わずして退却。
秋山隊は、織田方の
岩村遠山氏の主要拠点・岩村城
包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)山県隊と、
11月初旬に攻略。

武田信玄本隊】
武田信玄率いる2万2千人の本隊
(うち北条氏の援軍2千人)は10月3日、
甲府より出陣し、
山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、
青崩峠から遠江国に侵攻します。
途中、犬居城馬場信春隊5千人を
別働隊として西の只来城に
向かわせて分かれ、南進して要所・二俣城へ向かいます。

二俣城の戦い
10月16日には
武田軍本隊も包囲に加わり、
降伏勧告を行います。
二俣城は1200人の兵力しか
ありませんでしたがこれを拒否したため、
10月18日から
武田軍の攻撃が開始となったとのことです。
11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、
そして城の水の手を絶たれたことが
致命的となって、12月19日、
助命を条件に開城・降伏したのでした。
これにより、遠江国の北部が武田領となったのでした。

武田軍の本隊だけでも
総勢3万の大軍勢が押し寄せ、
二俣城のほかには
野田城をはじめ、小山城など、
次々と攻略したのでした。

同時に、武田の猛将といわれた
山県昌景は5千を率いて三河から攻め入り、
次々に徳川傘下の城を陥落させていきました。




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徳川家康の出陣】
浜松城を居城とし、
遠江をほぼ平定していた徳川家康は、
三河からの武田軍を迎え撃つために
兵を出しており、12月22日(他説あり)に
武田信玄が二俣城を出発したとき、
手元の軍勢は約8千でした。
同盟を組んでいた織田信長の援軍も
ありませんでした。

徳川家康は必死に応戦しますが、
武田信玄が率いる大軍を前に為す術がありません。
頼みとする織田信長は
周辺の敵と対峙しており、
援軍もあてにはできません。
遠江国の北部を手中にした武田軍は、
なおも進軍を続けます。
次の標的が本城・浜松城と予測した徳川家康は、
自軍の兵8千に加え、
織田信長の3千の援軍とともに
浜松城に籠城しました。
ところが3万の武田軍は
二俣城から浜松城を素通りして、
西へと向かっていきます。
そして
武田信玄は、
浜名湖湖畔の堀江城
目指す道を進んでいました。
徳川家康は
「領地の進軍をやすやす許すなど武士にあらず」、
と家臣の反対を押し切り
浜松城から討って出たのでした。

浜松城を素通りされたことで、
自尊心を傷付けられた徳川家康は、
背後から攻撃すれば勝機ありと見て、
武田軍を追撃しようとします。

三方ヶ原(三方原)古戦場・案内図

けれども3万の武田軍に対し、
連合軍は最大でも1万5千です。
しかも相手は戦上手で名高い武田信玄です。
家臣や織田家の武将達からも
反対された徳川家康でしたが、
これを押し切って出陣しました。

【武田軍:魚鱗の陣】
このとき、徳川家康30歳、
武田信玄は50歳を超えていました。
武田信玄は諜報活動を重視し、
情報戦にも長けた武将です。
徳川家康の性格を見切ったうえでの戦略でした。
織田・徳川連合軍は、三方ヶ原の台地から
祝田の坂を下ったところを
背後から急襲するつもりでいましたが、
武田軍はその三方ヶ原の台地で、
武田八陣形のひとつである
「魚鱗の陣」(ぎょりんのじん)で待ち構えます。

【徳川軍:鶴翼の陣】
目論見が外れた連合軍は、
やむなく「鶴翼の陣」で応戦しますが、
数で勝る武田軍の高さを利用した攻撃は
疾風のごとく勢いがあり、
連合軍は苦戦を強いられたのでした。

三方ヶ原の戦いは夕刻に始まりましたが、
日没までのわずか2時間ほどで
勝敗が決したとのことです。
武田軍は、連合軍を撃破しました。

徳川方は2千もの兵を失い、
「鳥居四郎左衛門」、
「成瀬藤蔵」、
「本多忠真」、
「田中義綱」などの有力な家臣を亡くしました。

【徳川家康、戦場を脱出】
徳川家康自身は、戦場を脱出しますが、
武田軍の追撃は激しく、
自らも矢を放ちながらの
逃走だったとのことです。
このときの敗走は、
徳川家康の生涯の中でも
最大級のピンチとされ、
「成瀬吉右衛門」、
「日下部兵右衛門」、
「小栗忠蔵」、
「島田治兵衛」といった
ほんの数名の供回りを従え、
浜松城を目指します。
家臣の「夏目吉信」、
「鈴木久三郎」らは、
徳川家康の兜などを借り受け、
目くらましとして敵中に突入しました。
主の逃走のための時間稼ぎとして
犠牲になりました。
また織田軍の平手汎秀といった武将を失いました。
このように野戦に持ち込んだことを含めて、
全て武田軍の狙い通りに事が運んだといえますが、
戦闘開始時刻が遅かったことや
本多忠勝などの武将の防戦により、
徳川家康本人を討ち取ることはできませんでした。
徳川家康自身も何度も
討死しそうになりながら敗走し、
夜陰に乗じてなんとか浜松城に辿り着きました。

【空城計】
この敗走は後の伊賀越えと並んで
徳川家康の人生最大の危機とも言われています。
浜松城へ到着した徳川家康は、
全ての城門を開いて篝火を焚き、
いわゆる空城計を行いました。
そして湯漬けを食べて
そのままいびきを掻いて
眠り込んだと言われています。
この心の余裕を取り戻した
徳川家康の姿を見て家臣たちは
皆安堵したとされています。
一方、浜松城まで追撃してきた
山県昌景隊は、空城の計によって
警戒心を煽られ城内に
突入することを躊躇し、
そのまま引き上げたのでした。

仏坂の戦い井平城を奪った山県昌景は、
そのあと、井伊谷を蹂躙し、
神社仏閣を焼き払いました。
そして、三方原の戦いの後、
井伊谷城は、しばらく
武田軍に占領されました。
一説によりますと、
井伊直虎はこの間、
浜松城に逃げたといわれています。




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犀ヶ崖(さいががけ)の戦い】
徳川家康が命からがら
浜松城へ逃げ帰ったその夜、
同夜、一矢報いようと考えた
徳川家康は大久保忠世
天野康景らに命令し、
浜松城の北方約1キロのところにある
犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させます。
この戦いの戦死者数は
「織田軍記」では
徳川勢535人、
甲州勢409人と
互角に近い数字になっているとのことです。

この犀ヶ崖は、三方ヶ原古戦場として、
昭和14年(1939年)に
静岡県の史跡に指定された他、
現在では「犀ヶ崖資料館」も併設され、
三方ヶ原の戦いのジオラマや
資料等が展示されているとのことです。

徳川家康はこの大敗戦を教訓とし、
いかにして勝つか、
武田信玄の戦法を積極的に学び、
その後の数々の戦いに
生かしていったきっかけとなったといわれています。
なお、武田信玄の遠江侵攻の目的は、
諸説あるとのことです。

【武田信玄、死す】
けれども武田の遠江支配は、
あっけなく幕を閉じることになります。
三方ヶ原の戦いのときに、
すでに武田信玄は病魔に侵されており、
何度か吐血したともいわれています。
そして元亀4年(1573年)2月、
武田軍は徳川軍の防衛拠点である
野田城を攻略しますが、
この戦いのあたりから
武田信玄の病状はさらに
悪化していったとのことです。
武田軍は甲斐へと撤退していきます。

やがてその時はやってきました。
元亀4年(1573年)4月12日、
武田信玄が死去します。
その後の天正3年(1575年)に
長篠の戦い」で、
織田・徳川連合軍が武田軍に勝利し、
武田家は滅亡へとつながっていきました。

いま、三方ヶ原台地の一角に、
古戦場の碑が建っています。

【所在地】
〒433-8108 静岡県浜松市北区根洗町国道257−号線

【古戦場碑所在地】
〒433-8108 静岡県浜松市北区根洗町1109

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

清龍寺(浜松)~徳川信康(松平信康)の墓所となる信康廟があります。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

見付天神社(矢奈比売神社)~東海道・見附宿の守護で霊犬悉平太郎伝説、ゆるキャン△にも登場しています。

本多忠真~本多忠勝の叔父で甥の本多忠勝を最強の武士に育て上げ、三方ヶ原の戦いで散ります。

夏目広次(吉信)~三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなり戦死、夏目漱石のご先祖様でもあります。

渡辺守綱~家康とは同い年で「槍半蔵」と呼ばれ「鬼半蔵」の服部正成と並び称されました。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

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