明智家

大溝城・打下城~城主は津田信澄(織田信澄)、岳父は明智光秀 京極高次とお初の新婚時代

大溝城跡






大溝城
滋賀県高島市にあった平城(ひらじろ)。
織田信長に謀叛を起こして殺害された
弟である織田信行(信勝)の嫡男で
明智光秀の娘を正室とした津田信澄の居城でした。
築城は天正6年(1578年)に津田信澄によってです。
なお、津田信澄は織田信澄とも称されていました。
史跡 大溝城本丸跡 説明

本能寺の変で信長が討たれた際、
津田信澄は織田信孝に従って大阪にいましたが、
妻が明智光秀の娘であったため、内通を疑われ、
織田信孝及び丹羽長秀によって急襲され討たれてしまいました。
その後、短い間に丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次
多くの城主が在城しては移封となり次々と交代しましたが、
慶長8年(1603年)に廃城となり、城は破却されて
水口岡山城に部材として転用されていきました。
大溝城とお初

江戸時代の元和5年(1619年)、
分部光信が2万石で入封して大溝藩となりました。
大溝藩は城主格ではなかったので、
廃城となっていた大溝城の三の丸付近に
大溝陣屋(おおみぞじんや)を構え、
11代続いて明治維新を迎えました。

<遺構>
扉は失われているものの、
「総門」と呼ばれる長屋門が現存しています。
武家屋敷地への出入り口の正門であったと考えられています。
宝暦5年(1755年)の大改修を経て、
近年まで民家として使われていました。
現在は高島市が買い上げ、高島市の有形文化財にも指定されています。

JR近江高島駅前の市立高島総合病院の裏手に大溝城の本丸跡があります。
本丸跡には天守台の石垣などが残っています。
大溝城 本丸跡の石垣
<石垣その2>
大溝城 本丸の石垣
また、本丸跡の前にある乙女ヶ池は、
大溝城を取り巻いていた外堀の一部だったそうです。
大溝城 乙女ヶ池

<乙女ヶ池>
大溝城 乙女ヶ池

JR湖西線「近江高島」駅から徒歩約5分。
隣は高島市民病院。
病院の駐車場あり。
1時間無料。窓口にいかなくてもよい。
<地図>





打下城(うちおろしじょう】
遠景撮影(別名:大溝古城)
所在地: 滋賀県高島市勝野
打下城

築城は定かではありませんが、永禄年間(1558~1570)と伝わります。
築城は林員清(はやしかずきよ)で当初は浅井家に従っていました。
が、信長が浅井・朝倉より優勢になると信長に降りて、
打下城を陣所として浅井・朝倉を攻めました。
が、天正3年(1573年)に信長の命により切腹させられました。
その後、信長の甥の津田信澄の居城となり、
津田信澄が大溝城を築き、廃城となりました。
<遺構>
曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀

白髭神社からの打下城
白髭神社からの打下城

交通アクセス
JR湖西線「近江高島」駅より徒歩5分程度
登城口は日吉神社となります。
駐車場は日吉神社の参拝者用の無料駐車場があります。
<地図>
山の中・・・・。
登城される方は、しっかりとした登山の格好で登城なさってください。
長袖・長ズボン・トレッキングシューズ・ヒル除けスプレー・クマよけの鈴やラジオ。
飲料水・帽子など。

【津田(織田)信澄(つだ(おだ)のぶすみ)】
津田(織田)信澄(つだ(おだ) のぶずみ)は、安土桃山時代の武将。
織田氏の連枝衆(一門衆)。
近江大溝城主で、摂津大坂城代、初名は信重、通称を七兵衛と称します。
織田信長の甥であり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とは
ほぼ同年代であったと考えられています。

<伯父は信長、父を暗殺>
弘治3年(1557年)に
父・信勝は謀反の企てを起こしたとして
伯父・信長によって暗殺されます。
子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育されます。

<初陣、戦いに明け暮れる>
天正3年(1575年)7月、
初陣として磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍します。
天正4年(1576年)1月、
丹波八上城の波多野秀治が離反し、
黒井城の戦いで苦戦する明智光秀の救援に赴援しましたが、
光秀は退陣を余儀なくされてしまいます。
天正6年(1578年)2月3日、
磯野員昌が信長の叱責を受けて突如高野山へ出奔したため、
その所領・高島郡がそのまま信澄に宛行われ、
新庄城から移って、明智光秀の縄張りで
新たに城を築いて大溝城主となりました。
また大溝城下に、比叡山延暦寺の飛地境内にあって
信長による兵火に焼けた大善寺の別院を建立してその開基となりました。
以後は、津田あるいは織田姓を名乗り、、
信長の側近としての務めと、
信忠配下の遊撃軍団の一員としての
両方の活動を行うこととなりました。
織田家では、2度も背いた信長の弟の遺児
という境遇はほとんど窺えず、その待遇は厚かったそうです。





<信長の右腕的存在・信頼できる側近>
同年4月4日、織田家当主・信忠に付き従い、石山本願寺攻めに参陣。
8月15日の安土城における相撲興行では
堀秀政蒲生氏郷、青地与右衛門らと共に奉行を務めます。
<安土城の津田信澄の館跡
安土城 津田(織田)信澄館跡

9月に信長が津田宗及宅を訪問した際にはこれに供奉しました。
10月から翌年11月までは、荒木村重討伐に従軍し、
開城した摂津伊丹城には信澄が置かれて、
村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を担います。
そして、この頃(或いは天正2年)に
信長は明智光秀の娘(四女)と信澄とを結婚させています。

<さらに織田家の中での地位を向上させる>
天正9年(1581年)6月、
信澄は高島郡の国衆多胡左近衛門を御内衆として召し抱えていることから、
高島郡の一職支配権を委ねられていたと考えられています。
天正10年(1582年)、甲州攻めでは信忠の指揮下に入らず、
信澄らは信長に従って後から出張。
土佐国の長宗我部元親と信長の関係が決裂し、
5月7日に従弟の神戸信孝を総大将する四国遠征軍が編成されると、
丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3名が副将として付けられ、
11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入ります。
また、21日に安土の信長は、
京都から堺に向かうという徳川家康の大坂での接待役を
丹羽長秀と信澄に命じています。

本能寺の変及び信澄の最期>
同年6月2日、岳父の明智光秀が
京都の本能寺、妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が勃発。
四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定でしたが、急遽中止。
信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、
市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れれます。
疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、
信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃します。
信澄は防戦しましたが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られます。
謀反人の汚名を着せられたまま、
信孝の命令で、堺の町外れに梟首とされてしまいました。
享年は25とも28ともされています。
現在、信澄が開基となった大善寺には
供養墓と慰霊の石碑が建てられ、
6月5日の命日(信澄忌)には供養が行われています。

【紫芝林山 大善寺】
所在地: 〒520-1121 滋賀県高島市勝野2152
電話:電話: 0740-36-0748

うわさを流したのは???
謀反に荷担したという噂が当時の市中に流れていたのですが、
信長の厚遇に応えて信澄は忠義を尽くしており、
謀反に荷担した様子はなく、光秀に助力しようとした素振りもありませんでした。
もしかしたら、信澄の存在を以前から妬ましく思っていた「誰か」が、
好機到来と見て意図的に噂を流し、先導して
信澄の存在を消してしまおうと企んだのかもしれません。
さて、その「誰か」とは如何に??





<子孫>
【織田昌澄】<長男>
織田 昌澄(おだ まさずみ)。
明智光秀の外孫にあたります。
一時期信澄に仕えていた藤堂高虎の斡旋を受けて、
豊臣秀吉、そしてその死後は豊臣秀頼に仕えます。
大坂の陣では高虎と戦い勇名を馳せますが、
戦後に責任をとって自害しようとしますが、
高虎や徳川秀忠から慰留され、
交代寄合の旗本として2000石を与えられて子孫は幕末まで続いたということです

【津田元信】<次男>
津田 元信(つだ もとのぶ)。
明智光秀の外孫にあたります。
織田信雄に仕え、その改易後には豊臣秀頼に仕えます。
大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、
藤堂高虎の執成しを受けて、兄・昌澄と共に徳川家康に助命されます。 
大坂の陣坂方参戦者として、
室町幕府赤井豊後守の一門である赤井弥七郎と、
越前国吉城粟屋勝久の孫である粟屋助大夫は、
伊勢津藤堂家士になっていることと、
藤堂高虎の執成しを受けて徳川家康に助命された点から
子孫は津藩に移住し、織田(おりた)を名乗ったと伝わっているそうです。

【林員清】
林員清(はやしかずきよ)。
?~天正3年(1575)9月。
高島郡の打下の土豪で、堅田衆と同じく、
琵琶湖の水軍を握っていたと思われます。
元々は浅井に仕えていましたが、
史料によりますと、
元亀2年(1571年)2月の磯野員昌の高島郡入部に、
堅田の地侍とともに船を提供していることから
それ以前には織田家に従ったと推測されます。
けれども、天正3年(1575)9月に
信長は自害を申し付けます。
罪状は、遡ること
元亀元年(1570年)、
信長が宇佐山城にあって身動きならなかった時、
林員清はその水軍をもって浅井・朝倉方についていた、とのことです。

<林員清は何故自害を申し付けられた?>
浅井・朝倉は、早くより水軍をもって信長勢に立ちはだかっていました。
信長の琵琶湖水軍は、
浅井・朝倉に対抗する必要から生み出されたものであると推測されています。
それまでは、打下の林員清、堅田の地侍らの水軍力を
味方につけることを画策し、実現していきました。
何故なら、彼ら水軍の利用なくては、
滋賀郡北部から高島郡を制圧することは不可能だからです。
一方で、自力の湖上水軍の養成をし、作り上げ、
其の統括は明智光秀に任せました。
実際に、元亀3年(1573年)7月、
湖上からの北部攻撃に総指揮をとっています。
明智光秀が水軍のすべてを握り、近江・越前の制圧後、
林員清は 用済みとなって、自害に追い込まれたかもしれません。
何ともお気の毒です・・・。

【京極高次とお初
京極 高次(きょうごく たかつぐ)は、
戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主。
お初は常高院で若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。
本名は浅井 初(あざいはつ)で、浅井三姉妹の次女です。
天正14年(1586年)に大溝城を与えられて大名となります。
天正15年(1587年)、
京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室とします。
高次と初は従兄妹同士でありました。
新婚生活を大溝城で送っていました。

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