鎌倉殿の13人

三浦光村~三浦義村の四男で公暁の門弟、将軍派で反北条であり宝治合戦で三浦宗家が滅亡。

天神島からの三浦半島と鎌倉方面の海



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【三浦光村】

三浦 光村(みうら みつむら)は
鎌倉時代中期の相模国の武将です。
鎌倉幕府御家人。
三浦義村の四男で三浦泰村の同母弟です。

【生誕】
元久元年(1205年)

【死没】
宝治元年6月5日(1247年7月8日)

【改名】
駒若丸、光村

【別名】
駿河三郎

【墓所】
鎌倉市西御門のやぐら
三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【官位】
左衛門尉、 従五位上、 壱岐守、
能登守、正五位

【幕府】
鎌倉幕府 評定衆

【主君】
藤原頼経、頼嗣

【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏

【父】
三浦義村

【母】
土肥遠平の娘

【兄弟】
朝村、泰村、長村、光村、重村、
家村、資村、胤村、重時、良賢、
矢部禅尼、土岐光定室、
毛利季光室、千葉秀胤室

【妻】
正室:藤原能茂の娘

【子】
駒王丸(宝治合戦で死亡)、
乳児

【三浦光村の経歴】
公暁門弟・将軍側近】
幼名は駒若丸でした。
幼少時代は僧侶にすべく
鶴岡八幡宮に預けられ、
公暁の門弟となりますが、
後に実家である三浦氏に
呼び戻された模様です。
「吾妻鏡」での三浦光村の初見は
建保6年(1218年)9月、
将軍御所での和歌会の最中に
鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして
出仕を停止させられた記事となります。
この段階では幼名の
「駒若丸」を名乗っており、
この後に元服して光村と改名しました。
「光」の字は烏帽子親子関係を結んだ
名越光時から偏諱を受けたものと
されています。

鶴岡八幡宮

貞応2年(1223年)には
北条重時・結城朝広とともに
新将軍・三寅(後の九条頼経)の
近習に任じられました。
以後、20年に渡って
九条頼経の側近として仕えました。
寛喜3年(1231年)に
左衛門尉に任じられて検非違使を兼ね、
以後嘉禎3年(1237年)に壱岐守、
仁治2年(1241年)には能登守となり、
寛元2年(1244年)に九条頼経が
息子頼嗣に将軍職を譲ると、
三浦光村はこれを補佐する意図を以って
鎌倉幕府評定衆の一人に加えられました。
三浦光村は武芸に秀でると共に
管弦に優れ、藤原孝時から
伝授を受けた琵琶の名手であったのでした。




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【宮騒動】
3代執権北条泰時が死去した後、
幕府は執権北条氏派と
将軍派に分裂して対立を続けました。
寛元4年(1246年)に
将軍九条頼経を擁する
名越光時ら一部評定衆による
5代執権北条時頼排除計画が発覚します。
これが宮騒動と称されるものです。
この計画には名越光時の烏帽子子である
三浦光村も加担していましたが、
北条時頼は北条氏と
三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、
三浦光村の問題は不問に付して
京に護送される九条頼経の
警護を命じました。
「吾妻鏡」では、
三浦光村は鎌倉に戻る際に
九条頼経の前で涙
を流し、
「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」
と語り、九条頼経の鎌倉復帰を
誓ったということです。
また、この時に九条頼経の父で
朝廷の実力者である九条道家と
通じたとする見方もあります。
三浦光村は九条道家を後ろ盾とした
反北条・将軍派の勢力をまとめる
急先鋒として、北条氏に
危険視されていたのでした。

【宝治合戦】
翌宝治元年(1247年)5月28日、
九条頼経が建立した
鎌倉五大明王院を賞翫。
「吾妻鏡」の同日条から
これが世を乱す源になったと
されています。
そして同年6月、ついに鎌倉で
三浦一族と北条氏一派との
武力衝突が起こると、
三浦光村は先頭に立って奮戦し、
兄である三浦泰村に決起を促しますが、
三浦泰村は最後まで戦う意志を示さず、
北条時頼と共に
和平の道を探り続けたのでした。
けれども総領である
三浦泰村の決起がないまま
安達氏を中心とする北条執権方の
急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、
残兵は源頼朝の墓所・法華堂に
立て籠もったのでした。

法華堂境内図(相模風土記)

三浦光村は
「九条頼経殿が将軍の時、
その父九条道家殿が内々に
北条を倒して兄泰村殿を
執権にすると約束していたのに、
泰村殿が猶予したために
今の敗北となり、
愛子と別れる事になったばかりか、
当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」
と悔やんだとされています。

三浦光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、
三浦家の滅亡と
妻子との別れを嘆きながら、
最後まで意地を見せ、
敵方に自分と判別させないように
自らの顔中を刀で削り切り刻んだのち、
一族と共に自害したのでした。
享年は43歳でした。




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【三浦光村の妻子】
残された三浦光村の妻は
後鳥羽院の北面藤原能茂の娘で、
美貌で知られておりました。
三浦光村は殊に別れを惜しみ、
最期の別れにお互いの小袖を
交換したとのことです。
まだその余香が残る中での
三浦光村の死に、
妻は悲嘆に暮れたということです。
赤子がいた三浦光村の妻は、
他の三浦一族の妻子と共に
出家して鎌倉を追われました。
三浦一族の墓は源頼朝法華堂東方の山腹にあります。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
駒若丸として込江大牙(こみえ たいが)さんが
演じられます。

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