鎌倉殿の13人

北条泰時~第3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物

常楽寺 仏殿




北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、
鎌倉時代前期の武士です。
北条氏の一門で
鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男で
鎌倉幕府第3代執権
(在職:貞応3年(1224年)⇒
仁治3年6月15日(1242年7月14日))。
鎌倉幕府北条家の中興の祖として、
御成敗式目を制定した人物です。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代前期

【生誕】
寿永2年(1183年)

【死没】
仁治3年6月15日(1242年7月14日)

【改名】
金剛(幼名)⇒北条頼時(初名)⇒
泰時、観阿(法名)

【墓所】
神奈川県鎌倉市大船 常楽寺
北条泰時の墓

【官位】
駿河守、武蔵守、讃岐守、左京権大夫、正四位下

【幕府】
鎌倉幕府侍所別当、六波羅探題北方、
3代執権(1224年 – 1242年)

【主君】
源頼朝源頼家源実朝⇒藤原頼経

【氏族】
桓武平氏(北条氏・得宗)

【父】
北条義時

【母】
阿波局

【兄弟】
泰時、朝時、重時、有時、
政村、実泰、竹殿、
一条実雅室、他

【妻】
正室:矢部禅尼(三浦義村の娘)
継室:安保実員の娘、他

【子】
時氏、時実、公義、女子(三浦泰村室)、
女子(足利義氏室)、女子(北条朝直室)、他

【生い立ち】
寿永2年(1183年)、
北条義時の長男(庶長子)として生まれました。
幼名は金剛です。
母は側室の阿波局で、
御所の女房と記されるのみで
出自は不明です。
父の北条義時は21歳、
祖父の北条時政ら北条一族と共に
源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃でした。

【生母「阿波局」について】
・・・実はこの「阿波局」という所が
引っ掛かります。
北条泰時は源頼朝のお気に入りだったし、
源頼家とはほぼ同年代だし・・。
もしかしたらもしかして、
というのがあります。

或いはのちに正室となる姫の前
源頼朝のお気に入りだったので、
もしかしたら、源頼朝が
手を付けていた可能性はあります。

源頼朝と北条時政の娘の阿波局か
源頼朝と姫の前か(だから結婚を許した?)
おっと誰かきたようです。

【泰時少年の逸話】
金剛(のちの北条泰時)が10歳の頃、
御家人の多賀重行が10歳の北条泰時に対して
行った無礼なふるまいを源頼朝が咎めます。
けれども、多賀重行は
自分は非礼とみなされるような
行動はしていないし、
北条泰時も非礼だとは思っていないと弁明します。
そこで北条泰時本人に事の経緯を問います。
すると多賀重行は全く非礼を働いていないし、
自分も非礼だと思ってはいないと語ったのでした。
けれども源頼朝は、
多賀重行は言い逃れのために嘘をつき、
10歳の北条泰時は多賀重行が
罰せられないよう庇っていると判断します。
そして多賀重行の所領を没収し、
北条泰時には褒美として剣を与えたということです。
「吾妻鏡」にあるこの逸話は、
北条泰時の高邁な人柄と、
源頼朝の北条泰時に対する
寵愛を端的に表した話と評されています。
けれども江戸時代後期の国学者である
大塚嘉樹は「東鑑別注」において、
「吾妻鏡」編纂者による
北条氏顕彰の為の曲筆としているとのことです。

【真実と脚色と】
源頼朝が北条泰時の聡明さや人柄の良さを
評価していたのは本当でしょう。
が、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、
他の御家人とは序列で雲泥の差があると
源頼朝は主張した、
の部分はちょっと引っ掛かります。
源頼朝が主張したという部分は、
北条氏の願望がだいぶ入っているかな、
と思います。
本当のところは、
北条泰時は子供のころから
聡明で思慮深さがあった、ということでしょうか。
源頼朝はそうした部分を
見抜くのは上手いですからね。





【北条泰時の元服】
「吾妻鏡」によりますと、、
建久5年(1194年)2月2日に
13歳で元服しました。
幕府にて元服の儀が執り行われ、
烏帽子親となった
初代将軍である源頼朝から
偏諱(「頼」の1字)を賜って
頼時(よりとき)と名乗りました。
後に泰時と改名した時期については
不明とされていますが、
「吾妻鏡」では、
正治2年(1200年)2月26日条の段階で
「江間大郎頼時」となっていたものが、
建仁元年(1201年)9月22日条の段階では
「江馬太郎殿泰時」と変わっていることから、
この間に改名を行ったものと
考えられています。
この時期は烏帽子親である源頼朝が
亡くなった正治元年(1199年)の直後であり、
源頼朝の死も関係している
可能性があると考えられています。

【元服と同時に婚約、そして婚姻】
元服の際には、同時に源頼朝の命によって
三浦義澄の孫娘との婚約が決められており、
改名後の建仁2年(1202年)8月23日、
三浦義村(三浦義澄の子)の
娘(矢部禅尼)を正室に迎えています。
その翌年に嫡男の北条時氏が生まれましたが、
後に三浦氏の娘とは離別し、
安保実員の娘を継室に迎えています。
同じく建仁3年(1203年)9月には、
比企能員の変で比企討伐軍に加わっています。

【着々と昇進】
建暦元年(1211年)に修理亮に補任します。
建暦2年(1212年)5月、
異母弟で北条義時の前室(姫の前)の子であり
北条家の嫡子であったと考えられる
北条次郎朝時が第3代将軍である
源実朝の怒りを買って
父親の北条義時に義絶され、失脚しています。
建暦3年(1213年)の和田合戦では
父親の北条義時と共に
和田義盛を滅ぼし、
戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられました。

建保6年(1218年)には
父から侍所の別当に任じられます。
承久元年(1219年)には
従五位上・駿河守に叙位・任官されました。

【承久の乱】
承久3年(1221年)の承久の乱では、
39歳であった北条泰時は
幕府軍の総大将として上洛し、
後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って
京へ入りました。
戦後、新たに都に設置された
六波羅探題北方として就任し、
同じく南方には共に大将軍として
上洛した叔父の北条時房が就任しました。
以降、京に留まって朝廷の監視、
承久の乱後の処理や
畿内近国以西の御家人武士の
統括にあたったのでした。

【伊賀氏の変と第3代執権】
貞応3年(1224年)6月、
父親である北条義時が急死したため、
鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が
実子の北条政村を
次期執権に擁立しようとした
伊賀氏の変が起こります。
伯母である尼御台の北条政子
大江広元と協議をして、
北条泰時と北条時房を御所に呼んで
両名を執権に任命し、
伊賀の方らを謀反人として処罰しました。
北条泰時は北条政子の後見の元、
家督を相続して42歳で
第3代執権となったのでした。
ただし、北条政子が泰時を任命したのは、
当時「軍営御後見」と呼ばれていた
将軍の後見役であり、
北条泰時こそが執権制度の
創設者で彼が初代の
執権であったとする説があるとのことです。





【伊賀氏の変の後】
伊賀の方は幽閉の身となりましたが、
担ぎ上げられた異母弟の北条政村や
事件への荷担を疑われた
有力御家人である三浦義村は不問に付せられ、
流罪となった伊賀の方の兄である
伊賀光宗も北条政子の死後、
間もなく許されて復帰しています。
北条義時の遺領配分に際して
北条泰時は弟妹に多く与え、
自分はごく僅かな分しか取らなかったそうです。
北条政子はこれに反対して取り分を多くし、
弟たちを統制させようとしましたが、
北条泰時は「自分は執権の身ですから」
として辞退したということです。
ただし、北条泰時は和田合戦や
承久の乱の戦功で恩賞として
得た所領があった上、
父親の北条義時も
その時の恩賞で得た所領の一部を
既に北条泰時に譲っていたのでした。

【北条泰時自身の弱みを知る】
伊賀氏の変の寛大な措置、
弟妹への融和策は
当時の北条泰時の立場の弱さ、
家督相続人ではなかったのに
突然家督を相続したことによる
自身の政治基盤の脆弱さ、
北条氏の幕府における権力の
不安定さの現れでもあったのでした。

【「家令」の設置】
そこで北条泰時は新たに
北条氏嫡流家の家政を司る
「家令」を置き、
信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、
他の一族と異なる
嫡流家の立場を明らかにしたのでした。
これが後の得宗・内管領の前身となるのでした。

【伊賀氏の変の真相は?】
けれども伊賀氏の変については、
伊賀の方謀反の風聞を
北条泰時自身が否定しており、
「吾妻鏡」でも伊賀の方が
謀反を企てたとは一切の記述がなく、
北条政子に伊賀の方らが
処分された事のみが
記されているとのことです。
そのため伊賀氏の変は、
鎌倉殿や北条氏の代替わりによる
自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、
北条義時の後室の伊賀の方の実家である
伊賀氏を強引に潰すために
でっち上げた事件で、
北条泰時は北条政子の画策には乗らずに
事態を沈静化させたとする説があるとのことです。

【ライバルだった?北条泰時と北条時房】
また、通説では北条泰時と北条時房が
「両執権」と呼ばれる
複数執権体制をとったとされていますが、
現存する関東下知状や
御教書の位署が
北条政子が死去するまでは
北条泰時単独であるため、
北条時房は伊賀氏の変の後に
京都に戻り、
実際に執権(連署)に
任命されたのは北条政子の没後とする説があります。
が、実際には翌年の嘉禄元年(1225年)の
元日の埦飯を沙汰したのは北条時房です。

むしろ、それまで北条義時が務めていた
元日の埦飯沙汰を北条時房が
務めているという事実は、
北条泰時と北条時房の間で
どちらが幕政を主導するかで
水面下の権力闘争があった
可能性を指摘する説があるとのことです。

【大江広元と北条政子の死】
嘉禄元年(1225年)6月に
有力幕臣である大江広元が没し、
同年の7月には北条政子が世を去って
幕府は続けて大要人を失いました。
後ろ盾となり、
北条泰時を補佐してくれた
北条政子の死は痛手ではありましたが、
同時に北条政子の干渉という
束縛から解放され、
北条泰時は独自の方針で
政治家としての力を
発揮できるようになったともいえるのでした。





【独自路線を打ち出す北条泰時】
北条泰時は難局にあたり、
源頼朝から北条政子にいたる
専制体制に代わり、
集団指導制、合議政治を打ち出しました。
叔父の北条時房を京都から呼び戻します。
それぞれの嫡男である北条時氏(北条泰時の嫡子)と
北条時盛(北条時房の嫡子)を
後継の六波羅探題とします。

【連署】
その後、北条泰時は
御所新造計画を主導して
北条政子及び大江広元亡き後の
幕政の主導者であることを示すと共に、
北条時房とは妥協と協力体制を確立させ、
こうして「両執権」と呼ばれる
複数執権体制が確立され、
やがて次位のものは後に
「連署」と呼ばれるようになったのでした。

【13人の「評定」会議】
北条泰時は続いて三浦義村ら
有力御家人代表と、
中原師員ら幕府事務官僚などからなる
合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、
これに執権2人を加えた
13人の「評定」会議を新設して
幕府の最高機関とし、
政策や人事の決定、
訴訟の採決、法令の立法などを行ったのでした。

常楽寺 山門

【「執権」のという役職の誕生時期】
なお、「執権」という役職は
評定衆を取りまとめる責任者として、
この時に初めて設置されたとする説もあります。
従って北条時政及び北条義時は
後になって「吾妻鏡」の編者が
過去に遡らせて「執権」と表記したとする、
ということになります。

【三寅の元服】
3代将軍であった源実朝暗殺後に
新たな鎌倉殿として京から迎えられ、
8歳となっていた三寅を元服させ、
藤原頼経と名乗らせました。

「吾妻鏡」嘉禄元年(1225年)12月29日条では、
烏帽子親は北条泰時が務めましたが、
「前春宮権大進俊道朝臣」なる者の選定によって
「頼経」と名付けられたとあります。
これに対して、北条時房は12月23日に
突然病気になって
三寅の元服を欠席しており、
北条泰時との間に
わだかまりを残していた
可能性があるとのことです。

【藤原頼経が征夷大将軍になる】
そして藤原頼経は
嘉禄2年(1226年)1月27日、
正式に征夷大将軍となったのでした。
将軍宣下の報を持った
幕府の使者である
佐々木信綱の鎌倉到着は2月13日でした。
源実朝の暗殺以降実に6年余の間、
幕府は征夷大将軍不在であったのでした。

【幕府の新造】
これに先立つ嘉禄元年12月20日、
源頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、
鶴岡八幡宮の南に位置し、
若宮大路の東側である
宇都宮辻子に幕府を新造したのでした。
藤原頼経がここに移転し、
その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、
以後はすべて賞罰は
北条泰時自身で決定する旨を宣言しました。
この幕府移転は規模こそは小さいですが、
いわば遷都であり、
将軍独裁時代からの心機一転を図り、
合議的な執権政治を
発足させる象徴的な出来事だったのでした。





【鎌倉殿があっての執権として】
反面、これによって
鎌倉殿=征夷大将軍は
実権を奪われて名目上の存在となりました。
もっとも、鎌倉殿=征夷大将軍あっての
執権であることは
北条泰時自身が一番理解しており、
評定衆の会議で決められた事は常に
鎌倉殿=征夷大将軍に報告し、
京都の例に倣って
鎌倉大番役や
四角四堺祭などを導入して、
幕府の最高権威はあくまでも
鎌倉殿=征夷大将軍であることを
強調し続け、
北条泰時本人が
主従関係の模範になろうとしていたのでした。

【北条泰時の中の「鎌倉殿」】
源実朝に対する父親の
北条義時のふるまいを思うと
その子供の北条泰時は
「鎌倉殿」と「執権」の立場を
理解していますね。
源実朝を亡き者にしようとした
自分の祖父の北条時政に対して
「絶対許さない!!」という強い怒りを
抱いて「なかった存在」にまでしていますし。
所で北条泰時と源実朝の関係は良好だったようです。
ともに学問好きであったそうです。

また、北条泰時にとって
烏帽子親でもあった源頼朝が
真実の「鎌倉殿」であったかもしれません。
事実、北条泰時は武家政治を
確立させていくのですから。
源頼朝が成し得なかった仕組みを
まるで北条泰時が引き継いでいったとしても
過言ではないと思います。

【和賀江島の港】
また、鎌倉の町に戸主や保などの
京都と同じ都市制度を導入し、
鎌倉の海岸に宋船も入港した
和賀江島の港を援助して
完成させたのも北条泰時でした。

和賀江島の港

【次々と他界する北条泰時の子供】
一方、家庭内では
嘉禄3年(1227年)6月18日に
16歳の次男である北条時実が
家臣に殺害されました。
3年後の寛喜2年(1230年)6月18日には
長男の北条時氏が病のため28歳で死去。
更にその1ヶ月後の7月には
三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも
子は10日余りで亡くなり、
娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に
25歳で死去するなど、
立て続けに不幸に見舞われたのでした。

【御成敗式目の制定】
承久の乱以降、
新たに任命された地頭の行動や
収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、
また集団指導体制を行うにあたり
抽象的指導理念が必要となりました。
紛争解決のためには
源頼朝時代の「先例」を基準としていましたが、
先例にも限りがあり、
また多くが以前とは条件が変化していたのでした。
北条泰時は京都の法律家に依頼して
律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、
毎朝熱心に勉強しました。
北条泰時は「道理」
(武士社会の健全な常識)を基準とし、
先例を取り入れながら、
より統一的な武士社会の基本となる
「法典」の必要性を考えるようになり、
評定衆の意見も同様でした。

常楽寺 文殊堂

北条泰時を中心とした評定衆たちが
案を練って編集を進め、
ついに貞永元年(1232年)8月、
全51ヶ条からなる
幕府の新しい基本法典が完成しました。
はじめはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、
後に裁判の基準としての意味で
「御成敗式目」となりました。
完成に当たって北条泰時は六波羅探題として
京都にあった弟の北条重時に送った
2通の手紙の中で、
式目の目的について次のように書いています。

多くの裁判事件で同じような訴えでも
強い者が勝ち、
弱い者が負ける不公平を無くし、
身分の高下にかかわらず、
えこひいき無く公正な裁判をする基準として
作ったのがこの式目である。
京都辺りでは
「ものも知らぬあずまえびすどもが
何を言うか」と笑う人があるかも知れないし、
またその規準としてはすでに
立派な律令があるではないかと
反問されるかもしれない。
しかし、田舎では律令の法に通じている者など
万人に一人もいないのが実情である。
こんな状態なのに
律令の規定を適用して
処罰したりするのは、
まるで獣を罠にかけるようなものだ。
この「式目」は漢字も知らぬ
こうした地方武士のために作られた法律であり、
従者は主人に忠を尽くし、
子は親に孝をつくすように、
人の心の正直を尊び、
曲がったのを捨てて、
土民が安心して暮らせるように、
というごく平凡な「道理」に基づいたものなのだ。

(引用元:ウキペディア)

「御成敗式目」は日本における最初の武家法典です。
それ以前の律令が中国法、
明治以降現代までの各種法律法令が
欧米法の法学を基礎として
制定された継受法であるのに対し、
御成敗式目は日本社会の慣習や倫理観に則って
独自に創設された固有法という点で
日本法制史上特殊な法典です。





【寛喜の飢饉】
数年前から天候不順によって
国中が疲弊してた中、
これに追い打ちをかけるように
寛喜3年(1231年)には
寛喜の飢饉が最悪の猛威となりました。
御成敗式目制定の背景には
この社会不安もあるとのことです。
なお、寛喜の飢饉の際、
この被害の激しかった
地域の百姓に関しては税を免除したり、
米を支給して多くの民衆を救ったそうです。

【北条氏一門で人事を固める】
寛喜2年(1230年)、
北条泰時は嫡男の北条時氏に代わって
異母弟の北条重時を六波羅探題(北方)、
その後任の小侍別当には
同じく異母弟の北条実泰を命じました。
いずれも北条氏一門でも特に北条泰時が
信頼する人物であったとのことです。
後に北条実泰が病で引退すると、
北条時氏の長男である北条経時と
北条実泰の長男である北条実時が
交互に別当の地位に就いたのでした。

【強権で寺社争いを鎮圧】
嘉禎元年(1235年)、
石清水宮と興福寺が争い、
これに比叡山延暦寺も巻き込んだ
大規模な寺社争いが起こると、
強権を発して寺社勢力を押さえつけました。
興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、
院政期以来、朝廷がその対策に苦しんでいました。
そうした中、鎌倉幕府が全面に乗り出して
僧兵の不当な要求には
断固武力で鎮圧するという方針がとられたのでした。

比叡山 寺院

【藤原頼経の上洛】
暦仁元年(1238年)、
藤原頼経が上洛し、
北条泰時・北条時房・北条実時、
そして北条泰時の孫である
北条経時・時頼兄弟らもこれに随行しました。

【北条時房の分裂を促す】
この最中に北条泰時は武蔵守を
北条時房の息子で自分の娘婿である
北条朝直に譲っています。
そして、仁治元年(1240年)1月24日に
北条時房が死去すると、
長男である六波羅探題の北条時盛が
急遽鎌倉に戻って執権に伺候することを
幕府に上申しましたが受諾されませんでした。
これは北条時房と協調しつつも
その政治的影響力を警戒していた
北条泰時が娘婿である北条朝直を後見することで
北条時房流の分裂を促したと見る考えがあるとのことです。
また、延応元年(1239年)12月5日には
三浦義村も病死しています。
このため、北条泰時は以降は
単独で執権の職を行ったのでした。

【後継者は孫の北条経時】
仁治2年(1241年)11月25日、
北条泰時は北条経時と北条実時を
自邸に呼んだ上で、
三浦泰村・後藤基綱ら有力御家人や
二階堂行盛・太田康連ら
実務官僚たちを招集し、
北条経時(ほうじょうつねとき)を
自分の後継者として指名して
北条実時にその補佐を依頼しています。

【朝廷に対して強硬な措置】
仁治3年(1242年)に
四条天皇が崩御したため、
順徳天皇の皇子である忠成王が
新たな天皇として擁立されようとしていました。
しかしながら北条泰時は、
父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した
首謀者の一人であることからこれに強く反対。
忠成王の即位が実現するならば
退位を強行させるという態度を取ります。
そして貴族達の不満と反対を押し切って
後嵯峨天皇を推戴、
新たな天皇として即位させました。
この強引な措置により、
九条道家や西園寺公経ら、
京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、
彼らとの関係が後々悪化していきます。
一方、新天皇の外戚(叔父)である
土御門定通は北条泰時の妹である
竹殿を妻としていたため、
以後北条泰時は土御門定通を通じて
朝廷内部にも勢力を
浸透させていくことになるのでした。





【最期】
仁治2年(1241年)6月27日、
北条泰時は体調を崩し、騒ぎになったと
「吾妻鏡」にあります。
この時は7月20日に回復しています。

仁治3年(1242年)5月9日、
出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)
と号したとのことです。
この時、北条泰時の異母弟の北条朝時をはじめ、
北条泰時の家来50人ほども
後を追って出家したのでした。

【6月~7月は不吉?】
1ヶ月半後の6月15日に死去しました。
享年は60歳でした。
奇しくも、北条義時、北条政子、大江広元と、
北条氏政権で枢要な地位にあった人物も
北条泰時と同じ6月から7月にかけて没しており、
承久の乱で三上皇が配流されたのも
同じ季節であったので、
巷では上皇らの怨霊による
祟りではないかという風聞が流布したとのことです。
(衛生状態がよくないのでしょ・・。)

【死因は赤痢】
実際の死因は京都の公家の日記である
「経光卿記抄」6月20日条では、
日頃の過労に加えて赤痢を併発させ、
6月26日条では高熱に苦しみ、
さながら平清盛の最期のようだったと
伝えています。
皇位継承問題が
大きな心労になったともされています。
また、別の京都の公家の日記である
「平戸記」5月26・28日条では、
幕府側は京都と鎌倉の交通を遮断して、
将軍である頼経の父である
九条道家の使者さえも
途中で追い返されたと伝えられています。

【第4代執権は北条経時】
死の翌日に第4代執権には
早世した北条時氏の長男である
孫の北条経時が就任しました。

【北条時盛の失脚】
また、北条泰時の危篤を知らせる使者が
六波羅探題が派遣され、
北条重時だけが鎌倉に戻るように
命じられたにも関わらず、
北条泰時に執権(連署)就任を拒まれた
北条時房の長男・時盛が
今度は無断で鎌倉に戻って
自らの執権(連署)への就任を図りましたが、
再び拒絶されて失脚しています。

【北条泰時の総合評価】
後白河、後鳥羽院政が強力だった
承久の乱以前の幕府は
御家人の権益を擁護して
旧勢力と対抗する立場でした。
けれども院政の実質的機能が
失われた承久の乱以降は、
幕府は貴族・寺社等の旧勢力と、
地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、
両者の対立を調停する権力として固定しました。
父の北条義時の偉業を継いで
北条執権体制を軌道に乗せた北条泰時は、
名執権と称えられているとのことです。

【北条泰時の人となり】
北条泰時は人格的にも優れ、
武家や公家の双方からの
人望が厚かったと
肯定的評価をされる傾向にあります。
同時代では、参議・広橋経光などが
古代中国の聖人君子(堯、舜)に例えて
賞賛しているとのことです。





【道理の人】
北条泰時の政治は当時の鎌倉武士の
質実剛健な理想を体現するとされており、
北条泰時のすぐれた人格を示す
エピソードは多く伝えられています。
「沙石集」は北条泰時を
「まことの賢人である。
民の嘆きを自分の嘆きとし、
万人の父母のような人である」と評し、
裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、
道理に適った話を聞けば
「道理ほどに面白きものはない」
と言って感動して涙まで流すと伝えています。

【源頼家に諫言】
源頼家に仕えていた19歳の頃、
源頼家が蹴鞠に凝って
幕政を顧みないことを憂いて
諫言したことがあるとのことです。

【誠実に仕事をこなす】
晩年に行った道路工事の際には
自ら馬に乗って土石を運んだ事もありました。
誠実に仕事をこなした北条泰時は
公家や民衆からも評判がよく、
北条泰時が植えた柳の日陰で
休む旅人が北条泰時に感謝する逸話もあります。

【一方で・・・十八番】
しかし一方で近衛兼経などは
承久の乱後の朝廷に対する厳正な措置を恨み、
北条泰時を平清盛に重ねて悪評を下しています。
このような公家の一部の
悪感情を反映してか
北条泰時の死に際しては
後鳥羽上皇の祟りを噂するものもいたそうです。

・・・出ました!十八番ですな、もはや。
勝手に言わせておけば良いのです。

【常楽寺】

常楽寺(じょうらくじ)は、
神奈川県鎌倉市大船にある
臨済宗建長寺派の寺院です。
山号は粟船山(ぞくせんざん)。
本尊は阿弥陀三尊。
嘉禎3年(1237年)の創建で
開基は北条泰時、開山は退耕行勇です。

常楽寺 入り口

【歴史】
常楽寺はもと
「粟船御堂」(あわふねみどう)と呼ばれ、
北条泰時夫人(三浦泰村の娘?)の
母(室家母尼とあります)の追善供養のために
建てたものでした。

建長年間、時の第5代執権である
北条時頼(北条泰時の孫)によって
宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれました。
蘭渓ははじめ常楽寺の住持となり
中国風の禅宗を広め、
寺には多くの僧が蘭渓の
教えを乞うために訪れたそうです。

その後、建長寺が創建され
建長寺が鎌倉における禅宗の中心寺院になりましたが、
それ以降も臨済宗建長寺派においては
「常楽は建長の根本なり」
と重視されつづけたとのことです。

【仏殿】
元禄4年(1691年)の建立で
神奈川県指定重要文化財指定。
本尊の阿弥陀如来像、
脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像のほか、
蘭渓道隆像が安置されています。
天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれています。

【山門】
17世紀ごろの建立で鎌倉市の指定有形文化財。
茅葺の四脚門。

【文殊堂】
蘭渓道隆ゆかりの文殊菩薩坐像が安置されています。

【木造阿弥陀如来及び両脇侍像】
仏殿本尊。鎌倉市の指定有形文化財。
中尊阿弥陀如来台座内に
仁治3年6月12日
(1242年7月11日)の銘あり。
同年5月9日に出家して、
6月15日に没した北条泰時が
極楽往生を祈願して造立したものと
考えられています。

【梵鐘】
宝治2年3月21日
(1248年4月16日)の銘があります。
銅製の梵鐘で、
国の重要文化財指定。
建長寺・円覚寺の梵鐘とともに
鎌倉三名鐘と称されています。
なお「常楽寺」という寺名が
確認できるもっとも古い史料は
この梵鐘の銘文です。
現在は鎌倉国宝館に寄託されています。

【木造文殊菩薩坐像】
鎌倉時代の作で
神奈川県指定重要文化財指定。
秘仏として文殊堂に安置されており、
毎年1月25日に行われる
文殊祭の時のみ開帳されます。
永禄10年(1567年)には
甘粕長俊によって修理が施されています。

木造釈迦如来坐像
南北朝時代の作で鎌倉市の指定有形文化財。

【木曽塚】
木曽義高の墓と伝えられる塚です。
木曽塚の由縁を刻んだ石碑も建っています。
この石碑は鎌倉同友会が
大正15年(1926年)に建てたものです。
木曽塚の付近には源(木曽)義高の
許嫁である大姫の墓或いは
北条泰時の娘の姫君の墓と
伝えられている塚と、
粟船稲荷の祠があります。
伝大姫の墓(常楽寺)

常楽寺 粟船稲荷

<所在地>
〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29

<交通アクセス>
<電車・バス>
大船駅より徒歩15分、
もしくは江ノ電バス「常楽寺」バス停より徒歩5分です。
<車>
神奈川県道21号横浜鎌倉線常楽寺交差点より
大船駅方面へ向かう市道に入り、
100メートルほど先を右折すると
山門にあたります。

<駐車場>
道路を挟んで斜め向かいに
コインパーキングがあります。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

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北条氏常盤亭跡と北条政村について~鎌倉幕府第7代執権、連署も務め北条得宗家を支えた人物。

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三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

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三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

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源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

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北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

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藤原範茂卿~墓所は範茂史跡公園~承久の乱の勝利で鎌倉武家政権は盤石となる。

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

蓮華山城 ~毛利家臣となった椙杜氏の本拠地、 ご先祖様は初代問注所執事の三善康信です。

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