鎌倉殿の13人

北条氏常盤亭跡と北条政村について~鎌倉幕府第7代執権、連署も務め北条得宗家を支えた人物。

北条氏常盤亭跡



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【北条氏常盤亭跡】

北条氏常盤亭跡(ほうじょうしときわていあと)は
神奈川県鎌倉市常盤(深沢地域)
にある遺跡で国の史跡に指定されています。

北条氏常盤亭跡 説明

鎌倉七口の一つ、
大仏坂切通し(史跡)の近くに位置しています。
その大仏切通(史跡)の北方台地を
西北方に廻り切った一帯は「常盤」とよばれ、
現在もなお大部分が
水田及び畑地である奥深い谷戸が
いくつも南に向かって開いています。
この「常盤」の地に
鎌倉幕府第7代執権である
北条政村始め北条氏一族が
別邸を構えた屋敷跡があります。
北条執権当時、鎌倉防衛上の要地には
それぞれ一族の邸宅が配されていました。
鎌倉駅から市役所前の通りを行き、
トンネルを3つ越えたところの右側にあります。
北側で野村総研跡地と隣接しています。
一帯の谷戸には人工的に造成されたとみられる
いくつかの段差の平坦地があり、
またタチンダイと呼ばれる
谷戸の奥にはやぐらがあります。

北条氏常盤亭跡2

<タチンダイ>
東西約700m、南北300mに及ぶ
敷地の中で、
木の柵が設置された
谷戸の奥側の一段高くなっているところです。
これは、屋敷のあった台地という意味の
「館の台(たちのだい)」
がなまったもので、
常盤亭跡の中でも中心的な場所と
考えられています。

そのタチンダイの西隣にある
「法華堂」とよばれる谷戸の奥には
明らかに方形に岩盤を切り開いた空間と
門扉の痕跡があります。
更にこれらの谷戸の裏山には
堅堀や腰曲輪など
城塞的造成の跡も見受けられます。
昭和52年(1977年)の発掘調査で
建物跡等の柱穴、溝、
井戸などが見つかっており、
上質の石製硯、金銅製水滴、
滑石製印判等も出土しています。
鎌倉時代中期の政治史や
文化史を考える上で
欠くことのできない重要な
遺跡であるとのことです。
国の指定史跡です。

北条氏常盤亭跡 注意札

【所在地】
〒248-0022 神奈川県鎌倉市常盤924−1

【交通アクセス】
JR鎌倉駅西口から徒歩25分
JR鎌倉駅西口1番バス乗り場
「山の上ロータリー」「鎌倉中央公園」行き
「一向堂」下車徒歩1分
※バスの便が少ないです。

駐車場はありません。
常盤亭に面している道路は
そこそこの交通量があり、
走行車両も速度を上げています。
車一台分のスペースはありますが
「私有地につき進入(立入?)禁止」の
看板があります。
徒歩6分位の処に
コンビニがあります。
コンビニに駐車して、
買い物をして、常盤亭の往復まで
20分以内は可能ですが、
店の従業員のチェックが厳しく、
注意の仕方もかなりの上から目線でした。
車は前向きでエンジンは必ず切ることが
当たり前で出来ない人間は(以下自粛)
と、いきなり人格攻撃をされましたが、
「前向き・エンジンを切る」旨の
注意書きには全く気づきませんでした。
エンジンを切る理由は
隣が保育園、とのことですが
それもわかりませんでした・・・。
(近隣の住民ではないので)
そのコンビニを利用する際には
以上の点に気を付けて下さい。

<常盤亭跡入り口>
道路に面している所は、
柵が出来ており
現在立ち入りが
できなくなっているようです。
地図を見ますと
ハイキングコース入り口(御所ノ内)、
とあります。
上記のコンビニの横を通り、
民家伝いに歩いていくと
あるようですが、かなりわかりにくく、
また道の状態もよくないようです。




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口コミでは、
ピクニックとして
利用されているようですが、
春から晩秋までは
草がかなり生い茂り、
一面の草原となっているようです。
蜂やクモなどもわんさかいそうですね・・。
トイレもなく、
近隣にはコインパーキングもないため、
地元の方以外は
冬の季節に鎌倉駅から
歩いてくるのがよいかもしれません。
オシャレなカフェがありますので、
休息にどうぞ。

【国の史跡で重要な遺跡であるならば】
国の史跡で重要な遺跡、
との文言がありますが、
現状はどうみても未整備の
原っぱにしか見えません。
バス便も多くなく、
コインパーキングもないので
ほんの数台分でいいから
せめて駐車スペースは確保してほしいな、
と思いました。
国の史跡らしく整備しましょう。
なにか整備できない
ヤバイ理由でもあるのかしら?
と思ってしまいます。

【北条政村】

北条 政村(ほうじょう まさむら)は、
鎌倉時代前期から中期にかけての
北条氏の一門。
鎌倉幕府第7代執権
(在職:1264年⇒1268年)。
2代執権北条義時の四男です。
母は継室の伊賀の方です。
3代執権北条泰時は異母兄にあたります。
北条政村流北条氏の祖であり、
12代執権北条煕時は曾孫にあたります。
13代執権北条基時も血縁的には曾孫です。

幼少の得宗家である
北条時宗(泰時の曾孫)の代理として
7代執権となり、
辞任後も連署を務めて
蒙古襲来の対処にあたり、
一門の宿老として
嫡流の得宗家を支えました。

【時代】
鎌倉時代前期⇒中期

【生誕】
元久2年6月22日(1205年7月10日)

【死没】
文永10年5月27日
(1273年6月13日)

【改名】
政村、常盤院覚崇

【別名】
奥州、相州、相模四郎

【官位】
陸奥守、相模守、
正四位下、左京権大夫

【幕府】
鎌倉幕府 評定衆、引付頭人、連署
7代執権(1264年⇒1268年)、連署(再任)

【主君】
藤原頼経⇒頼嗣⇒宗尊親王⇒惟康親王

【氏族】
北条氏(政村流)

【父】
北条義時

【母】
伊賀の方

【兄弟】
泰時、朝時、重時、
有時、政村、実泰、時尚、
竹殿、一条実雅室(同母)、他

【妻】
正室:九条頼経の娘、
三浦重澄あるいは三浦胤義の娘

【子】
時村、政長、政頼、宗房、政方、
北条実時室、
北条宗政室、
安達顕盛室、
北条業時室、
北条時茂室、他

【生い立ち】
元久2年(1205年)6月22日、
畠山重忠の乱で重忠親子が
討伐された日に誕生したとされています。
北条義時にはすでに3人の男子がいましたが、
23歳の長男である北条泰時
側室の所生で、
13歳の次男である北条朝時の母は
正室の姫の前でしたが、
比企一族の乱で離別しており、
北条政村は
継室の伊賀の方所生では長男でした。

妙本寺 総門

【元服】
建保元年(1213年)12月28日、
7歳で3代将軍である源実朝の御所で元服し、
四郎政村と号しました。
元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村でした。
このとき祖父の北条時政
烏帽子親の三浦義村の一字をもらい、
政村と名乗りました。
この年は和田義盛が滅亡した
和田合戦が起こった年であり、
和田義盛と同じ一族である
三浦義村との紐帯を深め、
懐柔しようとする北条義時の配慮が
背景にあったと見られています。
「吾妻鏡」は北条政村元服に関して
「相州(義時)鍾愛の若公」と記しています。




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【伊賀氏の変】
貞応3年(1224年)、
20歳の時に父である
北条義時が急逝しました。
北条義時葬儀の際の兄弟の序列では、
北条政村と同母弟の北条実泰は
すぐ上の兄で側室所生の
北条有時の上位に位置し、
異母兄である北条朝時及び
北条重時の後に記されています。
現正室の子として扱われると同時に、
嫡男ではなく、
あくまでも庶子の一人として
扱われていることがうかがえます。

けれども、母親である伊賀の方が
北条政村を執権にする
陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、
伊賀の方は伯母である
北条政子の命によって伊豆国へ流罪
となりましたが、
北条政村は兄の北条泰時の計らいで
累は及びませんでした。

【伊賀氏の変は政子のでっちあげ?】
なお、伊賀氏謀反の風聞については
北条泰時が否定しており、
「吾妻鏡」でも伊賀氏が
謀反を企てたとは一度も明言しておらず、
北条政子に伊賀氏が処分された事のみが
記されているとのことです。
そのため伊賀氏の変は、
鎌倉殿や北条氏の代替わりによる
自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、
北条義時の後妻の実家である
伊賀氏を強引に潰すために
でっち上げた事件とする説もあります。

北条政村はその後も北条一門として
執権となった兄の北条泰時を支えていきます。
しかし3歳下の同母弟である
北条実泰は伊賀氏事件の影響か、
精神のバランスを崩して病となり、
天福2年(1234年)6月に
27歳で出家しています。

【連署就任】
延応元年(1239年)、
35歳で評定衆となり、翌年に筆頭となります。
宝治元年(1247年)、
43歳の時に21歳の執権であった北条時頼と、
北条政村の烏帽子親だった
三浦義村の嫡男である
三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、
三浦一族が滅ぼされます。
その時の北条政村の動向は不明です。
建長元年(1249年)12月に
引付頭人、
建長8年(1256年)3月に
兄の北条重時が出家し引退したため、
兄に代わり52歳で連署となります。

【執権就任】
建長8年(1256年)より
幼年の得宗後継者である
北条時宗の中継ぎとして
6代執権となっていた
甥の北条長時が病で出家したため、
文永元年(1264年)7月、
得宗家の後継者で、
それでもまだ14歳である
若年の北条時宗の代わりに
60歳の北条政村が8月に
7代執権に就任しました。
北条時宗は連署となり、
北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、
彼らや北条政村の補佐を受けながら、
幕政中枢の人物として人事や
宗尊親王の京都更迭などの決定に関わりました。
名越兄弟
(兄の北条朝時の遺児である北条時章、北条教時)と
北条時宗の異母兄である
北条時輔が粛清された二月騒動でも、
北条政村は時宗と共に主導する立場でした。
二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、
奮起した北条教時が軍勢を率いて
示威行動を行った際、
北条政村は北条教時を説得して
制止させています。




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【元寇に備えて連署再任】
文永5年(1268年)1月、
蒙古国書が到来すると、
元寇という難局を前に
権力の一元化を図るため、
同年3月に執権職を18歳の北条時宗に譲り、
64歳の北条政村は再び連署として補佐し、
侍所別当も務めます。

【死去】
文永10年(1273年)5月、
常葉上人を戒師に出家し、
常盤院覚崇と号し、
同月に69歳で死去しました。

和歌・典礼に精通した教養人であり、
京都の公家衆からも敬愛されていたとのことです。
吉田経長は日記「吉続記」で
北条政村を「東方の遺老」と称し、
訃報に哀惜の意を表明したといいます。
「大日本史」が伝えるところでは、
亀山天皇の使者が弔慰のため
下向したとのことです。
連署は兄の北条重時の息子である
北条義政が引き継ぎました。
なお、執権経験者が
連署を務めた例は他には無いとのことです。

【北条政村の人となり】
「大日本史」で北条政村は
沈黙温雅な人物と評価されているとのことです。
若い頃、伊賀氏の変に巻き込まれ、
謀反人と疑われたことが、
慎重で思慮深い性格の形成に
繋がっていったと考えられています。

高い教養を持ち、
公武の協調関係を維持することにも
大きく貢献し、京都から幕府に下向し、
出仕していた飛鳥井教定、
花山院長雅らと交流し、
影響を受けたとのことです。
勅撰集には北条一門の歌が
多く入集していますが、
中でも北条政村の歌は四十集入集されており、
これは北条一門の中で最多とのことです。

【讃岐局の怨霊】
文応元年(1260年)10月15日、
娘の一人が錯乱状態となり、
身体を捩じらせ、
舌を出して蛇のような狂態を見せたとのことです。
これは比企の乱で殺され、
蛇の怨霊となった讃岐局(若狭局とも)に
取り憑かれたためであるとされています。

妙本寺 蛇苦止堂(じゃくしどう)

怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した
北条政村は隆弁に相談し、
11月27日、写経に供養、
加持祈祷を行ってようやく収まったとのことです。
娘の回復後ほどなくして北条政村は
比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立しました。
現在は妙本寺となっている場所です。
この逸話は「吾妻鏡」に採録されており、
北条政村の家族想いな人柄を
反映させたものだとの評価を受けています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
新原 泰佑(にいはら・たいすけ)さんが
演じられます。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条泰時~第3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は政子との女性の戦か?

1分でわかる姫の前~北条義時の正室、源頼朝お気に入りの女官で絶世の美女だが、比企一族の乱で離縁。

若狭局~比企一族で源頼家の妻で一幡と竹御所の母~大蛇となり比企ヶ谷を護る存在となった。

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