鎌倉殿の13人

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

寿福寺 北条政子




北条政子

北条 政子(ほうじょうまさこ、
保元2年(1157年)⇒
嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻です。

【母と兄弟妹】
伊豆国の豪族、北条時政の長女です。
母は未詳ですが、
北条時子の同母姉妹とみられています。
子は源頼家源実朝大姫三幡
兄弟妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子がいます。

北条氏邸跡(円成寺跡)~北条氏の本拠地で鎌倉幕府滅亡後は尼寺として一族の冥福と鎮魂を祈った地

周囲の反対を押し切って
伊豆の流人だった源頼朝の妻となり、
源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると
御台所と呼ばれるようになりました。
源頼朝死後は落飾して
尼御台(あまみだい)と呼ばれました。
法名を安養院(あんにょういん)といいました。
源頼朝亡きあと征夷大将軍となった
嫡男である源頼家、
次男の源実朝が相次いで
暗殺された後は、
傀儡将軍として京から招いた
幼い藤原頼経の後見となって
幕政の実権を握り、
世に尼将軍と称されたのでした。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

【名前は「政子」ではなかった?】
「政子」の名は建保6年(1218年)に
朝廷から従三位に叙された際に、
父である北条時政の名から
一字取って命名されたものです。
本人が「北条政子」を名乗った事実は
確認されておらず、
あくまで後世の呼び名に過ぎないとのことです。
なお、父親の北条時政ですら、
実は「北条時政」とは名乗っていなかったそうです。
御成敗式目第7条での呼称は「二位殿」でした。

【流人の妻として】
北条政子は伊豆国の豪族である
北条時政の長女として生まれました。

<北条政子 産湯の井戸>
北条政子産湯の井戸

伊豆の在庁官人であった北条時政は、
平治の乱で敗れ同地に流されていた
源頼朝の監視役でしたが、
北条時政が大番役のため
在京中の間に北条政子は源頼朝と
恋仲になってしまいます。

蛭ヶ小島と政子

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

【北条政子は恋愛結婚】
源頼朝との婚姻は
治承元年(1177年)の頃と推定されています。
「吾妻鏡」によると北条時政は
この婚姻には大反対であったそうです。
同書にはこの時のことについて、
後年、源義経の愛妾の静御前
源頼朝の怒りを受けたときに、
源頼朝を宥めるべく
北条政子が語った言葉で
「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」
と述べたと記されています。
けれども最終的に北条時政は
この二人の婚姻を認めました。
北条政子は、まもなく長女である大姫を出産します。
北条時政も2人の結婚を認め、
北条氏は源頼朝の重要な後援者となったのでした。

なお、軍記物には
この婚姻についての逸話がいくつか
書かれています。

【政子の「夢買い」】
「曽我物語」によりますと、
二人の馴れ初めとして、
北条政子の妹である阿波局が
日月を掌につかむ奇妙な夢を見ました。
阿波の局がその夢について北条政子に話すと、
北条政子はそれは禍をもたらす夢であるので、
自分に売るように勧めます。
当時、不吉な夢を売ると
禍が転嫁するという考え方があったそうです。
阿波の局は北条政子に夢を売り、
北条政子はお代として小袖を与えたそうです。
実は北条政子は吉夢と知って
阿波局の夢を買ったのでした。
吉夢の通りに北条政子は
後に天下を治める
源頼朝と結ばれたとする
「夢買い」をしたということです。





【お嫁に行きたい】
あくまでも1979年の大河ドラマ
「草燃える」を見た印象ですが、
お年頃まっただ中の政子さんは
とにかくお嫁に行きたかった、
どこかにいい人現れないかしら?と夢見る乙女でした。
自分のほぼ同年代の継室もいることなので
余計に「早くお嫁に。でもへぼな人はイヤ」という
当時小学生だった私はそうした
印象を持っています。
政子を演じられた岩下志麻さんが
恋に恋する政子を可愛らしく演じておられました。

また「源平盛衰記」には
次の内容の記載があるとのことです。

【山木兼隆との結婚を画策】
源頼朝と北条政子の関係を知った
北条時政は平家一門への聞こえを恐れ、
北条政子を伊豆目代の山木兼隆と
結婚させようとします。
山木兼隆は元は流人でしたが、
平家の一族であり、
平家政権の成立とともに
目代となり伊豆での
平家の代官となっていたのでした。
北条政子は山木の邸へ
輿入れさせられそうになりますが、
屋敷を抜け出して山を一つ越え、
源頼朝の元へ走ったということです。
二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に
匿われました。
北条政子が21歳のときのことです。
伊豆山は僧兵の力が強く
目代の山木も手を出せなかったということです。

けれども山木兼隆の伊豆配流は
治承3年(1179年)の事であり、
北条政子との婚姻話は
物語上の創作と見られています。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

【源頼朝、挙兵する】
治承4年(1180年)、
以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、
諸国の源氏に挙兵を呼びかけました。
伊豆の源頼朝にも
以仁王の令旨が届けられましたが、
慎重な源頼朝は即座には応じなかったそうです。
けれども計画が露見して
以仁王が敗死したことにより、
源頼朝にも危機が迫り、
挙兵せざる得ない状況となりました。
源頼朝は目代である山木兼隆の邸を襲撃して
これを討ち取りますが、
続く石橋山の戦いで惨敗します。
この戦いで北条政子の長兄である
北条宗時が討死しています。
北条政子は伊豆山に留まり、
源頼朝の安否を心配して
不安の日々を送ることとなったのでした。

北条宗時~北条時政の嫡男であったが石橋山の戦いで散る~異説有り。

伊豆山神社~頼朝が伊東祐親より逃げ込み、政子との逢瀬を重ねた伊豆の地名の発祥の地

鎌倉殿と御台所】
源頼朝は北条時政、
北条義時とともに安房国に逃れて再挙し、
東国の武士たちは続々と源頼朝の元に参じます。
やがて数万騎の大軍に膨れ上がり、
源氏ゆかりの地である鎌倉に入り
居を定めました。
そして北条政子も鎌倉に移り住みました。
源頼朝は富士川の戦いで勝利し、
各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧しました。
源頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれます。
そして妻の北条政子は御台所と呼ばれるようになりました。





【源頼家の誕生】
養和2年(1182年)初めに
北条政子は二人目の子を懐妊しました。
源頼朝は三浦義澄の願いにより
北条政子の安産祈願として、
平家方の豪族で
鎌倉方に捕らえられていた
伊東祐親の恩赦を命じました。
源頼朝は北条政子と結ばれる以前に
伊東祐親の娘の八重姫と
恋仲になり男子までもうけましたが
平氏の怒りを恐れた伊東祐親はこの子を殺し、
源頼朝と八重姫の仲を裂き
他の武士と強引に
結婚させてしまったとのことです。
伊東祐親はこの赦免を恥じとして
自害してしまいます。
なお、別の説としては三浦義澄の
城である鐙摺城で処刑されたとも
伝わっています。
同年8月に北条政子は男子(万寿)を出産します。
後の2代将軍となった源頼家です。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

【源頼朝の愛妾・亀の前】
御台所となった北条政子の妊娠中に
源頼朝は亀の前を寵愛するようになり、
近くに呼び寄せて通うようになりました。
これを北条時政の後妻の牧の方から
知らされた北条政子は大激怒します。
11月、牧の方の父の牧宗親に命じて
亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、
亀の前は逃げ出しました。
今度は源頼朝が激怒して牧宗親を詰問し、
自らの手で牧宗親の髻(もとどり)を
切り落とす恥辱を与えたといいます。
源頼朝のこの仕打ちに今度は北条時政が怒り、
一族を連れて伊豆へ引き揚げる
騒ぎになっています。
北条政子の怒りは収まらず、
伏見広綱を遠江国へ流罪にさせたのでした。

【決して嫉妬だけではないと思う・・】
この事件は必ず政子の「嫉妬」とされていますが
それもあったとは思いますが、
政子は深く傷ついたのですよ。
この当時、御台所のお産は、
鎌倉幕府の大切な行事であり、
お産奉行として
梶原景時が取り仕切ったとのことです。

幕府の大事な公の行事に
鎌倉殿はこともろうに愛妾の処へ行き、
取り残された御台所・・。
公の「御台所」としても、
私的な「妻」としても傷つけられた政子。
その傷が深い程、その後の反動もまた
大きいわけです。
自分の心の傷の回復のためにも
政子は反撃に出たわけです。

【源氏の棟梁としての責務?】
源頼朝は生涯に多くの女性と通じていましたが、
北条政子を恐れて
半ば隠れるように通っていたとのことです。
当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが
一般的でしたが、
有力武家も本妻の他に
多くの妾を持ち子を産ませて
一族を増やすのが当然でした。
北条政子の父親の北条時政も
複数の妻妾がおり、
北条政子と腹違いの弟妹を
多く産ませています。
源頼朝の父である源義朝も
実に多くの妾がおり、
更に祖父の源為義は子福者で
20人以上もの子を産ませています。
京都で生まれ育ち、
源氏の棟梁であった源頼朝にとって、
多くの女の家に通うのは
常識・義務であり、
社会的にも当然の行為、だったとか。

亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について

牧宗親~北条時政の継室である牧の方の兄(もしくは父)、源頼朝と北条時政に仕えており板挟みでツライよ?

丹後局(丹後内侍)~源頼朝の妻妾で比企一族~供養塔が横浜にあります。

【ひとりごと】
北条政子の「私だけを見て
というのはそれだけ一途に源頼朝のことを
愛していたからと思うし、
父親の北条時政の多くの妻妾の件で
実は北条政子がトラウマを抱えた・・
なんてこともあるのではないでしょうかね。
北条時政の後妻の牧の方とは、
反りが合わず、後年になって事件を起こすほどです。
では八重姫は?
源頼朝と北条政子の仲睦まじさを見て
八重姫は身を投げたとありますが、
八重姫とて源頼朝を深く愛していたからこそ、
絶望して身を投げたのでは?

自らの身を壊してしまうか
妻妾の家を壊してしまうかで
本質的には変わりがないと思うのです。
また東国では一夫一妻制に
近しかったことも判明しています。

真珠院・八重姫御堂~八重姫とは?父親たちの選択によって明暗を分けた娘たち。

【北条政子が抱える不安要素】
源頼朝の妻妾に対しての
北条政子の仕打ちは
伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である
北条政子は貴種である
源頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、
その地位は必ずしも安定したものでは
なかったこともあると考えられています。

【実現しなかった婚姻】
源頼朝は寿永元年(1182年)7月に
兄の源義平の未亡人で
源氏一族である新田義重の娘の
祥寿姫を妻に迎えようとしましたが、
北条政子の怒りを恐れた
新田義重が娘を他に嫁がせたため
実現しませんでした。
北条政子が亀の前の邸を襲撃させて
実力行使に出るのは、この4ヶ月後のことでした。
このために北条政子は嫉妬深く
気性の激しい奸婦のイメージを
持たれる様になったとの見方があります。





【大姫と源義高の婚約】
寿永2年(1183年)、
源頼朝は対立していた源義仲と和睦し、
その条件として源義仲の嫡子である
源義高と源頼朝と北条政子の長女である
大姫の婚約が成立しました。
源義高は大姫の婿という
名目の人質として鎌倉へ下ります。
この時源義高は11歳、
大姫は6歳前後でした。
幼いながらも大姫は源義高を慕うようになります。

【源義高の死と大姫の病】
源義仲は平家を破り、源頼朝より早く入京しました。
けれども、源義仲は京の統治に失敗し、
平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立しました。
元暦元年(1184年)、
源頼朝は弟の源範頼と
源義経を派遣して源義仲を滅ぼしました。
そして源頼朝は禍根を断つべく
鎌倉にいた源義高の殺害を決めますが、
これを侍女達から漏れ聞いた大姫が
母親の北条政子の助けもあり、
義高を鎌倉から脱出させたのでした。
そのことに激怒した源頼朝の命により
堀親家がこれを追い、
源義高は堀親家の郎党である
藤内光澄の手によって斬られました。
大姫は悲嘆の余り病の床につきました。
北条政子は源義高を討った為に
大姫が病になったと憤り、
堀親家の郎党の配慮のなさだと
源頼朝に強く迫ります。
源頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしました。
その後、大姫は心の病となり、
長く憂愁に沈むこととなったのでした。
北条政子は大姫の快癒を願って
しばしば寺社に参詣しましたが、
大姫が立ち直ることはなかったのでした。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

【平重衡と政子の侍女】
源範頼と源義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、
捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきました。
源頼朝は平重衡を厚遇し、
北条政子もこの貴人を慰めるため
侍女の千手の前を差し出しています。
平重衡は後に彼が焼き討ちした
東大寺へ送られて斬られます。
千手の前は平重衡の死を悲しみ、
ほどなく死去したとのことです。

【東国の経営を進める政子】
源範頼と源義経が平家と戦っている間、
源頼朝は東国の経営を進め、
北条政子も参詣祈願や、
寺社の造営式など
諸行事に源頼朝と同席しています。
元暦2年(1185年)、
源義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。

【北条政子と静御前】
平家滅亡後、
源頼朝と源義経は対立し、
挙兵に失敗した源義経は
郎党や妻妾を連れて都を落ちていきます。
文治2年(1186年)、
源義経の愛妾である静御前が捕らえられ、
鎌倉へ送られてきました。
北条政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、
渋る静を説得しています。
度重なる要請に折れた静御前は
鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、
源頼朝の目の前で
吉野山峯の白雪ふみ分て 
入りにし人の跡ぞ恋しき 」
「しづやしづしずのをたまきをくり返し 
昔を今になすよしもがな 」
と源義経を慕う歌を詠んだとのことです。
これに源頼朝は激怒しますが、
政子の次の言葉に源頼朝の怒りは
鎮まったのでした。

鶴岡八幡宮 鎌倉

流人であった源頼朝との
辛い馴れ初めと挙兵のときの
不安の日々を語ります。
「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。
義経の多年の愛を忘れて、
恋慕しなければ貞女ではありません」と
とりなしたのでした。
怒りが鎮まった源頼朝は静御前に褒美を与えたのでした。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

【大姫と静御前】
北条政子は大姫を慰めるために
南御堂に参詣し、静午前は
北条政子と大姫のために
南御堂に舞を納めています。





【救えなかった静御前が産んだ子】
静御前は源義経の子を身ごもっており、
源頼朝は女子なら生かすが
男子ならば禍根を断つために殺すよう命じます。
静午前は男子を生み、
北条政子は子の助命を
源頼朝に願いますが許されず、
子は由比ヶ浜に沈められました。
北条政子と大姫は静を憐れみ、
京へ帰る静御前と母の磯禅師に
多くの重宝を与えたということです。

【次女・三幡の出産と貞暁】
同年、北条政子は次女である
三幡を産みました。
北条政子の妊娠中に源頼朝は
懲りずにまたも大進局という妾のもとへ通い、
大進局は源頼朝の男子、貞暁を産みます。
しかし北条政子を憚って
出産の儀式は省略されています。
大進局は北条政子の嫉妬を恐れて身を隠し、
子は政子を恐れて
乳母のなり手がないなど、
人目を憚るようにして育てられたとのことです。

【奥州征伐とお百度参り】
奥州へ逃れた源義経は
文治5年(1189年)4月、
藤原泰衡に攻められ自害しました。
源頼朝は奥州征伐のため出陣します。
北条政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして
戦勝を祈願したとのことです。
源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋します。

【頼朝、右近衛大将に】
建久元年(1190年)に
源頼朝は大軍を率いて入京します。
後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられました。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

【源実朝の誕生】
建久3年(1192年)、
北条政子は千幡(のちの源実朝)を産みました。
その数日前に源頼朝は征夷大将軍に任じられています。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

【貞暁の出家】
同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、
北条政子を憚って出家させるため
京の仁和寺へ送られたということです。
出発の日に源頼朝は密かに会いに来たとのことです。

【富士の巻狩と源頼家の鹿狩り】
建久4年(1193年)、
源頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催しました。
源頼家が鹿を射ると喜んだ源頼朝は
使者を立てて北条政子へ知らせます。
しかし北条政子は
「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい
騒ぐことではない」と使者を追い返しています。
神の使いとされている鹿を
源頼家が鹿を狩ったということは
神によって頼家が
源頼朝の後継者とみなされた事を
人々に認めさせる効果を持ち、
そのために源頼朝はことのほか喜んだのでしたが、
北条政子にはそれが理解できなかったとされています。

北条政子にとっての鹿狩りは
日常生活の延長みたいな認識だったかもしれません。
だから「鹿は神の使いでそれを狩ったから
神様に認められたんだよ」と云われても
「で?」ということだったかもしれません。

曽我兄弟の仇討と源範頼の幽閉】
そしてこの富士の巻狩りの最後の夜に
事件は起きたのでした。
それは曾我兄弟が父の仇である
工藤祐経を討つ事件でした。
更に鎌倉では源頼朝が殺されたとの流言があり、
北条政子は大層心配しましたが
鎌倉に残っていた源範頼が
「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」
と政子を慰めたそうです。
けれどもこの発言が
源頼朝から疑念を持たれてしまいます。
鎌倉に帰った源頼朝が北条政子から
源範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、
源範頼は伊豆に幽閉されて殺されています。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

【大姫、縁談を断る】
大姫は相変わらず病が癒えず、
しばしば床に伏していました。
建久5年(1194年)、
北条政子は大姫と源頼朝の甥にあたる
公家の一条高能との縁談を勧めますが、
大姫は源義高を今なお慕い続け、
「深淵に身を投げる」と言い放ち頑なに拒みました。
北条政子は大姫を慰めるために
源義高の追善供養を盛大に催したそうです。

【大姫の死去】
建久6年(1195年)、
北条政子は源頼朝と共に上洛し、
宣陽門院の生母の丹後局と会って
大姫の後鳥羽天皇への入内を協議しました。
源頼朝は政治的に大きな意味のある
この入内を強く望み、
政子も相手が帝なら
大姫も喜ぶだろうと考えたのですが、
両親の想いとは裏腹に
大姫は重い病の床についてしまいます。
北条政子と源頼朝は快癒を願って
加持祈祷をさせますが、
建久8年(1197年)に
大姫は20歳で死去しました。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

【死にたい程の悲しみ】
「承久記」によりますと、
北条政子は自分も死のうと
思うほどに悲しみ、
源頼朝が母まで死んでしまっては
大姫の後生に悪いからと諭したそうです。

【源頼朝の死】
源頼朝は次女の三幡を入内させようと図りますが、
朝廷の実力者である土御門通親に阻まれます。
親鎌倉派の関白であった条兼実が失脚し、
朝廷政治での源頼朝の形勢が悪化し
三幡の入内も困難な情勢になってしまいました。
このため源頼朝は再度の上洛を計画しますが、
建久10年(1199年)1月に落馬が元で急死しました。

寿福寺 境内 北条政子

【死にたいけれど頼家の為に】
「承久記」によりますと
北条政子の悲しみはとても深いものでしたが、
「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、
自分まで死んでしまっては
年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。
子供たちを見捨てることはできなかった」と
述懐しているとのことです。





【尼御台として】
長子の源頼家が家督を継ぎ、
北条政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれます。

【三幡の死】
頼朝の死から2ヶ月ほどして今度は
次女の三幡が重病にかかってしまいました。
北条政子は鎌倉中の寺社に命じて
加持祈祷をさせ、
後鳥羽上皇に院宣まで出させて
京の名医を鎌倉に呼び寄せます。
三幡は医師の処方した薬で
一時は保ち直したように見えたのですが、
容態が急変して6月に僅か14歳で死去したのでした。

・・・三幡は実は毒殺されたとの説もあります。

三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫

【十三人の合議制】
若い源頼家による独裁に
御家人たちの反発が起き、
正治2年(1200年)に
源頼家の専制を抑制すべく
大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら
老臣による十三人の合議制が定められました。

【北条政子、調停に入る】
源頼家が安達景盛の
愛妾を奪う不祥事が起きました。
安達景盛が怨んでいると知らされた
源頼家は兵を発して討とうとします。
北条政子は調停のため
安達景盛の邸に入り、
使者を送って源頼家を強く諌めます。
「景盛を討つならば、
まずわたしに矢を射ろ」と
申し送ったとか。
北条政子は安達景盛を宥めて
謀叛の意思のない起請文を書かせ、
一方で源頼家を重ねて訓戒して
騒ぎを収めさせたのでした。

【梶原景時の変】
源頼家と老臣との対立は続き、
源頼家が父の源頼朝に引き続いて
重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされました。
「玉葉」(正治2年正月2日条)によりますと、
他の武士たちに嫉まれ、恨まれた梶原景時は、
源頼家の弟の源実朝を将軍に立てようとする
陰謀があると源頼家に報告。
他の武士たちと対決したものの、
言い負かされ、一族とともに追放されて滅亡しました。
「愚管抄」では梶原景時滅亡と
後の源頼家殺害の因果関係を強く指摘しています。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う

【源頼家と比企氏】
源頼家は遊興にふけり、
ことに蹴鞠を好んだといいます。
訴訟での失政が続き、
御家人の不満が高まっていきます。
更に源頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、
比企能員の娘は頼家の長子の一幡を産み、
権勢を誇っていました。
比企氏の台頭は北条氏にとって脅威でした。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

【比企能員の変と源頼家の死去】
建仁3年(1203年)、
源頼家が病の床につき危篤になりました。
北条政子と北条時政は一幡と源実朝で
日本を分割することを決めます。
これを不満に思ったとされる比企能員は
病床の源頼家に北条氏の専断を訴えます。
源頼家もこれを知って怒り、
北条氏討伐を命じます。
これを障子越し聞いていた北条政子は、
使者を北条時政に送り、
北条時政は策を講じて比企能員を謀殺。
北条政子の名で兵を起こして
比企氏を滅ぼしてしまいました。
一幡も比企氏とともに亡くなりました。
但し、一幡はこの時は生き延びて
同年の11月に北条義時の命で捕らえられ
刺殺されたという説もあります。

源頼家は危篤から回復し、
比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、
北条時政討伐を命じるが、
既に主導権は北条氏に完全に握られており、
源頼家は北条政子の命で出家させられて
将軍職を奪われ、
伊豆の修善寺に幽閉されてしまいます。
そして源頼家は翌年の元久元年(1204年)に
北条義時の放った刺客により暗殺されています。

【比企氏滅亡と源頼家の死の真相】
けれども比企氏滅亡や源頼家の死に関して
鎌倉幕府編纂書である「吾妻鏡」には
明らかな曲筆が見られるといいます。
源頼家の悪評や比企氏の陰謀については
北条氏による政治的作為と考えられており、
そのまま鵜呑みには出来ないとのことです。
「愚管抄」によりますと
源頼家は大江広元の屋敷に滞在中に
病が重くなったので自分から出家し、
あとは全て子の一幡に譲ろうとしました。
けれどもこれでは比企能員の
全盛時代になると勝手に恐れた
北条時政が比企能員を呼び出して謀殺し、
同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けたとのことです。
一幡はようやく母が抱いて逃げ延びましたが、
残る一族は皆討たれました。
やがて回復した源頼家はこれを聞いて激怒、
太刀を手に立ち上がったが、
北条政子がこれを押さえ付け、
修禅寺に押し込めてしまいました。
やがて逃げ延びた一幡も捕らえられ、
北条義時の手勢に殺されたとのことです。
また同じく「愚管抄」によりますと、
源頼家は北条義時の送った手勢により
入浴中を襲撃され、
激しく抵抗した所を
首に紐を巻き付け
陰嚢をとって刺し殺されたということです。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

一幡~一幡之君袖塚~源頼家の長男として誕生するもわずか6歳で人生の幕を閉じる。

指月殿~伊豆で最古の木造建築~北条政子が我が子である源頼家の菩提所として建立。

十三士の墓~源頼家の家臣たちの眠る場所

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

【源実朝と牧氏事件】
源頼家に代って将軍宣下を受けたのは源実朝で、
北条政子の父の北条時政が初代執権に就任します。
しかし、北条時政とその妻の牧の方は
政権を独占しようと図り、
北条政子は北条時政の邸にいた
源実朝を急ぎ連れ戻しています。
元久2年(1205年)、
北条時政と牧の方は源実朝を廃して
女婿である平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。
北条政子と北条義時はこの陰謀を阻止して、
北条時政を出家させて
伊豆へ追放しました。
代って北条義時が執権となりました。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人

【両立しない公家政権と御家人たちの利益】
源実朝は専横が目立った兄の源頼家と違って
教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじ、
公家政権との融和を図りました。
後鳥羽上皇もこれに期待して
源実朝を優遇して昇進を重ねさせました。
けれども、公家政権との過度の融和は
今度は御家人たちの利益と対立し、
不満が募っていったのでした。

北条政子は後難を断つために
源頼家の子たちを仏門に入れました。
その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁がいました。





【政子が会談、実朝の次の将軍候補】
建保6年(1218年)、
北条政子は病がちな
源実朝の平癒を願って熊野を参詣し、
京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で
権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねています。
この上洛で藤原兼子の斡旋によって
北条政子は従二位に叙されています。
「愚管抄」によりますと、
このとき北条政子は藤原兼子と
病弱で子がない源実朝の後の将軍として
後鳥羽上皇の皇子を
東下させることを相談しています。

【実朝と御家人たちとの遊離】
源実朝の官位の昇進は
更に進んで右大臣に昇進しました。
北条義時や大江広元は
源実朝が朝廷に取り込まれて
御家人たちから距離が離れてしまうことを恐れ
諫言しましたが、源実朝は従いませんでした。

【源実朝の暗殺】
建保7年(1219年)、
右大臣拝賀の式のために
鶴岡八幡宮に入った源実朝は
甥の公暁に暗殺されていまいました。
「承久記」によりますと、
北条政子はこの悲報に深く嘆き
「子供たちの中でただ一人残った
大臣殿(実朝)を失いこれで
もう終わりだと思いました。
尼一人が憂いの多いこの世に
生きねばならないのか。
淵瀬に身を投げようとさえ
思い立ちました」と述懐したとのことです。
源実朝の死はことさら、
北条政子にとって、
精神的な大ダメージとなり、
奈落の底に突き落とされた状態であったそうです。

鶴岡八幡宮 大銀杏

【源実朝暗殺の黒幕】
源実朝暗殺の実行犯は甥の公暁ですが、
その公暁をそそのかし、裏で操った人物、或いは
集団がいるのではないかと囁かれています。
<1>
北条義時
<2>
三浦義村
<3>
後鳥羽上皇
<4>
関東の御家人たち
<5>
公暁の単独説

<1><2><4>はある意味だと
同じカテゴリーに入るかもしれません。
<3>も十分にありえますが、
どのように公暁に接触し、実行に至るまで
どう唆していったのかが不明ですし、
そもそもそのような機会があまり
なかったのではないか?と思います。
<3>が黒幕なら、
むしろ毒殺でしょう。
でも、実朝を生かしておいても
損はないと考えます。
完全に取り込んでしまえばよいのだから。

となると<1><2><4>の複合では
ないかと考えます。
あと自分は<5>は無いと思います。
公暁の死があまりにも用意周到というか
手際が良すぎるからです。
また公暁が実朝を殺めても
公暁にはデメリットしかありません。
実朝の死で得をするのは・・・
<1><2><4>。
さて真相は如何に?
鎌倉時代初期の一大ミステリーですな。

【尼将軍として】
けれども北条政子には
悲しみに浸る時間はありませんでした。
源実朝の葬儀が終わると、
北条政子は鎌倉殿としての任務を
代行する形で使者を京へ送り、
後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願いました。
後鳥羽上皇は
「そのようなことをすれば
日本を二分することになる」とこれを拒否しました。
後鳥羽上皇は使者を鎌倉へ送り、
皇子東下の条件として
後鳥羽上皇の愛妾の荘園の
地頭の罷免を提示したのです。

北条義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。
弟の北条時房に兵を与えて上洛させ、
重ねて皇子の東下を交渉させました、
後鳥羽上皇はこれを拒否しました。
北条義時は皇族将軍を諦めて
摂関家から三寅(藤原頼経)
を迎えることにしました。
北条時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還します。
三寅はまだ2歳の幼児であり、
三寅を後見した北条政子が
将軍の代行をすることになり、
「尼将軍」と呼ばれるようになったのでした。

「吾妻鏡」では建保7年(1219年)の
源実朝死去から嘉禄元年(1225年)の
北条政子の死去まで、
北条政子を鎌倉殿と扱っています。

寿福寺 門の横

【承久の乱】
承久3年(1221年)、
皇権の回復を望む後鳥羽上皇と
幕府との対立は深まっていきます。
そして遂に後鳥羽上皇は兵を集めます。
承久3年(1221年)5月14日、
「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、
北面・西面武士や近国の武士、
大番役の在京の武士1700余騎が
集まったとされています。

その中には有力御家人の
尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、
検非違使判官三浦胤義も含まれていました。
幕府の出先機関である
京都守護の大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、
同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒みました。
同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉されました。
翌15日に京方の藤原秀康・
近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が
伊賀光季邸を襲撃します。
伊賀光季はわずかな兵で奮戦して討死しましたが、
下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせたのでした。

【動揺する鎌倉の御家人たち】
後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を
諸国の守護と地頭に下します。
武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、
後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて
鎌倉の御家人たちは動揺したとのことです。

【北条政子の最期の詞】
政子は御家人たちを前に
最期の詞(ことば)」として
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。
故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、
官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、
溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。
而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。
名を惜しむの族は、
早く秀康・胤義等を討取り
三代將軍の遺蹟を全うすべし。
但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし
。」
との声明を発表しました。

<意味>
皆さん、心を一つにして良くお聞きなさい。
私の最期の言葉です。
今は亡き頼朝公が朝敵を滅ぼし、
関東に幕府を築いてから
そなたたちの官位は上がり、
禄高も増えました。
すべてはこれらは亡き頼朝公の御恩です。
其の御恩はどんな山よりも高く、
海よりも深いものです。
今、逆臣の讒言によって
理に反した綸旨が下されました。
今こそ頼朝公への御恩を返す時です。
名を惜しむものは
藤原秀康や三浦胤義などの逆臣を討ち取り
三代将軍の遺業を継いでいくのです。
但し、朝廷側につこうとする者がいれば
それは構わない、早くお行きなさい。

この北条政子の詞に家人の動揺は収まったといいます。
なお、「承久記」では
北条政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、
「吾妻鏡」では安達景盛が演説文を
代読していると記されているそうです。

【打算的かつ現実的な鎌倉武士】
最も鎌倉の武士は打算的であり、
現実的な損得勘定が発達していたようです。
「承久記」慈光寺本には、
北条政子の演説に心動かされた
甲斐国の武田信光が
出陣後に隣国の小笠原長清に対して
「鎌倉が勝てば鎌倉につき、
京方が勝てば京方につく」
のが武士の習わしであると公言しているとのことです。
そして北条時房から恩賞の約束をする
書状が届けられると積極的に
進軍を始める姿が描かれています。
鎌倉の武士はどちらに味方をすれば
勝てるかという状況分析や、
一族内の利害関係
(勝利すれば、敵方についた一族の所領を奪うことが出来る)
なども検討した上で、
その多くが損得勘定に基づいて
鎌倉への支持を決めたのでした。

勿論、こうしたことも
想定内であったことでしょう。
戦はなにかとお金がかかりますし、
戦に向かう武士たちは家を空けて
命をかけるのですから
「精神論」だけでは動かないのです。
当たり前です。
昔の人々の方がはるかに理解していますね。
20世紀に入ってから何かおかしくなった?





【広元の提案、政子の指示で京への進軍策】
北条義時、北条泰時、北条時房、
大江広元、三浦義村、安達景盛
らによる軍議が開かれ、
箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、
大江広元は京への積極的な出撃を主張しました。
そして北条政子の裁決で出撃策が決定されたのです。
素早く兵を集め、5月22日には
軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から
京へ向けて派遣したのでした。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

【18騎から19万騎】
急な派兵であったため、
東海道軍は当初わずが18騎で鎌倉を発向したのでした。
北条泰時は途中で鎌倉へ引き返し、
天皇が自ら兵を率いた場合の対処を北条義時に尋ねます。
北条義時は「天皇には弓は引けぬ、
ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。
都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」
と命じたと「増鏡」にはあります。
そして幕府軍は道々で徐々に兵力を増していきます。
東海道軍<北条泰時・時房>:10万騎
東山道軍<武田信光>:5万騎
北陸道軍<北条朝時>:4万騎
「吾妻鏡」によりますと
最終的には19万騎に膨れ上がったということです。

【京方の誤算】
北条義時は捕らえていた
後鳥羽上皇の使者に
宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返しました。
後鳥羽上皇は鎌倉の武士たちが院宣に従い、
北条義時は討滅されるであろうと(なめ切っており)信じきり、
幕府軍の出撃を予測していませんでした。
ですからこの京への進軍は予想外だったのです。
大江広元流石です!
そしてそれを支持した北条政子、やはりわかっています。
夫の妾宅を壊していたくらいですから、
どうすれば相手側に最もダメージを与えられるか、
これまでの百戦錬磨(?)の成果ですね。
闘いの女神に見えてきます。

【とりあえず、の作戦は?】
後鳥羽上皇ら狼狽した京方首脳はとりあえず、
藤原秀康を総大将として、1万7500余騎を
美濃国へ差し向けます。
京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣。
これに対して甲斐源氏の
武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は
大井戸渡に布陣する
大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破。
藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、
宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決めます。
翌日に北条泰時と北条時房の率いる
主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、
墨俣の陣に攻めかかった時には
もぬけの殻となっていたそうです。
山田重忠のみが杭瀬川で奮戦しましたが、
京方は総崩れになり、大敗を喫したのでした。

【ひどい、あんまりだ】
後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、
このたびの乱は謀臣の企てであったとして
北条義時追討の院宣を取り消し、
藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる
院宣を下します。
上皇に見捨てられた
藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は
東寺に立て篭もって抵抗しますが。
三浦義村の軍勢がこれを攻め、
藤原秀康、山田重忠は敗走し、
三浦胤義は奮戦して自害。
その後、山田重忠も落ち延びた先の
嵯峨般若寺山で自害、
藤原秀康は河内国において
幕府軍の捕虜となったのでした。

【戦後処理】
北条政子は北条義時とともに
戦後処理にあたったのでした。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、
順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。
仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、
行助法親王の子が即位し、後堀河天皇となりました。
親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた
西園寺公経が内大臣に任じられ、
幕府の意向を受けて朝廷を主導することになりました。

後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収。
行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)
に与えられました。
ただし、その支配権は幕府が握っていました。

討幕計画に参加した上皇方の
「合戦張本公卿」と名指しされた
一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら
公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、
坊門忠信らその他の院近臣も各地に
流罪や謹慎処分されました。
また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、
佐々木経高、河野通信ら御家人を含む
京方の武士が多数粛清、追放されました。
けれども大江親広は
父親の大江広元の嘆願もあり
赦免されています。

藤原範茂卿~墓所は範茂史跡公園~承久の乱の勝利で鎌倉武家政権は盤石となる。

【北条義時の急死と伊賀氏の変】
貞応3年(1224年)、
北条義時が急死します。
長男である北条泰時は
見識も実績もあり期待されていましたが、
北条義時の後室の伊賀の方は
実子の北条政村の執権擁立を画策して、
有力御家人の三浦義村と結ぼうとしました。
三浦義村謀叛の噂が広まり鎌倉は騒然となります。

【政子、三浦義村を説得する】
けれども北条政子はそうした中、
三浦義村の邸を訪ねて
北条泰時が後継者となるべき理を説き、
三浦義村が政村擁立の陰謀に
加わっているか詰問したとのことです。

三浦義村は平伏して北条泰時への
忠誠を誓ったとのことです。
鎌倉は依然として騒然としていましたが、
北条政子がこれを鎮めさせたのでした。
伊賀の方は伊豆へ追放されました。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

【伊賀氏の変の真相は如何に?】
けれども伊賀氏謀反の
うわさについては北条泰時が否定しています。
「吾妻鏡」でも伊賀氏が謀反を企てたとは
一度も明言していないとのことです。
北条政子に伊賀氏が処分された事だけが
記されているとのことです。
そのため伊賀氏の変は、
鎌倉殿や北条氏の代替わりによる
自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、
北条義時の後室であった
伊賀の方の実家である
伊賀氏を強引に潰すために
北条氏お得意の)でっち上げた事件とする説があります。

北条泰時は北条義時の遺領配分を
北条政子と相談し、
弟たちのために
自らの配分が格段に少ない案を提示し、
北条政子を感心させたということです。

【政子の死去と墓所】
嘉禄元年(1225年)、
北条政子は病の床に付き、死去しました。
享年は69歳でした。
戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に
源実朝の胴墓の隣にあります。

<寿福寺>
寿福寺 門

<墓所への入り口>
寿福寺 北条政子墓への道

<北条政子の墓>
寿福寺 北条政子の墓

【後世の評価】
【鎌倉時代から室町時代】
「吾妻鏡」は
「前漢の呂后と同じように天下を治めた。
または神功皇后が再生して
我が国の皇基を擁護させ給わった」
と北条政子を称賛しているとのことです。
慈円は「愚管抄」で北条政子の権勢をして
「女人入眼の日本国」と評したとか。
「承久記」では「女房(女性)の目出度い例である」
と評していますが、
この評に対して北条政子に
「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」
と述懐させています。

室町時代の一条兼良は
「この日本国は姫氏国という。
女が治めるべき国と言えよう」
と北条政子をはじめ奈良時代の女帝
(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいています。
北畠親房の「神皇正統記」や
今川了俊の「難太平記」でも
鎌倉幕府を主導した北条政子の評価は高いとのことです。





【江戸時代、評価が下げられた政子】
江戸時代になると儒学の影響で
人倫道徳観に重きを置かれるようになります。、
「大日本史」や新井白石、頼山陽などが
北条政子を評していますが、
源頼朝亡き後に
鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、
源頼家や源実朝が変死して
婚家(源氏)が滅びて、
実家(北条氏)がこれにとって代ったことが
婦人としての人倫に欠くと批判を加えています。
またこの頃から北条政子の嫉妬深さも
批判の対象となったのでした。
北条政子を日野富子淀殿と並ぶ
悪女とする評価も出るようになったのです。

【大きなお世話】
江戸時代は女性が家督相続できなくなるなど、
女性が冷遇された時代でもありましたね。
また主に武家の女性に
「女らしく」みたいな価値観が
押し付けられた時代だと考えます。
大体、北条政子本人に会ったのでしょうか?
女性が一定の権力を持つと
「悪女」のレッテルを貼っていったのも
この時代ですよね・・。
北条政子、日野富子、茶々・・・
皆、その時代を精一杯生きて、
その時代には女性も持つことが出来た「権力」を
持って采配していったのです。
「丹後局(高階栄子)」も凄い女性です。
北条政子以上の手強さも持っていると思います。

でも、この方は「悪女」なんて
レッテル貼られていませんよね。

【いちずに想い続けた結果】
「嫉妬深い」とされた北条政子は
いちずに愛して、また自分もいちずに
愛されたかっただけかもしれません。

北条政子の娘の大姫も源義高をずっと思い続け、
静御前のエピソードもまた
いちずな想いでしたよね。

源頼朝亡き後、「尼将軍」として
必死に鎌倉幕府を護ってきたのも
また「いちずな想い」であると考えます。
自分の愛した人が築いた幕府ですからね。
「嫉妬深い」のではなく
北条政子は「愛情深い」のですよ。
生きる力も強く愛情も深い北条政子。
その愛情が方向転換して変わってしまうと・・・。

おんなの中のおんな・・。
それが北条政子だと思います。

【女性が意思を持って生きた時代】
後妻打ち(うわなりうち)という風習も
今回初めて知りました。
北条政子の生きた時代は、
其の後の室町時代~江戸時代よりは
はるかにずっと
女性が意思を持って生きることが出来た時代という
印象を持ちました。

【北条政子産湯の井戸】
守山東駐車場から歩いて間もなく、
左に「北条政子産湯の井戸」の案内が見えます。
井戸跡はこの石柱の場所にあるのではなく、
横の道を行った先にあります。
北条政子 産湯の井戸 碑

<所在地>
〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家23−1
※専用の駐車場はありません。

【寿福寺】
寿福寺(じゅふくじ)は、
神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある
臨済宗建長寺派の寺院で、
正式には亀谷山寿福金剛禅寺
(きこくさん じゅふくきんごうぜんじ)と号し、
鎌倉五山第三位の寺院です。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、
開山(初代住職)は栄西です。
境内は「寿福寺境内」として
昭和41年(1966年)3月22日、
国の史跡に指定されました。
もともと現在の寿福寺のある付近は、
奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる
源氏山を背にした、
亀ヶ谷と呼ばれる
源氏家父祖伝来の地です。
源頼朝の父である源義朝の旧邸もこの地にありました。

寿福寺 説明

寿福寺 案内板

<所在地>
〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7
<交通アクセス>
横須賀線(JR東日本)・江ノ島電鉄「鎌倉駅」下車15分

【安養院】
安養院(あんよういん)は、
神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。
山号は祇園山。寺号は長楽寺。
本尊は阿弥陀如来。
千手観音(田代観音)を安置しています。

安養院 門

この寺の歴史には、
長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係してます。

安養院 案内板

長楽寺
嘉禄元年(1225年)に北条政子が
夫である源頼朝の菩提を弔うため
長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に
願行を開山として創建した寺と伝えられています。

善導寺
長楽寺は元弘元年(1333年)、兵火により焼失し、
大町にあった善導寺に統合され
安養院長楽寺と号しました。
なお、安養院は政子の法号から取られたものです。

田代寺
建久3年(1192年)、
田代信綱が尊乗を開山として
比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したと伝えられ
江戸時代になって安養院に統合されました。
千手観音は田代寺にあったもので、
田代観音とも称されています。

田代信綱 碑

田代砦と田代信綱~「田代」様発祥の地のひとつとも。

<所在地>
〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町3丁目1−22

<交通アクセス>
横須賀線(JR東日本)・
江ノ島電鉄「鎌倉駅」から徒歩20分

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
小池栄子(こいけえいこ)さんが演じられます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

竹御所・源媄子(源鞠子)~源頼朝の孫で幕府の権威の象徴だったが赤子と共に散る

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

岩殿観音正法寺 ・開基1300年の古刹、源頼朝の庇護の下比企能員が再興し北条政子の守り本尊となる。

修善寺温泉~伊豆最古の湯治湯で歴史・文学・豊かな自然が調和よくブレンドされた処です。

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