鎌倉殿の13人

安達盛長~源頼朝を流人時代からの側近で生涯に渡って支え続け厚い信頼を得た人物。

安達盛長の墓所(修善寺)




安達盛長

安達 盛長(あだち もりなが)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将でした。
鎌倉幕府の御家人。
鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖であり、
源頼朝の流人時代からの側近でした。

「尊卑分脈」では
小野田三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としていますが、
安達盛長以前の家系は系図によって異なっており、
その出自ははっきりとはしていません。
兄は藤原遠兼でその子が足立遠元とされています。
足立遠元は年上の甥にあたるとのことです。

なお、「尊卑分脈」では
安達盛長が「安達六郎」、
足立遠元の父である藤原遠兼が
「安達藤九郎」と記されており、
安達盛長は藤原遠兼の兄となっています。
安達盛長は正治2年(1200年)に
66歳で没しているので、
保延元年(1135年)生まれとなります。
一方の足立遠元ですが、
生没年不詳とのことですが、
孫の藤原知光が仁安3年(1168年)生まれであり、
このことから若く見積もっても30代後半と計算し、
1130年代前半の生まれと推測されます。
そこから導かれた答えは足立遠元は
安達盛長よりも年長である、というものです。
となると、「尊卑分脈」の兄弟順は逆で、
実際の名乗りは藤原遠兼が「六郎」、
安達盛長が「藤九郎」であったと
考えられるというものです。

【「安達」の由来】
安達盛長は晩年の頃から本貫地である
陸奥国安達郡(現在の福島県安達郡)
にちなみ安達の名字を称しました。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
保延元年(1135年)

【死没】
正治2年4月26日(1200年6月9日)

【改名】
盛長、蓮西

【墓所】
愛知県蒲郡市五井町岡海道 長泉寺
伊豆市修禅寺温泉場 梅林登り口
伊豆・修善寺の梅林入り口にある安達盛長の墓

【父】
小野田兼広、または小野田兼盛

【母】

【兄弟】
藤原遠兼

【妻】
丹後内侍

【子】
景盛、時長、
源範頼室(⇒範頼死去後自害と伝わる)

【安達盛長について】
妻は源頼朝の乳母である
比企尼の長女である丹後内侍です。
源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕えています。
苗字は兄である藤原遠兼の所領である
武蔵国足立郡に因んで足立氏としていたそうです。
また妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、
藤原邦通を源頼朝に推挙するなど京に知人が多く、
京都の情勢を源頼朝に伝えていたと言われています。
ちなみに「曽我物語」によりますと、
源頼朝と北条政子の間を取り持ったのは安達盛長とされています。
八重姫の事を思うと よ、余計な事を・・・)





【安達盛長のキューピット大作戦】
源頼朝は北条時政に3人の娘がいることを知ります。
長女は先妻の子で二女と三女は今の妻の子でした。
源頼朝は二女あてに文をしたためて安達盛長に預けます。

ここで安達盛長はある噂を耳にします。
二女と三女は悪女という噂です。
まだこの時、二女と三女は10代だったとか。
いまでいうならば大学生と高校生位とか。
そのような年齢で悪女だなんて・・と思いますが、
きっとそれ以外の事情もあったのでしょう。
ちなみに長女は20代。

安達盛長は宛名を長女に変えて届けさせます。
長女の名は政子。
2人は手紙を何度かやりとりし、
次第に密かに逢瀬を重ねるようになっていったとか。

【独り言】
八重姫の立場を思うと、この!頼朝め!となります。
で、二女はきっと阿波局のことかしら??
彼女も鎌倉幕府の政治に関わっていきますからね・・。
阿波局と政子は同じく
「曽我物語」の中で「夢買い」のエピソードも
あります。

・・・で、後世の戦国時代では10代初めの
婚礼も少なくなく、10代後半では「遅い」とも・・。
この頃の時代は戦国時代よりは早くなく、
嫁ぐ年齢が若干現代よりだったのでしょうか?

【頼朝と共に】
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に従い、
使者として各地の関東武士の糾合に活躍しました。
石橋山の戦いの後、源頼朝とともに安房国に逃れます。
その際、下総国の大豪族である
千葉常胤を説得して味方につけたとあります。
源頼朝が再挙して、
鎌倉に本拠を置き関東を治めると、
元暦元年(1184年)の頃から
上野国の奉行人となりました。
文治5年(1189年)、
奥州合戦に従軍します。
其の頃に陸奥国安達郡を領して本貫とし、
安達氏を名乗り始めたと言いますが
安達氏を名のるようになったのは
源頼朝の死後との説もあります。

【頼朝からの厚い信頼】
伊豆に流された源頼朝は
公式に家来を持つことを禁止されていました。
そんな制約があった時代からの
数少ない実質的な従者として
身辺に侍っていた安達盛長は
源頼朝の信頼が厚かったと言われています。
源頼朝が私用で安達盛長の屋敷を
しばしば訪れている事が記録されています。

【13人の合議制のメンバー】
正治元年(1199年)1月の源頼朝の死後、
出家して蓮西と名乗ります。
同年4月、二代将軍となった源頼家の宿老として
十三人の合議制の一人になり、幕政に参画します。
その年に三河国の守護となっています。
同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では
強硬派の一人となり、
翌年の正治2年4月26日
(1200年6月9日)に死去しました。
享年は66歳でした。
生涯官職に就く事はありませんでした。

【屋敷跡は2ヶ所】
安達盛長の屋敷は現在の甘縄神明神社にあり、
神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っています。

安達盛長屋敷跡

ここは、鎌倉幕府第5代執権である
北条時頼の母、松下禅尼の実家でもありました。
そして第8代執権となる北条時宗の誕生の地でもあります。

<北条時宗産湯の井戸>
北条時宗産湯の井戸

また、後年に勃発した霜月騒動の際にひ孫となる
安達泰盛が攻められ、
滅亡したところでもあるのでした。

甘縄神明神社

また埼玉県鴻巣市糠田1439所在の放光寺も
安達盛長館と伝えられています。
本寺には南北朝時代制作と推定される
伝安達盛長座像が所有されています。

<放光寺>
放光寺

<伝安達盛長座像>
伝安達盛長座像

<安達盛長の墓所(放光寺)>
安達盛長の墓所(放光寺)

【霜月騒動】
霜月騒動(しもつきそうどう)とは、
鎌倉時代後期の弘安8年11月17日
(1285年12月14日)に
鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変です。
8代執権北条時宗の死後、
9代執権北条貞時の時代に、
有力御家人である安達泰盛と、
内管領である平頼綱の対立が激化。
平頼綱方の先制攻撃を受けた
安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件です。
弘安合戦、安達泰盛の乱、
秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいうそうです。





【北条氏VS有力御家人の最後の抗争】
源頼朝没後に繰り返された
北条氏と有力御家人との間の最後の抗争でした。
この騒動の結果、
幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、
平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立したのでした。

安達一族500名余りが自害し、
騒動は全国に波及して各地で安達泰盛派が追撃を受け、
自害に追い込まれていったとの事です。
中でも安達氏の基盤である
上野国・武蔵国の御家人の被害は多かったそうです。

【安達泰盛方】
泰盛与党として罹災したのは
泰盛一族の他、足利氏、小笠原氏(伴野氏)、
伊東氏、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られました。

【平頼綱方】
一方、平頼綱方の討手として
得宗被官化した御家人の佐々木氏(やっぱり)、今川氏、
千葉氏なども加わっており、

更に同族内でも平頼綱方と安達泰盛方に分かれるなど、
幕府を大きく二分した争乱であったといいます。

【平頼綱の勝利】
実権を握った平頼綱は安達泰盛の弘安改革を否定。
幕府の人事は得宗を頂点に大仏流、
名越流を中心に北条一族の支配となりました、
足利氏ら旧来の御家人の姿はありませんでした。
京都では安達泰盛と協調して
弘安徳政を行っていたと見られる
亀山上皇の院政停止
(持明院統伏見天皇即位)が行われました。

【やりかえされました】
このように権勢を誇った平頼綱も
8年後の平禅門の乱で9代執権北条貞時によって
わりとあっさりと滅ぼされたとのことです。
其の後、
安達泰盛の弟の子孫(安達氏)及び
平頼綱の弟の子孫(長崎氏)は、
再び取り立てられて両家間で
婚姻関係を結ぶまでになり、
北条得宗家が滅亡した東勝寺合戦において
両家とも得宗家と運命をともにすることになったのでした。
(鎌倉幕府の滅亡)

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では
野添 義弘(のぞえ よしひろ)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

城願寺~神奈川県指定文化財となっている土肥一族のお墓と国指定天然記念物・ビャクシンがあります。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

丹後局(丹後内侍)~源頼朝の妻妾で比企一族~供養塔が横浜にあります。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

華厳山 金剛寺(厚木市飯山)、創建は空海で平安時代前期です。伝安達盛長の五輪塔があります。

修善寺温泉~伊豆最古の湯治湯で歴史・文学・豊かな自然が調和よくブレンドされた処です。

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