鎌倉殿の13人

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

石橋山合戦 古戦場




石橋山の戦い

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、
平安時代末期の治承4年(1180年)に
源頼朝大庭景親ら平家方との間で
行われた戦いです。
源頼朝率いる軍は300騎に対して、
平家軍は3000騎で石橋山と、
谷を一つ隔てて布陣しました。
治承・寿永の乱と呼ばれる
諸戦役のひとつです。
「義経記」では小早川の合戦と
表記されています。

石橋山周辺

【平治の乱での父親の源義朝】
源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵します。
伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害しましたが、
続く石橋山の戦いで大敗となりました。
敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、
船で安房国へ落ち延びて
この地で再挙することになるのでした。

源頼朝の父親である源義朝は若年期に
坂東に下向し南坂東の豪族達に
強い影響力を持っていました。
源義朝は保元の乱、平治の乱で
自らの勢威の及んでいた豪族と共に戦いましたが、
平治の乱で源義朝は謀反人とされてしまい、
敗れて殺され、その三男で嫡子の
源頼朝は伊豆国(静岡県)に流罪となったのでした。

【配流から20年以上経過】
源頼朝は伊豆に配流となってから
20年以上が過ぎました。
その間に源頼朝は北条時政の娘である
政子を妻とし大姫をもうけ、
伊豆国の豪族北条氏が
流人の源頼朝の庇護者となります。

【以仁王の挙兵】
治承4年(1180年)、
後白河法皇の子の以仁王は
摂津源氏の源頼政とともに
平家打倒の挙兵を決意します。
諸国の源氏、藤原氏に令旨を送り蜂起を促しました。
その使者となったのが頼朝の叔父である源行家です。
4月27日に源行家は
蛭ヶ小島(または北条館)を訪れたとのことです。
そして源行家はほかへも令旨を届けるために
すぐに立ち去ったとのことです。

5月、挙兵計画が発覚し、
以仁王と源頼政は準備不充分のまま
挙兵を余儀なくされ、
平家の追討を受けて戦死しました。

【源頼朝の動き】
6月24日、京にいる三善康信が
(源頼朝の乳母の妹の子とされています)
平家が諸国の源氏を追討しようとしているので
直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと
急報を送ってきました。
また、源頼政の孫の源有綱が伊豆国にいましたが、
この追捕の為、平清盛の命を受けた大庭景親
8月2日に本領に下向して源頼朝らの緊張が
高まったとのことです。
なお、実は命を狙われていたのは
源頼政の孫である源有綱であって
源頼朝が狙われていたのは
誤報だったという説があります[4]。
27日に京より下った三浦義澄
千葉胤頼らが北条館を訪れて
京の情勢を報告します。





【旧知行国主系豪族の協力の見込み】
一方この頃伊豆国の元の知行国主であった
源頼政の敗死に伴い、
伊豆国の知行国主は平清盛の義弟である
平時忠となり、それによって
伊豆国衙の実権は伊東氏が握ることになりました。
源頼政に近かった工藤氏、北条氏は
落ちぶれていくことになります。
またその頃、治承3年の政変に伴う
知行国主の変更により、
坂東各地では新知行国主に近い存在となった
平氏家人や平氏方目代により
旧知行国主系の豪族達が圧迫されており、
源頼朝が挙兵した場合、
旧知行国主系豪族の協力が
見込まれることが予想できたと見られています。

【源家累代の家人の動向】
頼朝は安達盛長
源家累代の家人の動向を探らせたのことです。
「源平盛衰記」では波多野義常は返答を渋ったとあります。
山内首藤経俊に至っては
「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、
富士山と丈比べをし、
鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑したとか。
けれども、大庭景義(大庭景親の兄)は快諾。
老齢の三浦義明は涙を流して喜び、
一族を集めて御教書を披露して同心を確約しました。
千葉常胤、上総広常もみな承諾。
三浦氏、千葉氏、上総氏は
すべて平氏系目代から
圧迫されていた存在だったのでした。

【山木館襲撃】
頼朝は8月17日をもって
挙兵することを決め、
まず手始めに伊豆目代の
山木兼隆を討つことにしました。
山木兼隆は元々は流人でしたが
平時忠と懇意であったために
目代となり急速に伊豆で
勢力を振るうようになっていたのでした。
また目代であるがゆえに
旧知行国主系の工藤氏、
北条氏の攻撃の標的と
されることとなったとも見られています。
そして山木兼隆を討ち取りました。
19日、源頼朝は山木兼隆の親戚である
史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法を
停止させる命令を発給しました。
「吾妻鏡」はこれを
「関東御施政の始まりである」と特記しています。

【石橋山の戦い】
目代である山木兼隆を倒しても
源頼朝の兵力のみで
伊豆1国を掌握するにはほど遠く、
平家方の攻撃は時間の問題でした。
源頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き
大きな勢力を有する
三浦一族を頼みとしていましたが、
遠路のためになかなか参着してきませんでした。
8月20日、源頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、
土肥実平の所領である
相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出します。
これに対して、平家方の大庭景親が
俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、
熊谷直実ら3000余騎を率いて
迎撃に向かったのでした。

石橋山からの相模湾

23日、源頼朝は300騎をもって
石橋山に陣を構え、
以仁王の令旨を御旗に
高く掲げさせたとのことです。
谷ひとつ隔てた処に
大庭景親の軍も布陣します。
さらに伊東祐親も300騎を率いて
石橋山の後山まで進出して
源頼朝の背後を塞いだのでした。

石橋山 合戦の場

【合流できなかった三浦勢】
この日はあいにくの大雨でした。
そのため、増援の三浦軍は
酒匂川の増水によって足止めされ、
源頼朝軍への合流ができなかったのことです。
前日に三浦一族は源頼朝と合流すべく進発しており、
途中の大庭景親の党類の館に火を放ったとのことです。
これを遠望した大庭景親は三浦勢が到着する前に
雌雄を決すべしとし、
夜戦を仕掛けることにしたとのことです。
闇夜の暴風雨の中を大庭軍は
源頼朝の陣に襲いかかったのでした。





【合戦前の言葉戦い】
「平家物語」では合戦に先立って、
北条時政と大庭景親が名乗りあい
「言葉戦い」をしたとのことです。
大庭景親は自らが後三年の役で
奮戦した鎌倉景正の子孫であると名乗り、
これに北条時政がかつて源義家に従った
鎌倉景正の子孫ならば、
なぜ源頼朝公に弓を引くと言い返し、
これに対して大庭景親は
「昔の主でも今は敵である。
平家の御恩は山よりも高く、
海よりも深い」と応じたとのことです。

源頼朝軍は力戦しましたが、
多勢に無勢で敵わず、
岡崎義実の子の真田(佐奈田)與一義忠らが
討ち死にして大敗となりました。

佐奈田(真田)與一義忠討死の地

「平家物語」、「源平盛衰記」などには
真田(佐奈田)與一義忠の奮戦が伝えられ、
この地には真田与一を祀る佐奈田霊社が創建されています。
またほど近い場所には
真田(佐奈田)與一義忠の家臣であり爺やであった
陶山文三家安を祀った文三堂があります。
陶山文三家安は真田(佐奈田)與一義忠の
討死後に8人を討ち取り散ったのでした。

<佐奈田霊社>
佐奈田霊社

<与一塚>
与一塚

<文三堂>
文三堂

大庭軍は勢いに乗って追撃し、
源頼朝に心を寄せる大庭軍の
飯田家義の手引きによって
源頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込みました。

土肥の椙山

【大庭軍の追撃と頼朝軍の抵抗】
翌24日、大庭軍は追撃の手を緩めず、
逃げ回る頼朝軍の残党は
山中で激しく抵抗したとのことです。
源頼朝も弓矢をもって
自ら戦い百発百中の武芸を見せたとのことです。
ちりぢりになった源頼朝軍の武士たちは
おいおい源頼朝の元に集まり、
源頼朝は臥木の上に立って
これを悦んだとのことです。

【雪辱の機会を期すための一時の別れ】
土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、
ここは自分の領地であり、
源頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、
皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言し、
皆これに従って涙を流して別れたとのことです。
北条時政と二男の北条義時は甲斐国へ向かい、
嫡男の北条宗時は別路を向かいましたが、
北条宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて
討ち死にしています。

北条宗時 狩野茂光 石碑

【しとどの窟】
大庭軍は山中をくまなく捜索しました。
大庭軍であった梶原景時は、
源頼朝の居場所を知りましたが、
情をもってこれを隠し、
この山に人跡なく、
向こうの山が怪しいと不審がる
大庭景親らを導き、
源頼朝の命を救ったのことです。
このことが縁で後に梶原景時
源頼朝から重用されることになるのでした。
土肥(現在の湯河原町)の
椙山のしとどの窟が
このエピソードにまつわる
伝説の地として伝えられています。

しとどの窟 説明板

【房総半島に渡るルート】
また、隣町である神奈川県の真鶴町真鶴漁港にも
しとどの窟が存在しています。
こちらの場所は源頼朝が船で房総半島へ向かった
出発地の岩海岸により近いところにあります。
このように2か所あることから、
源頼朝は房総半島へ渡るまでに、
いくつかの場所に
身を隠したのではないかと
考えられています。

しとどの窟(真鶴)説明板

【由比ヶ浜の戦い】
源頼朝と合流すべく、
所領の三浦半島を出た
三浦義澄、和田義盛ら三浦一族500騎は
丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていましたが、
豪雨の増水のために
渡河できずにいたところ、
源頼朝軍の敗北を知り、引き返したのでした。

小浜海岸

【小壺坂合戦、小坪合戦】
三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で
平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇します。
和田義盛が名乗りをあげて、
双方対峙となりました。
同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、
和平と成りかかりましたが、
遅れて来て事情を知らない
和田義盛の弟の和田義茂が
畠山勢に討ちかかってしまい、
これに怒った畠山勢が応戦。
和田義茂を死なすなと
三浦勢も攻めかかって合戦
となってしまいました。
双方に少なからぬ
討ち死にしたものが
出てしまいました。
そして停戦となり、
双方が兵を退いたのでした。





【衣笠城の戦い】
26日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら
平家方の大軍が三浦半島に押し寄せました。
三浦一族は本拠の衣笠城で防戦しましたが、
先の合戦で疲労していたこともあり、
支えきることができず、
城を捨てて船で海上へ逃れることに決めたのでした。

このときに齢89歳の三浦義明は
「源氏累代の家人として、
その再興に立ち会うことができた。
これ程の喜びはない。
武衛(頼朝)のために
我が老命を奉げて子孫の勲功を募らん。
皆は彼の生死を確かめよ」
と言って、ひとり城に残り、
討ち死にしたとのことです。

なお、源頼朝の兄である
源義平(鎌倉悪源太)の
生母は三浦義明の娘とも
京都郊外の橋本の遊女とも云われています。

【合戦後】
源頼朝、土肥実平一行は
箱根権現社別当行実に
匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、
船を仕立てて
現在の岩海水浴場(神奈川県真鶴町)から出航しました。

岩海岸 岩大橋

加藤景員らは甲斐国に落ち延びました。
また北条時政も落ち延びたとのことです。
源頼朝らは海上で三浦一族と合流し、
安房国を目指して落ち延びていきました。
なお、源頼朝が真鶴町に逃げ込んだ際、
食事の世話などを親切にしてくれた
3人の村人に
「御守」「五味」「青木」
の姓を与えたと伝えられています。
真鶴町で青木姓は3521世帯中
299世帯となっています。
(平成15年6月時点)

【源頼朝の再挙】
9月、安房において
源頼朝は再挙します。
安西氏、千葉氏、上総氏などに
迎えられて房総半島を進軍して
武蔵国へ入っていきます。

【数万騎の大軍】
平氏方目代に圧迫されていた、
千葉氏、上総氏などの東国武士が
平氏方目代や平氏方豪族を
打ち破りながら続々と参集して、
1か月かけて数万騎の大軍に
膨れ上がったのでした。
その後、武蔵豪族を味方につけ
10月6日に源頼朝は鎌倉に入ります。

鶴岡八幡宮(遠景)

【坂東での覇権を確立】
10月20日に富士川の戦いにて、
武田信義らの甲斐源氏らとの同盟により
京から派遣された
平維盛の軍勢を撃破しました。
この後、佐竹氏、新田氏など、
源頼朝に従わぬ豪族達との対立を制し
源頼朝は坂東での覇権を
徐々に確立していくことになるのです。

【大庭景親と伊東祐親】
石橋山の戦いで源頼朝を破った
大庭景親と伊東祐親は
平家方に合流しようとしましたが失敗。
大庭景親は降参しましたが
許されずに斬られ、
伊東祐親は捕えられ自害したのでした。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

佐奈田霊社~石橋山の戦いで壮絶な死を遂げた真田(佐奈田)与一を祀っています。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

城願寺~神奈川県指定文化財となっている土肥一族のお墓と国指定天然記念物・ビャクシンがあります。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

田代砦と田代信綱~「田代」様発祥の地のひとつとも。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

北条宗時~北条時政の嫡男で北条政子、北条義時の兄であったが石橋山の戦いで散る、異説有り。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

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