城跡

峰上城~真里谷氏が築いた歴戦の城で登城するには高難度、七つ堀切が有名です。

峰上城 千葉県富津市



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【峰上城】

みねがみじょう。
湊川中流域の富津市上後にある
標高130mの丘陵上に位置しています。
湊川流域の谷を押さえる要の城でした。
南北600m、東西500mの規模をもち、
主郭部から枝状にのびる尾根を
25ヵ所もの堀切で切断していました。
南面は「七つ堀切」とよばれる空掘で
尾根を断ち切り、
山裾まで段状の腰曲輪が続く
入念な作事がなされているほか、
石垣石段などの
石積み遺構もみられるとのことです。
中城とよばれる郭の西側には
尾崎曲輪がありました。

峰上城 周辺

この曲輪は天文22年に金谷城を焼き、
2年後には久留里城包囲にまで拡大した
房州逆乱といわれる事態を引き起こした
首謀者である吉原玄蕃助と
二十二人衆が拠っていた曲輪で、
小屋を建てて在番したと考えられています。
彼らは小田原北条氏から虎印判状を受け、
里見氏に従属することを拒否していたということです。

峰上城は築城年代は定かではありませんが、
真里谷武田信興によって築かれたと云われています。
真里谷武田信興が峰上城を築き、
弟である真里谷武田信武を城主としたということです。

峰上城(南側)

天文3年(1534年)、
真里谷武田氏は家督をめぐる内訌が起こり、
真里谷武田信隆とその弟である
真里谷武田信応を推す一派で争われました。
小弓公方足利義明の支持を得て、
更には里見義堯とも同盟を結んだ
真里谷武田信応が
家督を継いで真里谷城主となりますと、
真里谷武田信隆は峰上城などに籠もって
小田原北条氏に支援を頼みましたが、
天文6年(1537年)、
足利義明及び真里谷武田信応らの
軍勢に峰上城を攻められ降伏開城しました。




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その後、武田信応の後見人とされる
真里谷全芳に峰上城が渡されました。
周辺の神社には真里谷全芳の
奉納した鰐口が残されています。

その後里見氏が当初は
優位に勢力を拡大していきますが、
小田原北条氏は真里谷武田氏を
追い出された真里谷信隆を支援しつつ、
さらに里見家領内にも工作活動を仕掛けます。
その一環として、前述したとおり、
峰上城には
吉原玄蕃助を中心とする二十二人衆という
土豪集団が拠り、
ここを里見家に対する所謂ゲリラ活動の拠点として
使用していたようです。

【形態】
山城

【標高(比高)】
130m(100m)

【遺構】
土塁、郭、堀、井戸

【城主】
真里谷武田氏

【所在地】
〒299-1753 千葉県富津市上後715

【登城の際の注意事項】
実際に登城された方々の体験談を
拝見しますと、
峰上城が岩壁の大地の上に築城されており、
更に深い堀切がいくつもあるので、
こうした幾つもの崖にはご注意ください、とのことです。
元々お城自体が荒々しい造りで
年月も相当経ており、
更には近年の台風や大雨強風などで
結構荒れており、立ち入り禁止の区域も
あるとのことです。
登山の格好でまた複数の人数で登城される事を
おススメする、とのことです。
それは万が一、崖からの転落や
道に迷った際に備えて、であるそうです。
そして登城の際の季節は断然に
冬の晴れた日が良いそうです。
富士山が見えるほどの眺めの良さで、
登城中は迷いやすいこともあり、
視界は良い方が身の危険が減る、とのことです。
また冬以外ですとスズメバチなどが
ぶんぶんと飛び交っているとのことなので
危険度は更に、かなり上昇します。

挑戦する際には万全の対策を整えてください。
登城するには高難度の山城ですが、
その分感動も大きいそうです。

【峰上子どもの遊び場】
<所在地>
〒299-1752 千葉県富津市関尻379

この公園の一角に峰上城の案内板があり、
この公園の路肩に車を停めて
登城される方も多いようです。

【上総の武田氏】

上総武田氏
室町時代前期の守護大名
甲斐国・安芸国守護及び
甲斐武田氏の
第13代当主である
武田信満の次男である
武田信長に始まる家系です。
武田信長は
明徳元年(1390年)頃の出生と
考えられています。

【本家の庁南氏
古河公方足利成氏によって
上総国の支配を認められて同国を支配しました。
武田信長の息子である武田信高の死後、
本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えました。
嫡流は地名を取って
庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもありました。
上総武田家最後の当主であった武田豊信は
地元の伝承では甲斐武田氏の
武田信玄の三男である武田信之と同一人物とされており、
織田氏による甲斐武田氏滅亡後に
弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説があります。
以後、武田豊信は小田原北条氏傘下の将として
反織田氏・反豊臣氏路線を貫いたのでした。、
1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって
居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡しました。

【分家の真里谷氏
一方、真里谷城の分家は
真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗りました。
戦国時代前半には上総国西部から
中部一帯を領有する大勢力となりました。
真里谷信清は古河公方足利政氏の子である
足利義明が家督争いの末に出奔すると
これを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、
自らは「房総管領」を名乗ったと言われています。
けれども、庶出ながら
一人息子であった真里谷武田信隆に
家の実権を譲った後に
正室から次男である真里谷武田信応が生まれると、
「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と
「一度信隆を後継者と決めた以上は
変えるべきではない」とする一派に
家臣団は分裂したのでした。




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【第一次国府台合戦】
真里谷信清の死後、
真里谷信隆が当主になりましたが、
程なく真里谷信応派が
足利義明や里見義堯と同盟を結んで
真里谷信隆を真里谷城から追放しました。
このため真里谷信隆は
北条氏綱の元へと亡命しました。
これが第一次国府台合戦の
一因とも言われています。

【第二次国府台合戦後】
同合戦後、小田原北条軍に攻められた
真里谷信応とその支持者は降伏し、
真里谷信隆が当主に復帰しましたが、
真里谷信隆の死後に里見義堯が、
真里谷信隆の跡を継いだ
真里谷信政を攻め滅ぼして
真里谷氏を支配下に収めました。
けれども、第二次国府台合戦後には
再び小田原北条氏に屈服したのでした。
その後は豊臣氏の小田原征伐によって
庁南の本家と共に所領を奪われました。
真里谷信高は那須氏のもとへ亡命したとのことです。

峰上城 端

【その後の庁南氏と真里谷氏】
本家庁南氏の庁南豊信の子の庁南氏信が生存し、
庁南城落城の後、家臣団に守られて近隣に移住し、
郷士として土着したともされています。
この子孫を名乗る家系は
現在も血筋が続いているとのことです。
分家真里谷氏のその後は不明となっています。

真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。

上総・笹子城~築城は室町時代に真里谷信興によって築かれ、真里谷武田氏の内紛に記されているとのことです。

大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。

佐貫城~室町中期から幕末まで 城主が替わりながら存続、経済交通の重要地でもありました。

造海城~真里谷氏が築城、里見水軍の拠点として活用、灯籠坂大師の切通しトンネルは必見です。

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。

鹿野岡城~鴨川富士に築かれ、近年になって城址と判明された城跡で登山道整備。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

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