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濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

濃姫



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濃姫

濃姫(のうひめ (のひめ))は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
美濃国の戦国大名である斎藤道三(利政)と
正室である小見の方の唯一の子で、
政略結婚で尾張国の戦国大名・織田信長に嫁ぎました。

【名前】
広く知られた「絵本太閤記「や「武将感状記」で、
濃姫として登場しています。
ですが、これは名前ではなく、
濃州つまり美濃国の高貴な女性、
というだけの意味の通称なんだそうです。

名前に言及している書籍は僅かではありますが、
江戸時代に成立した「美濃国諸旧記」では帰蝶/歸蝶/奇蝶(きちょう)、
「武功夜話」では胡蝶(こちょう)であったとされているようです。

「美濃国諸旧記」で、斎藤道三(利政)が、
天文17年(1548年)に
稲葉山城斎藤義龍に譲って出家して、
再び道三と号して鷺山城に退きました。
そして翌年、この城から古渡城(ふるわたりじょう)の
織田信長のもとに嫁いだために、
鷺山殿(さぎやまどの)とも呼ばれていたそうです。

<鷺山城址>
鷺山城址・入り口

織田信長の妻の称としては、
於濃の方(おのうのかた)とも呼ばれていますが、
「絵本太閤記」等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは
鷺山殿の称の方が由来は明確であり、
実際にこれは当時の習慣に則したものだそうです。

「美濃国諸旧記」では上総介信長の北の方(正室)となったとの
記述もありますので、それを信用するとなると、
鷺山殿が信長の正室であったと考えることができます。

更に、安土殿と呼ばれていた女性こそ、
濃姫ではないかという最近の説もあるそうです。
そして、総見院で於鍋の方の隣に葬られた養華院という女性が、
信長の妻の1人として葬られていることは確かですが、
この女性こそ濃姫であるという説もあります。
ただ断定するまでには到らず、
まだまだ検討の余地があるともされ、
結局はナゾ多き織田信長の正室であるとされています。
以下、濃姫とさせていただきます。




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【母は明智一族】
母は正室の小見の方(おみのかた(こみのかた))。
「美濃国諸旧記」によりますと、
小見の方は、東美濃随一の名家であったという明智氏の出身であり、
濃姫は正室唯一の子であったとされています。
小見の方は、「系図纂要」及び「明智氏一族宮城家相伝系図書」では
明智光継の娘、光綱の妹とされているそうなので、
(一説に光綱の子という)
この記述通りだとすれば、明智光秀の叔母にあたることになり、
濃姫と明智光秀は従兄妹の関係となります。
けれども、明智光秀自身の出自自体に不明な点が多く、
諸説があって現在のところ正確な続柄はよく分かっておりません。
けれども、恐らくは明智の同族ではあるのだろうと推測されています。
生年を記した書物は「美濃国諸旧記」しか現存していませんが、
それによりますと、濃姫は天文4年(1535年)の生まれで
織田信長よりも1歳年下となります。

【父・道三の下克上】
天文10年(1541年)頃、斎藤道三は守護・土岐頼芸を放逐し、
その連枝を殺害して美濃国主となったそうです。
けれども、依然として土岐氏に従う家臣も多く、
国内の秩序は乱れていました。
そこで、頼芸より下賜された側室・深芳野の子である
長男・義龍を頼芸の落胤であると称して美濃守護に据えたのでした。

織田信秀が攻め、縁談が決まる】
けれども天文13年(1544年)8月、
斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張の織田信秀(信長の父)は
「退治」と称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣し、
越前国の朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼)が
兵7千と共に南と西より攻め入ったのでした。
斎藤勢はまず南方の織田勢(織田寛近)と交戦しましたが、
過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれてしまいます。
同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、
斎藤道三はそれぞれと和睦して事を収めることにしたとあります。
織田家との和睦の条件は
織田信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と
娘とを結婚させるという誓約であり、
他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、
頼純を川手城へ入れると約束したのでした。

【一方で土岐頼純とも】
天文15年(1546年)、道三は朝倉孝景とも和睦し、
土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、
新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、
頼芸と頼純を美濃に入国させました。
主筋の土岐家当主への輿入れであることから
相応の身分が必要との推測から、
この娘は道三の正室を母とする濃姫でした、とする説があります。
この説に従えば、濃姫は数え12歳で、
美濃守護土岐頼純の正室となったことになるのです。
織田信秀との約束は一旦保留となりましたが、
織田・朝倉の方でも斎藤道三を討伐しようという考えを捨てておらず、
天文16年(1547年)8月、
土岐頼芸と土岐頼純に大桑城に拠って
土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促しました。
齋藤道三はこれを知って驚き、
織田・朝倉勢が押し寄せる前に
大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、
土岐頼芸は命からがら
朝倉氏の越前国一乗谷に落ち延びたそうです。
9月3日、織田信秀は再び美濃に侵攻して
稲葉山城下を焼いたものの、
22日の夕暮れに退却しようとしている所を
斎藤勢に奇襲され、敗北となりました。

【土岐頼純の死去】
濃姫が最初に結婚したという土岐頼純は、
「美濃国諸旧記」では同年8月の大桑城落城の際に討ち死に、
または同年11月に突然亡くなったとされています。
いずれにしろ濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測されます。

【濃姫、織田信長の正室になる】
天文16年から翌年にかけて、
道三と織田信秀は大垣城を巡って再三争うものの、決着が付かず、
和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がりました。
「美濃国諸旧記」によりますと、
織田信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ、
天文18年2月24日(1549年3月23日)、
濃姫として知られる
斎藤道三の娘は織田信長に嫁いでいきました。
媒人は明智光安であったとされています。
この時、濃姫は数えで15歳であったそうです。
一方で「信長公記」によりますと、
織田家臣の平手政秀の個人的な政治力で
和睦と織田信長の縁組みが
まとめられたと記されているそうです。




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【嫡男・信忠の養母になる】
「絵本太閤記」と「武将感状記」のよく知られた逸話に、
結婚の1年後、濃姫が熟睡すると
夫である織田信長は毎夜寝所を出て
暁に帰るという不審な行動を1か月も続け、
浮気を疑う濃姫が尋ねると、
織田信長は密計を図っていて、
謀叛を起こす斎藤道三の2人の家老(堀田道空、春日丹後守)からの
連絡を待っているのだと答えたそうです。
濃姫はついにその旨を父に知らせると、
齋藤道三は織田信長の離間策にはまって、
家老の裏切りを疑って殺害してしまったということです。
ただし、この逸話に相当するような、
齋藤道三が実際に家老を殺害した記録は現在は存在していません。

天文22年(1553年)4月には、
織田信長と斎藤道三が正徳寺で会見を行っていますが、
先年の婚儀以後、濃姫についての記載は
「美濃国諸旧記」から途絶えています。
齋藤道三の遺言でも一言の言及も見当たりません。
他方で、「勢州軍記」と「総見記」には、
織田信長の御台所である斎藤道三の娘が、
若君(御子)に恵まれなかったので、
側室(生駒吉乃)が生んだ奇妙丸(信忠)を養子とし
嫡男としたという記述があるそうです。
実際、嫡男を含め、
子供たちの養育も、
戦国時代の正室にとって、
大切な業務の一つであったようです

斎藤家の菩提寺常在寺
父・道三の肖像を寄進した(時期不明)と
寺伝にあるのを最後に、
濃姫は歴史の記録から完全に姿を消しています。
このために濃姫は没年も不明であり、
現在も菩提寺も戒名も特定されてはいません。

【濃姫のその後について】

濃姫の史料は極めて乏しい上に実証が難しいために、
その実像には謎が多く、その生涯などほとんどわかっていません。
2人の間には子ができなかったというのが通説ですが、
織田信長の子供の場合、特に女児の生母は不明の場合が多く、
本当に子がいなかったかどうかすら判明していません。
史料価値があると考えられている「信長公記」には
入輿について短い記述があるだけでその後は一切登場せず、
その他の史書にも記載が少ないため、
濃姫のその後については様々な推測がなされています。

【離縁説】
【離縁に至る理由】
「信長公記」など史料に入輿は記載されていものの、
最後が記載されていないのは、
織田家と縁が切れていたためと推測し、
政略結婚の意義を失った濃姫との婚姻は無用のものとなり、
生駒吉乃懐妊(弘治2年夏ころ)を契機に
織田家を追放され、濃姫は実父の敵の義龍を嫌って
母方の叔父・明智光安の明智城に身をよせた、という説です。
其の後、義龍の美濃統一戦の時に攻撃を受けて、
弘治2年9月19日(1556年11月1日)の落城によって
22歳で明智一族と運命を共にし、
その滅亡によって墓所も口伝も
残らなかったとする説もあるそうです。
これは斎藤道三の死から僅か5ヶ月後のことになります。

【離縁説の反論】
けれども、見方を変えますと、
他の女性についても、
輿入れ後の消息が記されている例はむしろ稀であり、
「信長公記」には信忠生母についても何の言及もないそうです。
女性の記録が少ないのは当時は普通であり、
記録がないからと言って全部縁を切られたとわけではなく、
婿である織田信長を美濃国の後継者と定めた
斎藤道三の国譲状があったことを考えれば、
濃姫を正室としておくことは、
むしろ、美濃攻略の足がかりともなるので
織田信長にとって必要であったと推測できます。
現に、齋藤道三の側室の一人は信長の妹であり、
重縁である斎藤氏との縁を切る必要があったとは、
常識では考えられないともされています。
そして、美濃衆が家臣団に加わりつつあったという状況では
むしろその縁は利用できうるものでした。
実際に戦国時代の正室の役目の一つとして、
家臣団の取りまとめと
心身のケア、というものがあったようです。
また、基本的に人質としての性格のある斎藤道三の娘を、
齋藤道三を殺した兄・義龍との戦を理由に、
わざわざ離縁して実家に返すという行為は
むしろ逆効果であろうとも、考えられています。
正室をそのような粗末な扱いをするということは
当時、家臣団からそっぽを向かれる行為でもあったようです。

離縁されたとするならば、
何らかの特別な事情があったはずですが、
そのようなことを記した史料は現段階では存在しません。
織田信長の家臣団には、
斎藤氏と織田氏の共通の親族と言える武将が多数おり、
「勢州軍記」にあるように信忠を
濃姫の養子として嫡男としたのなら、
織田信長が家督を織田信忠に譲って
美濃と尾張の支配を委ねたことは、
斎藤道三の国譲状により、
後継者の正統性を強調するうえで
非常に合理的な手段であったと見なされるからです。

【死亡説】
織田家の公式行事などに
濃姫が登場しなくなることを理由に、
結婚から本能寺の変のあった天正10年(1582年)までの間に、
病気など何らかの理由で死んだと考える説です。
けれども、記録がないことを論拠とするため、
死亡したという証拠があるわけではありません。

【早世説】
寛永15年(1638年)頃に成立したとされる
「濃陽諸士伝記」には、道三を殺した斎藤義龍が病没して
その子・龍興の代になった頃、
(恐らくは永禄4年(1561年)から同6年(1563年)の間と考えられる)
義龍の娘に馬場殿という大変美しい女性がいて、
織田信長から妾(側室)にしたいとの話があったものの、
龍興が言うには、織田信長は斎藤道三の婿で
馬場殿は信長の妻の姪となるので、
「其妻死後に遣り難し」と述べ、
ましてや妾などとしてくれてやるのはもってのほかで、
土岐氏の嫡流である当家の名が廃ると言って拒否したそうです。
これを聞いた織田信長は、
元来堪え性のない勇敢な人物だったので、
憎々しい物言いだと怒って、
稲葉山城に何度も攻め寄せて
永禄7年(1564年)8月下旬に
落城させたと話が書かれているそうです。
この記述を信用するならば、
濃姫は少なくとも永禄7年、
つまり28歳前後には既に亡くなっていて、
信長の正室にも別の人物が収まっていたことになります。
けれども、実際に稲葉山城が落城したのは
永禄10年(1567年)のことであり、
整合性には乏しいとされています。




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【戦死説】
濃姫が本能寺の変の際に薙刀を振るって
織田信長とともに敵兵と戦って
戦死する場面がしばしば描かれてきましたが、
これは創作物における描写であるとの見解です。
本能寺の変の際に濃姫が戦死したという話は、
一度として史料で確認されたことはなく、
いわゆる小説の世界での話であり、
確かなものではありませんでした。

ただし、民間伝承としては、
あながち創作とも言い切れないようです。
岐阜県岐阜市不動町には本能寺の変の際に
信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、
この地に辿り着き埋葬したという
濃姫遺髪塚(西野不動堂)があるのです。
「美濃国諸旧記」の生年通りとすれば、
織田信長とは1歳違いなので、
本能寺の変の時に亡くなった場合、
享年は48歳となります。

<岐阜にある濃姫とされる墓>
濃姫の墓(岐阜)

【生存説】

生存説とは、濃姫がその後も生きていた痕跡を探して
存在の可能性を示そうというものです。

【「言継卿記」記載】
同時代人の筆によるものでは、
「言継卿記」に、織田信長が足利義昭を擁して上洛した後の
永禄12年(1569年)7月条に、
斎藤義龍の後家(近江の方)を庇う信長本妻という記述があり、
濃姫の生存を示すものではないかと考えられています。

また、「言継卿記」の同年の別の記に
「姑に会いに行く信長」の記述も見られるそうです。
これは濃姫の生母(小見の方)を指しているはずで、
姑の存在は濃姫が生存していたがこそであるとの見解もあります。

【「総見院殿追善記」】
大村由己の「総見院殿追善記」にも、
安土城から落ち延びた北の方の記述が見られるそうです。
織田信長の正室と呼ばれた人物が、
生駒吉乃の死後には見られないため、
この御台や北の方は濃姫のことを指していて、
本能寺の変の時には彼女らは安土城にいたと考えても
特に矛盾はないとの見解があるそうです。

【「氏郷記」】
寛永年間に成立したとされる「氏郷記」には、
安土城二の丸の留守居であった
御番衆の蒲生賢秀が本能寺の変直後に安土城から日野城へ
「信長公御台君達など」を避難させたという記述があるそうです。

【「明智軍記」】
元禄年間に書かれた「明智軍記」には、
尾張平定後の饗膳の際に、
信長内室が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、
たくさんのアワビなどを振舞ったという記載があるそうです。
「明智軍記」は時に史実と異なる点や
誇張・歪曲している点なども多くみられそうですが、
少なくとも江戸時代には一般的に濃姫は
織田信長の正室として存在したと認識されていて、
齋藤道三亡き後に濃姫が離縁されたり、
亡くなったというような話は、
伝わっていなかったと推測できます。

【「近江国輿地志」】
享保年間に成立した「近江国輿地志」には、
成菩提院の深砂王の書像の奇譚として、
織田信長の「御台所」が宿泊して
図らずも安産ができたとする記事が存在します。
この御台所が誰を指しているか、
いつのことかなのかは記されていないので、
この記述では濃姫だとは断定はできません。

【「武功夜話」】
「武功夜話」には、
永禄8年(1565年)に
織田信長の新居城である小牧山城に生駒吉乃のために
「御台様御殿」が増築されたとされ、
信忠、信雄、五徳、妹の須古女を伴って
同御殿に入った生駒吉乃は翌年にそこで亡くなったので、
奇譚についても、生駒殿(御台様)の安産を
指している可能性もあるにせよ、
「武功夜話」の書かれた年代については疑問視されているそうです。

【「妙心寺史」】
大正期にまとめられた「妙心寺史」によれば、
天正11年6月2日に織田信長公夫人主催で
清見寺住持の月航玄津(妙心寺44世)が
一周忌を執り行ったという当時の記録があるそうで、
羽柴秀吉主催とは別の一周忌法会であるため、
興雲院(於鍋の方)とは別人と推測され、
他にも候補はいるものの、濃姫をさす可能性はあるとされています。

【安土殿説】

総見院・織田信長公供養塔。
養華院は興雲院の隣で格式高く造られています。
信長の次男・織田信雄
天正15年(1587年)頃の
家族や家臣団の構成をまとめた
「織田信雄分限帳」に、
あつち殿(安土殿)という女性が書かれており、
これが濃姫を指すのではないかと考えられているそうです。

【安土殿の内容】
記載によると、安土殿は600貫文の知行を与えられており、
女性としては御内様(信雄正室、北畠具教の娘)、
岡崎殿(徳姫、信雄の実妹)に続く3番目に記載され、
その次の大方殿様は信長生母・土田御前と推測され、
5番目が小林殿(牧長清室、信長妹)となっていて、
織田家における地位の高さが伺えるそうです。
安土城の「安土」という土地を冠されていることから、
その地と所縁の深いのはすなわち織田信長の妻で、
それも正室にあたるのではないかと推測されています。
「安土殿」が濃姫だとすれば、
この時点で生存していたことになります。




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平成4年(1992年)、
鷺山殿の法名が安土摠見寺蔵『泰巌相公縁会名簿』に
「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」
と記されていたとの発表がありました。
また京都の大徳寺総見院には
「養華」と刻まれた五輪供養塔(卒塔婆)があり、
濃姫は(織田氏の菩提寺である)
大徳寺総見院に埋葬されている可能性があるとも。
ただし、養華院に関する大徳寺の記録は全て寵妾となっている事から、
養華院は濃姫ではなく側室の一人であったとの反論もあります。

【濃姫のナゾと戦国時代の正室】

ナゾが謎を呼び、ますます深まる濃姫という人物のナゾ・・。
織田信長は、女性をとても大切にして、
また好みとしては、美人であることは勿論、
大柄で、時に対等に意見などを交わし合うような頭脳明晰さを
求めていたともされていたようです。

濃姫は大柄だったとされる記述もあり、
母親に似て大層な美人であったとの評判もあり、
外見的には織田信長のストライクゾーンだったことでしょう。

性格も快活であったようで、
父の斎藤道三譲りでかなり気が強かったとも、
伝わっていたようです。

戦国時代の正室の役目は、
いわば中小企業の社長夫人のようであったとの例えがあります。
実際に戦場に出るのは、
夫である武将ですが、
その戦場に送り出すための算段を、
正室が担っていたというものです。
そして家臣たちとその家族の心のケアも保つ努力が
求められていたようです。

税理士や会計士であり、
カウンセラーに保育士であり、教師であり、時には軍師である・・・。
戦国時代の正室はあらゆる業務をこなしていたようです。

側室が嫡男を誕生させたからと言って
必ずしも正室とは認められませんでした。
世継ぎを産んだ生母が権力を持つのは
もっと後の時代だったようです。

ただ、男子を産まなかった女性が、
その家系図に名を残すことはあまりなく、
そうした意味では、
子供、特に男子を産まなかった女性の立場は辛いものだったのでしょう。

これは個人の全くの憶測ですが、
濃姫が織田信長の正室の地位を全うして、
織田家の一切を切り盛りしていた
戦国時代の正室そのものであるならば、
むしろ、記録は残すようなことはしなかったと思うのです。
なにしろ敵が多い織田信長の事です。
正室もまた、格好のターゲットとなります。

フィクサーとして裏方に徹底し、
夫と家臣とその妻たちは讃える・・・。
織田信長亡き後は、
更に注意を払って表には絶対には出ない。
故に、後世にはナゾ多き正室になってしまった・・・。
これも歴史のロマンの一つだと言えるのかもしれません。
ま、私としては、本能寺の変で、
最期を共にした・・という説に座布団1枚ですかね。

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で
濃姫役をされた内田有紀さんの「本能寺の変」のシーンが印象的でした。

なお、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
沢尻エリカさん (代役→川口春奈さん)が演じられることが決定されています。

※※案外、明智城と運命を共にする・・という描写にするかもしれません。

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