徳川家臣

稲(小松姫)~本多忠勝の愛娘で真田信幸(信之)の正室、男勝りで利発で良妻賢母という戦国期の理想の女性。

沼田城



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【稲(小松姫)】

小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年)⇒
元和6年2月24日(1620年3月27日))は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。
上田藩および松代藩の初代藩主である
真田信之(信幸)の正室です。
徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘。
幼名は於子亥(おねい)。
小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)
とも称されます。
徳川家康または徳川秀忠の養女として
真田信之に嫁ぎ、
信政、信重、まん(高力忠房室)、
まさ(佐久間勝宗室)らを生みました。

【生誕】
天正元年(1573年)

【死没】
元和6年2月24日(1620年3月27日)
武蔵国鴻巣宿

【墓地】
勝願寺(埼玉県鴻巣市)
正覚寺(群馬県沼田市)
芳泉寺(長野県上田市)

【別名】
於子亥、小松殿、稲姫、大蓮院

【配偶者】
真田信之

【子供】
まん(高力忠房室)、
まさ(佐久間勝宗室)、
真田信政
真田信重

【父】
本多忠勝

【母】
阿知和玄鉄の娘於久
もしくは
松下弥一の娘乙女

【養父】
徳川家康
(または徳川秀忠)

【生涯】
【出自】
天正元年(1573年) 、
本多忠勝の長女(第1子)として生まれました。
母は阿知和玄鉄の娘於久
もしくは松下弥一の娘乙女とされています。
幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)。
兄弟には、もり姫(奥平家昌室)、
本多忠政本多忠朝らがいます。

父の本多忠勝は松平氏および
徳川氏の家臣として
永禄3年(1560年)の
大高城の戦いにおける初陣以来、
姉川の戦い長篠の戦い
小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、
酒井忠次榊原康政井伊直政と共に
徳川四天王と称された人物です。
また本多氏は、本多忠勝の父・忠高、
叔父の忠真、祖父の忠豊が
いずれも合戦の最中に討死するなど
武門の家系でもありました。




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真田氏との婚姻】
天正10年(1582年)10月末の
徳川・北条同盟の成立による
天正壬午の乱終結後、
沼田領(吾妻・利根郡)の引き渡し問題や
天正13年(1585年)閏8月の
第一次上田合戦、天正14年(1586年)7月の
真田征伐などで対立抗争を続けていた
徳川家康と真田昌幸が、
天正15年(1587年)3月に
豊臣秀吉の命により真田昌幸
徳川家康の与力大名とすることで
決着したことを契機に、
小松姫と真田信之との婚姻が成立しました。
これは両家の関係を緊密にする
狙いがあったと見られており、
豊臣秀吉の意向によるものであったとの
所伝も残されており、
時期的な状況からその可能性も
考えられるとのことです。

【豊臣政権下での動静】
天正17年(1589年)より、
豊臣政権では諸大名の妻子を聚楽第、
伏見城、大坂城の城下に
建設された武家屋敷に
居住させましたが、
小松姫もそれに従い
真田信之の屋敷に
居住したものと考えられています。

【清音院殿について】
小松姫が嫁いだ当時、
真田信之はすでに
真田信綱の娘(清音院殿)を
正室に迎えていました。
が、その後の記録において
清音院殿は「家女」と記され、
側室待遇となっています。
このことから真田信之と小松姫の
婚姻以降に、城主とその家族の
生活の場である「奥」を
取り仕切る権利全般が
小松姫に移されたと見られています。
一方、政権本拠地に居住する小松姫が
対外的な妻、真田信之の領国である
上野国沼田城に居住する清音院殿が
領国における妻としての役割を
担ったのではないかと
推測している見方もあります。

【子供たち】
真田信之には二女三男の子供がいました。
長男である信吉以外、
長女・まん、次女・まさ、
次男・信政・三男信重は、
小松姫の所生とされています。
なお、長男である信吉については
清音院殿の実子とする説と、
小松姫の実子とする説があります。

【徳川政権下での動静】
慶長5年(1600年)9月の
関ヶ原の戦いの戦後処理の際、
真田信之は徳川家康の率いる
東軍に属して戦功を挙げたことから
従来の上野国沼田領(岩櫃領を含む)を
安堵されたのに加えて、
父である真田昌幸が治めていた
信濃国上田領、弟である信繁の知行を
加増されました。
これにより真田信之は8万4千石たは
上田領(約6万5千石)と
沼田領(約3万石)を合わせ
9万5千石の大名として
存続することになったのです。




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【流罪となった舅と義弟を気遣う】
西軍に属した真田昌幸と真田信繁は、
真田信之と小松姫の父である本多忠勝や
本多正信らの嘆願もあり
紀伊国の高野山への流罪となりました。
その後も真田信之は
真田昌幸・信繁一行の援助、
病気を患った真田昌幸の
助命嘆願を繰り返しました。
また、真田昌幸から真田信之の家臣に
宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの
音信に礼を述べる内容が
記されていることから、
夫と同様に小松姫も真田昌幸を
気遣っていたことが推測されています。

【江戸屋敷に移り住む】
この後、徳川家康は慶長8年(1603年)に
征夷大将軍に就任して政務を執り行い、
豊臣政権と同様に諸大名の妻子を
政権本拠地に集住させました。
従って小松姫も江戸の大名屋敷に
居住したものと考えられています。
ただし、当初は真田信之の母・山手殿
江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、
慶長18年(1613年)6月に
山手殿が亡くなったことを受けて、
小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも
推測されています。

【夫と忠勝一族との仲】
小松姫の父である本多忠勝は、
関ヶ原の戦いの功績によって
伊勢国桑名藩に移封され、
大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継ぎました。
この時期、本多忠勝からは
真田信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、
小松姫を気遣う書状が送られています。
真田信之と忠勝一族との間で
こうした親密な関係が築かれるなど、
小松姫との縁戚を通じて
交流が図られていたとのことです。

【大坂の陣】
慶長19年(1614年)から
慶長20年(1615年)の大坂の陣では、
病気療養中の真田信之に代わり、
長男である信吉と次男である信政が
本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣。
小松姫からは、冬の陣の際に
真田信之の重臣・木村綱成と
その妻に宛て、真田信之は
病気の養生のため出陣が叶わぬこと、
信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、
真田信繁が大坂方に加わり
大坂城に入場したことを知らせる
内容の書状が、夏の陣の際には
信吉の家臣・安中作左衛門に宛て
「河内殿(信吉)については若いので、
伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、
伊豆殿に免じて陣中精を致し、
奉公をお願いします」と
合戦の経験が不足している信吉を気遣い、
その補佐を依頼する内容の書状が
残されています。

【晩年】
【信仰】
養父の徳川家康は
江戸幕府の開設以来、
浄土宗を保護する政策を行いましたが、
武蔵国鴻巣にある勝願寺の二世住職・
円誉不残に帰依しました。
円誉は仏教学に通じた
学僧であったことから、
徳川家康の御前で
教義の解釈を行うなど
重用されました。
小松姫も徳川家康の勧めもあり
円誉に帰依しましたが、
同時に薬師如来像を拝領し
生涯にわたって信仰を続けたのでした。




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【最期】
元和6年(1620年)春、
小松姫は病気を患い草津温泉での
湯治のため、江戸から草津へ向かう最中、
2月24日(3月27日)に
武蔵国鴻巣で亡くなりました。
享年は48歳でした。

【墓所】
墓は前述の勝願寺と、
上野国沼田にある正覚寺、
信濃国上田にある芳泉寺(当時は常福寺)
の三か寺に分骨されました。
このうち、信濃国上田の芳泉寺の墓は
一周忌の際に真田信之によって
建立されました。
また、武蔵国の勝願寺の墓は、
小松姫が生前に
同寺の二世住職・円誉不残に
深く帰依していたことから、
次女の見樹院によって墓石が
建立されたものであり、
三男の信重夫妻の墓も
並んで建てられています。
小松姫の墓(沼田)
上野国沼田にある正覚寺。

夫の真田信之は、
小松姫の菩提を弔うため
上田城下に大英寺を建立すると、
松代藩への移封に伴い、
寛永元年(1624年)に
同寺も松代城の城下
(後の長野県長野市松代町松代)
に移築されました。
この寺の本堂は創建当時は
小松姫の御霊屋として
使用されていたもので、
昭和41年(1966年)に
長野県の文化財に指定されています。

【人となり】
【性格・気質】
小松姫は、江戸幕府初代将軍の
徳川家康や2代将軍の徳川秀忠に対して
直に意見をする程はきはきとした女性、
弟の本多忠政や本多忠朝が
戦地から帰還した際には
高らかに忠節を讃えるなど
勇気のある女性、才色兼備の女性であったと
伝えられています。
また、小松姫の遺品の中には
「史記」の「鴻門の会」の
場面を描いた枕屏風があり、
こうした戦を表す勇壮な絵を
所持していた点からも
「男勝り」と評されています。

【かがやく姫さま】
本多忠勝は大多喜城城主であったころ。
この城の庭からいつも聞こえていたのが、
娘の小松姫の「えい」、「やー」という
剣術を練習する声だったそうです。
大多喜城 天守

ある日のこと、
城下に出かけた小松姫は、
大きなイノシシが村人を
襲おうとしている場面に遭遇します。
更にそこには竹かごに入った
赤ん坊の姿もありました。
小松姫は、赤ん坊を抱きかかえて
母親に渡したあと、
腰の刀剣を振り上げて
ひとりイノシシに向かっていき、
一太刀あびせ、撃退。
このとき、イノシシを追い込んだ
竹やぶの中の小松姫に
日の光があたり、
その姿がきらきらと
輝いて見えたことから、
城下の民衆が小松姫のことを
「かがやく姫さま」
と呼ぶようになったと伝えられています。
この呼び名が人から人へと
語られるうちに、
いつからか「かぐや姫」へと
変わったともいわれているそうです。
なお大多喜町では筍を使った
炊き込みご飯のことを
「かぐやご飯」と呼んでいるそうです。




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【婚姻の時期】
婚姻の時期については、
本多氏の系図「参考御系伝」や
「幕府祚胤伝」』では
豊臣秀吉の仲介により、
天正14年(1586年)に
成されたと記されていますが、
甲陽軍鑑」では天正11年(1583年)、
「沼田日記」では天正16年(1588年)と
記されるなど様々な説があるとのことです。

【徳川家康の養女?】
一般的に小松姫は徳川家康の養女として
真田氏に嫁いだものとされています。
本多氏の系図「参考御系伝」にも
同様の内容が記されているとのことです。
「本多家武功聞書」などによりますと、
徳川家康が真田昌幸を従わせるため、
嫡男の信之に家康の重臣である
本多忠勝の娘を嫁がせようとしましたが、
真田昌幸は承諾しなかったため、
徳川家康は本多忠勝の娘を
自分の養女とした上で
嫁がせるのではどうかと
提案したところ、
真田昌幸はようやく承諾したとのことです。
その後、小松姫は高力摂津守を従えて
江戸城西の丸から沼田へと
向かったと記されています。
この逸話については、
徳川家康が関東に移封された
天正18年(1590年)
以後であれば問題ないと
指摘している専門家がいるとのことです。

徳川家康の養女で
あったかについては、
真田信之の孫にあたる
松代藩3代藩主・真田幸道が
幕府に提出した書状や
小松姫の菩提寺である
大英寺の書上には
「台徳院(秀忠)」の養女と
通説と異なる記載がされているなど、
実際に小松姫が徳川家康の養女と
なったのか否かは
確定されてはいないとのことです。
ただし、徳川家康の養女とする
複数の所伝が残されていることや、
信濃国の国衆の中では
小笠原貞慶の長男・秀政も、
松平信康の娘(登久姫)を
徳川家康の養女として
正室に迎えていることから、
養女の体裁が採られた可能性はあるとのことです。




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【沼田御守城】
慶長5年(1600年)、
豊臣秀吉の没後に
五奉行の石田三成が挙兵すると、
夫の真田信之は
徳川家康の率いる東軍に付き、
父・昌幸と弟・信繁は
石田三成の率いる西軍に付きました。
袂を分かった昌幸・信繁親子が
下野の犬伏から
信濃の居城・上田城へ急いで
引き返す途中、小松姫が留守を預かる
沼田城へ立ち寄ります。
これは、真田昌幸が
「一目、孫の顔が見たい」
と願ったからでした。
けれども小松姫は、
「例え舅であっても
今は敵味方の間柄であり、
敵を城に通すことはできない」と、
甲冑を身にまとい、
武装した兵を従えて入城を拒否します。
その毅然とした小松姫の態度に、
真田昌幸は、
「さすが本多忠勝の気性を受け継ぐ娘よ」
と舌を巻いたと言われています。

そしてこれには後日談があります。
小松姫は侍女を派遣して
密かに真田昌幸一行を
近くの正覚寺へと案内します。
翌日、小松姫は、密かに
子ども達をそこへ連れていき、
真田昌幸に孫との最後の対面を
させたと言うことです。

【沼田御守城の検証】
上記の逸話については小松姫が
沼田に居たのかどうかが
問題となります。
豊臣政権下において
諸大名の妻子が伏見、
次いで大坂屋敷に
移り住んでいたという点と
同年7月30日付の大谷吉継から
真田昌幸に宛てられた書状の解釈が
問題となります。

2015年の時点では
大谷吉継書状に
「信幸の妻子を保護した」と記
されてあり、これが側室であった
清音院殿のことであれば
問題はないのですが、
普通に考えれば正室を指すはずという点から
創作の可能性が指摘されていました。
けれども上記の書状について、
真田昌幸、信繁親子の妻子については
大谷吉継が預かっていますが、
真田信之の妻女については
「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」
と記されているおり、
石田三成挙兵の前年にあたる
慶長4年(1599年)の時点で
小松姫は「女中改」という口実で、
沼田に引き上げていたとの
指摘があったとのことです。
石田三成による徳川家康への弾劾状
「内府ちかひ(違い)の条々」
における一節
「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」より、
徳川家康が一部大名の人質の帰国を
勝手に認めており、真田信幸の妻子が
徳川家康の計らい(贔屓)によって
帰国していたと解釈できるとの見方があるとのことです。




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【小松姫の婿殿選び】
小松姫が徳川家康の養女
であったとする話の中に、
婿選びの逸話があります。
徳川家康が若い武将達を
列座させて小松姫の相手を
選ばせたところ、
徳川家康を前にして
委縮している中で、
小松姫が平伏している
一人一人の髻を掴んで
面を上げさせて吟味していました。
髻に手を差し伸べられた瞬間に
真田信之は叱咤して、
鉄扇で小松姫の顔を打ったとのことです。
小松姫はこの気骨に感動して
真田信之を選んだとのことです。

【奪い取った献上品】
小松姫の夫の真田信之は
上田城6万石の大名でしたが、
上田は加賀街道(北国街道)を
押さえた要所に位置して、
加賀藩前田家が
金沢と江戸との間を往来する
通路上にありました。
小松姫は家臣に命じて
加州候の通行を妨害し、
将軍への献上する品を奪い取らせます。
が、小松姫が将軍家の養女であるため、
成敗することができず、
ついに将軍家に訴え出たのでした。
将軍家から小松姫にお咎めがありましたが、
「親の物は子の物である」と答えたとか。
将軍家の方でも処置に困り、
それまで6万石のところに
4万石を加増して、
加賀街道から外れた松代に移封させたのでした。
最も、元和8年(1622年)の
松代藩への移封時には
小松姫はすでに亡くなっています。
よって・・・・。

【京のお人をおよびになっても】
小松姫は元和5年(1619年)頃から、
風邪をこじらせたことがもとで
体調が悪くなり、床に伏しがちになりました。
元和6年(1620年)、
当時住んでいた江戸から
草津へ湯治に向かう途中、
武蔵国鴻巣で危篤状態に陥りました。
夫の真田信之はその知らせを受けて
騎馬で駆け付けると、臨終に間に合いました。
小松姫は真田信之に
「まだ雪も解けぬのに、
ありがとうございました」と礼を言い、
息を引き取る直前に
「もう京の女(かた)をおよびになっても
かまいませぬ」と
いたずらっぽくささやいたそうです。

小松姫は利発な女性。
真田信之と小野お通の恋情は
お見通しだったのでした。

夫の真田信之は48歳でなくなった
妻の死を深く悲しみ
「我が家の灯火が消えたり」
と嘆いたと言われています。
そして、小松姫のささやきにもかかわらず、
真田信之と小野お通の恋は、
その後も実を結ぶことは
なかったとのことでした。

【子供の世代で成就】
けれども真田信之と小野お通との
恋にはその続きがある模様です。
小野お通の娘の宗鑑尼は
(そうかんに、?⇒1679年・延宝7年12月18日没)は、
真田信之の次男で小松姫が生んだ
信濃国松代藩第2代藩主の
真田信政の側室となり、
信就を生んだとのことです。
真田氏ゆかりの広徳寺には
信就と宗鑑尼の墓が並んでいるそうです。




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【印象に残る小松姫】
2016年のNHK大河ドラマ
真田丸」では吉田羊さんが演じられました。
「勝気」でいささか不器用な姫、
というのが印象的でした。
1985年のドラマ「真田太平記」では
紺野美沙子さんが演じられました。
勝気な中にも聡明さと可憐さと
人を気遣う優しさが印象的でした。
そして「真田太平記」では
「小野お通」も登場しました。
竹下景子さんが演じられており、
とても似合っていました。
この「小野お通」は漫画にもなっていますね。
「イシュタルの娘〜小野於通伝〜」
(大和和紀、BE・LOVE(講談社))です。

「真田丸」でも「小野お通」は
登場していました。
こちらは八木亜希子さんが
演じておられました。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
「稲」の役名で
鳴海 唯(なるみ ゆい)さんが
演じられます。

真田信幸(信之)~真田昌幸嫡男で真田家存続の功労者、信濃松代藩は江戸期を続き明治維新を迎えました。

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

真田信繁~「日本一の兵」と評された日本の国民的武将で英雄の真田幸村です。

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