史跡・城跡

大樹寺~徳川将軍家及び松平氏の菩提寺で歴代将軍の位牌が安置、岡崎城と大樹寺を結ぶビスタラインが有名です。

大樹寺山門



スポンサーリンク



【大樹寺】

大樹寺(だいじゅじ / だいじゅうじ)は、
愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗の寺院です。
山号は成道山。
正式には成道山松安院大樹寺
(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)
と称します。

大樹時沿革

徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、
歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が
安置されています。

松平家・徳川将軍家の菩提寺です。
文明7年(1475年)、
4代親忠により勢誉愚底上人が開山しました。
松平8代の墓、国の重要文化財の冷泉為恭ふす間絵、
歴代将軍の位牌、
家康73歳の時の木像などが祀られています。

<松平8代の墓 説明>
大樹寺 松平8代の墓 説明

かつて、桶狭間の戦いで敗れた
徳川家康公が逃げ帰り、自害を試みた際に、
住職から「太平の世を目指す」教えを受け、
思いとどまったという歴史的に
大きなエピソードがあるお寺です。
3代将軍家光公建立の山門、総門を起点に
岡崎城と大樹寺を結ぶ約3kmの直線は
「ビスタライン」と呼ばれ、
歴史的眺望として約370年間守られてきました。

岡崎城と大樹寺を結ぶビスタライン

天文4年(1535年)、
岡崎松平家当主松平清康により再興され、
一層方形二層円形の多宝塔が建立されました。
現在、国の重要文化財となっています。

1層は方形、2層は円形のこの二重の塔は、
蟇股(かえるまた)・拳鼻(こぶしばな)などの
彫刻模様に室町末期の美しい様式を見ることができます。

<多宝塔>
大樹寺 多宝塔

<多宝塔・説明>
大樹寺 多宝塔説明

【三河松平家菩提寺の創建】
応仁元年(1467年)、
安城松平家当主の松平親忠が
井田野合戦の死者を弔うために
千人塚を築きました。
けれども、塚が振動し、
悪病が蔓延するなどの事態となり、
増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底
(せいよぐてい、のちに知恩院23世)
に念仏をさせて、抑えたとのことです。




スポンサーリンク



【大樹の命名の由来】
文明7年(1475年)、
戦死者供養のため松平親忠の開基、
勢誉愚底の開山により大樹寺が創建されました。
「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、
松平氏から将軍が誕生することを祈願して、
勢誉愚底により命名されたと
伝わるもので、
全国の寺院で例のない命名です。

松平親忠により大樹寺は
安城松平氏の菩提寺とされ、
松平郷の高月院にあった墓から分骨され、
先代3代である松平親氏墓、
松平泰親墓及び松平信光墓が
大樹寺に建てられました。

<松平親氏公の墓>
松平親氏公の墓

<松平信光公の墓>
松平信光 墓所(大樹寺)

<松平清康公の墓>
松平清康公の墓所(大樹寺)

<松平廣忠公の墓>
松平廣忠公の墓(大樹寺)

【後の家康を救ったと伝わる教え】
寺の言い伝えによりますと、
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで
総大将義元を失った今川軍は潰走、
拠点の大高城で織田方の
水野信元の使者からの
今川義元討死の報を聞いた
松平元康(徳川家康)は、
追手を逃れて手勢18名とともに
当寺に逃げ込んだとのことです。
けれどもついに追撃によって寺を囲まれ
絶望した松平元康は、
先祖の松平八代墓前で自害して
果てる決意を固め、
第13代住職登誉天室に告げたとのことです。
しかし登誉は問答の末
「厭離穢土 欣求浄土」の教え
を説いて諭しまし。
これによって松平元康は、
生き延びる決意を固めたという逸話があります。

<徳川家康公 お手植えの椎の木>
徳川家康公 お手植えの椎の木

松平元康は奮起し、教えを書した旗を立て、
およそ500人の寺僧とともに
奮戦し郎党を退散させました。
以来、徳川家康はこの言葉を
馬印として掲げるようになりました。
こうして松平元康は、
今川軍の元での城代山田景隆が
打ち捨てて空城となった
古巣の岡崎城にたどりついたとされています。

徳川家康公霊夢像(大樹寺)

しかしながら、桶狭間の戦いの直後、
三河へ撤退する松平勢に対し、
織田勢が追撃戦を行ったという
記録を有する資料はありません。
また、近年では岡崎城への帰還は
織田勢に備えるために
今川氏の許しを得たもので
あったとする説もあります。

【江戸期以降】
慶長7年(1602年) 勅願寺となります。
徳川家康の死に際しては、
17代住職の了譽(りょうよ)が同席しました。
徳川家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。
以降、15代の徳川慶喜公を除く
歴代徳川将軍の等身大位牌が
大樹寺に収められました。

安政2年(1855年)、
伽藍内で火災があり一部を焼失。
本堂や大方丈はその2年後に再建されました。

<本堂>
大樹寺 本堂

なお、現存する位牌は
尾張藩主徳川義直が寛永5年(1628年)
に調進したものと寺では伝えています。
大樹寺に安置されている
江戸幕府歴代将軍の位牌は、
それぞれ将軍の臨終時の身長と
同じという説があります。
なお、15代将軍の徳川慶喜の位牌は
大樹寺に置かれてはいません。
これは将軍職を引いた後も存命であったことと、
臨終に際し自らを赦免し
爵位まで与えた明治天皇に対する
恩義から神式で葬られることを
遺言したためであるとのことです。




スポンサーリンク



【電話番号】
0564-21-3917

【営業時間】
午前9時~午後4時
(拝観受付は午後3時30分まで)
※当面の間、収蔵庫のみ拝観休止です。
※状況に応じて拝観時間が変更になる可能性があります。

【料金】
宝物殿・大方丈拝観
大人:400円
障がい者:350円
小中学生:200円
幼児:無料
団体割引:(15名以上)一人350円
※有料エリアの建物内部は撮影禁止です。

【交通アクセス】
◆愛知環状鉄道「大門駅」より徒歩10分程度
◆名鉄「東岡崎駅」より
名鉄バス「大樹寺」下車、徒歩5分程度

【駐車場】
91台

【所在地】
〒444-2121 愛知県岡崎市鴨田町広元5−1

所要時間:30~40分程度

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
登譽上人(第13代住職登誉天室)役を
里見浩太朗(さとみこうたろう)さんが演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平広忠~戦続きで敵だらけ、幼き頃に父を失い妻子とも別れ若い命を散らした悲運の生涯でした。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

岡崎城(日本100名城)~徳川家康の誕生地の城で岡崎公園は日本さくら名所100選でもあります。

大高城~松平元康(徳川家康)が兵糧を届け守備につき、本多忠勝が初陣及び元服しました。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

松平信光と岩津城~三河松平氏3代目当主で戦国大名・松平氏の基礎を築いた人物です。

奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。

井田城~徳川四天王の一人である酒井忠次の出生の城で、酒井氏の先祖は松平氏です。

関連記事

  1. 城願寺 城願寺~神奈川県指定文化財となっている土肥一族のお墓と国指定天然…
  2. 徳川慶喜公屋敷跡(紺屋町) 徳川慶喜公屋敷跡 ~現在の静岡市にあった屋敷跡2箇所をご紹介しま…
  3. 鷲津砦跡 鷲津砦~織田信長が今川方の大高城と鳴海城の往来を遮断するために築…
  4. 甲斐・須沢城 甲斐・須沢城~南北朝・観応の擾乱にて落城、須沢城の悲劇として後世…
  5. 津幡城跡(物見砦) 津幡城~平維盛が砦を築き、富樫氏が戦い、上杉謙信が布陣、前田利家…
  6. 寒竹囲いの家(喜連川) 寒竹囲いの家~喜連川ならではの城下町の佇まいを伝えている寒竹の生…
  7. 石井の井戸跡(坂東市岩井) 石井の井戸跡(坂東市岩井)~平将門が拠点である石井営所を決めた伝…
  8. 冷川不動尊 不動の滝 冷川(ひえかわ)不動尊~高源寺の不動院と伝わる場所~優しい雰囲気…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 遊行寺(清浄光寺)~藤沢宿、箱根駅伝のコース「遊行寺の急坂」にある鎌倉時代後期創建のお寺です。 遊行寺 本堂

ピックアップ記事

  1. 史跡 大柳館址
  2. 滝野川城 松橋
  3. 大蔵ヶ崎城(喜連川城)
  4. 舘林城 土橋門(黒門)
  5. 高部屋神社
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP