徳川家臣

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

大樹寺



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服部正成服部半蔵)】

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は
戦国時代から安土桃山時代にかけての
三河の武将です。
通称は半蔵(はんぞう)で、
服部半蔵の名でよく知られています。

松平氏(徳川氏)の譜代家臣で
徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取ちます。
なお、同じ十六神将に「槍半蔵」と
呼ばれた渡辺守綱がいます。
実戦では、徳川家康より預けられた
伊賀衆(伊賀同心組)と
甲賀衆を指揮していました。

【父は伊賀国の土豪】
父の保長は伊賀国の土豪で、
北部を領する千賀地氏の一門の長でした。
当時の伊賀には服部氏族の
「千賀地」「百地」「藤林」
の三家がありましたが、
狭い土地において生活が逼迫したため、
保長は旧姓の服部に復して上洛します。
室町幕府12代将軍である
足利義晴に仕える事となりました。
その時、松平清康が三河国を平定し
将軍に謁見するべく上洛した折り、
保長と面会して大いに気に入り、
その縁で松平氏に
仕えることになったということです。

【父の保長の異説】
伊賀国予野の千賀地氏を
服部正成の一族とするのは誤りで、
阿拝郡荒木の
服部半三正種の子とするのが
正しいとする説があります。
また、保長を服部民部の子「守佐」であると記し、
名を「石見守半蔵正種、浄閑入道保長、法名道可」
とする史料も存在するとか。
千賀地氏城の伝承においては、
上記とは逆に将軍に仕えていた保長が
伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、
その子である服部正成と徳川家康の接点がありません。

【大樹寺とのゆかり】
三河へ移った後の保長の記録は少なく
墓所などは現在も判明していませんが、
大樹寺に縁があったとされ、
同寺過去帳には息子である
久太夫の名がみられると共に、
家伝においても、
服部正成は幼少期を
大樹寺で暮らしたと記されています。
服部正成は父の跡目として
服部家の家督を継ぎ、
徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、
姉川の戦い
三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねました。




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【忍者の頭領にはあらず、しかし】
一般的に「伊賀忍者の頭領」の印象が強い
服部正成ですが、
彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、
伊賀国の忍者の頭領ではありません。
徳川配下の将として名を現した後の
働きも忍者のそれとは異なり、
槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを
重要視した武功第一のものが多いです。
しかしながら一方では、
いくつかの合戦において
伊賀者や甲賀者と
行動を共にするほか
指揮官として忍びを放ち探査や
工作をさせた記録も残るため、
服部正成の生涯の多くに
伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が
関わっていたであろう事が推察されています。

【生涯・経歴など】
【生まれは岡崎】
天文11年(1542年)、
服部保長の五男あるいは六男として
三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)
に生まれました。
出生地は伊賀八幡宮の北隣、
明願寺付近とみられています。
なお、岡崎城出仕の頃の屋敷は、
現在の岡崎市康生通南1丁目付近
であったといわれています。

【大樹寺に預けられる】
天文17年(1548年)、
6歳の服部正成は大樹寺へ預けられました。
幼い頃より筋骨逞しく
力の強い子供であったということです。
けれども3年後の天文20年(1551年)には
出家を拒否し大樹寺から失踪します。
服部正成は親元へ戻らず、
兄達の援助で暮らしていましたが、
その後7年間、初陣とされる
宇土城攻めまでの消息は不明とされています。

大樹寺山門

【主な戦歴と逸話】
弘治3年(1557年)、
16歳の時に三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し
戦功を立てた際、
徳川家康から盃と持槍を拝領したということです。

永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦以降、
徳川家康が三河統一に着手した時期には、
服部正成は渡辺守綱と並び、
徳川家臣団の旗本馬廻衆に
所属していたということです。

永禄6年(1563年)、
三河一向一揆の際、
服部正成は一向宗でしたが、
徳川家康への忠誠を誓い、
一揆勢を相手に戦ったとのことです。

永禄12年(1569年)の掛川城攻めでは
渡辺守綱、内藤正成、本多重次、
榊原忠政らと共に戦っています。

【姉川の戦いで一番槍の功名】
元亀元年(1570年)、
姉川の戦いにおいて服部正成は
姉川堤における一番槍の功名を上げています。
また、偶然出会った浅井の兵数十人に
「自分も浅井方であるから共に退却しよう」
と偽り、討ち取る機会を伺っていたところ、
通りかかった弟の半助から
「その敵を討ち取れ」
と声をかけられて
怪しまれたため、
敵兵の主人と数人を倒して
半助に首を取らせたとのことです。
この戦で服部正成は
若い将兵の後見も任されていたということです。

姉川合戦の地

【三方ヶ原の戦いでの功名と奮闘】
元亀6年(1572年)、
三方ヶ原の戦いで服部正成は先手として
大須賀康高の隊に配属され
一番槍の功名を上げています。
けれども徳川軍は大敗し、
服部正成は大久保忠隣、菅沼定政らと共に
徳川家康を守り浜松城を目指しました。
この時服部正成は顔と膝を負傷していましたが、
徳川家康の乗馬に追いついた敵と
格闘し撃退しています。
浜松城へ帰還した際には、
敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため
一人で城外へ引き返し、
敵と一騎打ちのすえ
討ち取った首を手に城内へ戻りました。
戦功により服部正成は
浜松城二の丸に召し出され、
徳川家康から褒美として
平安城長吉の槍を含む
槍二穂を贈られています。
また伊賀衆150人を預けられたのでした。

徳川家康在城期の浜松城と城下町

武田勝頼の遠江出陣】
天正2年(1574年9月)、
武田勝頼の遠江出陣の際には、
氾濫した天竜川を渡ろうとした
板垣信通の家臣や、
浜松城下にて刈田を行おうとした
山県昌景配下の小菅元成らへ
攻撃を加えています。




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【正室を迎える】
天正3年(1575年)、
長坂血鑓九郎信政の娘を正室に迎えています。

高天神城攻め】
同年夏、高天神城開城の後、
服部正成は大須賀康高の
大須賀党組へ配属され、
高天神城攻めに参加しています。
大須賀党組には塙団右衛門
塙尚之・直次・直之とも称します。
小笠原作右衛門興高の身内で
高天神小笠原一族。
興高と共に天正2年7月、
高天神西退組に属して大須賀配下。
井上半右衛門、松下嘉兵衛(嘉平次)。
松下氏は今川義元に仕えた
遠江頭陀寺城主です。
頭陀寺城には
豊臣秀吉が日吉丸の頃に寄食し後に
織田家臣となったという逸話があります。
鉄砲名人の鳥居金五郎、
忍び名人で「大鼠」と呼ばれた神谷権六、
「槍半蔵」渡辺守綱などが属していたということです。

高天神城跡

【長男の誕生】
天正4年(1576年)、
長坂信政女子との間に
長男の正就が出生しました。

松平信康切腹】
天正7年(1579年)、
徳川家康の嫡男である松平信康
織田信長に疑われ
遠江国二俣城
自刃に追いやられた際は
検使につかわされています。
この時、松平信康の介錯を
命じられたのは渋川四郎右衛門でしたが、
渋川は「三代相恩の主の御首に刀は当てられぬ」
とその日の夜に出奔してしまいました。
そのため服部正成が俄かに
介錯を命じられましたが、
松平信康のあまりのいたわしさに
首を打ちかね、刀を投げ捨て落涙し
倒れ伏したため、
服部正成に代わり天方道綱が介錯を行いました。
報告を受けた徳川家康は
「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」
と服部正成をより一層評価したということです。
松平信康介錯の逸話については
「三河物語」に描写されており、
服部正成は松平信康の
側仕えだったという説もありますが、
松平信康とはほとんど面識が無く、
この逸話は後世の創作であるとする説、
服部半蔵ではなく渡辺半蔵が
介錯したという説もあります。
また「三代相恩の主の御首に刀(刃)は
当てられぬ」という
渋川四郎右衛門の言葉については、
服部正成の言葉として
記載されている場合も多いとのことです。

【次男・三男の誕生】
天正8年(1580年)、
次男の正重が出生します。
その後、時期は不明ですが三男の正廣が出生し、
のちに正廣は出家したということです。

【大垣家人との諍い】
同年、高天神城攻めのため
浜松城下に駐留する織田家の援将、
大垣卜仙(卜全)の家人と
徳川家臣の家人が些細な事で衝突します。
但し、大垣卜仙(氏家直元)は
1571年(元亀2年)の
長島一向一揆攻めで討死しており、
この時期は子の氏家直昌が
大垣城主となっています。
浜松にいた服部正成は頼まれて
加勢に加わりますが、
服部正成を報復で襲った大垣家人らを
服部家で迎え撃った結果、
大垣家人・服部家人の双方に
複数の死者を出す事となりました。
大垣家が織田家臣である事を
重く見た徳川家康は、
逃げるつもりのない服部正成を説得して
牢人とし、妻子ともども浜松から逃がすと、
別人の首を「正成の首」に仕立て
大垣家に差し出したということです。
この事件の後、伊賀越えまでの
2年間の服部正成の消息は不明となります。




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【伊賀越えとその後】
天正10年(1582年)6月、
織田信長の招きで徳川家康が
少数の供のみを連れて
上方を旅行中に本能寺の変が起こります。
このとき堺に滞在していた徳川家康一行が
甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還しました、
いわゆる「伊賀越え」に際し、
先祖の出自が伊賀である服部正成は
商人である茶屋四郎次郎清延とともに
伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、
彼らに警護させることで
一行を安全に通行させ、
伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しました。
同地で味方となった彼らは後に
馬廻、伊賀同心、甲賀同心として
徳川幕府に仕えています。
この時、服部正成は栗という場所にいた所を
召し出され伊勢の白子まで同行したということです。
服部正成は一揆勢に対し
道をあけるよう大声で呼びかけ、
その隙に徳川家康らを通行させましたが、
相手が襲ってきたため
馬を乗り入れて応戦したとのことです。
けれども土塁に駆け上がった際に
堀へ転落し、上から槍で脚を
十ヶ所近く突かれ気を失ってしまいました。
家臣の芝山小兵衛は徳川家康に
「正成は討ち死にした」と伝えましたが、
遺体を回収しようと戻ったところ
生きていたため、
これを介抱しながら共に帰ったということです。

岡崎に帰着した後の6月15日、
服部正成は御先手頭を申し付けられています。

天正壬午の乱
同年には本能寺の変により
甲斐・信濃の武田遺領を巡る
天正壬午の乱が勃発し、
7月に服部正成は
徳川家康に従い甲斐に出陣しています。

徳川家康は現在の北杜市域を中心に
布陣した相模国の北条氏直に対して
甲府盆地の各地の城砦に布陣し、
服部正成は伊賀衆を率いて
勝山城(甲府市上曽根町)や
右左口砦・金刀比羅山砦(甲府市右左口町)
に配置され、甲斐・駿河を結ぶ
中道往還を監視しました。
勝山城で服部正成は
津金衆の協力を得て
周辺の地を守備しています。

同年8月、徳川勢が
信濃国佐久郡に侵攻すると、
服部正成は伊賀衆を率いて
津金衆・小尾祐光らの郷導を受け、
9月初旬には佐久郡江草城(獅子吼城
を夜襲し落城させました。
9月下旬、三嶋方面への北条氏侵攻により
三枚橋城の松平康親、大澤基宿から
要請を受けた服部正成は
戸倉城の援将として90騎程を率いて防衛し、
三嶋で刈田を行っています。
北条勢の戸倉城攻撃の際は
援将である本多重次と共に防衛にあたり、
服部正成は岡田元次と韮山で刈田を行いました。
この頃、服部正成は韮山の押さえのため
天神ヶ尾砦に入り、韮山方面への攻撃と
防衛にあたっています。
9月8日の夜には、敵の砦である
佐野小屋に伊賀者2人を忍び入れて
詳細に報告させ、同月15日、
伊賀衆を先鋒とし、大雨に紛れ攻め落としました。
この功を徳川家康は
「信玄・勝頼の二代を防いだ
堅固な砦をついに落とした」と
賞賛したということです。

信濃 山

同年12月、服部正成と伊賀衆は
江草城(獅子吼城)守備の任についています。




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天正11年8月、
服部正成は命を受け、
伊賀者200人を率いて
甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番となり
守備にあたっています。

小牧・長久手の戦い
天正12年3月、小牧・長久手の戦いでは
伊勢松ヶ島城の加勢で
伊賀甲賀者100人を指揮し、
鉄砲で豊臣方を撃退しています。
服部正成は二の丸を守備し、
筒井勢を防いでいます。
続く蟹江城の奪還戦で
服部正成と配下の伊賀鉄砲衆は
松平康忠と共に東の丸(前田口)の
包囲に加わり、
井伊直政の大手口突入が始まると
二の丸へ攻め入ったのでした。

小田原征伐
天正18年(1590年)の
小田原征伐に鉄砲奉行として従軍。
服部正成は大組百人の組頭として
根来衆50人を率いていたということです。
この時、日下部兵衛門(根来衆50人)、
成瀬吉右衛門(成瀬正成の誤り、30人)も
大組百人の組頭を務めています。
戦で服部正成は十八町口にて奮戦し、
首を十八級挙げたということです。

小田原城址(北条時代)

【旗印】
この際、服部正成が用いていた
黒地に白の五字附四半指物を
使番の旗印にしたいと
本多正信を通じて
徳川家康より求めがあったため、
服部正成はすぐにこれを差し出し、
以後は紺地に白の矢筈車紋の旗を用いました。
以後、徳川軍の使番旗には
白地に黒五字の旗印が採用され、
使番の中でも熟練し功績の多い者に
使用が許されました。
なお、服部正成が五字四半指物の
代わりに用いたという「矢筈車の旗」
の家紋の詳細については
判明しておらず、
一般的に服部氏が使用する
「源氏車に矢筈」や「矢筈車」
と呼ばれる場合のある
「矢尻付き三つ矢筈」等が
推察されているとのことです。

【遠江を与えられる】
小田原の陣の功により
遠江に知行を与えられた服部正成は、
徳川家康の関東入国後は
与力30騎および伊賀同心200人を
付属され同心給とあわせて
8000石を領しました。
自身は武将でしたが、父親である保長が
伊賀出身で忍びの出であった縁から
徳川家に召し抱えられた
伊賀同心を統率する立場に
なったということです。
この頃の知行は
遠州布引山麓の村
(場所不明。静岡県牧之原市布引原か)、
遠州イサシ村(浜松市西区伊左地町)、
サハマ村(浜松市西区佐浜町)、
天正の頃は遠州長上郡小池村
(浜松市東区小池町)のあたりで
あったといわれています。
また、慶長元年(1597年)には
服部正成が武蔵国橋戸村
(東京都練馬区大泉町)を
領していた記述が
地方文書に認められています。




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【最後の戦・肥前名護屋】
文禄元年(1592年)には
肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍。
徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、
共用の水汲み場で下人や
足軽らの諍いが起きたとのことです。
集まった両陣営の人数は戦いが起きる
寸全にまで膨れ上がったため、
服部正成は配下の兵に命じて
火縄に点火させ、前田の陣に
鉄砲を向けたということです。
また、「正成は争いを収めようと
肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、
本多忠勝が出てようやく事態が収まった」
とする説もあります。
この戦が服部正成にとって
最後の出陣となりました。

【病没】
慶長元年11月14日
(1597年1月2日)に病没し、
江戸麹町清水谷の西念寺に葬られました。
なお、没年について
寛政重修諸家譜は
慶長元年11月4日と記してあります。

【西念寺】
西念寺は、服部正成が生前に
松平信康の菩提を伴うために創建した
浄土宗の庵・安養院の後身です。
安養院は江戸麹町の清水谷にあり
(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)、
服部正成は文禄2年(1593年)に
徳川家康から300両を与えられ
寺院を建立するよう内命を受けたが、
西念寺の完成を待たず死去しました。
その後、西念寺は江戸城の拡張工事のため
寛永11年(1634年)頃に
現在地に移転したとのことです。

西念寺 本堂

西念寺の山号・寺名は服部正成の法名に因み、
現在も毎年11月14日に
「半蔵忌」の法要が行われています。
なお新宿区登録有形文化財である
「服部半蔵の槍」が奉納されています。
通常は非公開のため、
槍の拝観は要問合せとのことです。

<服部正成(半蔵)の墓>
服部正成(半蔵)の墓

<所在地>
所在地: 〒160-0011 東京都新宿区若葉2丁目9

<電話>
03-3351-0662

<交通アクセス>
(電車)
JR中央線・東京メトロ 丸ノ内線・南北線
「四谷」駅から徒歩10分程度。
※参拝者用の駐車場はあります。
※御朱印あります。

【伊賀同心との確執】
伊賀越えの後、新たに服部正成が
指揮権を預けられた「伊賀同心」
「伊賀衆」は、伊賀越えを支援した縁で
徳川家への仕官を望んだ
伊賀国の地侍とその家族であり、
服部正成自身の家臣ではありませんでした。
徳川家康は彼らを同心として雇い、
指揮権を伊賀の血筋である服部正成に与えました。
けれども同心らは
「自分達は徳川家に雇われたのであり
服部氏の家来になったのではない」
と認識していた事、
服部正成の父である保長が
早い時期に伊賀を出て三河に住んだ事、
伊賀における服部正成の家格は
自分達よりも下である事などを理由に、
彼に指揮される事を無念に
思っていたということです。
のちに彼らは「伊賀同心二百人組」として
組織化され江戸城周辺の守備にあたりましたが、
服部正成の死後も伊賀同心二百人組と
服部半蔵家との確執は続いたのでした。
指揮権を継いだ服部正成の長男で
三代目半蔵である服部正就の改易後、
伊賀同心二百人組は
四つまたは六つに分割解体され、
それぞれの組には新たに指揮者となる
旗本を置いて再編成される事となりました。
この時、四代目半蔵となった
正就の弟である正重は
大久保長安に仕える金山同心であったため、
伊賀同心の指揮者にはなりませんでした。
なお、彼ら伊賀同心とは別に
古くから三河地方に定住していた
伊賀出身者や服部党も多数おり、
彼らもまた、保長や服部正成と同じく
松平・徳川家に仕えていたとみられています。

【その後の服部家】
服部正成の死後、
伊賀同心支配の役と
服部半蔵の名は嫡男の服部正就が継ぎました。




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半蔵門
正成の屋敷は尾御門内にあったため、
この門は後に半蔵御門と
呼ばれるようになったということです。
この他服部正成が
徳川家康の危難を救った
「伊賀越え」を采配した功績を称え、
半蔵門と名付けられたとする説もあります。
その後、服部正成は赤坂御門の内
(松平出羽守の屋敷があった辺り)
に住みました。
服部屋敷の正確な場所は
現在も判明しておりませんが、
服部正成晩年の屋敷及び
安養院の場所については
一般的には
現在の清水谷公園周辺であったと
推測されています。

<清水谷公園・所在地>
〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町2−1

【半蔵門と甲州街道】
半蔵門から始まる甲州街道は
甲府へと続いています。
甲州街道沿いの麹町周辺には
徳川御三家や親藩屋敷、
旗本の屋敷をはじめ、
服部半蔵家と家臣の屋敷、
伊賀同心らの屋敷が配置されていました。

江戸城 堀

さらに江戸時代の甲府藩は
親藩や譜代が治めており、
享保3年(1718年)に
柳沢吉里が大和郡山に
国替えになってからは天領となって
甲府城代が置かれました。
甲州街道は浸水被害を受けにくい
安全な尾根道に作られており、
江戸城に直結する唯一の街道であると共に
江戸からの出陣・江戸への敵の侵入を
阻止するための重要な軍事街道でもありました。
また、将軍家に非常事態が起こった際に
江戸を脱出するための要路に
想定されていたといわれています。
現在では半蔵門は江戸城の非常口や
裏門であるという説が一般的ですが、
甲州街道が江戸城に直結する
街道の中で最も安全で強固に
守備されている事から
本来は正門であったとする説もあります。
服部正就の改易後、
伊賀組は江戸城内
(大奥、中奥、表等)を警護し、
甲賀組は江戸城外の門を警護していたということです。
江戸城 堀

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
山田 孝之(やまだ たかゆき)さんが演じられます。

大樹寺~徳川将軍家及び松平氏の菩提寺で歴代将軍の位牌が安置、岡崎城と大樹寺を結ぶビスタラインが有名です。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

清龍寺(浜松)~徳川信康(松平信康)の墓所となる信康廟があります。

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

岡崎城(日本100名城)~徳川家康の誕生地の城で岡崎公園は日本さくら名所100選でもあります。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

上ノ郷城 と鵜殿長照~伯父は今川義元、その子らは築山殿・松平信康・亀姫と身柄交換となった。

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

本多正信~一度は袂を分かつも盟友として家康を支え、徳川政権樹立の陰の立役者とされています。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

大久保忠世~家柄は松平清康からの家臣で、武功を上げ武田信玄からも称賛されたほどでした。

渡辺守綱~家康とは同い年で「槍半蔵」と呼ばれ「鬼半蔵」の服部正成と並び称されました。

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。

鳥居元吉~岡崎譜代の忠臣で徳川家康を支え「三河武士の鑑」と称された人物です。

鳥居元忠~竹千代時代からの側近で伏見城にて玉砕、その最期は血染め畳と血天井として後世に伝えられています。

茶屋四郎次郎(初代は茶屋清延)~三代に渡って徳川家康に仕え、多方面より支えた京都の豪商です。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

頭陀寺城跡~松下氏の居館跡、若き豊臣秀吉が仕え、井伊直政が養子に入り徳川家康に出仕。

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

歩き巫女~梓巫女、熊野比丘尼、くの一、信濃巫、甲斐武田氏では女性のみの集団で巫女頭の望月千代女がいました。

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