徳川家臣

井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。

井伊直政



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井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
井伊氏第20代当主(異説有り)。
上野国高崎藩の初代藩主。
後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。
遠江国井伊谷の出身で、
「柳営秘鑑」では榊原氏や鳥居氏と並び、
「三河岡崎御普代」として
記載されています。
また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、
江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、
現在の群馬県高崎市と
滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物です。

徳川二十八神将に数えられ、
徳川家康の天下取りを
全力で支えた功臣として、
現在も顕彰されています。
滋賀県彦根市では、
井伊直政が現在の彦根市の
発展の基礎を築いたことを顕彰して、
「井伊直政公顕彰式」という祭典が
例年ですと毎年行われているとのことです。

琵琶湖・湖岸

【生誕】
永禄4年2月19日(1561年3月4日)

【死没】
慶長7年2月1日(1602年3月24日)

【改名】
井伊虎松⇒ 松下虎松⇒
井伊万千代(幼名)⇒ 直政

【別名】
井伊の赤鬼、人斬り兵部(渾名)

【墓所】
滋賀県彦根市 祥壽山清凉寺
滋賀県彦根市 長松院
群馬県高崎市 竜広寺
静岡県浜松市 龍潭寺

【官位】
従五位下、従四位下、修理大夫、
侍従、贈従三位

【主君】
徳川家康

【藩】
上野高崎藩主⇒近江佐和山藩主

【氏族】
井伊氏(称・藤原氏)⇒松下氏⇒井伊氏

【父】
井伊直親

【母】
ひよ(奥山朝利娘)

【養母】
井伊直虎井伊直盛娘)
江戸時代中期、
享保15年(1730年)に著された
「井伊家伝記」では、
次郎法師(井伊直虎)を
井伊直政の「養母」と表現していますが、
江戸時代には実子でない
家督相続は養子関係を結んだことから、
「養母」とは井伊直政の
前代の当主という意味とのことです。
実際には、井伊直虎と井伊直政の間に
実母に代わる母子関係があったわけではありません。

【継父】
松下清景

【兄弟】
高瀬姫、吉直?、直政

【妻】
正室:花(松平康親娘・徳川家康養女)
側室:印具道重娘

【子】
直勝、直孝、
政子(松平忠吉正室)、
德興院(伊達秀宗正室)

【井伊家の嫡男として】
永禄4年(1561年)2月19日、
今川氏の家臣である
井伊直親の嫡男として、
遠江国井伊谷
(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
近くの祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)
で生まれました。
母は奥山朝利の娘もしくは妹のひよ。
幼名は虎松です。
井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、
当時の井伊家当主である
井伊直盛(虎松の父である井伊直親の従兄で養父)は
今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。

<桶狭間・地形>
桶狭間合戦場の地形絵図

<桶狭間・案内と配置>
桶狭間の戦い 案内図と説明文

【父・井伊直親誅殺】
父親の井伊直親は、
虎松の生まれた翌年の
永禄5年(1562年)、
謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されました。
当時、虎松はわずか2歳であったため、
井伊直盛の娘に当たる次郎法師が
井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となりました。




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【虎松暗殺の危機】
虎松も今川氏に命を狙われましたが、
新野親矩が助命嘆願して、
新野親矩のもとで生母・ひよと共に暮らしました。
けれども永禄7年(1564年)に
新野親矩が討死し、
そのまま新野親矩の妻のもとで
育てられたとも、新野親矩の妹で
井伊直盛で井伊直虎の母の祐椿尼
ひよが養育したとも云われていますが、
永禄11年(1568年)、
甲斐国の武田氏が今川氏を
攻めようとした際、
井伊家家老の小野道好
今川氏からの命令として、
虎松を亡き者にして
小野が井伊谷の軍勢を率いて
出兵しようとしたため、
虎松を出家させることにして浄土寺、
さらに三河国の鳳来寺に入れたのでした。

【徳川家康に仕えさせるために】
天正2年(1574年)、
虎松が父親の井伊直親の13回忌のために
龍潭寺に来た時、祐椿尼、直虎、ひよ、
龍潭寺住職・南渓瑞聞が相談し、
徳川家康に仕えさせようとします。
まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、
ひよが徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、
虎松を松下氏の養子にしたということです。
(「井伊家伝記」)。
天正3年(1575年)、
徳川家康に見出され、
井伊氏に復することを許された虎松は、
名を井伊万千代と改めました。
さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、
徳川家康の小姓として取り立てられました。

頭陀寺町第一公園 松下屋敷石碑

【武田氏との戦い】
万千代は、高天神城の戦い
攻略を初めとする武田氏との戦いで
戦功を立てました。

【元服して井伊直政に】
天正10年(1582年)、
22歳で元服し井伊直政と名乗ります。
同年の本能寺の変では徳川家康の伊賀越えに従い、
滞在先の堺から三河国に帰還しました。
天正壬午の乱で小田原北条氏との
講和交渉を徳川方の使者として担当し、
徳川家康が武田氏の旧領である
信濃国・甲斐国を併呑すると、
武田家の旧臣達を多数に付属されて
一部隊を編成することとなり、
旗本先手役の侍大将になりました。

【徳川重臣と赤備え
これにより、徳川重臣の一翼を担うことになります。
その部隊は、徳川家康の命により
武田の兵法を引き継ぐもので、
その代表が山県昌景の朱色の軍装
(または小幡赤武者隊)を継承した
井伊の赤備えという軍装でした。
天正10年8月までに「兵部少輔」と改称しました。
なお、「兵部大輔」とあるのは誤記とのことです。

天正11年1月11日、
徳川家康の養女で
松平康親の娘である花(後の唐梅院)
と結婚しました。

【井伊の赤鬼】
天正12年(1584年)の
小牧・長久手の戦いで、
井伊直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、
名を知られるようになります。
また小柄な体つきで顔立ちも
少年のようであったのことですが、
赤備えを纏って兜には
鬼の角のような立物をあしらい、
長槍で敵を蹴散らしていく
勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、
諸大名から恐れられたとのことです。




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【徳川家中で最も高い格式の重臣となる】
天正14年(1586年)10月、
徳川家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、
井伊直政の武勇及び政治的手腕を
豊臣秀吉は高く評価し、11月23日に
従五位下に叙位させ、
豊臣姓を下賜したということです。
更に天正16年(1588年)4月、
聚楽第行幸の際には、
徳川家中で当時筆頭家老であった
酒井忠次を始め、
古参の重臣達が諸大夫に留まる中、
井伊直政のみが昇殿を許される
一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、
徳川家中で最も高い格式の重臣となりました。
この時に「井侍従藤原直政」
という署名が見られ(「聚楽行幸記」)、
豊臣姓ではなく藤原姓を称しました。

【小田原討伐】
井伊直政は新参ながら
数々の戦功を評価され、
天正18年(1590年)の
小田原征伐では数ある武将の中で唯一
夜襲をかけて小田原城内にまで
攻め込んだ武将としてその名を知られています。
(「北条五代記」)

小田原城

【家臣団最高の12万石】
奥州仕置の九戸政実の乱でも
仕置軍の先鋒を務めました。
その後、小田原北条氏に代わって
徳川家康が江戸に入ると、
井伊直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に
徳川氏家臣団の中で
最高の12万石で封ぜられます。
慶長3年(1598年)には、
箕輪城を廃し、
南の和田城を改築して高崎城と改称して
新たな居城としました。
この時、箕輪城下に住んでいた
民衆達も高崎に移っています。

【黒田如水親子をはじめ親徳川へ】
慶長3年(1598年)、
井伊直政が番役として京都にいる
徳川家康のもとにいたときに
豊臣秀吉が死去します。
この後の政治抗争で井伊直政は
豊臣方の武将との交渉を引き受け、
徳川家康の味方に
引き入れることに成功しています。
特に黒田如水・長政父子とは
盟約を結ぶまでの関係を築き、
黒田家を通じてその他の武将も
親徳川に組み入れました。

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは徳川家康本軍に随行し、
本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、
東軍指揮の中心的存在となりました。
同時に全国の諸大名を
東軍につける工作を行い、
井伊直政の誘いや働きかけにより、
京極高次、竹中重門、加藤貞泰、
稲葉貞通関一政相良頼房
犬童頼兄らを西軍から
東軍に取り込んだとのことです。
関ヶ原本戦では先陣が福島正則
決まっていたにもかかわらず、
井伊直政と松平忠吉の抜け駆けによって
戦闘が開始されたとされていますが、
実際は抜け駆けとされている行為は
霧の中での偶発的な遭遇戦であり、
戦闘開始はそれに続く
福島隊の宇喜多隊に向けた
銃撃に求めるべきとされています。
なお、7月7日付で徳川家康から
諸将宛に出されている軍法の第4条で
抜け駆けは厳禁されており、
そもそも合戦開始時においても、
合戦後においても福島正則側から
徳川家康に対して何らの
抗議めいた態度は示されておらず、
井伊直政の開戦時における行為は、
かなり抑制されたものであり、
福島正則の名誉を傷つけないように
配慮されたものと推測されています。




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【猛追振りと大けが】
決戦終盤は島津義弘の甥である
島津豊久を討ち取り、
更に退却する島津軍を
百余騎率いて追撃します。
遂に島津義弘の目前まで迫り、
島津義弘討ち取りの命を下した際に、
島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、
落馬してしまいます。
あまりの猛追振りに
護衛も兼ねる配下が追い付けず、
単騎駆けのような状態であったということです。

毛利輝元から感謝される】
関ヶ原の戦い後は、
足に大怪我を負ったにも関わらず、
戦後処理と江戸幕府の
基礎固めに尽力しました。
西軍の総大将を務めた毛利輝元
との講和交渉役を務め、
毛利輝元からは直政の取り成し、
特に、周防・長門の2か国が
安堵された事に感謝され、
今後の「御指南」役を請う
起請文を送られています。

長宗我部元親・盛親との縁】
また、小牧・長久手の戦いでは
井伊直政が同盟交渉にあたり、
聚楽第行幸では同じ侍従以上の
大名行列に供奉し、昇殿した縁もあり、
長宗我部元親とは
入魂の仲であったとされています。
その息子で同じく親しい間柄にあり、
意に反して西軍に与する事となった
長宗我部盛親の謝罪の取次を仲立ちをしました。
その後、長宗我部盛親が
家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより
所領没収となった際には、
家臣の鈴木平兵衛を浦戸城へ派遣しましたが
長宗我部の家臣に抵抗されたため、
攻撃して城を接収しています。

島津氏との交渉】
その他、徳川氏と島津氏の
和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮しています。
最も井伊直政自身は和平交渉が
完全に終了する前に没したため、
その後の仲立ちは本多正信が引き継ぎました。

真田昌幸・信繫親子の助命】
真田昌幸とその次男である
真田信繁(幸村)の助命にも尽力しました。
これは、東軍に味方した真田昌幸の長男である
真田信之(信幸)の懇請を受け入れたもので、
真田信之(信幸)は将来まで
徳川家に尽くすだろうと
考えての行動だったということです。

【佐和山18万石】
これらの功によって、石田三成の旧領である
近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、
従四位下に任官されました。
(「井伊家譜」)
佐和山城跡

徳川家康は、西国の抑えと
非常時に朝廷を守るため、
京都に近い佐和山に井伊家を
配したと伝えられています。

【早い死去】
慶長7年(1602年)2月1日、
彦根城築城途中に佐和山城で井伊直政は死去しました。
享年は42歳でした。
遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた
場所で荼毘に付され、
その跡地に長松院が建立されました。




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【井伊家の家督】
家督は長男の直継(後の直勝)が継ぎましたが
病弱であったため、大坂冬の陣に出兵するに際し、
徳川家康の直命により、
次男である井伊直孝が指名されました。

【彦根藩30万石】
その後、彦根城が築城されると同時に
佐和山藩(18万石)は廃藩となり、
代わってこの地には新たに
彦根藩(30万石)が置かれました。
それ以来、彦根藩は明治時代になるまで
井伊氏の藩として栄えることとなったのです。

【井伊直政の人となり】
<美男子でもてなし上手、そして>
「容顔美麗にして、心優にやさしければ、
家康卿親しく寵愛し給い」
との記録があるように、
美男子として知られており、
徳川家康が豊臣秀吉に従属する前に、
徳川家康に懐柔策のため
人質として送られてきた豊臣秀吉の母の大政所
その侍女達が、井伊直政に惚れ込んだということです。
また、井伊直政のもてなしが
とても丁寧だったという理由もあります。

井伊直政は徳川家康の寵童だったとも
いわれています。
徳川家康は自邸の庭近くに
井伊直政の家居を作らせて折々通っていたとか。

<先輩たちの厳しい目>
井伊直政がまだ徳川家康の小姓だった頃、
大久保忠世の陣中に招かれて
他の武将とともに芋汁を振舞われました。
戦場の事であり味噌は糠味噌、
具は芋の葉や茎が混ざったものでした。
他の武将は芋汁を食べているのに、
井伊直政の食は進まず、
大久保忠世がどうしたのかを尋ねると、
井伊直政は「醤油はありませんか」と応じたとのこと。

このことを聞いた他の武将達は
「ここは戦場だと言うのに
そのような物があるわけがないだろう」
と口々に言い直政を非難しました。
大久保忠世は井伊直政に
「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。
兵士達はこのような物でも
満足には食べられない。
ましてや農民達の中には
もっと苦しい生活をしている者達もいる。
一軍の将になりたいのであれば、
このことを絶対に忘れてはならぬぞ。
そのためにここへ呼んだのだ」と諭したとのこと。
新参でありながらも若くして選抜され、
部下にも厳しかった
井伊直政に対する周囲の目は厳しかったそうです。
これ以後、井伊直政はよりいっそう
自分にも部下にも厳しくなっていったのでした。
(「名將言行録」卷之五十・大久保忠世の項)
なお、この「醤油」とは味噌を作る際の
「たまり」のことです。
現在のような醤油が
作られるようになったのは
江戸時代に入ってからとの事です。

<孔雀の羽で織った陣羽織>
伊賀越えに井伊直政は小姓組として従い、
勇壮な働きを見せて徳川家康を守ったとのことです。
この時の働きへの褒美として徳川家康から
孔雀の羽で織った陣羽織を授かっています。
この陣羽織は現在、新潟県長岡市与板町の
与板歴史民俗資料館に保管されています。




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<茶室で石川数正が同席>
人質の大政所を豊臣に返す際に、
大政所の懇願で警護を任されました。
井伊直政の手厚い保護に豊臣秀吉は大変喜び、
自ら茶を立てて井伊直政の疲れを癒そうとしました。
そこには、かつては徳川家康の家臣でしたが、
今は豊臣秀吉の下に寝返って
家臣となった石川数正も同席していました。
このことに我慢ができなくなった井伊直政は
石川数正に向かって、
「先祖より仕えた主君に背いて
殿下に従う臆病者と同席すること、
固くお断り申す」と怒鳴ったそうです。
なお、石川数正が豊臣秀吉の下に去ったのは
天正13年(1585年)で、
この事件が起こったのはその1年後となる
天正14年(1586年)のことでした。
この時期の内外における名声は、
「ほまれ日本(ひのもと)に覆(はばか)る
威光無疑(うたがいなし)」
(「甲陽軍鑑抜書後集」)というものでした。

<小田原征伐にて>
小田原征伐の時、
400人の北条方を討ち取り
「万事にぬきんで合戦し、
天下に誉を得後代に名を残せり」
(「北条五代記」)と称揚される
働きをしたとのことです。

<人斬り兵部>
井伊直政は徳川家中の中では
外様でありながら、
徳川家臣随一の領国を与えられていました。
このため、三河譜代からの家臣から
嫉妬や反発もされていました。
また厳しすぎる奉公ぶりは自分だけにとどまらず、
周囲にも強要するほどのものでした。
そして井伊直政自身は気性が激しく、
家臣のわずかな失敗も許さずに
手討ちにすることも少なくなかったため、
「人斬り兵部」とも称されたということです。
また、家臣に気安く声を掛けることも
殆ど無かったということです。
元来、寡黙な性格ではありました。
けれども、政治的手腕は
非常に優れていたため、
箕輪城主の頃は、城下の民衆から
慕われていたとのことです。

<本多重次と名馬>
大身になる前の頃、井伊直政が
どうしてもとねだるので
徳川家康が数ある愛馬の中から、
特に栗毛の名馬を井伊直政に与えました。
これを聞いた本多重次が
わざわざ井伊直政のいるところで、
「あのような名馬を万千代みたいな
子倅にくれてやるとは、
殿も目が暗くなったのではないか」
といった意味のことを放言したそうです。
年が下って徳川家康が関東に移ると
井伊直政は家中一の大身となったのに対し、
豊臣秀吉の怒りにふれた本多重次は
徳川家康から3000石しか与えられず、
上総国古井戸(小糸)(現在の千葉県君津市)
にて蟄居を命じられました。
そして、大身になった井伊直政は
本多重次と顔を合わせた時、
「昔、殿が名馬を下さった時に
子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、
このような大身になれたのは、
名馬に違わぬ働きをしたからでございます。
目が暗かったのは
本多殿の方でありましたな」と言い放ったとか。
(「井伊年譜」)。

小早川隆景の評価>
毛利家の重臣である
小早川隆景は井伊直政の武勇
及び政治的手腕に関して
「直政は小身なれど、
天下の政道相成るべき器量あり」
と評価したことがあるとか。
これは井伊直政がその気になれば、
天下を取ることもできるということを
意味しているそうです。
また、小早川隆景だけでなく、
地方の武将達も同じようなことを
噂していたとかいないとか。

鍋島勝茂より賛辞を受ける>
関ヶ原の戦いが終結し、
西軍に与した立花宗茂征討軍議が
佐和山落城後に行われた時に
鍋島勝茂から、井伊直政の作法や容儀や勢いが
言葉にも述べられないほど見事であったと
賛辞を呈され「天下無双、英雄勇士、
百世の鑑とすべき武夫なり」と評されたとのことです。
(「葉隠」)。

<井伊家の家臣の人事は家康の許可制>
井伊家の家臣の中には井伊直政による
厳しい軍律に耐えられなくなり、
本多忠勝の下に去る者達も
多かったということです。
近藤秀用庵原朝昌などのように
出奔してしまった例もあります。
筆頭家老である木俣守勝ですら、
井伊直政の下にいるのが怖くなり、
徳川家康に旗本に戻してくれるように頼んだそうです。
けれども、徳川家康は自分を支える軍団育成を
井伊直政に期待し
(井伊直政に武田氏の旧臣が
付けられた背景でもあります)、
そのために初期の井伊家の重臣の人事や
軍の編成には徳川家康の意向が直接介入し、
井伊直政は徳川家康の許可なく
家中の人事が行えないなど
主君としての権限は制約され、
重臣たちは徳川家康の許可なく勝手に
井伊直政の下を離れられなかったと
されています。
なお近藤秀用は出奔後、
徳川家康からは10年間許されず、
その旗本復帰も徳川秀忠
池田輝政のとりなしによるものでした。

<本多忠勝とはライバル?>
生涯に参加した57回の戦で
軽装備であったにもかかわらず、
一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、
井伊直政は重装備でありましたが、
戦で常に傷を負っていたということです。
井伊直政と本多忠勝は度々
比較の対象となることがあり、
2人はお互いにライバル同士で
あまり仲が良くなかったとされています。




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榊原康政との関係>
一方本多忠勝と同年齢の榊原康政とは、
最初はあまり仲が良くなかったと
されていますが、徳川家康が
関東に入国してから共に
行動をすることが多くなり、
段々と仲が良くなっていったと
されています。
徳川家康の筆頭家老である
酒井忠次も徳川家康と同じように
井伊直政に対して暖かい目で見守っていたそうです。

榊原康政は「大御所(家康)の御心中を知るものは、
直政と我計りなり」と語り、
常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、
必ず直政も病になるだろう。
また直政が先立てば、
自分の死も遠くない」と語り、
井伊直政が従軍するとあれば、
榊原康政は安心し、榊原康政が従軍するとあれば
井伊直政は安堵したということです。
(「武備神木抄」、「名将言行録」)。

<恐妻家ゆえの直孝との関係>
正室である唐梅院に対しては恐妻家で、
誰よりも負けず嫌いであった井伊直政も
彼女だけには頭があがらなかったということです。
唐梅院は自身の侍女が井伊直政の子(直孝)を
孕んだと知ると彼女をその父親である
印具徳右衛門の元に帰してしまいました。
印具が松平康重の家臣であったため、
関東移封の時にその城地・私市(騎西)へと移る
途上の藤枝宿で直孝は生まれました。
その後、直孝は母の元で育ちました。
直孝が6歳になると、
母は箕輪城の井伊直政の外出の時を待って
彼を引き渡しましたが、
井伊直政はすぐに箕輪のとある庄屋に
直孝を預け置き養育を託しました。
12歳でやっと直孝は秘密裏に
井伊直政に召し寄せられ、
井伊直政所用の采配を授けられましたが、
翌年に井伊直政は他界しました。

<江戸幕府開府の一番の功労者>
生前の井伊直政の働きは、
徳川家康が幕府を開くにあたっての
一番の功労者であると
江戸幕府編修の系譜集である
「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」に
記録されているとのことです。

【井伊の赤備え】
天正10年(1582年)の
小田原北条氏との講和によって、
武田氏の旧臣達約120人と
徳川家康の旗本の一部が
配属されたことから始まります。
この時、徳川家康により井伊直政は
兜や鎧を始めとする戦で使用する
全ての装備品を赤色で統一させました。
これはかつて武田の赤備えの将であった
山県昌景の意志を継ぐという
意味もありましたが、
その他に赤色だと目立ちやすく、
戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが
一目で分かるという意味もありました。
以後、井伊氏の軍装は
幕末まで赤備えを基本とされました。

【子孫】
家督は長男の井伊直継(後の直勝)が
継ぎましたが病弱だったため、
徳川家康の直命により、
井伊直継は分家して上野安中藩主となり、
異母弟の井伊直孝が
井伊直政の家督を継ぐことになりました。
以降は井伊直孝の子孫が
彦根藩主を継承することとなります
(井伊掃部頭家)。
直勝と改名した直継の子孫(井伊兵部少輔家)は
安中藩主⇒三河西尾藩主⇒遠江掛川藩主⇒
越後与板藩主として存続しました。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
板垣 李光人(いたがき りひと)さんが演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

鳥居元吉~岡崎譜代の忠臣で徳川家康を支え「三河武士の鑑」と称された人物です。

鳥居元忠~竹千代時代からの側近で伏見城にて玉砕、その最期は血染め畳と血天井として後世に伝えられています。

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

本多正信~一度は袂を分かつも盟友として家康を支え、徳川政権樹立の陰の立役者とされています。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

大久保忠世~家柄は松平清康からの家臣で、武功を上げ武田信玄からも称賛されたほどでした。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。

黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。

桶狭間古戦場伝説地~国指定史跡、「桶狭間の戦い」の合戦が繰り広げられた伝説地です。

桶狭間古戦場公園~桶狭間の戦いの中心地の一つ、合戦当時の地形、城、砦がジオラマ化されています。

頭陀寺城跡~松下氏の居館跡、若き豊臣秀吉が仕え、井伊直政が養子に入り徳川家康に出仕。

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

小幡景憲~甲州流軍学の創始者で「甲陽軍鑑」成立に携わった人物、墓所は厚木市にある蓮生寺。

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

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