徳川家臣

大岡弥四郎(大賀弥四郎)~民政や算術に長け岡崎の町奉行であったが武田と通じ謀反を画策する。

岡崎城



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【大岡弥四郎】

大岡 弥四郎(おおおか やしろう)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。
徳川家康の嫡男である
松平信康の家臣でしたが、
謀反を計画したために処刑されました。
大賀弥四郎とされていましたが、
正しくは大岡氏(大岡 弥四郎)で
あるとする有力な見解があります。

【死没】
天正3年4月4日(1575年5月23日)?
「岡崎東泉記」は大岡弥四郎が
没する事件のあった月を10月としています。

【別名】
大賀弥四郎

【主君】
徳川家康、信康

【氏族】
大岡氏か

【妻】
中根正照の娘

【生涯】
【出自】
名字について、寛永3年(16266年)成立の
「三河物語」を始め「朝野旧聞裒藁」
「徳川実紀」では
彼の名を大賀弥四郎としています。
その一方で元禄年間成立の
「岡崎東和泉記」や
「伝馬町旧記録」といった
岡崎地方の資料には
大岡弥四郎としています。
大賀氏は松平氏の家臣として
名が見られる一族ではありますが、
大岡氏は弥四郎と同様に
松平信康に仕えた人物として
大岡正成・義勝を出しており、
そのため大岡弥四郎とすべきものを
後世の誤謬ないし作為によって
大賀弥四郎と訛って
伝えられたとする見解があるとのことです。

「三河物語」では大岡弥四郎は
譜代の「御中間」であったとしていますが、
その出自を松平氏譜代の
家臣筋である大岡氏とすれば
「烈祖成績」が「奴隷」と
表現するような
下賤の出身ではないこととなります。
この事は後述の事件を矮小化しようとする
後世の操作によって、
出自を低くされていたと
みられているとのことです。

【人物について】
「岡崎領主古記」によりますと、
大岡弥四郎は松平新右衛門と
江戸右衛門七とともに岡崎城主である
松平信康の下で町奉行を務めていたといい、
諸書とも一致するとのことです。
それ以前の経歴については、
「三河物語」は中間だったとしていますが、
「岡崎東泉記」は大岡弥四郎が
徳川家康の馬丁を務めていた時の逸話として、
矢作川が氾濫して河水が濁り
水深も覚束なくなった際、
大岡弥四郎が真っ先に瀬踏みを敢行したため、
これを賞されて200石取りと
なったとしています。
その後渥美郡20余郷の代官に任じられ、
また中根正照の娘・於松を妻に
娶ることになったとのことです。
「徳川実紀」によりますと、
民政や算術に長けたために
抜擢を受け、浜松城岡崎城を往来して
徳川家康及び徳川信康(松平)双方に
仕えたということです。
また徳川家康が老臣らの諫めを聞かずに
鷹狩りに熱中した際、
大岡弥四郎のみは徳川家康に
扈従したのだということです。




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【謀反発覚、妻子ともに処刑】
天正3年(1575年)、
松平新右衛門らとともに
武田勝頼に内通して武田軍を
岡崎へ引き入れようとする
謀反を企てました。
真田昌幸の岡崎城乗っ取りの
書状を持った武田氏の密偵である
医師の減敬(滅敬)が、
徳川家康の重臣である
酒井忠次の命をうけた
大久保忠世の家臣によって
捕縛されて事が露見しました。
大久保忠次の命にて
野中重政(野中三五郎)が
医師・減敬を処刑しています。
このように事前に
その計画が露見したため
不発に終わったとのことです。
大岡弥四郎は捕らえられて
酒井忠次が処分の責任者になると
岡崎及び浜松城下において
引き回しの上、鋸挽きの刑に処され、
大岡弥四郎の妻と4人の子は
磔となったとのことです。
ただし2人の娘は徳川家康によって
助命されて、のち尼僧になったとも。

【大岡弥四郎(大賀弥四郎)事件】
「伝馬町旧記録」によりますと、
天正2年(1574年)頃までに
大岡弥四郎や松平新右衛門らは
一揆契約を交わし、
武田勝頼に内通して
その侵攻を幇助しようと
していた旨の記述があるそうです。
その余党には信康家老鳥居氏陪臣の
小谷甚左衛門
(なお事件に参画した小谷氏について、
「三河物語」等は
名を甚左衛門としていますが、
「岡崎東泉記」は甚右衛門の子で
九郎左衛門としているとのことです)、
他に倉地平左衛門らがいたとのことです。

【「三河物語」記述の計画内容】
「三河物語」はその計画について
以下のように記されているとのことです。
大岡弥四郎は徳川家康が
到来したと偽って
岡崎城に呼びかけて開門させる。
その隙に武田軍は東三河から
岡崎へ侵攻して城を占領し、
城主の徳川(松平)信康を自害させる。
また岡崎在留の諸士の妻子を
人質に取って徳川家臣団を服属させ、
進退窮まった徳川家康やその家臣らは
所領を落ち延びるだろうから、
これを待ち伏せて討ち取る。

以上の内容の書状を武田勝頼に送り、
その同意を取り付けたとしています。




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【歩き巫女による築山殿の調略】
一方で「岡崎東泉記」では、
武田氏が遣わした歩き巫女が
岡崎城中にまで入り込んで
築山殿(瀬名)とも連絡を
取っていたとされています。
築山殿は松平信康を
三河国主にすると言う
武田勝頼の提案に乗じ、
謀反に参画したという内容です。

【山田重英が信康に通報】
山田重英は岡崎家老鳥居氏の陪臣でした。
が、同輩の小谷氏に誘われて
大岡弥四郎の一党に加わっていました。
けれども山田重英は後に翻意して
謀反の事実を岡崎城の信康に通報しました。
信康は当初信用しなかったとのことですが、
山田重英の提案で家来に
密談を間諜させたため事は露見したのでした。
また「伝馬町旧記録」では、
徳川家康は事前に一揆の風聞を掴んでおり、
信濃国へ出入りする塩商人に
申し付けて事情を探らせていたとのことです。
なお「徳川実紀」は別に以下の話を載せています。

家康・信康父子から異例の寵愛を受けていた
弥四郎は増長し、岡崎城家老たちすら
異見できないほどの権威を得ていたとのこと。
ある時近藤壱岐という譜代の武士が
加増となった際、弥四郎は自分が
執り成しをしたためであると
放言したため、
近藤は怒って加増を辞去することを
申し出ました。
この騒動を知った家康は近藤から
弥四郎の専横を知り、
弥四郎の罪を問うて家財を没収。
その中に武田勝頼に内通する
書状が発見されたのだということです。

【露見後の顛末】
このように謀反計画が露見した
大岡弥四郎は妻子も含めて処刑されました。
同輩の松平新右衛門は大樹寺において自害し、
小谷甚左衛門は大久保忠世の家来である
大岡清勝によって米河内城にて
討ち取られました。
倉地平左衛門は甲斐国へと
逃れていきました。
また事件には不関与だった
大岡弥四郎同輩の江戸右衛門七も
責任を問われて詰め腹を切らされました。
一方で山田重英は返り忠を賞されて
1000石の加増を受けたということです。

【大賀弥四郎となった理由】
この事件があったため
大岡一族に配慮し、
大岡弥四郎(大岡忠賀)は
「大賀弥四郎」と言う
名前だったと言う事にしたとも
いわれています。
なお、江戸時代に名奉行で有名な
北町奉行であった大岡忠相(大岡越前)は、
大岡忠賀の従兄弟である
大岡忠勝(大岡善吉の子)
の後裔であるとのことです。

【この事件を利用した人物は?】
計画によると、信康は自害させる方向であるので
どう転んでも殺されるターゲットである
信康本人がこののち「謀反」に
加担することなど
ないはずなのですが・・。

生母の瀬名(築山殿)には、
自分の息子を「国主」にする、
なんて囁いても、「じゃあその話のるわ」
なんてことにならないと思うのです。
やはりこれは浜松と松平譜代の家臣団である
岡崎の家臣の対立が真実なのでしょうか?
そこにどうやって徳川家康に大ダメージを与えようと
狙っていた織田信長がこの騒動を利用した・・・
と歴史素人の自分は考えてしまうわけです。




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ところで、この大岡弥四郎は、
徳川家そのものを謀反で乗っ取ろうと
するつもりだったのでしょうか?
家康と信康を最終的には
討ち取り・自害させる
計画であったのですから。
徳川親子から
特に目をかけられていたという
大岡弥四郎が何故謀反を
起こそうとしたのか
イマイチその動機がわかりません。
何故、そこまで駆り立てられたのか?
もやもや感があり、すっきりしません。
かえってナゾが深まる気もします。
表沙汰にできないあるいはしたくない
何らかの事情がありそうな気もします。

さて・・この騒動には石川数正の名が
挙がってこないのですが・・・さて??

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
毎熊 克哉(まいぐま かつや)さんが
演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

大久保忠世~家柄は松平清康からの家臣で、武功を上げ武田信玄からも称賛されたほどでした。

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

歩き巫女~梓巫女、熊野比丘尼、くの一、信濃巫、甲斐武田氏では女性のみの集団で巫女頭の望月千代女がいました。

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

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