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武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

武田勝頼公



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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての
甲斐国の戦国大名です。
甲斐武田家第17代当主。

諏訪氏としての名】
通称は四郎です。
当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を
継いだため、諏訪四郎勝頼、
あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、
伊奈四郎勝頼ともいいます。
または、武田四郎・武田四郎勝頼とも言う。
「頼」は諏訪氏の通字で、
「勝」は信玄の幼名「勝千代」に
由来する偏諱であると考えられています。
父である武田信玄足利義昭に官位と
偏諱の授与を願いましたが、
織田信長の圧力によって果たせませんでした。
そのため正式な官位はありません。
信濃への領国拡大を行った
武田信玄の庶子として生まれ、
母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となります。
武田氏の正嫡である長兄の
武田義信が廃嫡されると継嗣となり、
元亀4年(1573年)には
武田信玄の死により家督を相続します。

高遠城 現代の勘助曲輪

【滅亡への道】
強硬策を以て領国拡大方針を継承しますが、
天正3年(1575年)の
長篠の戦いにおいて
織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に
領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、
佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、
織田氏との甲江和与も模索し、
甲斐本国では躑躅ヶ崎館より
新府城への本拠地移転により
領国維持を図りましたが、
織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、
天正10年(1582年)3月11日、
嫡男である信勝とともに天目山で自害しました。
これにより平安時代から続く甲斐源氏の名門であり、
戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡しました。

義清神社

武田勝頼の再評価】
近世から近現代にかけて
神格・英雄化された武田信玄との対比で、
武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、
悲劇の当主とする肯定的評価など
相対する評価がなされており、
武田氏研究においても
単独のテーマとしては
扱われることが少なかったのでした。
けれども近年では
新府城の発掘調査を契機とした
武田勝頼政権の外交政策や内政、
人物像など多様な研究が行われています。

【生誕】
天文15年(1546年)

【死没】
天正10年3月11日(1582年4月3日)

【改名】
諏訪勝頼⇒武田勝頼

【別名】
伊奈勝頼、通称:四郎

【墓所】
法泉寺、景徳院(山梨県)
妙心寺玉鳳院(京都府京都市)
高野山奥の院(和歌山県)

【官位】
大膳大夫(公称)、
左京大夫?
(「言経卿記」天正10年3月22日条)

【幕府】
室町幕府信濃守護職

【主君】
武田信玄

【氏族】
神氏諏訪氏⇒源姓武田氏

【父】
武田信玄

【母】
諏訪御料人

【兄弟】
義信、海野信親、信之、勝頼、
仁科盛信葛山信貞、信清、
黄梅院、菊姫

【妻】
正室:龍勝院(遠山直廉の娘、織田信長養女)
継室:北条夫人北条氏康六女)

【子】
信勝、男(周哲大童子)、
勝親、貞姫(宮原義久室)、他

【出生】
天文15年(1546年)、
武田晴信(信玄)の四男として生まれました。
生誕地や生月日、幼名は不明です。
母は武田信虎後期から武田晴信初期に
同盟関係であった
信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人です。
(実名不詳、乾福院殿)

【同盟の手切れと諏訪氏滅亡】
武田氏は武田勝頼の祖父にあたる
武田信虎期に諏訪氏と
同盟関係にありましたが、
父の武田晴信は天文10年(1541年)6月に
武田信虎を追放する形で
家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、
天文11年(1542年)6月には
諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら
諏訪一族は滅亡しました。
武田晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、
諏訪頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて
諏訪遺臣を糾合し、高遠頼継を制圧しました。




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【諏訪氏の反乱】
武田晴信は、側室として
諏訪御料人を武田氏の居城である
甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、
天文15年(1546年)に
武田勝頼が誕生します。
諏訪頼重遺児である千代宮丸は
諏訪惣領家を相続することなく
廃嫡されており、
同年8月28日には
千代宮丸を擁立していた
諏訪満隆が切腹を命じられており、
反乱を企てていたと考えられています。

【武田家中の根強い反対】
躑躅ヶ崎館で母とともに
育ったと考えられてはいますが、
武田家嫡男の武田義信や
次男・海野信親(竜宝)に関する
記事の多い「高白斎記」においても
武田勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、
乳母や傅役など幼年期の事情は不明です。
なお、「甲陽軍鑑」では
武田勝頼出生に至る経緯が
詳細に記されてはいますが、
内容は疑問視されているとのことです。
武田信玄が諏訪御料人を
側室に迎えることには、
武田家中でも根強い反対が
あったとも考えられています。

【諏訪家家督を継ぐ】
武田信玄は信濃侵攻を本格化して
越後国の上杉氏と対決し、
永禄5年(1562年)の
川中島の戦いにおいて
信濃平定が一段落しています。
武田信玄は信濃支配において、
旧族に子女を入嗣させて懐柔する
政策を取っており、武田勝頼の異母弟である
仁科盛信は信濃仁科氏を継承していますが、
武田勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、
諏訪氏の通字である「頼」を名乗り
諏訪四郎勝頼となります。
なお武田氏の通字である「信」を
継承していない点が注目されています。
武田勝頼は跡部重政(右衛門)ら
8名の家臣団を付けられ、
従弟の武田信豊らと共に
親族衆に列せられています。

【高遠城主となる】
諏訪勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり
信濃高遠城主となり、
武田勝頼の高遠城入城に際しては
馬場信春が城の改修を行ったとされています。
武田勝頼期の高遠領支配は
3点の文書が残されているのみで、
具体的実情は不明でありますが、
独自支配権を持つ支城領として
機能していたと考えられています。
ほか、事跡として高遠建福寺で行われた
諏訪御料人の十七回忌や、
永禄7年(1564年)に
諏訪二宮小野神社に梵鐘を
奉納したことなどが見られるとのことです。

【初陣】
永禄6年(1563年)、
上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)
で初陣を飾っています。
長野氏の家臣・藤井豊後が、
物見から帰るところを追撃し、
城外椿山にて組み打ちを行い
討ち取っています。
その後の箕輪城・倉賀野城攻めなどでも
功を挙げています。

その後、武田信玄晩年期の戦の
ほとんどに従軍し、
永禄12年(1569年)の
武蔵国滝山城攻めでは
北条氏照の家老・諸岡山城守と
3度槍を合わせたとされています。

三増峠の戦い
小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、
松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と
馬上で一騎討ちを行ったとされています。

【武田義信事件】
永禄8年(1565)、
異母兄で武田家後継者であった
武田義信の家臣らが
武田信玄暗殺の密謀のため
処刑され、
武田義信自身も幽閉されてしまいます。

同11月、
武田勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)
との婚礼が進められており、
この頃の武田信玄は従来の
北進戦略を変更し、
織田家と同盟して信濃侵攻や
東海方面への侵攻を
具体化しており、
家臣団の中にも
今川義元の娘を室とする
義信派との対立があったのではないか
という見方もされています。
次兄の竜宝は生まれつきの
盲目のために出家し、
三兄の信之は夭逝していることから、
武田勝頼が信玄の指名で
後継者と定められました。

【嫡子 信勝誕生】
永禄10年(1567年)、
高遠城で正室の龍勝院との間に
嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生します。

元亀元年(1570年)1月、
花沢城を攻略、城を開かせました。

【甲府への召喚と正室の死去】
元亀2年(1571年)2月、
武田勝頼は甲府へ召還され、
叔父の武田信廉が高遠城主となっています。
同年9月16日、
正室・龍勝院殿が死去しています。
武田勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を
高野山成慶院へ派遣し、
龍勝院の供養を行っています。




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織田信忠松姫が婚約】
永禄10年(1567年)12月、
武田・織田同盟の補強として、
異母妹で7歳の松姫と
織田信長の嫡男である
織田信忠(11歳)との婚約が成立しました。

【家督相続】
武田氏は小田原北条氏と甲相同盟を結び、
諸勢力とともに将軍である足利義昭の
織田信長包囲網に参加し、
元亀3年(1572年)には
西上作戦を開始しました。

武田勝頼は武田信豊・穴山信君とともに
大将を務め、同年11月に
徳川方の遠江二俣城を攻略し、
12月の三方ヶ原の戦いでも
織田・徳川連合軍と戦いました。

二俣城・虎口

元亀4年(1573年)4月12日、
武田信玄が西上作戦の途中で病死したため、
武田姓に復し家督を相続し、
武田氏第17代当主となります。
しかし、表向きは武田信玄の死を隠して
隠居とし、武田勝頼が家督を相続したと
発表されていたとされています。

【織田・徳川の反攻】
元亀4年(1573年)の武田信玄の死により、
織田信長・徳川家康らは窮地を脱しました。
そして織田信長は将軍である
足利義昭を河内国に追放しました。

同年の天正への改元後、
織田信長は越前国や近江国に
攻め入って朝倉義景浅井長政を滅ぼしました。
また徳川家康も武田氏に従っていた
三河国山間部の山家三方衆の
奥平貞能・貞昌親子を寝返らせるなど、
武田信玄存命中は守勢であった
織田・徳川連合軍の逆襲が始まったのでした。
これに対して武田勝頼は、
勢力拡大を目指して外征を実施します。

一乗谷 朝倉氏館跡

明知城の戦い】
天正2年(1574年)2月、
東美濃の織田領に侵攻し、
明知城を落としました。
織田信長は嫡男である織田信忠と共に
明知城の後詰(援軍)に
出陣しようとしましたが、
それより前に武田勝頼が
明知城を落としたため、
織田信長は岐阜に撤退しました。

飯羽間城の戦い】
天正2年(1574年)、
武田勝頼は飯羽間城を攻め落としました。

高天神城の戦い
天正2年(1574年)6月、
遠江国の徳川領に侵入し、
武田信玄が落とせなかった高天神城
陥落させて城将・小笠原長忠を降し、
東遠江をほぼ平定しました。

9月、天竜川を挟んで徳川家康と対陣、
その後浜松城に迫り、浜松城下に放火しました。




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長篠の戦い
天正3年(1575年)、
武田勝頼は先年徳川家康に寝返った
奥平親子を討伐するために
兵1万5000(一説には8000から1万)
を率いて三河国へ侵入し、
5月には奥平信昌
立て籠もる長篠城への攻撃を開始。
けれども、奥平勢が善戦する
長篠城は武田軍の攻撃を支え、
長篠城攻略に時間を費やすこととなるのでした。

そして、織田信長・徳川家康の連合軍
およそ3万8千(一説には織田軍1万2千。徳川軍4千)が
長篠(設楽ヶ原)に到着し、
馬防柵を含む陣城の構築を開始しました。
これに対し、武田勝頼は長篠城の抑えに
兵3千を残し、主力1万2千(一説に兵6千)を率いて
設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙。
長篠決戦前日の戦闘で
勝利していたこともあり、
武田軍の士気は高かったのでした。

長篠・設楽原合戦屏風絵図

けれども野戦ではなく、
むしろ攻城戦に近い状況
(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を
感じ取った武田信玄以来の重鎮たちは
撤退を進言したということです。
けれども、武田勝頼は織田・徳川との
決戦を選択し、5月21日早朝に
開戦することとなったのでした。

5月21日、午前6時頃から
午後2時頃まで
戦闘は続けられましたが、
数で劣る武田軍では
連合軍防御陣の犠牲となった
土屋昌次が戦死します。
攻めの勢いを喪失したその後、
武田軍は総崩れとなり、
敗走する中で馬場信春、山県昌景
内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟等、
将士を失ってしまいます。
また、本戦に先立つ
鳶ノ巣砦の攻防戦では、
主将の河窪信実・三枝昌貞(守友)などが、
その直後に引き続き行われた
長篠城近辺の戦闘で
高坂昌澄が戦死しています。
武田勝頼は菅沼定忠に助けられ
一時的に武節城へ篭りましたが、
伊那郡へ退却しています。

この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者、
一説には武田方1千、
織田徳川連合軍600の損害を
出したといわれています。

【長篠敗戦後の織田・徳川氏の反攻】
長篠の戦いによる敗退後、
織田・徳川軍はさらに反攻を強め、
奥三河の田峰城・武節城・作手城を奪還しました。

天正3年(1575年)6月に
徳川家康は遠江二俣城を包囲し、
犬居谷の光明城を攻撃しました。
犬居谷を制圧すれば、
武田の遠江侵攻経路と
二俣城の補給を遮断することが可能でした。
家康旗本衆の活躍により、
武田勝頼から犬居谷防衛を任せられた
天野景貫は光明城を明け渡し撤退しました。
犬居谷の制圧を終えた徳川家康は、
高天神城の補給拠点として
機能していた諏訪原城を攻撃しました。
2千の駿河衆が大井河を渡り
徳川家康と対峙しています。

【牧野原城】
同年8月、徳川家康が諏訪原城を落城させ、
牧野原城に改名しました。
武田勝頼は戦死した
山県昌景の後任として、
穴山梅雪を江尻城代とし
駿遠の防衛を委ねました。
徳川軍はさらに小山城を包囲。
同月、武田勝頼は1万3千の兵を率いて
小山城へ出兵します。
徳川軍は撤退し、
二俣城と高天神城への補給を終えた
武田勝頼は甲府へと帰還しました。

岩村城陥落】
長篠合戦以後、
三河国から武田方が
締め出されたのを皮切りに、
同年11月には織田信長の下命を受けた
嫡男の織田信忠を総大将とした
5万の織田軍によって
東美濃の岩村城を陥落させられ、
織田方に降伏した飯田城代及び
伊那郡代である秋山虎繁は処刑されました。

【二俣城の陥落】
同年12月24日、
徳川軍の包囲に耐えかねた
二俣城が開城し、
依田信蕃が高天神城に
撤退したことによって高天神城が孤立しました。

【高天神城救援】
天正4年(1576年)春、
武田勝頼は高天神城救援のため
遠江国へ出兵し、
徳川方の横須賀城(静岡県掛川市)を攻めます。
「甲陽軍鑑」では城主の大須賀康高の抗戦により、
武田勝頼は相良城へ撤兵しました。

天正5年(1577年)閏7月、
徳川家康が高天神城を攻めると、
武田勝頼は7月19日に出兵し
9月22日に江尻城へ入ります。
10月20日には小山城を経て
大井川を越えると、10月20日に
馬伏塚城(まむしづかじょう)
において徳川方と抗戦。
武田勝頼は10月25日に撤兵しています。

天正6年(1578年)3月3日、
徳川家康は駿河田中城を攻撃し、
7月15日には高天神城攻撃の拠点となる
横須賀城を完成させています。




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【田中城・高天神城へ】
武田勝頼が上杉氏の御館の乱の発生により
信越国境へ出兵中の8月、
徳川家康は小山城を包囲し、
田中城への攻撃を開始します。
このため、武田勝頼は
越後国から撤兵すると、
10月に田中城・高天神城へ入ります。

11月3日、武田勝頼は横須賀城へ侵攻し、
徳川家康と抗戦しています。
その後も両軍は交戦し、
10月17日には島田、
10月19日には青島で合戦があり、
武田勝頼は田中城へ撤兵しています。

高天神城址 高天神社

御館の乱と甲相同盟の破綻】
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため
越後上杉氏・相模小田原北条氏
との同盟強化に着手します。
武田信玄後期に小田原北条氏とは
甲相同盟を復活し、
上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそ
ないものの緊張関係が続いていました。

甲相越三和
天正3年(1575年)、
紀伊国に亡命していた
将軍・足利義昭が武田氏(甲斐)・
小田原北条氏(相模)・上杉氏(越後)
三者の間での和睦をするよう
呼びかけます。
長篠の敗戦後、上杉謙信との和睦を
模索していた武田勝頼にとって
足利義昭の上意は渡りに船であったのでした。

9月28日、武田勝頼は足利義昭側近の
一色藤長に対して、足利義昭の和睦案の
受け入れを表明しました。
上杉謙信は武田との和睦には
反対しませんでしたが、
北条との和睦は拒絶しました。
(「上越市史」)
小田原北条・上杉間の不和により
甲相越三和は実現しませんでしたが、
武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、
長篠の敗戦とその後の
織田、徳川の攻勢によって
窮地に立たされていた
武田勝頼は外交状況の改善に成功しました。

【甲芸同盟】
天正4年(1576年)2月、
足利義昭が安芸国の
有力大名・毛利輝元に庇護を求め、
その勢力圏である備後国鞆要害に下向しました。
4月には毛利輝元が足利義昭の庇護を受け入れ、
5月に織田信長との同盟破棄に踏み切ります。
6月16日に毛利輝元挙兵を知らせる
書状を受け取った武田勝頼は、
武田・毛利間の同盟を求める書状を送りました。
同時期、6月12日に足利義昭は、
武田、北条、上杉の三者に
甲相越三和を命じる御内書を再度下しています。
前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きでした。
9月16日にも武田勝頼は毛利輝元に対して、
6か条の軍役条目を送っています。
この頃に毛利氏との間で
同盟が成立したと考えられています。
武田勝頼は上杉氏とは
足利義昭を間に挟んで和睦継続を確認し、
天正5年(1577年)正月22日に
北条氏政の妹(北条夫人)を
後室に迎えるなど、
双方と外交関係を強化していましたが、
上杉・小田原北条間の外交関係は
険悪な状態が続いていたのでした。

【御館の乱】
天正6年(1578年)3月13日、
越後国で上杉謙信が病死すると、
北条氏政の弟(遠縁との説もある)で
上杉氏に養子として出されていた
上杉景虎(旧名・北条三郎)と
上杉謙信の甥で養子の上杉景勝の間で
家督を巡り御館の乱が起こります。
武田勝頼は北条氏政から上杉景虎支援を要請され、
5月下旬には武田信豊らを信越国境へ派遣し、
6月29日には自らも越後国へ出兵し、
上杉景勝・上杉景虎間の調停を試みます。
上杉景勝方から和睦が持ちかけられると、
これを受け入れています。




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これにより武田勝頼は上杉景勝と和睦し、
条件であった上杉領を接収すると、
一方で景虎方との和睦調停も継続し、
8月19日には春日山城において
両者の和睦を成立させます。
武田勝頼は徳川家康の
小山城・田中城への攻撃を受けて
8月27日に帰国。
その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、
天正7年(1579年)3月24日には
上杉景勝方の勝利により乱は収束します。
武田勝頼は明確な景勝支援は行ってはいませんが、
乱の終結によって小田原北条氏との関係は険悪化しました。

小山城址(遠江国)

【甲相同盟の破綻】
同年9月、武田氏と小田原北条氏の両者は
手切となり、甲相同盟は破綻しました。
武田氏と小田原北条氏は、
領国を接する駿河・伊豆・
上野方面において抗争状態に突入しました。
小田原北条氏は徳川家康と同盟を結び、
駿河国において武田氏は
挟撃を受ける事態に陥ります。

【甲越同盟の意味】
これに対し、武田勝頼は妹の菊姫を
上杉景勝に嫁がせ、
上杉氏と甲越同盟を結びましたが、
上杉氏は内乱後の深刻な後遺症により
上杉領国外への影響力は失っていました。
そのため、甲越同盟は対北条同盟でなく、
対織田信長の協約として機能しました。
同年10月8日、
武田勝頼は常陸国の太田三楽斎を介して、
佐竹義重との同盟交渉を試み、
甲佐同盟を結びます。
さらに、里見義頼
小弓公方らとの連携を模索し、
小田原北条氏に対抗します。
ことに上野国戦線では
真田昌幸の活躍もあって、
小田原北条氏方を圧倒しました。

【甲江和与】
一方、武田と織田信長との関係は、
長篠の戦い以降は小康状態が続いており、
武田勝頼は佐竹義重を介して
織田信長との和睦を模索します。
天正7年(1579年)11月16日、
織田信長養女龍勝院を母とする
嫡男・武田信勝への官途奏請を行い、
信勝は元服しています。

【徳川・小田原北条氏との戦い】
天正7年(1579年)2月には
上野国厩橋城の城代・北条高広
武田方に降伏しています。

4月23日、
武田勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、
4月25日には高天神城に近い
国安に本陣を置きました。
徳川家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと
両軍は対峙し、武田勝頼は4月27日に
国安から撤兵し、
4月29日に大井川を越えると
5月24日に甲府へ帰還しています。

大井川

【広木大仏の合戦】
前年の御館の乱・甲相同盟の崩壊を経て、
天正7年(1579年)7月には
東上野に出兵し、
敵対関係となった
北条氏邦と対陣しています。
「甲陽軍鑑」では、北条氏邦は
鉢形・秩父衆を率いて
武蔵広木城・大仏城を陥落させ、
これに対して武田勝頼は
西上野衆を率いて
両城の奪還を試みましたが、
兵を引いています。

武田水軍拠点の落城】
天正7年(1579年)9月には
徳川・北条間に同盟が成立し、
北条氏政が沼津から三島へ侵攻し、
9月13日に武田勝頼は
駿河黄瀬川において北条氏政と対陣します。
徳川家康も北条氏政に同調し、
当目坂城・持船城(武田水軍拠点)
を落城させ、由比・倉沢へ侵攻しました。




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10月、武田勝頼が江尻城まで
兵を引き徳川家康を待ち構えると、
徳川家康は撤兵し、12月9日に
武田勝頼も甲府へ帰陣します。

天正8年(1580年)3月、
北条氏政は伊豆口へ侵攻し、
足柄峠に布陣します。

4月、梶原備前守率いる
北条水軍が沼津へ侵攻すると、
武田勝頼は浮島ヶ原へ布陣し、
伊豆沖で武田水軍に
北条水軍を迎撃させました。

【膳城素肌攻め】
9月、武田勝頼は東上野へ出陣し、
利根川を越えると新田金山城を攻め、
膳城を落としました。
膳城での戦いは「膳城素肌攻め」
といわれており、
「甲陽軍鑑」によりますと、
元々武田勝頼が
平服で視察していたところ、
酒に酔って喧嘩をしていた
膳城の城兵が武田軍に
襲いかかってきたので、
武田勝頼は反撃して城を攻撃し、
落城させたと記載されています。

【持船城の奪回】
天正8年(1580年)、
武田勝頼は持船城を奪回します。
城代に朝比奈信置を置きました。

【新府城の築城と甲江和与の模索】
天正9年(1581年)正月、
武田勝頼は現在の韮崎市中田町中條に
新たに新府城を築城し、
躑躅ヶ崎館・要害山城の所在する
甲府城下町からの本拠移転を開始しました。
一方、小田原北条氏に対しては、
同年3月14日には佐竹義重を介して、
安房国の里見義頼とも同盟を結んでいます。

【高天神城落城の代償】
3月22日、
徳川軍の攻撃によって
高天神城は窮地に陥りますが、
この頃織田信長との和睦を試みていた
武田勝頼は織田信長を刺激することを警戒し、
後詰を派遣することができずに城は落城しました。
高天神城に後詰を送らず
見殺しにしたことは
武田家の威信を致命的に失墜させ、
国人衆は大きく動揺したということです。
また、織田氏はこれを契機に
高天神城落城の喧伝を行い、
織田・徳川からの調略が激しくなり、
日頃から不仲な一門衆や
日和見の国人の造反も始まることになるのでした。

【武田水軍の勝利】
3月29日、
伊豆久竜津(くりょうつ)において
武田水軍は梶原備前守率いる
北条水軍と戦い、勝利します。
武田水軍はさらに伊豆半島の西海岸を襲撃しました。

5月、武田勝頼は遠江国へ出兵しています。

9月、武田勝頼は伊豆国へ出兵し、
10月には小田原北条方の
笠原政尭(新六郎)が守備する
駿東郡戸倉城を攻めます。
笠原政尭は抗戦しましたが、
11月には笠原政尭が武田方に内通したため、
武田勝頼は駿河沼津城の城代である
曽禰河内守を援軍として派遣し、
武田勝頼自身も伊豆へ出兵すると、
三島に本陣を置く北条氏政と対陣しました。

12月24日、武田勝頼は新府城へ移りました。

【織田信長が和睦を黙殺】
武田勝頼は織田信長との和睦交渉を継続し、
前年には勝頼側近の大竜寺麟岳らと協議し、
武田家に人質として滞在していた
織田信房(御坊丸)を織田家に返還し、
織田信房を仲介に織田信長との和睦を試みます。
一方、織田信長は朝廷に働きかけ、
正親町天皇に武田勝頼を「東夷(=朝敵)」
と認めさせ、石清水八幡宮などの有力寺社で
祈祷が行われるなど、
武田氏討伐の格好の大義名分を得ていたのでした。
織田信長は武田勝頼との和睦を黙殺し、
12月には翌年の天正10年(1582年)に
武田領攻撃を家臣に通告します。

【木曽討伐】
天正10年(1582年)2月、
武田信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する
木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠
仲介を頼み、岐阜の織田信忠に忠誠を誓いました。
木曽義昌は弟の上松蔵人を
人質として美濃に送りました。
同時期に駿豆国境を守る
曽禰河内守と
江尻城代・穴山梅雪が
織田・徳川氏に内応を約束しています。
武田勝頼は外戚の木曾の反逆に対し、
人質を処刑した上で、
武田信豊を大将とする1万の
木曾討伐の軍勢を送り出しました。
しかし、雪に阻まれ進軍は困難を極め、
木曽義昌が陳弁し
武田への忠誠を約束したため、
討伐軍は進軍を停止しました。




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【甲州征伐】
その間に織田信忠が伊那方面から、
金森長近が飛騨国から、
徳川家康が駿河国から、
北条氏直が関東及び伊豆国から
武田領に侵攻を開始します。

【浅間山の噴火】
そして、織田軍の侵攻の始まった
2月14日に浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は
東国で異変が起こる前兆だと
考えられており、
さらに噴火の時期が
朝敵指名および織田軍侵攻と
重なってしまったために、
武田軍は大いに動揺してしまったと
考えられています。

【歯車がかみ合わない武田軍】
これらの侵攻に対して武田軍では
組織的な抵抗ができませんでした。
伊那口防衛を任せられた
下条信氏親子は家老・下条九兵衛の
寝返りにより三河国へと逃亡。
河尻秀隆の軍が伊那口の滝ノ沢城を接収し、
森長可率いる先鋒軍が
鳥居峠を経由して下伊那へと侵攻しました。
信濃松尾城主の小笠原信嶺は
狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、
飯田城の保科正直は高遠城に逃亡しました。
武田勝頼の叔父・信廉は
在城する対織田・徳川防戦の要であった
大島城を捨て、甲斐国に敗走し、
伊那戦線は崩壊しました。
武田勝頼は今福筑前守を大将とする
木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じましたが、
木曾軍に翻弄されて敗走。
深志城からの攻撃を計画していた
馬場美濃守は安曇・筑摩の反乱に
足止めされていました。
駿遠方面では徳川家康が小山城を奪還、
田中城を迂回して駿府に入りました。
用宗城の朝比奈信置を敗走させると
抵抗する田中城の依田信蕃を下し、
内応を約束していた穴山信君の歓迎をうけました。

木曽福島城と福島の町並み

【武田勝頼を見捨てる家臣たち】
この情報に接した武田軍の将兵は
人間不信を起こし、将兵は武田勝頼を見捨て、
隙を見ては逃げ出したのでした。
唯一、抵抗を見せたのは
武田勝頼の弟である
仁科盛信が籠城する高遠城だけでした。

【さらば、未完の新府城】
同年3月3日、武田勝頼は
未完成の新府城に放火して逃亡しました。
武田勝頼は小山田信茂の居城である
岩殿城に逃げようとしました。

【小山田信茂の裏切り】
けれども小山田信茂は、
織田方に投降することに方針を転換し、
武田勝頼は進路をふさがれたのでした。
後方からは滝川一益の追手に追われ、
逃げ場所が無いことを悟った
武田勝頼一行は武田氏ゆかりの地である
天目山棲雲寺を目指したのでした。

天目山の戦い
3月11日、その途上の田野で
滝川一益の追手に捕捉され、
巳の刻(午前11時頃)に
武田勝頼は嫡男の信勝や
正室の北条夫人とともに自害しました。
享年は37歳でした。
これによって、戦国大名としての
甲斐武田氏は滅亡したのでした。

辞世は
おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは」。

【死後】
武田勝頼父子の首級は京都に送られ、
長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首されました。

【嫡男の元服】
武田勝頼は追い詰められた際、
跡継ぎの武田信勝が
元服(鎧着の式)を
済ませていなかったことから、
急いで陣中にあった小桜韋威鎧
(国宝。武田家代々の家督の証とされ
大切に保管されてきた)を着せ、
そのあと父子で自刃したという話が
残っています。
その後、鎧は家臣に託され、
向嶽寺の庭に埋められましたが、
後年になって徳川家康が
入国した際に掘り出させ、
再び菅田天神社に納められたとことです。




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【菩提寺の建立と再興した武田家】
後に徳川家康により菩提寺として
景徳院が建てられ、
信勝や北条夫人と共に
菩提が祀られています。
江戸時代以降に再興する
武田家は、武田勝頼の兄で
盲目のため出家していた
次兄・海野信親(竜宝)の系譜とのことです。

【武田勝頼公銅像】
、場所はJR中央本線
「甲斐大和」駅ロータリーに有ります。
ロータリー内はバスが通りますので
駐車は禁止です。

【所在地】
〒409-1203 山梨県甲州市大和町初鹿野

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

苗木城と苗木遠山氏~天然の巨岩を配し木曽川を従える天空の山城~遠山七頭

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。

小山城跡(こやまじょう)(遠江国)~武田VS徳川家康との激戦の地・赤い口の蛙伝説

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

田中城(田中城下屋敷)~円形輪郭式の縄張をもつ徳川家康が鯛の天ぷらを食した城です。

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

千石墻の砦~小幡信真の配下であった浅香播磨守重明が秩父地方の攻略時に築いた砦とのことです。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

小幡景憲~甲州流軍学の創始者で「甲陽軍鑑」成立に携わった人物、墓所は厚木市にある蓮生寺。

奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。

越前大野城址~雲海に浮かぶ天空の城~一向一揆平定の恩賞として金森長近が築城

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

木曽福島城~天文年間に木曽義康が築城、後に小笠原氏に攻め込まれました。

木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。

海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。

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