史跡・城跡

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

清道院(武田信成館跡・赤甲城)



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【武田信成館】

山梨県笛吹市の清道院は
武田信成(または15代当主信守)の館跡と伝わり、
甲斐武田氏11代武田信成の館跡と伝えられています。
武田信成館は現在の清道院境内一帯に築かれていました。
別名は赤甲城とも称するそうです。
境内には武田信成室の墓と
身投げしたと伝えられる井戸があります。
また、北側の道路との間に空堀が残っています。

甲斐国では南北朝時代に安芸守護・武田信武が入府し、
在地の石和流武田氏は没落しました。
武田信武・武田信成・武田信春の時代
(15世紀初頭まで)に
守護所は八代(笛吹市)・
千野(甲州市塩山千野)に置かれ、
それまでの政治・経済的中心地であった
石和(笛吹市石和町)から離れた場所に
移転されました。
一方で武田信武と武田信春は
笛吹市石和町市部の観音寺や
笛吹市石和町松本の大蔵経寺など
寺社の再興を行い、
一族を石和近辺に住まわせています。

清道院(武田信成館跡・赤甲城)

なお、武田信義の孫の代となる
武田信政の子供となる武田信時(五郎次郎)が
安芸守護信時流武田氏祖となり、
その弟である武田政綱(五郎三郎)が
石和流武田氏祖となります。

武田信武は武田信時の曾孫の代となります。

武田氏略系図(清道院)

【所在地】
〒406-0821 山梨県笛吹市八代町北1750−4

【武田信成夫人の墓】
寺伝によりますと応永5年(1398年)
武田信成が信州へ出陣中に
館が攻められ、武田信成夫人は
この井戸に身を投じて亡くなったとのことです。
応永17年(1410年)に
子供の武田信春が母の菩提の為、
城を寺に改め虎渓和尚を
開山始祖にしたということです。

武田信成夫人の墓

・・・武田信成は応永元年(1394年)に
亡くなったとの事です。
実際には子供の武田信春が信州に出陣し、
其の留守中に攻められたのではないでしょうかね?
或いは館が攻められた年はもっと前だったか・・。

【身投げ井戸】  
武田信成夫人 身投げ井戸

【武田信時】

武田 信時(たけだ のぶとき)は、
鎌倉時代中期の武将です。
甲斐武田氏の第7代当主となります。
室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る
信時流武田氏の祖となります。
通称は武田五郎次郎です。

父は第6代当主である武田信政です。
母は大内惟義の娘と伝わっています。
兄弟に政綱(五郎三郎)がいます。
子に武田時頼、
武田政頼、武田時綱、武田信実などがいます。




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【武田信時の生涯】
武田信時の祖父にあたる武田信光(武田信義の五男)は
文治5年(1189年)の奥州合戦において
安芸国への出陣催促を行っており、
平家討伐後には西国へも
鎌倉幕府の影響力が及び、
武田信光は安芸守護としての職権を
行使していることが指摘されています。
承久の乱を経て再び安芸守護を在職し、
文暦2年(1235年)5月9日まで在任しています。

武田信光の孫にあたる武田信時は、
承久の乱の前年にあたる
承久2年(1220年)5月17日に
甲府の館にて生まれました。
幼名は音光丸です。
寛喜元年(1229年)1月15日、
当時の執権である北条泰時
烏帽子親として元服し、
「時」の偏諱を与えられて信時と名乗りました。

鎌倉時代のうち文永3年(1266年)までの
歴史が記される「吾妻鏡」には3回登場します。
嘉禎3年(1237年)6月23日、
大慈寺(現・神奈川県鎌倉市)境内に
新築された丈六仏を安置するための
堂の開眼供養が行われ、
将軍・九条頼経も参加する
その行列の後陣の随兵の一人に
「武田五郎次郎信時」の名が確認できます。
翌年の嘉禎4年(1238年=暦仁元年)
2月17日の将軍・頼経の外出に際しても、
その護衛兵の47番として
「武田五郎次郎」が随伴しているとの記述があります。
仁治元年(1240年)8月2日、
箱根・走湯の二所権現参りに向かう
将軍・頼経が最初に鶴岡八幡宮に参詣した際、
その行列の「後騎」の一人として
「武田五郎次郎」も随行しています。

その後「吾妻鏡」には登場しなくなりますが、
文永6年(1269年)4月には
武田信時の守護代武藤時定の動向が見られ、
同年11月には蒙古襲来(元寇)に備え
御家人を率いて西国への出向を命じられています。
以来建治2年(1276年)まで
西国における動向が見られ、
武田信時は安芸守護に
在職していたと考えられています。
ただし、建治元年(1275年)5月の
「造六条八幡新宮用途支配事」では、
「鎌倉中 武田入道跡」が
100貫を納めているため、
鎌倉に屋敷があったとも考えられています。

弘安2年(1279年)5月19日に出家、
光海と号しました。
のち正応2年(1289年)に死去し、
跡を子の武田時綱が継いだとされています。
武田信時は室町・戦国期の
甲斐守護武田宗家に至る
信時流武田氏の祖で、
南北朝期には武田信時の曾孫にあたる
武田信武が石和流武田氏の政義を排斥して
甲斐国守護を継承し、
以来室町・戦国期に至るまで甲斐守護を継承しています。

【武田政綱】

武田 政綱(たけだ まさつな)は、
鎌倉時代中期の武士です。
北条氏得宗家被官である御内人です。
清和源氏の出身で石和流武田氏の祖です。
「吾妻鏡」の1263年の記述では
「政直」と呼称されているが、
これは誤植とされています。

【武田政綱の生涯】
「吾妻鏡」では、武田政綱は
仁治から弘長年間に活動しており、
その事績は鶴岡八幡宮放生会の供奉人や弓始、
笠懸における射手としての活動に集中しています。
建長3年(1251年)正月、
弓始の儀式で射手を務めています。
同年8月、犬追物、笠懸の射手を担当しています。
弘長元年(1261年)、笠懸を披露する
北条時宗の為に的をこしらえました。
同3年11月22日(1263年12月24日)、
北条時頼の臨終の際、
最後の看病を許された得宗被官7人の中に
武田政綱の名が見えます。




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兄の武田信時は安芸国守護となり
甲斐国から移住しましたが、
武田政綱は甲斐に残留し石和を本拠として
石和流武田氏の一族となりました。
なお、黒田基樹は「石和三郎」は
祖父である武田信光(武田信義の五男)
以来の名乗りであり、
武田信時流が惣領を継承したものの、
武田政綱流も北条氏と結びつくことで
惣領家から自立して
「甲斐武田氏」を形成したとしています。

鎌倉時代末期には
武田政義(石和流武田氏の出自)が
甲斐守護となっていますが、
南北朝期には信時流武田氏の政武が甲斐へ再土着し、
室町期に甲斐守護を継承し
戦国大名化した武田宗家となるのです。

【武田信武】

武田 信武(たけだ のぶたけ)は、
南北朝時代の武将です。
武田信政の子である
武田信時にはじまる信時流武田氏の生まれです。
甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主です。
「甲斐国志」によりますと、
「生山系図」を引用し
室を足利尊氏の姪としています。
室町幕府の引付衆にも任じられています。
父親の武田信宗の後を受けて当主となりました。
安芸国守護でしたが、
自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明です。

元弘2年/正慶元年(1332年)9月、
元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣。
そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した
後醍醐天皇の建武政権においては
討幕軍に従い戦った
甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していました。
建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、
建武2年に挙兵し、
熊谷蓮覚の本拠矢野城(広島市)を攻略しています。
翌年には上洛し、
足利勢と合流し主に
畿内を中心として宮方と戦い、
また安芸国内の沈静化にも務めています。

鎌倉時代後期には、
安芸守護として本拠を移した
信時流武田氏に代わって
甲斐守護は北条得宗家と結びついた
庶流石和流武田氏が継承していました。
武田政義は建武政権に加わり
甲斐守護を安堵されていましたが、
1343年に戦死しています。
武田政義の死後には甲斐への介入を強め、
貞和2年(1346年)に
一蓮寺へ行った寄進をはじめ
甲斐国との関係を示す史料が見られます。
将軍足利尊氏と
実弟の足利直義の対立から発生した
観応の擾乱の最中には
甲斐守護への補任を示す史料が見られ、
足利直義追討のため
甲斐へ入国したと考えられています。

足利尊氏の信頼が篤く、
足利尊氏が天竜寺を
造営しようとした際には
信濃守護小笠原氏らと造営に協力しています。
没年は甲府市の法泉寺の位牌によりますと
延文4年(1359年)ですが、
一蓮寺過去帳や
傑翁是英語録によりますと
康安2年(1362年)であるということです。
家督は子の武田信成が継承し、
安芸守護職は次男の武田氏信が継承しました。

和歌に優れた教養人でもあり、
「新千載和歌集」には武田信武の作品が
修められています。

【武田信成】

武田 信成(たけだ のぶなり)は、
南北朝時代から
室町時代初期にかけての武将です。
本姓は源氏です。
家系は清和源氏の一家系 河内源氏の傍系 
甲斐源氏嫡流武田氏で
甲斐武田氏の第11代当主です。
甲斐国守護・守護代です。
第10代当主の武田信武の嫡男です。
第12代当主・武田信春、
武田基信、武田武春、
布施満春、栗原武続の父です。
安芸武田氏当主武田氏信の兄です。
出生地は不明ですが、
父親の武田信武の動向から
安芸国で生まれた可能性が考えられています。
初見史料は「一蓮寺文書」の
暦応2年(1339年)で、
甲斐国巨摩郡一条郷(山梨県甲府市)を
甲府一条小山の時宗道場である
一蓮寺に寄進しています。
父の武田信武は安芸国守護で、
建武政権から離反した
足利尊氏の軍勢催促に応じ
南北朝の争乱においては北朝方に属し
安芸を中心に活動していました。
武田信武は甲斐国守護を兼任して
南朝方の活動していた甲斐への介入を行っており、
武田信成は父に先んじて守護代として入国しています。




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武田信武は観応2年(1351年)には
観応の擾乱に際して足利尊氏の関東下向に随行し、
箱根・竹下の戦いでは甲斐で
軍勢催促を行い参加しています。
合戦後には武田信成により
波多野清秀へ軍忠状が与えられています。
(「黄薇古簡集」)。
観応3年(1352年)には
等々力郷の万福寺
(山梨県甲州市勝沼町等々力)
に禁制を与えています
(「万福寺文書」)。
同年、上野国で蜂起した
南朝方新田氏との武蔵野合戦においては
武田信武率いる甲斐国人勢が参加しており、
このときも武田信成による軍勢催促が
行われたと考えられています。
武蔵野合戦を契機に
武田信成の発給文書が減少する一方で
波多野清秀に対しての軍忠状など
武田信成の子である武田信春による
発給文書が増加しており、
守護代職を武田信春に譲っていると考えられています。

武田信成館跡 井戸

1359年に武田信武が死去し、
武田本家の家督と甲斐守護職を
継承していると考えられています。
なお安芸国守護は弟の武田氏信が継承しています。
1370年には将軍足利義満の命を受け
大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市)の伽藍を改築し、
康暦2年(1380年)には
塩山に向嶽庵
(後の向嶽寺、甲州市塩山上於曽)
を構える抜隊得勝に寺領を寄進し、
向嶽寺の開祖となっています。
「一蓮寺過去帳」によりますと
応永元年6月13日(1394年7月11日)
70歳で死去とあります。

武田信春公館~甲斐源氏第12代及び武田氏9代当主であった武田信春の居館跡です。

栗原氏館跡(甲斐国)~甲斐守護・武田信成の子である武続が始祖となる栗原氏の館跡です。

甲斐・琵琶城~武田氏第13代当主武田信満の庶子である倉科信広が築城したとのことです。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の譜代家老を務めました。

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

甲斐・須沢城~南北朝・観応の擾乱にて落城、須沢城の悲劇として後世に語られる逸話があります。

竹之下合戦古戦場~足利尊氏が新田義貞に大勝した地~時代は南北朝へ入っていきます。

甲斐・上野城(甲斐・椿城)~築城は小笠原氏の子供の上野氏でその後に秋山氏、大井氏の居城となります。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

湯村山城~躑躅ヶ崎館の西の守りの詰めの城として武田信虎が築城しました。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。

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