史跡・城跡

羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の縁の地~

大原観音寺 石田三成の井戸






【大原観音寺】

所在地 滋賀県米原市朝日1342
電話:観音寺(伊富貴山観音護国寺)
0749-55-1340

【概要】
観音寺(かんのんじ)は、
滋賀県米原市にある天台宗の寺院です。
山号は伊富貴山。本尊は十一面千手観音。
通称:大原観音寺。
正式名称は伊富貴山観音護国寺(いぶきやまいぶきやまかんのんごこくじ)
大原観音寺

【歴史】
仁寿年間(851年ー854年)、三修によって創建されました。
もとは伊吹山四大護国寺として法相宗(ほっそうしゅう)に属していましたが、
弘和(永徳)3年(1383年)に天台宗に改めました。
本尊の十一面観音像は行基(ぎょうき)作で、
伊吹山(1377.1m)の霊木を刻んだものと伝えられています。
胎内に、貞応3年(1224)の銘を記す伝教大師坐像は、
鎌倉初期の作品で高さ約65cmの一木造で、
国の重要文化財に指定されています。
堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、
薬師堂、鐘楼、山門などからなります。
秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、
寺の小僧をしていた石田三成(いしだみつなり)を
「三碗(さんわん)の才」で見出したことで名高い寺です。

大原観音寺 看板

【三碗(さんわん)の才】
ある時、鷹狩りに出かけた羽柴秀吉はのどの渇きをおぼえ、
この大原観音寺に立ち寄ります。
そして当時、この寺に寺童子として仕えていた佐吉・
少年時代の石田三成が秀吉にお茶を持ってきます。
それは大ぶりの茶碗に7~8分目位の量で、
ぬるめのお茶でした。
秀吉は量が多めでぬるいお茶を一気に飲み干すと、
喉の渇きは癒えましたが
もう一杯のお茶を所望しました。
すると、次に佐吉(石田三成)が運んできたお茶は、
前のお茶よりは少し熱めで量もお茶碗に半分ほどでした。
秀吉はこのお茶を飲み、満足になり、
更にもう一杯のお茶を所望します。
しばらくして、また佐吉がお茶を持ってきます。
今度のお茶は小さいお茶碗で量も少なく、
そして温度は熱めのお抹茶でした。
秀吉はこの熱めで量が少ないお茶を
ゆっくりと味わうように飲んだとか。

秀吉はこの石田少年の心遣いや機転に、
感動して、大原観音寺の住持(住職)に掛け合って、
「この子の気配りや機転には感服した。
やがては奉公職を与える程の才能がある。」
秀吉の家臣にすべく、
佐吉を自分に仕えさせました。





<石田三成 水汲みの井戸・説明板>
石田三成 水汲みの井戸

<場所>
青印は駐車場付近です。
境内の門入ってすぐに「水汲みの井戸」の看板があります。
池に沿って左方向に歩き、池のほとりに「水汲みの井戸」はあります。

<重文>木造伝教大師坐像(でんきょうだいしざぞう)
<交通アクセス>
【車】北陸自動車道「長浜IC」から約10分
駐車場:
普通車10台・大型車 1 台

【石田三成 出生屋敷跡】

所在:滋賀県長浜市石田町治部576
石田三成屋敷跡

<交通アクセス>
【電車及びバス】
JR長浜駅下車⇒湖国バス近江長岡駅行きで20分、バス停:石田下車、徒歩3分
【車】
長浜ICから10分
<駐車場及び場所>
あり(石田会館)

会館外には、「石田治部少輔出生地」と刻まれた石碑や三成の銅像あります。

<石田三成公 史跡案内図>
石田三成公 史跡案内図

【石田三成公供養塔】

<所在地>滋賀県長浜市石田町548
八幡神社の境内の奥にあります。
<場所>

<看板1>
石田三成供養塔 看板

<看板2>
石田三成供養塔 看板

<供養塔・境内>
石田三成 供養塔境内

<供養塔>
石田三成供養塔

<辞世の句>
石田光成 辞世の句

<自筆の歌>
石田三成 自筆の歌

【石田三成】

石田 三成(いしだ みつなり)は、
安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。
豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、
毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しましたが、
関ヶ原の戦いにおいて敗れ、
京都六条河原で処刑されました。
享年41歳。
墓所は京都大徳寺の三玄院に葬られました。
三玄院には古田織部の墓があり、
古田織部好みの茶室「篁庵」があるそうです。
明治11年清泉寺・大源庵と合併し、
龍翔寺の場所へ移動しています。





【誕生】
永禄3年(1560年)、
石田正継の次男として
近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生しました。
幼名は佐吉。
石田村は古くは石田郷といい、
石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされています。
父親の石田正継(いしだまさつぐ)は、
近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)
出身の地侍、あるいは京極氏の被官とする説があり、
詳細はよくわかっていないそうです。

【戦よりも計算・経営・行政】
秀吉に才能を見出されて家臣となります。
秀吉の天下統一後は、
近江佐和山に19万石の所領を与えられました。
三成は経理や事務の才に優れ、
豊臣政権では五奉行の1人となります。
けれども、
同じ「秀吉の子飼い」であった加藤清正福島正則
武断派と次第に対立していくのでした。

明智光秀との接点】

本能寺の変で信長や明智光秀が死去し、
秀吉が次の天下人として地位を固めるにつれて、
三成もまた秀吉の側近として次第に頭角を現していきます。
従って、三成と明智光秀の直接の接点はありません。
けれども、関ヶ原での戦いの前、三成の政策が原因で、
明智光秀の娘である細川ガラシャ(玉(珠))は
人質にとられるのを拒み、死を選びます。
それは後世に語り継がれるほどの壮絶な最期でした。
そしてそのガラシャの死は、その後の三成に影響を及ぼし、
結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある程です。

また以下の逸話があります。
明和7年(1770年)成立の
『常山紀談』を出典としているとのことです。

石田家中で行われた密議での話。
三成に対して家臣の島左近
「豊臣家のための決起は即断すべきで猶予は不要。
が、好機は逸し、家康に味方する者多く、
当家の存亡は予測が出来ぬ。ここは筋を曲げてでも
今まで疎遠であった諸大名と遺恨なきよう親交し、時を待つのが策」
と進言したそうです。
これに対して三成は
「一時の成功よりも、
事が起きた後いかに平穏にさせるのかを考えるべき」
と受け入れなかったそうです。

三成が来客のため場を離れると
三成家臣の樫原彦右衛門は左近に向かって
「あなたの言うことがもっともだ。
松永久秀と明智光秀は悪人であったが決断力は人並みではなかった
と言ったそうです。
その後、関ヶ原の戦いの前。
家康は島左近の動静を探るべく
同じ大和国出身の柳生宗矩を左近の許に送り込んだそうです。
二人の話が天下の趨勢に及ぶと
左近はその密議の事を思い出して
今は松永久秀や明智光秀のような
決断力と知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう

と語った、とあります。

【2人は頭脳明晰で領民からは名君とも】
明智光秀と石田三成は、
共に「頭脳明晰」で主君をしっかりと支えてきました。
真面目で勤勉で領民には名君と慕われていたそうです。
違うところは、
明智光秀は、戦にも精通していたことです。
特に、鉄砲に関してはかなり詳しかったようです。





このような優秀な2人ですが、
共に、天下人に近い存在に位置していたにも関わらず、
結局は天下人にはなれず、それどころか
「裏切者」の汚名を着せられてしまっています。
また、機会があれば、両者を調べてみたいと思います。

【島左近】

島清興<嶋清興>、(しまきよおき)は、
戦国時代から安土桃山時代の武将。
筒井氏、石田三成の家臣です。

【「島」ではなくて「嶋」ですよ】
通称は左近で、
一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られています。
2016年7月1日に発表された自筆の書状によると
「島左」ではなく「嶋左」と署名しており、
少なくとも左近本人は「島」ではなく「嶋」と名乗っていたそうです。

【有名な話】
三成に三顧の礼をもって迎えられ
の高禄を食む側近として仕え、
治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
と謳われるほどの逸材だったという話が伝わっています。
(『古今武家盛衰記』)

娘の珠は柳生利厳の継室となっており、
剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたるそうです

【生い立ちと筒井家家臣時代】
大和平群郡の国人の家系に生まれ、
当初は隣国河内の守護で、
大和国にも勢力を扶植していた
畠山氏に仕えていたそうです。
畠山高政が三好長慶と戦った教興寺の戦いに参加するも、
高政は敗北し、清興も敗走したとのことです。

わずか2歳で継いだ筒井順慶
侍大将として盛り立てたそうです。
筒井家の家臣関係の伝承や文献類に
「島左近」の名が初めてみえるのは
元亀2年(1571年)の辰市合戦直前で、
嶋左近尉殿」とあるそうです。
順慶はやがて松永久秀を倒しましたが、
順慶が病に倒れてしまいました。
その跡を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、
筒井家を辞することになったそうです。

【松永久秀】

松永久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。
大和国の戦国大名。
官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名でも知られる。
弟に長頼、嫡男に久通、久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えていましたが、
やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍。
松永久秀は長慶の配下であると同時に
交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝
の傍で活動することも多く
三好長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、
同時に官位を授けられるなど
主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていました。
三好長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなどを繰り返し、
畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となっていま、した。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、
一度は降伏してその家臣となります。
その後、織田信長に反逆して敗れ、
信貴山城で切腹もしくは焼死により自害しました。

一説によりますと、「爆死」をしたともあるそうです。
最近の研究は「爆死」は後世の創作ともされているようですが、
真意のほどはわかりません。

丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺

紀行的な内容です。
石田三成を巡る旅~龍潭寺及び佐和山城跡・大原観音寺・出生屋敷跡・供養塔~

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