史跡・城跡

硯山長福寺~開山1200年の歴史を持つ古刹で源頼朝伝説と伊八彫刻のお寺で有名です。

硯山長福寺 仁王門



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【硯山長福寺】

創建は大同2年(807年)で 宗祖伝教大師
自ら建立されたと伝えられています。
末寺に伝来した平安期の古仏等、
長福寺の創建が古代であることは明らかですが、
度重なる罹災により古代・中世の寺歴の詳細は
不明となってしまっているようです。

「硯山」の山号は、
石橋山の戦いの後に房総に逃れた源頼朝
平家追討の書状をこの寺でしたため、
その時、長福寺の差し出した硯が
素晴らしかったのでを頂戴したとの
言い伝えがあります。

また、布施城主であった
上総介広常の攻略後、
源頼朝が長福寺に立ち寄り、
本堂前の槙の大木に筆を掛けたとする伝説
「筆掛の槙」もあり、
これが源頼朝の名馬「磨墨」の伝説にも
結びついているとされています。

ご本尊:
 阿弥陀如来

【筆掛けの槙と源頼朝伝説】
千葉県指定天然記念物
「筆掛けの槙一樹」
樹高:12m
目通幹囲:4.8m
推定樹齢:1350年

平家により鎌倉に追われた源頼朝は、
平家追討の援軍を求めて房総に逃れた折、
長福寺に立ち寄ったと伝えられています。
当時の住職との話の中で、
未だ山号の無いことを知った源頼朝は
「山号を授けるので書くものを持て」と云われたとか。
住職の差し出した硯のあまりの見事さに
「硯山」とすることに決まりました。
そのとき以来、このお寺は
「硯山無量壽院長福寺」
(すずりさんむりょうじゅいんちょうふくじ)が
正式名称になったとのことです。

硯山長福寺 槙

また、書状を認めていた折、
近くの山で馬のいななきが聞こえ、
平家の追手かも知れないと考えた源頼朝は、
手にしていた筆を境内の槙の枝に掛け
(このことが、筆掛けの槙の由来)
見てくるように家来に命令したとのことです。
戻ってきた家来は1頭の馬を連れてきました。
その馬は全身真っ黒な立派な馬でした。
すっかり気に入った源頼朝は
その馬に「磨墨」という名を付け、
可愛がったということです。
都内某寺に「磨墨の墓」があり、
墓誌に「布施の郡より得た馬」と
記されているそうです。




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後に、梶原景季梶原景時の嫡男)の愛馬となり、
「磨墨塚」として磨墨を葬った場所と称する所は
日本各地に点在しております。
中でも有力なのが東京都大田区南馬込にある
磨墨塚と云われています。
更にこの塚の近くには、
梶原景時の墓とされる墓石が残っている
古刹萬福寺があります。
萬福寺に近い、現在の大田区立郷土博物館
がある谷の旧家の敷地は、
地元では古くから梶原屋敷と呼ばれ、
梶原景時の屋敷があったとの
伝承があるとのことです。
遺構構や伝承と、実際の磨墨や
梶原景時との関わりを示す具体的な証拠は
残念ながら現在のところはなく、
あくまでも伝承であるとのことです。

仁王門をくぐると左脇に
「筆掛けの槙」の雄大な姿を見ることができます。

【波の伊八】
「関東に行ったら波を彫るな」
とまで言わせた
「初代武志伊八郎信由」
(1751年~1824年)の原点の彫り物が
本堂欄間に飾られています。
1789年の制作で、
中央に「波に龍」、
左右に「雲に麒麟」を配した三面とのことです。

硯山長福寺 本堂

訪れた時は、既に日が暮れてしまっていたので、
外観のみ撮影しました。

【硯堂「無量壽庵」】
寺宝 端渓硯「銘 無量壽」を安置する為に、
2007年、開山1200年を記念して
建立されたお堂です。
正面には、中国渡来の端渓硯一面が飾られています。
この硯は、
幅約95cm
長さ約130cm
厚さ約13cm
重さ800kg~1t
で、
周囲は松竹梅と無数の鳥の透かし彫りがあります。
端渓硯は水を好む石として知られ、
濡れると石本来の青味を帯びた
美しい赤紫色になる為、
硯の周りに水を掛ける仕掛けを作り、
色の変化が楽しめるようになっているとのことです。

硯右には、篆刻による「般若心経」一巻が
飾られているとのことです。
これは、篆刻家
内藤富卿先生監修で制作された物で、
朱・白取り混ぜて押された印影とのことです。

【所在地】
〒298-0017 千葉県いすみ市下布施757

【交通アクセス】
(電車など)
 JR外房線「大原」駅下車4.5km
(車)

 東京⇒外房有料⇒茂原⇒大原
 東京⇒京葉道路⇒浜野⇒茂原⇒大原

【駐車場】
駐車スペースあり。
※暗くて正確な駐車場の位置がわかりませんでした。

(訪れる際の注意事項)
※付近は街灯もほとんどなく、昔ながらの
道が続いてカーブなど多いです。
暗くなる前にお越しになるのがよろしいかと存じます。
境内は広いので仁王門と本堂の間は
そこそこの距離があります。

上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される

名熊の二本杉~源頼朝が地にさした箸が立派に成長して日本の杉になりました。

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源頼朝上陸地の碑と神明神社~ 安房郡鋸南町竜島、吾妻鏡に記載されています。

一戦場古戦場 ~安房に逃れた源頼朝が奇襲にあい、合流した三浦義澄が討ち取った古戦場

仁右衛門島~源頼朝が身を隠し潜んだ場所で、頼朝一行を洲崎から案内したとも伝わる平野仁右衛門氏の島です。

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