朝廷

伝・源護館跡陣営~平将門の乱の始まりの戦と嵯峨源氏である源護という人物について。

伝・源護館・大串陣営



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【伝・源護館跡陣営】

下妻市大串地区の東部中学校の建つ高台には
源護の館があったと伝わります。
平安期にはこの高台の西側に騰波ノ江(鳥羽の淡海)という
広大な湖の水面が広がっておりました。
対岸の赤浜にも源護の館があり当時はこの間を
舟で行き来していたようです。

現在は中学校敷地となり
館跡を想像させるようなものは
地形(台地)のみであります。

源護は、高望王が臣籍降下で
坂東へ来るよりも前から土着していた
嵯峨源氏の一族でした。
高望の子の国香、良兼、良正が
源護の娘を妻としたことで、
両家は婚姻関係で
強く結ばれていたとのことです。

承平5年(935年)2月、
平将門は「野本の合戦」にて、
陣を敷いて平将門を待ち伏せする、
源護の子の扶(たすく)・隆・繁達と戦い、
敗死させました。
続けて平将門は野本・石田・大串・取木を
焼き払ったのでした。
石田には将門の叔父平国香の館があり、
大串にあったのが源護陣営とされています。
そしてこの戦いが、
平将門の乱の始まりであったともいわれています。。

承平5年(935年)に
平将門と源護の子・扶らが戦った
「野本合戦」の際に大串の館は将門の兵によって
焼かれたのではないかと思われます。

【所在地】
〒309-1231 茨城県桜川市本木

【源護】

源 護(みなもと の まもる)は、
平安時代中期の武士。官位は常陸大掾。

【官位】
常陸大掾

【氏族】
嵯峨源氏または仁明源氏

【子】
扶、隆、繁、
平国香室、
平良兼継室、
平良正室

【出自】
素性は不明ですが、
一般的には一字名から
武蔵権介の源宛(箕田宛)と
同族の嵯峨源氏と推測されています。
「尊卑分脈」には、
源融-源副-武蔵守源俊・
下野掾源運兄弟-鎮守府将軍源增(源運の子)
という系図が見出せ、
この一族との関連が指摘されています。




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【本拠地は真壁
常陸国筑波山西麓に
広大な私営田を有する勢力を
持っていたといわれ、
真壁を本拠にしていたと伝わっています。
この領地と接していた平真樹と
境界線をめぐり度々争っていました。
平真樹はこの争いの調停を
平将門に頼み平将門はこれを受けました。

【平将門の乱の中の最初の合戦】
一説によりますとこの調停の為に
常陸に向かっていた平将門を
源護の子である扶らが野本にて
待ち伏せて襲撃したと云われています。
また、「将門記」にある「女論」が
襲撃の要因ともされ、
詳しい経緯はわかってはいません。
いずれにせよ、この戦いが
平将門の乱の中の最初の合戦であり
始まりであるとされています。

伝・源護館・大串陣営

【合戦後の足跡】
承平5年(935年)2月、
平将門との戦いで子の扶・隆、繁は敗死、
源護の本拠はすっかり焼き払われ、
その際平国香は焼死したとされています。
源護は常々息子達の死を嘆いていましたが、
娘婿の平良正が平将門を討つ為に
兵を集め戦の準備を始めると、
その勝敗の帰趨もわからないうちから
非常に喜んだとのことです。
けれども平良正は敗れ、
後に良兼と国香の子・貞盛も加わり
再び戦うがここでも敗れてしまいました。
承平6年(936年)、
源護は朝廷に平将門と
平真樹についての告状を提出し、
朝廷はこれにもとづいて平将門らに
召喚の官符を発しましたが、
承平7年(937年)4月7日の
朱雀天皇元服の大赦によって
結局は全ての罪を赦されてしまったのでした。
その後「将門記」にも名は登場せず
動向は不明ですが、
ほどなく病死したと考えられています。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

國王神社~平将門公終焉の地に三女如蔵尼によって創建されたと伝わる古社です。

石井の井戸跡(坂東市岩井)~平将門が拠点である石井営所を決めた伝説がある古井戸です。

延命寺~「島の薬師」と親しまれているお寺で、平将門公持護仏の薬師如来像が祀られています。

平将門~困っている人を放っておけない面倒見の良い大将は東国に新国家を創ろうとした。

伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城) ~平良兼は平将門の叔父にあたりこの地は「弓袋山の対陣」の舞台です。

平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。

豊田城(常陸国)(常総市)~桓武平氏の豊田氏が築城、平安時代から戦国時代まで豊田郡を本拠としました。

兜神社~平将門公にまつわる言い伝えがあり証券界の守り神でもある東京のお社です。

鎧神社~日本武命や平将門公にまつわる伝承があり人々の崇敬を集めてきた東京のお社です。

大国玉神社 (桜川市)~平将門の妻「君の御前」の父である平真樹の館がありました。

后神社(桜川市)~平将門の妻で平真樹の娘とされる「君の御前」を祀っています。

御門御墓(平将門居館?)~平将門の供養塔とされる五輪塔があり付近には妻を祀る后神社があります。

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