鎌倉殿の13人

藤原範茂卿~墓所は範茂史跡公園~承久の乱の勝利で鎌倉武家政権は盤石となる。

藤原範茂の墓




【藤原 範茂】

藤原 範茂(ふじわら の のりもち/のりしげ)は、
鎌倉時代前期の公卿。
藤原南家高倉流、
式部権少輔・藤原範季の次男です。
官位は従三位・参議。順徳天皇の外叔父。

【時代】
鎌倉時代前期
【生誕】
文治元年(1185年)
【死没】
承久3年6月18日(1221年7月9日)
【別名】
甲斐宰相中将
【墓所】
神奈川県南足柄市怒田の範茂史跡公園

【生涯】
後鳥羽天皇の寵臣として仕え、
後鳥羽天皇と姉である重子(修明門院)の子である
順徳天皇の近臣でもありました。

建久9年(1198年)従五位下に叙爵。
正治3年(1201年)肥前守に任じられた後、
左衛門佐・左兵衛佐・左近衛少将と武官を歴任。
承元3年(1209年)従四位下に叙せられました。
建暦2年(1212年)左近衛中将、
建保7年(1219年)蔵人頭を経て、
承久2年(1220年)
従三位・参議に叙任され公卿に列しました。

承久3年(1221年)丹波権守に任ぜられました。
同年、鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた
承久の乱では倒幕の密議に深く関与し、
自ら宇治川の戦いに出陣しました。
上皇方の敗北後、六波羅に拘禁され、
乱の首謀者として斬罪が定められました。
都での処刑を避けるため、
北条朝時に東国へ護送される道中で、
足柄峠を越えて関本に至りました。
明日はいよいよ鎌倉となります。
鎌倉に着くと、そこで首を切られてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、
首と胴が離れてしまった者は
極楽に行けないと信じられていました。
藤原範茂卿は役人に頼んで
近くの清川(今の貝沢川といわれている)で
死なせてもらうことにしました。
着物のたもとや、ふところに石を入れ、
清川をせき止めて入水し
最期をとげたとのことです。
役人達もあわれに思い、
高台に葬りました。
その葬ったとされる場所が、
宝篋(ほうきょう)印塔のあるところです。

辞世の歌に
思いきや 苔の下水 せきとめて
月ならぬ身のやどるべきとは

と残されています。

藤原範茂の子供である藤原範継は
北条泰時の意向により、助命されています。
また、死後の承久3年12月10日
(1222年1月23日)に
藤原範茂の邸が放火されました。

南足柄市怒田に、室町時代前期の作で
藤原範茂の墓と伝えられる
宝篋印塔があり、
現在は範茂史跡公園となっています。

【範茂史跡公園】
範茂史跡公園 案内図

「範茂史跡公園」は
藤原範茂卿の墓を中心に整備し、
芝生広場、遊具広場があり、
トイレ・水飲み場・四阿(あずまや)などを
設置した公園です。
また、高台にあるため、
夜景の眺めが綺麗な公園としても知られており、
特に東名高速道路の眺めが良いです。





<設備>
◆芝生広場
◆コンビネーション遊具(滑り台等)
◆スプリング遊具等
◆トイレ ※車イス用トイレあり
◆自動販売機

【交通アクセス】
伊豆箱根鉄道大雄山線「大雄山駅」から
箱根登山バス「新松田」行、
「足柄高校前」下車、徒歩約10分

【駐車場】
あり。
駐車場の脇には自動販売機があります。

【所在地】
〒250-0106 神奈川県南足柄市怒田125−1

【承久の乱】

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、
鎌倉時代の承久3年(1221年)に、
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の
北条義時に対して
討伐の兵を挙げて敗れた兵乱です。
武家政権という新興勢力を倒し、
古代より続く
朝廷の復権を目的とした争いとされています。
北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として
後世に名を残すこととなりました。
この乱は承久の変とも承久合戦とも称します。

【日本史上初の朝廷VS武家政権】
日本史上初の朝廷と武家政権の間で
起きた武力による争いとなります。
勝敗の結果は、朝廷側の敗北で
後鳥羽上皇は隠岐に配流されることになりました。
この戦いで、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、
京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、
皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、
幕府主導の政治体制を固めたといえます。
また、将軍の代理人である
執権職の北条氏が実質的に
鎌倉幕府を支配する執権政治が
100年以上続くこととなったのでした。

【上皇挙兵する】
承久3年(1221年)5月14日、
後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に
諸国の兵を集め、北面・西面武士や
近国の武士、
大番役の在京の武士1700余騎が集まりました。
その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱、
近江守護佐々木広綱、
検非違使判官三浦胤義も含まれていました。
幕府の出先機関である
京都守護の大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、
同じく京都守護の伊賀光季は
招聘を拒んだのでした。
同時に親幕派の
大納言西園寺公経は幽閉されました。
翌15日に京方の藤原秀康・
近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が
伊賀光季邸を襲撃します。
伊賀光季はわずかな兵で奮戦して討死。
しかしながら下人を落ち延びさせ、
変事を鎌倉に知らせたのでした。

【後鳥羽上皇の思惑】
後鳥羽上皇は
三浦氏・小山氏・武田氏などの
有力御家人に対して、義時追討の院宣を発しました。
京方は院宣の効果を絶対視しており、
諸国の武士はこぞって
味方すると確信していたのでした。

【鎌倉の武士と北条政子
上皇挙兵の報に
鎌倉の武士は大いに動揺しましたが、
北条政子が御家人たちに対して
鎌倉創設以来の源頼朝の恩顧を訴えます。
この訴えにより動揺は静まったとあります。

「承久記」には、北条政子が
館の庭先にまで溢れるばかりの
御家人たちを前に
涙ながらの大演説を行ったことで
彼らの心が動かされ、
北条義時を中心に
鎌倉武士を結集させることに
成功したという記述があります。

一方「吾妻鏡」では、
御家人の前に進み出た
北条政子の傍らで
安達景盛が北条政子の声明文を
代読したと記されています。

【鎌倉武士の損得勘定】
もっとも、鎌倉の武士はもっと
強かで打算的でした。
鎌倉の武士はどちらに味方をすれば
勝てるかという状況分析や、
一族内の利害関係、
すなわち勝利すれば、
敵方についた一族の所領を
奪うことが可能であるなど、
検討した上で、
その多くが損得勘定に基づいて
鎌倉への支持を決めたのでした。





【いざ出陣!】
北条政子の裁決で出撃策が決定され、
素早く兵を集め、5月22日には
軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から
京へ向けて派遣しました。
急な派兵であったため、
東海道軍は当初18騎で
鎌倉を発向したのでした。
「吾妻鏡」によれば最終的には
19万騎に膨れ上がったとのことです。

【東海道軍、東山道軍、北陸道軍の勝利】
【東山道軍】
6月5日、
甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる
東山道軍5万騎は、
大井戸渡に布陣する
大内惟信率いる京方2000騎を撃破しました。

【東海道軍】
6日には北条泰時、時房の率いる
主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、
墨俣の陣に攻めかかった時には
もぬけの殻、山田重忠のみが
杭瀬川で奮戦しましたが、
京方は総崩れになり、大敗を喫したのでした。

【北陸道軍】
北条朝時率いる
北陸道軍4万騎も
砺波山で京方を撃破して、
加賀国に乱入して京を目指しました。

比叡山は京方を拒否】
後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、
僧兵の協力を求めましたが、
上皇の寺社抑制策がわざわいして
比叡山はこれを拒絶したのでした。

【幕府軍、宇治川を突破して京に攻める】
やむなく、京方は残る全兵力をもって
宇治・瀬田に布陣し、
宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、
公家も大将軍として参陣しました。
6月13日、京方と幕府軍は衝突しました。
京方は宇治川の橋を落とし、
雨のように矢を射かけ必死に防戦。
幕府軍は豪雨による増水のため、
川を渡れず攻めあぐねましたが、
翌14日に佐々木信綱を先頭として
強引に敵前渡河し、
多数の溺死者を出しながらも
敵陣の突破に成功しました。
京方は潰走し、
14日夜には幕府軍は
京へなだれ込んだのでした。
幕府軍は寺社や
京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、
略奪暴行を働いたのでした。

【後鳥羽上皇、保身に走り近臣らを見捨てる】
後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、
このたびの乱は謀臣の企てであったとして
北条義時追討の院宣を取り消し、
藤原秀康、三浦胤義らの
逮捕を命じる院宣を下します。
上皇に見捨てられた
藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は
東寺に立て篭もって抵抗しました。
三浦義村の軍勢がこれを攻め、
藤原秀康、山田重忠は敗走し、
三浦胤義は奮戦して自害しました。
その後、山田重忠も落ち延びた先の
嵯峨般若寺山で自害します。
藤原秀康は河内国において
幕府軍の捕虜となりました。

【首謀者達の配流と西園寺公経の復帰】
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、
順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。
討幕計画に反対していた
土御門上皇は自ら望んで
土佐国へ配流され、後に阿波国へ移されました。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、
頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、
備前国へ配流されました。
仲恭天皇
(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、
行助法親王の子が後堀河天皇として即位しました。
親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた
西園寺公経が内大臣に任じられ、
幕府の意向を受けて
朝廷を主導することになるのでした。

【承久の乱で得たもの、失ったもの】
承久の乱ののち、
朝廷は幕府に完全に従属しました。
処刑された院近臣の多くは
後鳥羽上皇の支持を受けて
家格の上昇を目指した家々でしたが、
これによって挫折を余儀なくされ、
衰退もしくは没落することとなったのでした。

西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、
これを戦功があった御家人に
大量に給付したため、
多くの東国御家人が西国に所領を獲得し、
幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになったのでした。

相模沼田城~波多野氏の一族の沼田氏が築城し、後に大森氏の所領となる。

湯船城跡~平安時代の築城と伝わるも、宝永の富士山大噴火の遺跡として有名となった城。

生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝わる中世の城。

金時公園~伝・坂田金時の誕生の地、静岡県駿東郡小山町~源頼光に見いだされて四天王となる。

深沢城跡~今川氏が築城し、北条氏と武田信玄の攻防最前線となった要害

小山田城址・築城は小山田氏の祖である小山田有重、小山田神社に小山田氏の足跡あり。

竹之下合戦古戦場~足利尊氏が新田義貞に大勝した地~時代は南北朝へ!

能登・野崎城(野崎砦)~天野氏が築城~能登天野氏とは?先祖は承久の乱で活躍した天野政景。

河村城跡~平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国の世に在り続けた山城と河村氏。

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