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伊達政宗~独眼竜・東北の覇者~内向的だった子供が成長し、とことん人生を楽しんだ生涯!

伊達政宗




伊達政宗

伊達政宗(だてまさむね)は、
出羽国と陸奥国の戦国大名で、
伊達氏の第17代当主です。
近世大名としては仙台藩の初代藩主となります。

幼名は梵天丸。
没後は法名から貞山公と尊称されました。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、
隻眼となったことから、
後世「独眼竜」の異名があります。

【生誕】
永禄10年8月3日(1567年9月5日)
(グレゴリオ暦1567年9月15日)
【死没】
寛永13年5月24日(1636年6月27日)
【別名】
梵天(幼名)
【仮名】
藤次郎
【渾名】
独眼竜
【神号】
武振彦命
【墓所】
瑞鳳殿・妙心寺塔頭蟠桃院
【父】伊達輝宗
【母】義姫(最上義守の娘)

【正室】
愛姫(田村清顕の娘)
【側室】
新造の方
飯坂の局
於山方
荘厳院
勝女
妙伴

【幼少期から元服】
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、
出羽国米沢城にて、
伊達氏第16代当主である
伊達輝宗の嫡男として産まれました。
母親は正室である
最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)です。
幼名は梵天丸でした。
天正5年(1577年)11月15日、
元服して伊達藤次郎政宗と名乗ります。
諱の「政宗」は父親である伊達輝宗が
伊達家中興の祖といわれる
室町時代の第9代当主である大膳大夫政宗に
あやかって名づけたもので、
この大膳大夫政宗と区別するため、
藤次郎政宗と呼ぶことも多いとのことです。

【疱瘡を患う】
5歳の時に疱瘡を患い、
右目を失明してしまいます。
更に風貌も病のせいで
異相になったとの説もあるそうです。
其の病のせいもあったのか、
幼少期の伊達政宗は引っ込み思案で弱弱しく、
極めて内向的になってしまったとか。
家臣の中には、後継ぎとなるにはふさわしくない、
などの声が上がったそうです。
更に最上家出身の母親からも疎まれたとの事です。

【父・伊達輝宗の愛情】
そうした中、
父親の伊達輝宗は
疱瘡にかかった翌年に、
臨済宗妙心寺派の高僧・虎哉宗乙を招いて
帝王学と教養を学ばせ、
傅役(もりやくのこと)には片倉小十郎
近習に伊達成実をつけます。
この二人は伊達政宗を支え続けていくことになります。
最も伊達成実は一度伊達家を出奔してしまいますが・・。





【長男は次郎を名乗る】
また伊達家では2代・宗村、
3代・義広、4代・政依の3代にわたって
次男が相続した時期がありました。
ここから元服時に長男が次郎を襲名するようになり、
やがて総次郎と藤次郎を交互に用いていたそうです。
なお、伊達家中では
総次郎や藤次郎とは呼ばず、
単に次郎と呼ばれていたそうです。
伊達家は室町幕府以降は、
それまで足利将軍からの
一字拝領を慣習としてきたそうですが、
伊達政宗の元服に際しては、
当時織田信長によって
京より追放されていた
足利義昭からの
一字拝領を求めなかったとのことです。

【正室を迎える】
天正7年(1579年)、
伊達政宗が13歳のとき、
仙道の戦国大名であった
三春城主・田村清顕の一人娘で
当時12歳の愛姫
(伊達政宗と同じく伊達稙宗を曽祖父にもつ)を
正室に迎えました。

【初陣と外交担当】
天正9年(1581年)4月、
隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾りました。
また、このころから
伊達輝宗の代理として
田村氏や蘆名氏との外交を
担当するようになったそうです。

【家督相続】
天正12年(1584年)10月、
父親の伊達輝宗の隠居にともない
家督を相続し、伊達家第17代当主となりました。

【父・伊達輝宗の最期】
天正13年(1585)5月、
蘆名領檜原を攻めると、
8月には大内領小手森城へ兵を進め、
近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、
城中の者を皆殺しにしています。
大内定綱の没落を間近で見た
畠山義継は和議を申し出、
伊達輝宗の取りなしにより
5か村のみを二本松領として
安堵されることになりました。
ところが伊達輝宗は、
所領安堵の件などの礼に来ていた
畠山義継の見送りに出たところを
拉致されてしまいます。
当時鷹狩りに出かけていた伊達政宗は、
急遽戻って畠山義継を追跡し、
鉄砲を放って伊達輝宗もろとも
一人も残さず殺害したのでした。

【伊達輝宗殺害の真相?】
この事件については、鷹狩中の手勢が、
なぜか鉄砲で武装していたことを根拠に、
伊達政宗による父殺しの陰謀
と見る説もあるとのことです。
けれども、幼少期、
大人しく弱弱しかった伊達政宗を大切にしてきたのは
父親の伊達輝宗であったとのことです。

大河ドラマ「独眼竜政宗」では、
北大路欣也さんが演じる伊達輝宗が、
躊躇する渡辺謙さん演じる伊達政宗に命令して、
涙が頬を伝って流れるまま、鉄砲を放ったのでした。

【小手森城のなで斬りについて】
小手森城のなで斬りについてですが、
実はなで斬りではなく、
既に自害して果てていた、との説もあるそうです。
しかもその数も文献によって異なるとの事です。
なで斬りの真相はもしかしたら、
伊達政宗が、己の軍勢が凄い!と知らしめるために
誇張して伝えた可能性があるそうです。





【二本松畠山氏の滅亡】
天正14年(1586年)4月、
伊達政宗は自ら出馬して二本松城を包囲、
畠山氏は当主・国王丸を立てて必死に抵抗します。
7月、相馬義胤の仲介で伊達氏と蘆名氏の間で和議が結ばれ、
国王丸は二本松城を明け渡して
会津の蘆名氏のもとに亡命することになりました。
これにより、二本松畠山氏は事実上の滅亡となりました。

【佐竹氏との全面対決】
その後、伊達政宗は
佐竹氏やほかの南奥州諸侯との和議を進め、
いったんは平和を回復しました。
けれども、11月に蘆名亀若丸が
わずか3歳で急死すると、
佐竹義重は自分の子である
佐竹義広を蘆名氏の当主に擁立したのでした。
しかも、佐竹義重は事前に
白河結城氏・岩城氏などに
義広の擁立に関する同意を取りつける一方で、
弟の小次郎を擁するとみられた
伊達政宗には何ら通告を行わなかったのでした。
これを佐竹氏による伊達氏排除の意思とみた
伊達政宗は佐竹氏との
全面対決を決意することになったのでした。

【関白・秀吉の命令を無視】
天正15年(1587年)12月、
関白・豊臣秀吉
関東・奥羽の諸大名、
特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対して、
惣無事令(私戦禁止令)を発令しました。
けれども、伊達政宗は
豊臣秀吉の命令を無視して戦争を続行しました。

【摺上原の戦い】
天正17年(1589年)2月26日、
伊達政宗は落馬で左足を骨折しました。
その隙をついて4月になると
岩城常隆が田村領に侵攻を開始し、
相馬義胤も呼応したのでした。
怪我を治した伊達政宗は5月になって
ようやく出陣したものの、
蘆名方の片平親綱(大内定綱の弟)が
伊達政宗に帰順したことを知ると、
方向を一転し、
会津方向に向かうことになりました。
5月から6月にかけて会津の蘆名義広と争い、
磐梯山麓の摺上原で破りました。
敗れた蘆名義広は黒川城を放棄して
実家の佐竹家に逃れ、
ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡したのでした。

【秀吉の奥羽への出兵宣言】
このころになると惣無事令を遵守して
奥州への介入に及び腰になっていた
佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが
次々と伊達方に転じて伊達政宗に服属ていきました。
なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは
伊達政宗により滅ぼされました。
豊臣秀吉は恭順と惣無事を反故にされた形となり、
会津から撤退しない場合は
奥羽へ出兵することを明らかにしたのでした。

【全国的にも屈指の領国規模を築く】
このとき伊達政宗は、
現在の福島県の中通り地方と会津地方、
および山形県の置賜地方、
宮城県の南部を領し、
それは全国的にも屈指の領国規模となっていました。
これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、
また現在の宮城県北部や
岩手県の一部を支配していた
大崎氏・葛西氏も伊達政宗の勢力下にありました。

【小田原合戦における政宗の悩み】
天正17年11月、
小田原北条氏が真田領へ侵攻したことにより、
豊臣氏により征伐が行われることになりました。
伊達政宗は父親の伊達輝宗の時代から
小田原北条氏と同盟関係にあったため、
豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、
直前まで迷っていたとのことでした。





【政宗、秀吉に服属す】
豊臣秀吉が小田原征伐中の
天正18年(1590年)5月、
豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、
伊達政宗は5月9日に会津を出立すると
米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である
越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に入りました。
豊臣秀吉の兵動員数を考慮した伊達政宗は
豊臣秀吉に服属し、
その結果、豊臣秀吉は会津領を没収したものの、
伊達家の本領72万石
(概ね家督相続時の所領)を安堵したのでした。
このとき遅参の詰問に来た前田利家らに
千利休の茶の指導を受けたいと申し出、
豊臣秀吉らを感嘆させたということです。
この行為は豊臣秀吉の
派手好みの性格を知っての行いと
伝えられているとのことです。

【白装束で秀吉に謁見】
そして、この時に有名なエピソードがあります。
何と、伊達政宗は豊臣秀吉への謁見の際、
白装束を身にまとっていたとの事です。
実は伊達政宗は遅刻の常習犯でした。
「白装束≒死に装束」となるので、
自分は死ぬ覚悟があると豊臣秀吉にアピールした訳です。
このパフォーマンスが功を奏し、
豊臣秀吉は面白がって感嘆したとの事です。

【奥州仕置の結果】
伊達政宗が豊臣秀吉に服属してほどなく、
北条氏政北条氏直親子は豊臣秀吉に降伏し、
豊臣秀吉は宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)を行いました。
ここに豊臣秀吉の日本統一が達成されたのでした。
その結果、伊達政宗は会津領などを失い、
陸奥出羽のうち13郡、
およそ72万石に減封されたのでした。
この宇都宮の地において、
宗家筋にあたる
中村時長に接見したとされています。

【岩出山城への減転封】
翌年の天正19年(1591年)、
蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定しましたが、
伊達政宗自身が一揆を煽動していたことが露見します。
これは蒲生氏郷が「政宗が書いた」とされる
一揆勢宛の書状を入手したことに端を発しています。
また、京都では伊達政宗から
京都に人質として差出した夫人は偽者である、
一揆勢が立て篭もる城には
伊達政宗の幟や旗が立てられているなどの噂が立ち、
これらは豊臣秀吉の耳にも届いていたのでした。
喚問された伊達政宗は上洛し、
一揆扇動の書状は偽物である旨を
豊臣秀吉に弁明し許されたのですが、
本拠地であった長井・信夫・伊達を含む
6郡の代わりに一揆で荒廃した
葛西・大崎13郡を与えられ、
米沢城72万石から玉造郡岩手沢城へ
(城名を岩出山城に変えた)
58万石に減転封されたのでした。

【今度は黄金の十字架】
この時、再び伊達政宗は白装束を身にまとい、
更には黄金の十字架(磔柱)を先頭に上洛したのでした。

【羽柴姓を与えられる】
このころ、豊臣秀吉から羽柴の名字を与えられ、
本拠の岩出山城が
大崎氏旧領であったことから、
伊達政宗は「羽柴大崎侍従」と称したとのことです。

【絢爛豪華な戦装束】
文禄2年(1593年)、
豊臣秀吉の文禄の役に従軍しました。
従軍時に伊達政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた
戦装束は非常に絢爛豪華なものであったそうです。
上洛の道中において巷間の噂となり、
3000人もしくは1500人の
軍勢であったとの記録があります。
ほかの軍勢が通過する際、
静かに見守っていた京都の住民も
伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたとのことです。
これ以来、
派手な装いを好み着こなす人を指して
「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったとも
言われていますが実は以前から存在していました。

【伊達者について】
伊達男とは伊達政宗が派手好みで
ばさら・かぶきな振る舞いが多いことから
苗字を取って伊達男となった、
と思われることが多いのですが、
伊達政宗の数百年前から
「男立て」という言葉がありました。
読み方はおとこだて。
意味は男らしくあるいは勇敢に振舞う、ということです。
けれども徐々に
男らしさを演出する傾向が強くなっていきました。
その「男立て」言葉が略されて
「だて」となり、
やがて「伊達」と結び付けられていったということです。
ですが、言葉の通り、
「伊達者」を具現化した存在の一人が伊達政宗であり、
伊達政宗≒伊達者となったのでしょうね。





【朝鮮半島での伊達政宗】
朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による
朝鮮南部沿岸の築城に際して、
普請を免除されていたにもかかわらず
豊臣秀吉からの兵糧の支給を断って
積極的に参加するなどして活躍しました。
なお伊達政宗は、慶長の役には参加してはいません。

豊臣秀次の切腹と最上家の悲劇】
文禄4年(1595年)、
豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられた
関白・豊臣秀次が切腹しました。
豊臣秀次と親しかった伊達政宗の周辺は緊迫した状況となり、
このとき母方の従姉妹にあたる
最上義光の娘・駒姫は、
豊臣秀次の側室になるために上京したばかりでした。
けれども、必死の除名嘆願もむなしく、
豊臣秀次の妻子らとともに処刑されてしまうのでした。
享年は15歳であったとのことです。

【重臣19名による起請文提出】
伊達政宗も豊臣秀吉から謀反への関与を疑われ、
伊予国への減転封を命じられそうになりましたが、
湯目景康・中島宗求の直訴の甲斐もあって
最終的には赦免されました。
ただし、在京の重臣19名の連署で、
伊達政宗が叛意を疑われた場合には
ただちに隠居させ、
家督を兵五郎(秀宗)に継がせる
旨の誓約をさせられたのでした。

【豊臣秀吉の死後】
豊臣秀吉の死後、
伊達政宗と五大老・徳川家康
天下人であった豊臣秀吉の遺言を破り、
慶長4年(1599年)、
伊達政宗の長女・五郎八姫と
徳川家康の六男・松平忠輝を婚約させました。

関ヶ原の戦いに向けて】
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、
徳川家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発します。
伊達政宗はこれに従い、
7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還しました。
徳川家康が畿内を離れた隙をついて
五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として
徳川家康に対して挙兵したため、
下野国小山(現・栃木県)まで北上していた
徳川家康は西へ引き返します。

【「百万石のお墨付き」】
翌月、徳川家康は伊達政宗に対して、
岩出山転封時に没収され、
この時点では上杉領となっていた
旧領6郡49万石の領土の
自力回復を許す旨の書状
(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)
を送っています。
これは伊達政宗が南部利直領の
和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、
南部氏が西軍に通じていると
しきりに徳川家康に訴えていたことから、
お墨付きを与えることで
伊達政宗が対上杉戦に集中するよう
仕向けたものであったのでした。

関ヶ原の戦いと慶長出羽合戦】
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発します。
西軍である
上杉家重臣直江兼続が指揮を執る軍が
東軍の最上氏の領内に侵入すると、
東軍に属した伊達政宗は、
最上氏からの救援要請を受けて
叔父である伊達政景が指揮する3000の兵を派遣。
9月25日には茂庭綱元が
上杉領の刈田郡湯原城を攻略しました。

【福島城主本庄繁長との戦い】
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、
直江兼続もまた
最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、
伊達政宗は自ら兵を率いて
伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、
10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突しました。
宮代表の野戦では威力偵察に出た
大宝寺義勝(繁長の子)が指揮を執る
上杉軍を破りましたが、
続く福島城包囲戦では
本庄繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗します。
さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、
翌日には北目城へと撤退したのでした。

この後、翌年春ごろまで幾度か
福島城攻略のために出兵しましたが、
結局は緒戦の失敗を取り戻せず、
旧領6郡のうち奪還できたのは
陸奥国刈田郡2万石のみでした。

岩崎一揆の扇動発覚】
伊達政宗が南部領内で発生した
和賀忠親による一揆を煽動し、
白石宗直らに命じて和賀忠親を支援するため
南部領に4000の兵を
侵攻させていたことが発覚しました。
この一件は最終的には不問に付されたものの、
伊達政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、
領地は60万石となりました。
この後に近江国と常陸国に
小領土の飛び地2万石の加増で62万石となりました。





【仙台藩の誕生】
関ケ原の戦いのあと、
徳川家康の許可を得た伊達政宗は
慶長6年(1601年)、
居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めました。
ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生したのでした。
石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ
全国第3位でした。
徳川幕府からは松平の名字を与えられ
「松平陸奥守」を称したのでした。

【仙台の城下町の開発】
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、
仙台の城下町は全面的な開発であるため、
のべ100万人を動員した大工事となりました。
藩内の統治には48か所の館を置き家臣を配置しました。

【慶長遣欧使節】
伊達政宗は仙台藩と
エスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、
慶長18年(1613年)、
仙台領内において、
エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節
セバスティアン・ビスカイノの協力によって
ガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造しました。
伊達政宗は家康の承認を得ると、
ルイス・ソテロを外交使節に任命し、
家臣・支倉常長ら一行180人余りを
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、
エスパーニャ、
およびローマへと派遣したのでした。

【幕臣との交際が多くなる】
慶長8年(1603年)以降は
幕臣との交際が多くなります。
幕臣への接近は情報収集の一端でありました。
さまざまな贈答品に心を砕いたり、
酒宴・歌会・茶会・能見物等に懸命でした。

【政宗から愛姫への手紙】
慶長18年(1613年)に
高田城の普請のために越後国にいた
伊達政宗から愛姫に送った書状には、
春秋の季節感や天然自然の草木、
花鳥風月について、
仏教の無常感を土台に語りかけています。
「枕草子」や「徒然草」が引用され、
源氏物語」の「花宴」の一句で締めくくっています。
このように、
複雑な心象を伝える間柄であり、
夫婦仲がよかったことが分かるのでした。

【大坂の冬の陣】
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では
大和口方面軍として布陣しました。
和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたりまする。
その年の12月、
2代将軍徳川秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜ります。

【大阪夏の陣で後藤基次と激突】
翌年、慶長20年の大坂夏の陣では、
道明寺の戦いで後藤基次らと戦いました。
後藤基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて
負傷し自刃したといわれています。

真田信繁の反撃を受ける】
道明寺口の要衝小松山に布陣をする
後藤隊を壊滅させた大和方面軍は
誉田村に兵を進めましたが、
ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて
後退を余儀なくされたのでした。
これに対し先鋒大将の水野勝成は、
伊達政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請しましたが、
伊達政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由に
これをことごとく拒否。
最後は伊達政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った程でした。
このため真田信繁は悠々と大坂城に引き返し
「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
(「関東武者は100万あっても、
男と呼べる者は誰一人としていない」)
と嘲笑したとのことです。

【宇和島藩】
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が
伊達政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられました。

【真田信繁の子と長宗我部盛親の姉妹と子】
なおこの戦で、
敵となった真田信繁の次男である真田守信
長宗我部盛親の姉妹である阿古姫と
その息子・柴田朝意が伊達家に仕えています。





【晩年】
【貞山堀】
世情が落ち着いてからは、
もっぱら領国の開発に力を入れ、
のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備しました。

【北上川水系流域の開拓】
北上川水系の流域を整理し開拓、
現代まで続く穀倉地帯としました。
この結果、仙台藩は表高62万石に対し、
内高74万5000石相当(寛永惣検地)の
農業生産高を確保したのでした。

【荘厳華麗な建築物】
文化的には上方の文化を積極的に導入し、
技師・大工らの招聘を行い、
桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに
北国の特性が加わった様式を生み出し、
国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、
また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの
建造物を残しています。

【石巻港の開設】
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、
北上川の河口に石巻港を設けました。
これにより北上川流域水運を通じ、
石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整います。
寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、
最盛期は「今江戸三分一は奥州米なり」と
「煙霞綺談」に記述されるほどであったとのことです。

【徳川家光に慕われる】
2代将軍徳川秀忠、
3代徳川家光のころまで仕えていました。
徳川家光の治世になると、
実際に戦場を駆け巡っていた武将大名は
ほとんどが死去していた中、
伊達政宗は高齢になっても
江戸参府を欠かさず忠勤に励んだことから、
徳川家光は伊達政宗を
「伊達の親父殿」と呼んで慕っていたとのことです。
時に徳川家光に乞われて
豊臣秀吉や徳川家康との思い出や合戦のことなど、
戦国時代の昔話をしたということでした。

【伊達政宗の最期】
寛永11年(1634年)ごろから
食欲不振や嚥下に難を抱えるといった
体調不良を訴え始めていたそうです。

【瑞鳳殿】
寛永13年(1636年)4月18日、
母である義姫を弔う保春院の落慶式を終えたあと、
城下を散策した伊達政宗は経ヶ峰に杖を立て、
「死後はここに埋葬せよ」と言ったとのことです。
そこがのちの瑞鳳殿でした。

【急激に病状が悪化する】
2日後の20日に参勤交代に出発した伊達政宗は
急に病状を悪化させ、
宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い
何も食べられなくなっていたとのことです。
28日に江戸に入ったころには
絶食状態が続いたうえ、
腹に腫れが生じていたそうです。

【将軍・家光が見舞う】
病を押して参府した伊達政宗に徳川家光は、
5月21日に伊達家上屋敷に赴き
伊達政宗を見舞っています。
伊達政宗は行水して身を整え、
徳川家光を迎えたとあります。
けれども、お目見え後に奥へ戻るときには
杖を頼りに何度も休みながら
進まざるをえなかったとのことでした。

【伊達政宗死す】
5月24日卯の刻(午前6時)死去。
享年70歳(満68歳没)でした。

【伊達政宗の死因】
死因は癌性腹膜炎あるいは
食道癌(食道噴門癌)と
推定されているとのことです。
「伊達男」の名にふさわしく、
臨終の際、妻子にも死に顔を見せない
心意気であったということです。

【大名行列にて仙台に帰郷】
5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許されました。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、
防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで
駕籠に載せられ、
生前そのままの大名行列により
6月3日に仙台へ戻りました。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。





【木像や肖像画に両目がある理由】
「たとえ病で失ったとはいえ、
親より頂いた片目を失ったのは不孝である」
という伊達政宗の考えから
死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして
両目が入れられています。

【異例の服喪命令】
将軍家は、江戸で7日、
京都で3日、
人々に服喪するよう命令を発したとのことです。
これは御三家以外で異例のことでした。

辞世の句は、
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

【伊達政宗の兜】
伊達政宗の兜の前立ては金の三日月です。
2代目当主以降は半月となりました。
なお、伊達政宗の兜の実物は4領現存しているそうです。
いずれも仙台市博物館にあり、
期間限定で一般公開されることもあるそうです。

【大河ドラマのオープニングは本物の兜】
1987年(昭和62年)NHK放送の大河ドラマ、
「独眼竜政宗」のオープニング映像では
「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜を着用し、
馬に騎乗した姿の伊達政宗に扮した渡辺謙さんが登場します。
映像に登場する変わり兜は
すべてレプリカではない本物が使われたとのことです。

【伊達政宗の人となり】

【肖像画からの風貌】
伊達政宗の肖像において天然痘で
失明した右目は白濁して見開いており、
健全な左目はより大きく見開いています。
伊達政宗の生前の希望に従い、
右目を黒く描く肖像もあります。
各種の記録に目を覆った様子はないとのことです。

【「独眼竜」と称される由来】
伊達政宗が
「独眼龍」のあだ名で呼ばれるのは、
江戸時代後期の儒学者である頼山陽の
賦した漢詩にまでさかのぼるそうです。
頼山陽の没後、
天保12年(1841年)に刊行された
「山陽遺稿」に収められた
「詠史絶句」15首のひとつに、
伊達政宗に題をとったものが見受けられるそうです。
天保元年(1830年)の作とされているそうです。

【「独眼龍」そのものの由来】
「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、
各地に割拠した軍閥の首領の1人で、
その中でも軍事的に最強と謳われた
李克用の綽名であったそうです。
伊達政宗が隻眼の行者である
満海上人の生まれ変わりであるという伝説は、
伊達政宗の存命中の慶長末年のころ、
遅くとも慶長19年(1614年)には知られていたそうです。

【身長・血液型】
昭和49年(1974年)に発掘調査が行われました。
遺骨の学術的調査から
身長は159.4センチ
(当時の平均的身長)であることや、
遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明しました。

【徳川家への忠誠】
三代将軍である徳川家光は
京都の二条城へと参上する際、
御三家でも許されなかった紫の馬の総を
伊達に与えています。
伊達政宗が病床についた際は、
医者を手配したうえで
江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、
死の3日前には徳川家光自らが見舞いにきています。
伊達政宗が亡くなると、
父親である徳川秀忠が死んだときよりも嘆き入り、
江戸で7日、
京都で3日の間殺生や遊興が禁止されたとのことです。

【毒なぞ入っておらぬ!】
寛永5年(1628年)3月12日、
伊達政宗は徳川秀忠を
仙台藩江戸屋敷に招待して供応しました。
このとき、伊達政宗自らが徳川秀忠の前に膳を運びました。
すると、徳川秀忠側近の内藤正重が、
「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけたそうです。
伊達政宗はこれに対して、
10年前の元和4年(1618年)なら、
謀反を起こす気もあったけど、
そのときでさえ、この伊達政宗たるもの、
毒殺などというせせこましいことはせず、
一槍交えて戦おうとしただろうと
内藤正重を厳しく叱責した、とのことです。

【ヨーロッパでの名声】
支倉常長はエスパーニャとの軍事同盟交渉のとき、
国王・フェリペ3世に対して、
「政宗は勢力あり。
また勇武にして、
諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり」
と発言していたそうです。

【ローマ教皇への謁見】
支倉常長はローマ教皇にも謁見しました。
この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、
日本の外交史の中で特筆される実績でした。

【スペインに存在する仙台藩士の末裔たち】
また今でもスペインのコリア・デル・リオには
現地に留まった仙台藩士の末裔と
推測される人たちが存在しています。
彼らは「日本」を意味する「ハポン」を
姓として名乗っているとのことです。





【趣味・趣向】
様々な趣味を持ち、
太平の世になるとこれらに傾倒し
晩年は1日たりとも
無駄に過ごすことがない程だったそうです。
後世では文化人としても評価されています。

【料理】
当初は兵糧開発が主眼でした。
岩出山名物の凍り豆腐と
ずんだ(枝豆をすりつぶしたもの)は
伊達政宗の研究の末に
開発されたものであったそうです。
仙台城下には味噌蔵を建てていましたが、
味噌の大規模な生産体制が確立されたのは
これが最初といわれています。
戦国の世が終わると
美食を極めることに目的を変えて
料理研究を続けました。

「政宗公御名語集」によりますと、
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、
主人自ら調理して、もてなすことである」
という伊達政宗の料理観が残されているとのことです。

【芸事】
若年から習っていた能に傾倒しており、
奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたほか、
伊達政宗自身も豊臣秀吉や
徳川家光の前で太鼓を打つなどしていたとのことです。

【美術】
桃山文化を好んでおり、
建築や甲冑(仙台胴)に影響が見られます。

日本刀に関しては燭台切光忠、
大倶利伽羅広光、
鎺国行、鶴丸など様々な名刀を蒐集した他、
お抱えの刀工初代仙台国包を
越中守正俊に学ばせるなど
力を入れていたとのことです。
ただし単なる美術品ではなく
伊達家の象徴や献上品など
政治的な意味合いを有する物として
扱っていたとされています。

絵画も嗜んでいたとされ、
塩釜市の旧家には自筆とされる絵が保存されています。

【健康法】
養生法が変わっており、
冬に炬燵の片側を開けさせていたそうです。
朝は早く目が覚めても、
定時に側の者が起こしにいくまでは
起床しないというこだわりがあったそうです。
身体の健康を常に気遣っていました。

【喫煙者】
喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、
規則正しく3回煙草を吸っていたそうです。
最もこの頃は、煙草を薬として服用していた時代でした。
遺品に、愛用の煙管(キセル)があります。

【居城】
伊達一族は昔からよく本拠地を移転していますが、
伊達政宗の時代は領国の拡大や
豊臣・徳川政権との関係でもっとも移転が多かったのでした。

<米沢城>(山形県米沢市)⇒
天正12年(1584年)〜天正17年(1589年)

<黒川城>(福島県会津若松市)⇒
天正17年(1589年)〜天正18年(1590年)

<米沢城>⇒
天正18年(1590年)〜天正19年(1591年)

<岩出山城>(宮城県大崎市)⇒
天正19年(1591年)〜慶長5年(1601年)

<仙台城>(宮城県仙台市青葉区)⇒
慶長5年(1601年)〜寛永4年(1627年)

<若林城>(宮城県仙台市若林区)⇒
寛永4年(1627年)〜寛永13年(1536年)

【伊達氏】

伊達氏(だてし/いだてし)は、
鎌倉時代から江戸時代まで
東北地方南部を本拠とした一族で、
藤原北家山蔭流と称していました。
伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家があります。

【出自】
出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、
藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や
下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、
鎌倉時代源頼朝より
伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされています。

【伊達氏の始まり】
鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、
石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、
源頼朝より伊達郡の地を与えられ、
伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが
伊達氏の始まりとされています。

【南北朝時代】
南北朝時代の伊達行朝(伊達行宗に改名)の代には、
義良親王を奉じて奥州鎮定のために
下向した北畠顕家に属し、
伊達行朝は結城宗広らとともに式評定衆となりました。
北条氏残党の中先代の乱では、
連動して蜂起した北条方の与党を討ったそうです。

建武2年(1335年)に北畠顕家が
足利尊氏討伐のために上京すると
伊達行朝(伊達行宗)も従い、足利方と戦いました。
興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として
同族の伊佐氏や中村経長らとともに
常陸国伊佐郡の伊佐城により、
北朝方(足利方)の高師冬らと戦いました。
南朝方は破れて伊佐城は落城、
伊達行朝(伊達行宗)と中村経長は城から脱出しました。





なお、正中の変・元弘の乱では
傍系の(但馬伊達氏および出雲伊達氏)の
伊達遊雅(三位房、祐雅法師)が
連座されて処罰されています。
同時に但馬伊達氏、
出雲伊達氏や駿河伊達氏は
足利方であったことが
この時代の各史料に見て判明しているとの事です。

【次世代で北朝へ】
しかし伊達宗遠の代には北朝方に降伏。
伊達宗遠は出羽国長井郡を攻め、
領主である長井氏を滅ぼして領有しました。

【伊達政宗(9代)の乱】
伊達宗遠の子である9代・伊達政宗の時代に
鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、
足利満兼や会津の蘆名満盛(蘆名詮盛の子)と争いました。
伊達政宗は応永9年(1402年)までに
3度にわたり鎌倉府に反旗を翻しています。

【形式上は斯波氏の配下】
初め奥羽は鎌倉府の管轄でしたが、
のちに斯波氏が
奥州・羽州探題を世襲するようになると、
伊達氏はさらに形式上その配下となります。

【室町幕府への接近と京都扶持衆】
また室町幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると
伊達氏は幕府に接近して京都扶持衆となり、
応永20年(1413年)の応永の乱では
鎌倉を牽制し(伊達松犬丸の乱)、
永享10年(1438年)の永享の乱では
幕府より鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、
南北朝時代に南朝方であった伊達氏は
幕府との接近によって、
その地位と勢力を高めていったのでした。

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