室町幕府

伊達行朝(伊達行宗)~伊達氏7代当主で南朝側の武将として各地を転戦、独眼竜・伊達政宗のご先祖です。




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【伊達行朝(伊達行宗)】

伊達 行朝(伊達 行宗)
(だて ゆきとも/だて ゆきむね)は、
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将です。
後年、行宗(ゆきむね)に改称しました。
官位は従四位下・宮内大輔。
伊達氏7代当主です。
南朝側の武将として各地を転戦しました。
伊達行朝 供養塔 説明

【生誕】
正応4年(1291年)

【死没】
正平3年/貞和4年5月9日
(1348年6月6日)

【改名】
行朝(初名)⇒行宗

【別名】
藤原朝村、伊達入道

【諡号】
念海公

【官位】
従五位下左近将監、
従四位下宮内大輔

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
北条高時後醍醐天皇

【氏族】
伊達氏

【父】
伊達基宗

【妻】
田村氏娘・静照院

【子】
宗遠・行資・宗政?

【生涯】
元弘元年(1331年)9月、
元弘の乱に際して、
北条高時の命によって
畿内への討伐軍に加わっています。
「太平記」などには
「伊達入道」と記されており、
これを行朝に比定している専門家もいます。

元弘3年/正慶2年(1333年)に
鎌倉幕府が滅亡すると、
義良親王を奉じて
奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、
伊達行朝は結城宗広らとともに
式評定衆となりました。

建武の新政下で陸奥守として
下向した北畠顕家に従い、
同国の式評定衆の一人として
奥羽行政の中枢に参画しました。
北条氏残党の中先代の乱では、
連動して蜂起した
北条方の与党を討っています。

建武2年(1335年)に
北畠顕家が足利尊氏を追って
西上した際には、
奥羽諸将と共に従軍し、足利方と戦いました。
延元元年(1336年)に帰国しました。
この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、
多賀国府が脅かされますと、
国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移りました。

延元2年(1337年)には、
惨敗に終わる北畠顕家の
二回目の西上にも従いました。
北畠顕家の死後、
興国年間には
南朝方(後醍醐天皇方)として
常陸国伊佐郡の伊佐城
一族の中村経長(中村城主)らと
共に楯籠り、北朝方(足利方)の
高師冬らと戦いました。
高師冬に攻められ
伊達行朝と中村経長は
囲いを突破し自領へ降りました。

正平3年/貞和4年(1348年)5月9日、
亡くなりました。




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【人物】
和歌にも通じており、
「風雅和歌集」などにも入集しました。
和歌集での掲載名は藤原朝村です。

【供養塔】
観音寺境内に伊達行朝の供養塔
(筑西市指定文化財 伊達行朝廟)
があります。
観音寺は伊佐城跡にあります。
伊達行朝の供養塔
(観音寺)

【観音寺】

茨城県筑西市にある天台宗の寺院です。

【歴史】
6世紀後期、法輪独守によって
開山されたといわれています。
法輪独守は中国からの
渡来僧と伝えられており、
当地に流行っていた疫病を
退散させたということです。

【伊達氏の始祖】
文治5年(1189年)の奥州合戦の際、
鎌倉方に従軍した
当地の領主・中村朝宗(中村宗村の説もあり)は、
当寺で戦勝を祈願して成就しました。
そして恩賞として陸奥国伊達郡の
所領が与えられました。
これ以降、朝宗と宗村はそれぞれ
「伊達朝宗」
「伊達宗村」を名乗ることになり、
伊達氏の始祖となりました。

その後も伊達氏の庇護を受け、
南北朝時代の第7代当主伊達行朝は
各伽藍を寄進しています。
江戸時代の第20代当主
(仙台藩第4代藩主)の伊達綱村は、
仙台藩の飛地だった
常陸国河内郡龍ヶ崎領
(現・茨城県龍ケ崎市)より
50石を寺領として寄進しています。

当寺の境内は、
かつての伊佐城があったところで、
中村氏や伊達氏の同族の伊佐氏
居城でありました。
観音寺(伊佐城跡)
(筑西市)

【文化財】
<木造観世音菩薩立像>
(重要文化財)

<絹本著色八景の図>
(茨城県指定文化財)

<螺鈿硯箱>
(茨城県指定文化財)

<伊佐城阯>
(茨城県指定史跡)

<観音寺本堂>
(筑西市指定文化財)

<大機院殿筆画>
(筑西市指定文化財)

<木造阿弥陀如来坐像>
(筑西市指定文化財)

<伊達左近中将吉村公筆軸一対>
(筑西市指定文化財)

<吉村公筆和歌>
(筑西市指定文化財)

<伊達行朝廟>
(筑西市指定史跡)

<下館藩主石川総管の墓>
(筑西市指定史跡)

<観音寺大欅>
(筑西市指定天然記念物)

【交通アクセス】
真岡鐡道真岡線「折本」駅より
徒歩約15分。

【所在地】
〒308-0005 茨城県筑西市中舘522−1

【伊達氏~17代当主の伊達政宗まで】

出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、
藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や
下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、
鎌倉時代源頼朝より
伊達郡の地を与えられ
伊達を名乗ったとされています。

ただし、伊達氏の出自が
藤原北家であるというのは
あくまで自称に
過ぎないとする説もあるとのことです。

【鎌倉から室町時代】
鎌倉時代、
源頼朝による奥州合戦に従軍し、
石那坂の戦いで戦功を挙げた
常陸入道念西が、
源頼朝より伊達郡の地を与えられ、
伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが
伊達氏の始まりとされています。




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鎌倉時代においては
陸奥・下野・常陸の他にも
出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・
上野・出羽・越後などでも
地頭職を得ており、
これにともない各地に
庶流家が生まれています。
建治元年(1275年)
「造六条八幡新宮用途支配事」
によりますと伊達入道は
鎌倉に起居していたことが判明しています。

南北朝時代の伊達行朝の代には、
北畠顕家に属し、式評定衆となりました。
建武2年(1335年)には北畠顕家が
足利尊氏討伐のために上京するとこれに従い
足利方と戦いました。
興国年間には
南朝方(後醍醐天皇方)として
同族の伊佐氏や中村経長らとともに
常陸国伊佐郡の伊佐城により、
北朝方(足利方)の高師冬らと戦いました。
南朝方は破れて伊佐城は落城、
行朝と経長は城から脱出しました。

なお、正中の変・元弘の乱では
傍系の(但馬伊達氏および出雲伊達氏)の
伊達遊雅(三位房、祐雅法師)が
連座されて処罰されています。
同時に但馬伊達氏、
出雲伊達氏や駿河伊達氏は
足利方であったとのことです。

伊達行朝の子である
伊達宗遠の代には北朝方に降伏。
伊達宗遠は出羽国長井郡を攻め、
領主である長井氏を滅ぼします。

【伊達政宗の乱】
伊達宗遠の子・伊達政宗の時代に
鎌倉公方足利満兼が
領土の割譲を求めると、
足利満兼や会津の
蘆名満盛(蘆名詮盛の子)と争っています。
伊達政宗は応永9年(1402年)までに
3度にわたり鎌倉府に
反旗を翻しています。

京都扶持衆へ】
初め奥羽は鎌倉府の管轄でした。
のちに斯波氏が
奥州・羽州探題を世襲するようになり、
伊達氏はさらに形式上
その配下となりました。
また幕府と鎌倉府の対立が
次第に深まると伊達氏は
幕府に接近して京都扶持衆となります。

【伊達松犬丸の乱】
応永20年(1413年)の
応永の乱では鎌倉を牽制します。

【永享の乱では幕府側】
永享10年(1438年)の
永享の乱では幕府より
鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、
南北朝時代に南朝方であった伊達氏は
幕府との接近によって、
その地位と勢力を高めていったのでした。

【8代将軍夫妻に献上】
文明15年(1483年)には
伊達氏12代当主の伊達成宗が上洛し
8代将軍・足利義政、日野富子らに
砂金・太刀・馬などを献じています。
献上物の数は
当時としては
随一のものであったと伝わっています。

【戦国時代】
幕府は陸奥には奥州探題職を置き、
守護は置かない方針でした。
が伊達氏14代当主の伊達稙宗は
陸奥守護を望み補任されました。
勢いを得た伊達稙宗は
主筋にあたり奥州探題を世襲する
名門の大崎氏の内紛に介入して
次男の義宣を大崎氏の養子に送り込み、
さらに羽州探題の最上氏も
勢力圏に組みこんだのした。
伊達稙宗は天文5年(1536年)に
分国法の塵芥集を
制定するなどして
家中統制の強化に努めました。

【天文の乱】
けれども伊達稙宗の専制を
快く思わない家臣団の一部は、
伊達稙宗の子・伊達実元(亘理伊達家家祖)を
越後守護・上杉氏に入嗣させる計画に
反対する嫡男である
伊達晴宗(伊達家15代当主)を
擁立して伊達稙宗の追放を図りました。
こうして伊達稙宗・伊達晴宗父子の間で
天文の乱が勃発しました。
この争乱は姻戚関係を結んだ
奥羽の諸大名を巻き込む大乱へと発展。
乱は晴宗方が勝利しましたが、
長期の内戦により伊達家は疲弊し、
勢力下に収めていた
諸大名の独立を許すことになったのでした。




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米沢城へ】
伊達晴宗は居城を米沢城に移して
態勢の立て直しにとりかかり、
幕府に奥州探題への補任を求めました。
すでに天文15年(1546年)に
大崎義直が探題に補任されていましたが、
伊達晴宗は陸奥守護職と
奥州探題職は同一のものであり、
伊達稙宗が守護職を得た時点で
伊達氏が探題職に補任される権利を
得ていると主張したのでした。

【伊達氏17代当主伊達政宗の時代】
天正12年(1584年)に
17代当主になった伊達政宗は
強硬な領土拡張政策を進め、
天正17年(1589年)に
会津の蘆名義広を
摺上原の戦いで破り、
蘆名氏を滅ぼします。
摺上原(磨上原)古戦場跡
天正19年(1591年)、
岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)
に移ります。
江戸時代に入った
慶長8年(1603年)に
仙台城に居城を移しました。
寛永11年(1634年)に
62万石となり以降、
仙台伊達家は明治元年の
28万石への減封まで
この表高で続いたのでした。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

伊達政宗~独眼竜・東北の覇者~内向的だった子供が成長し、とことん人生を楽しんだ生涯!

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