青天を衝け

筑波山事件・天狗党の乱について~幕末の水戸藩の大悲劇~水戸幕末争乱

筑波山 遠景




筑波山事件・天狗党の乱】

天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、
元治元年(1864年)に
筑波山で挙兵した水戸藩内外の
尊王攘夷派(天狗党)によって
起こされた一連の争乱のことです。
元治甲子の乱(げんじかっしのらん)ともいうそうです。

【天狗党の発生】
文政12年(1829年)9月、
重病に伏していた
水戸藩第8代藩主である徳川斉脩は、
後継者を公にしていませんでした。
そうした中、江戸家老・榊原照昌らは、
徳川斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は
後継者として不適当であり、
代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある
第11代将軍徳川家斉の21男である
清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を
迎えるべきだと主張し、
藩内門閥層の大多数も、
財政破綻状態にあった
水戸藩へ幕府からの援助が下されることを
期待してこの案に賛成したとのことです。
これに対して、同年10月1日、
藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、
血統の近さから敬三郎を
藩主として立てるべきと主張して、
徒党を組んで江戸へ越訴したとのことです。
10月4日に徳川斉脩が没し、
敬三郎を後継者にという
徳川斉脩の遺書が示されました。
この遺書を掲げて8日に敬三郎が
徳川斉脩の養子となり、
17日に幕府から
徳川斉昭の家督相続承認を
得ることに成功しました。
こうして徳川斉昭が水戸藩第9代藩主となると、
擁立に関わった藤田・会沢らが登用され、
徳川斉昭による藩政改革の担い手となりました。

【天狗党の名の由来】
こうして権力を得た一派は、反対派から
「一般の人々を軽蔑し、
人の批判に対し謙虚でなく狭量で、
鼻を高くして偉ぶっている」ということで、
天狗党と呼ばれるようになったとのことです。

これに対して徳川斉昭は、
弘化2年(1845年)10月に
老中の阿部正弘に対し、
江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、
水戸では義気があり、
国家に忠誠心のある有志を
「天狗」と言うのだと主張しています。
けれども、天狗党という集団は
その内部においても盛んに
党争と集合離散を繰り返しており、
それぞれの時期において
その編成に大きな差異があったそうです。

【「天狗党」が該当する集団の定義】
まず天狗党は「勅書」返納問題において
鎮派・激派に分裂したうえ、
さらに激派内でも根拠地別に
筑波勢・潮来勢などの集団がありました。
それらの集団が、独自に動き回っていたことから、
「水戸市史 中巻(五)」では、
一味の総称である天狗党の呼称について、
最終的に京へ向かって
西上した集団に限定して使用しているとのことです。

【天狗党の反対派】
この時期において、
天狗党への反対派の中心人物となったのは
門閥出身の結城朝道(寅寿)でした。
もともと結城朝道は、
徳川斉昭に重用されていました。
穏健な政策を志向する結城の下には
次第に徳川斉昭の藩主就任に反対して
弾圧された門閥層や、
かつて藤田東湖の父である藤田幽谷と
熾烈な党争を繰り広げた立原翠軒派の残党など、
天狗党主導の政策に反発する者達が集まり、
次第に勢力を増していったのでした。
徳川斉昭と親密であった水野忠邦が失脚すると、
後任の阿部正弘は、
天保15年(1844年)5月、
徳川斉昭を強制的に隠居させ、
結城朝道に水戸藩政の修正を命じます。
徳川斉昭はその後、
一時復帰した水野忠邦によって謹慎を解かれ、
第10代藩主徳川慶篤の後見として復権します。
嘉永6年(1853年)の
黒船来航を期に徳川斉昭が
幕府から海防参与を命じられると、
水戸藩では軍政改革を中心とした
安政改革が進められ、
改革派を中心に尊王攘夷派が形成されたのでした。

【「勅書」返納問題】
【戊午の密勅】
安政5年8月8日(1858年9月14日)、
水戸藩は、幕府による
日米修好通商条約調印を不服とする
孝明天皇から直接に勅書を下賜されたと称しました。





【一橋派】
折しも将軍継嗣問題を巡って
前藩主の徳川斉昭らは、
一橋徳川家当主で徳川斉昭の実子でもある
一橋慶喜を擁立し、
幕府の大老である井伊直弼と対立していました。

【安政の大獄と水戸藩】
井伊直弼は、一橋派の中心人物は
徳川斉昭であり、
密勅の降下にも徳川斉昭が
関与していたとの疑いを強めていました。
やがて井伊直弼によって、
一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され、
水戸藩に対しては、
徳川斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、
京都での工作に関わったとみられる
藩士に対して厳しい処分を行ったのでした。

【「勅書」を巡って分裂】
先に朝廷から水戸藩に下賜された
「勅書」については、
朝廷から幕府へこれを返納するよう
命じられました。
しかしこの命令への対応を巡り、
天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を
速やかに返納すべしとする鎮派と、
あくまでもこれを拒む
金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)
らの激派に分裂しました。
翌万延元年(1860年)になって、
会沢正志斎の強諌に
徳川斉昭もついに観念して
「勅書」の返納に同意したのでした。

【長岡屯集】
しかし、激派はこれに反発して実力行使を企て、
高橋愛諸ら水戸浪士は
水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、
農民など数百人がこれに合流したのでした。
彼らは長岡宿において検問を実施し、
江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとしました。

桜田門外の変】
この激派の動きに対し、
会沢正志斎は2月28日に、
長岡宿に屯する輩は
朝廷からの「勅書」返納の命に背く
逆賊であるからこれを討つとして、
激派追討のため鎮圧軍を編成しました。
これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は
脱藩して江戸へと逃れ、
水戸城下から逃れて来た激派の一団や
薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、
3月3日、江戸城桜田門外で
井伊直弼を襲撃して殺害したのでした。
8月15日の徳川斉昭病没後も
激派の行動はやまず、
さらに第一次東禅寺事件、
坂下門外の変などを起こすに至ったのでした。

【横浜鎖港路線の成立】
水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは
文久2年(1862年)でした。
この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、
幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、
幕府もこれに応じざるを得ない情勢となりました。
水戸藩においても、
武田耕雲斎ら激派が執政となり、
各地の藩校を拠点に
尊攘派有志の結集が進みました。

【一橋慶喜の上洛】
翌年の文久3年(1863年)3月、
将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて
上洛することとなり、
これに先立って将軍後見職に就任していた
一橋慶喜が上洛することが決まりました。
上洛に際して、困ったことがありました。
それは、
一橋徳川家当主で
配下の家臣団が少ないことでした。
そのため、一橋慶喜の実家である
水戸藩に上洛への追従が命じられたのでした。

【長州藩の尊王攘夷派との交流】
水戸藩主徳川慶篤には、
武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、
後に乱を主導することになる面々が追従し、
藤田小四郎らは京都において、
長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞らと交流し、
尊皇攘夷の志をますます堅固なものとしたのでした。

【横浜鎖港交渉の開始】
文久3年5月、
藤田小四郎は一橋慶喜に追従して
江戸に戻ります。
が、8月18日の政変により、
長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、
急進的な尊王攘夷運動は
退潮に向かったのでした。
けれども、なお天皇の攘夷の意思は変わらず、
政変直前に幕府が表明していた
横浜港の鎖港について、
引き続き実行に移すよう要求したのでした。
9月、幕府はこれに応じて
横浜鎖港交渉を開始しましたが、
幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、
あくまで横浜鎖港を推進しようとする
一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じたのでした。

【頼られる水戸藩】
このころ諸藩の尊攘派は、
長州藩に代わって水戸藩を頼るようになり、
水戸に浪士らが群集したのでした。
藤田小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、
武田耕雲斎の強い慰留にも関わらず。
遊説や金策に奔走しました。





【渋沢栄一との会見】
この頃、藤田小四郎は
武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の
尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、
江戸で二度に渡り会見しています。
渋沢栄一は自身も
天狗党に参加しようとしましたが、
周囲に止められて
ついに果たすことはできませんでした。

<渋沢栄一>
渋沢栄一の写真

【一橋慶喜と水戸藩勢力との提携】
文久4年(1864年)1月、
将軍家茂は老中らとともに
前年3月に続く再度の上洛を果たし、
参預会議を構成する諸侯と幕閣との間で
横浜鎖港を巡る交渉が行われました。
ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する
他の参預諸侯と対立し、
参預会議を解体に追い込みました。
朝廷から禁裏御守衛総督に任命された
一橋慶喜は、
元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月、
水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、
武田耕雲斎に依頼して200~300名の
水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、
水戸藩勢力との提携を深めていきました。
天狗党の挙兵はその最中に勃発したのでした。

【筑波山挙兵】
幕閣内の対立などから
横浜鎖港が一向に実行されない
事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、
幕府に即時鎖港を要求するため、
非常手段をとることを決意します。
藤田小四郎は北関東各地を遊説して
軍用金を集め、
元治元年3月27日(1864年5月2日)、
筑波山に集結した
62人の同志たちと共に挙兵しました。
藤田小四郎はこの時、
23歳と若輩であったため、
水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて
主将としたのでした。

【筑波勢】
挙兵の報を聞いた藩主である徳川慶篤は、
田丸稲之衛門の兄である
山国兵部に説得を命じましたが、
山国兵部も逆に諭されて一派に加わりました。
その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、
数日後には150人、
その後の最盛期には約1400人という
大集団へと膨れ上がったのでした。
この一団は筑波山で挙兵したことから
筑波勢・波山勢などと称されました。
筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を持っていましたが、
日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に
「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、
神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、
表面的には敬幕を掲げ、
攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康
の遺訓であると称していたのでした。

武田耕雲斎ら藩執行部は
筑波勢の動きに同調して、
その圧力を背景に幕政への介入を画策します。
4月には一橋慶喜や
在京の藩士との密に連絡をとって
朝廷への周旋を依頼しています。
幕閣側も宸翰(しんかん)
(天子の直筆(じきひつ)の文書)が
「無謀の攘夷」を戒めていることを
根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、
朝廷に対する周旋を強化する一方で、
筑波勢討伐と事態沈静化のために
小笠原長行の復帰を求めましたが、
一橋慶喜と松平直克の妨害により
果たせませんでした。

【日光参拝と田中隊の活動】
藤田小四郎ら筑波勢は、
元治元年4月3日(1864年5月8日)、
下野国日光(栃木県日光市)へと進みました。
彼らは徳川家康を祀った聖地である
日光東照宮を占拠して
攘夷の軍事行動に踏みきる予定でしたが、
日光奉行である小倉正義の通報を受けた
近隣各藩の兵が出動したため、
藤田小四郎らは日光から
太平山(栃木県栃木市)へと移動し、
この地に5月末までに滞在したのでした。

【水戸城下における激派の排除開始】
一方水戸城下においては、
保守派の市川弘美(三左衛門)が
鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、
藩内での激派排除を開始しました。
これを知った藤田小四郎らは
筑波山へと引き返しますが、
この間に一味は約700人に達しており、
軍資金の不足が課題となっていました。

【暴徒化する天狗党】
そこで筑波勢は、
攘夷を口実にしてまたも
府中・筑波・柿岡など近隣の町村の役人や
富農・商人らを恫喝して金品を徴発し、
少しでも抵抗すれば放火して殺害したのでした。
とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、
このとき資金供出を断った
栃木宿(栃木県栃木市、6月5日⇒6日)、
真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)をはじめ、
足利・桐生・大間々・結城などの町で
放火・略奪・殺戮を働き、
天狗党が暴徒集団として
明確に認識される原因を作ってしまったのでした。

【栃木宿の惨劇】
中でも最大の惨劇となったのが栃木宿でした。
6月5日、
栃木宿に到着した田中愿蔵らは、
たまたま通りかかった住吉屋の娘・お栄らを殺し、
家々に押し入って町民を恫喝し
金品を強奪したのでした。
駆け付けた栃木陣屋の役人が
田中愿蔵に対して
お栄殺害の下手人を差し出すよう命じると、
田中愿蔵は賠償金として
150両を支払いましたが、
なおも宿場内に居座り続けたため、
陣屋側は急いで武器を調えるとともに
近くの猟師達を召集し、
町に対しては天狗党が強請に来ても相
手にしないよう命じました。
同日夜、田中愿蔵は
隊員にあらかじめ松明を用意させると、
町に対し軍資金30000両を
差し出せと要求しました。
町側が5000両しか出せないと答えると
田中愿蔵は宿場に火を放たせ、
さらに火を消そうと集まって来た
町民達を手当たり次第に惨殺したのでした。
この火災により翌日までに
宿場内に限っても237戸が焼失したとのことです。





【幕府の対応】
幕府は、水戸派の川越藩主である
松平直克(政事総裁職)らの妨害により、
北関東における筑波勢の横行に対して
直接に追討・鎮圧に乗り出すことができませんでした。
水戸藩や周辺の諸藩に鎮撫を要請するのみで、
6月までこれを放置していたのでした。
水戸藩も激派が藩政を握っていたため、
藩主である徳川慶篤は
「幕府が横浜鎖港を実行しない限り
筑波山に立て籠る激派を鎮めることはできない」
と主張していた程でした。

【筑波勢の追討準備】
4月20日、
参内した将軍である徳川家茂に対して
朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、
松平直克及び徳川慶篤が
その実行者に指名されました。
一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らは、
筑波勢による恐喝・殺人によって
関東一円の治安が
極度に悪化していることを問題視します。
5月に将軍である
徳川家茂の江戸帰着を機に、
すみやかに水戸藩に対し
筑波勢を追討するよう求め、
筑波勢の侵入に備えて
厳重な警戒態勢をとっていた
松戸宿・千住宿を通過できるよう、
市川弘美(三左衛門)に身元確認用の
「竜」字の印鑑を送りました。
これに呼応する形で、
市川弘美(三左衛門)ら諸生党と
鎮派の一部の
計約600人余が
藩主である徳川慶篤のいる
江戸小石川の水戸藩邸に急行し、
藩執行部から激派を駆逐して
藩邸を掌握しました。

【筑波勢の追討方針の遅い決定】
6月3日早朝、登城した松平直克は
板倉勝静・酒井忠績・諏訪忠誠・松平乗謨の4人を
排除するよう徳川家茂に迫り、
彼らを登城停止に追い込みました。
けれども翌日には諸生党および鎮派の意を受けた
徳川慶篤が登城して松平直克を激しく非難し、
松平直克もまた登城停止に追い込まれ、
その結果、10日間余にわたって
江戸城に主要閣僚が誰も登城しないという
異常な状態が続いてしまったのでした。

【松平直克の失脚】
18日には松平直克の要求通り
板倉勝静ら4人が罷免されることになりました。
そして20日に
徳川家茂の御前で行われた評議において、
松平直克が筑波勢の武力討伐に反対したことで
牧野忠恭・井上正直から
厳しく批判されたのでした。、
更に、奉行・目付らも松平直克に猛反発し、
よって22日に松平直克は
政事総裁職を罷免されました。
更に翌日には、水戸派の外国奉行である
沢幸良らも罷免されたのでした。
松平直克の失脚によってようやく
筑波勢鎮圧の方針が定まり、
7月8日、
相良藩主である田沼意尊(若年寄)が
追討軍総括に任命されました。

禁門の変
また、7月19日には
筑波勢の決起に意を強くした
長州藩尊攘派が武装上洛し、
警衛にあたっていた
会津藩と薩摩藩の兵らと
京都市中で交戦となり、
孝明天皇の居る御所に向けて
発砲したあげく敗走しました。

【水戸藩の内部抗争へとシフト】
このため7月23日には
長州藩が孝明天皇によって朝敵に指定され、
朝廷も幕府に対して
「夷狄のことは、
長州征伐がすむまではとやかくいわない」
との意を示し、
鎖港問題は棚上げされてしまいました。
徳川斉昭の息子たちによって
煽り立てられてきた鎖港問題が
棚上げされたことで
筑波勢は挙兵の大義名分を失い、
この騒乱は水戸藩の内部抗争としての
色彩を強めていくこととなるのでした。





【追討軍との開戦】
元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して
常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、
直属の幕府陸軍なども動員しました。
7月7日に諸藩連合軍と
筑波勢との間で戦闘が開始。
筑波勢は機先を制して
下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、
士気の低い諸藩軍は敗走しました。
水戸へ逃げ帰った諸生党は、
筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、
家人を投獄・銃殺するなどの報復を行いました。
8月半ばまでに市川弘美(三左衛門)らは
水戸における実権を掌握し、
江戸にいる藩主である徳川慶篤の意向と
関わりなく藩政を動かすことが
可能となったのでした。

【筑波勢の動揺】
こうした諸生党の報復に対して
筑波勢の内部では動揺が起こり、
藤田小四郎ら筑波勢本隊は
攘夷の実行を優先する他藩出身者らと
別れて水戸に向かったのでした。
藤田小四郎らは水戸城下で
諸生党と交戦しましたが敗退し、
那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却します。
藤田小四郎ら本隊と別れて
江戸へ向かって進撃した一派も
鹿島付近において幕府軍に敗北したのでした。

【天狗党への反撃】
幕府軍による筑波勢追討が開始されると、
激派の恐喝や暴行に苦しめられていた
領民たちが次々と天狗党への反撃を開始します。
7月10日には茨城郡友部(笠間市友部)、
7月13日には結城郡中妻(常総市中妻)、
7月21日には那珂郡諸沢(常陸大宮市諸沢)と、
各地で恐喝に来た天狗党員が相次いで
村民の反撃によって殺されたのでした。
こうした散発的な天狗党への反撃は
次第に大きな地域連合へと変化していきました。
7月25日には茨城郡鯉淵村(水戸市鯉淵)など
近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵しました。
また7月26日に諸生党が激派追討のため、
水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると
領民が続々と参加を願い出できたそうです。
両者は合流して7月29日に
茨城郡下土師(茨城町下土師)で
田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破しました。
この動きに並行する形で、
各地で激派および
これに同調していた郷士・村役人・豪農等への
打ち壊しが行われたのでした。

【大発勢の出陣と那珂湊の戦い】
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、
激派・鎮派は山横目(山林役人)を使って
領内の尊攘派士民を
小金宿(千葉県松戸市)に大量動員し、
藩主である徳川慶篤に圧力をかけ、
交代したばかりの諸生党の
重役の排斥を認めさせ、
水戸藩邸を再び掌握したのでした。
けれども、市川弘美らによる
水戸城占拠の報に接し、
国元の奪還を図ることとなったのでした。
そこで、在府の徳川慶篤の名代として
支藩・宍戸藩主の松平頼徳が
内乱鎮静の名目で
水戸へ下向することになりました。
執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに
8月4日に江戸を出発しました。
これを大発勢というとのことです。

これに諸生党によって失脚させられていた
武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、
下総小金などに屯集していた
多数の尊攘派士民が加入して
1000人から3000人にも
膨れ上がったのでした。

【大発勢VS諸生党】
大発勢は8月10日に水戸城下に入りましたが、
その中に尊攘派が多数含まれているのを知った
市川弘美らは、自派の失脚を恐れ、
戦備を整えて一行の入城を
拒絶したのでした。
松平頼徳は市川弘美と交渉しましたが、
水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥ります。
大発勢はやむなく退き、
水戸近郊の那珂湊(ひたちなか市)に布陣しました。
筑波勢もこれに接近し、
大発勢に加勢する姿勢を示しました。
8月20日、
松平頼徳は水戸城下の神勢館に進んで
再度入城の交渉を行いましたが、またも拒絶。
22日に全面衝突となりました。
大発勢は善戦しましたが、
意尊率いる幕府追討軍主力が
25日に笠間に到着して
諸生党方で参戦すると、
29日には再び那珂湊へ後退したのでした。

【筑波勢と大発勢】
筑波勢の加勢を受けた大発勢は、
市川弘美らの工作もあって
筑波勢と同一視されました。
そして幕府による討伐の対象となりました。
大発勢内では、
暴徒とされていた筑波勢と
行動を共にする事に
当初抵抗もあったとのことですが、
結局共に諸生党と戦うことになりました。
この合流によって、
挙兵には反対であった武田耕雲斎も
筑波勢と行動を共にする事になるのでした。

【敗北していく大発勢&筑波勢】
幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、
洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して
艦砲射撃を行ったとのことです。
松平頼徳の依頼を受けて
市川弘美との仲介を試みていた
山野辺義芸は幕府軍・諸生党と
交戦状態に陥った末に降伏します。
居城である助川海防城も攻撃を受けて
9月9日に落城しました。
その後、今度は筑波勢の田中隊が
助川海防城を奪還して籠城しました。
けどもやがて幕府軍の攻撃を受けて
9月26日に陥落しました。
敗走した田中隊は、
最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に
八溝山で討伐され、
そのほとんどが捕われて処刑されました。





【松平頼徳の切腹】
10月5日、
「幕府に真意を訴える機会を与える」
という口実で誘き出された松平頼徳が
筑波勢との野合の責任を問われ切腹となりました。
この時、松平頼徳の家臣ら
1000人余りが投降しました。
このとき降伏した榊原新左衛門ら43名は後に、
佐倉藩や古河藩などに預けられ、
数ヶ月後に切腹ないし処刑となったのでした。

【天狗党の西上】
大発勢の解体と那珂湊での敗戦により
挙兵勢力は大混乱に陥りましたが、
脱出に成功した千人余りが
水戸藩領北部の
大子村(茨城県大子町)に集結しました。
ここで武田耕雲斎を首領に、
筑波勢の田丸稲之衛門と
藤田小四郎を副将としました。
そして上洛して、
禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて
朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決しました。
武田耕雲斎らは、
天狗党が度重なる兇行によって
深く民衆の恨みを買い、
そのため反撃に遭って
大損害を被ったことをふまえ、
好意的に迎え入れる町に対しては
放火・略奪・殺戮を禁じるなどの
軍規を定めました。
道中この軍規がほぼ守られたため、
通過地の領民は安堵し、
好意的に迎え入れる町も
少なくなかったとのことです。

【天狗党に協力的だった中山道の小藩】
天狗党は11月1日に大子を出発。
京都を目標に
下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、
主として中山道を通って進軍を続けました。
田沼意尊率いる幕府軍本隊は、
天狗党の太平洋側への侵入を防ぐため
東海道を西進する一方、
天狗党の進路上に位置する諸藩に対して
天狗党追討令を発しました。
ところがこれらの藩は
そのほとんどが小藩だったこともあり、
天狗党が通過して行くのを
傍観したばかりか、
密かに天狗党と交渉して
城下の通行を避けてもらう代わりに
軍用金を差し出した藩も出る有様で、
結局追討令に従って
天狗党を攻撃したのは高崎藩など
ごく一部の藩のみでした。

【下仁田戦争】
11月16日、
上州下仁田において、
天狗党は追撃して来た
高崎藩兵200人と交戦しました。
激戦の末、天狗党死者4人、
高崎藩兵は死者36人を出して敗走しました。

【和田峠の戦い】
また、11月20日には
信州諏訪湖近くの和田峠において
高島藩・松本藩兵と交戦し、
双方とも10人前後の死者を出したものの、
天狗党の勝利となりました。
天狗党一行は伊那谷から
木曾谷へ抜ける東山道を進み、
美濃の鵜沼宿(岐阜県各務原市)
付近まで到達しましたが、
彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が
街道の封鎖を開始したため、
天狗党は中山道を外れて
北方に迂回して京都へ向って進軍を続けたのでした。

【一転して天狗党の討伐に乗り出す慶喜】
天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜でしたが、
一橋慶喜自ら朝廷に願い出て、
加賀藩・会津藩・桑名藩の4000人の兵を従えて
彼らの討伐に向ったのでした。
揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は
琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断。
更に北上し蠅帽子峠
(岐阜県本巣市・福井県大野市)を越えて
越前に入り、大きく迂回して
京都を目指すルートを選んだのでした。
越前の諸藩のうち、
藩主が国許に不在であった大野藩は
関東の諸藩と同様に、
天狗党をやり過ごす方針を採りましたが、
鯖江藩主間部詮道と
福井藩筆頭家老府中領主本多副元は
天狗党を殲滅する方針を固め、
兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、
天狗党が敦賀方面へ進路を変更すると
そのまま追撃に入ったのでした。





【投降】
12月11日、
天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至ります。
天狗党は一橋慶喜が、
自分たちの声を聞き届けてくれると
期待していました。
けれども、実は全くの逆で
頼りにしていたはずの一橋慶喜が
京都から来た幕府軍を率いていることを知り、
また他の追討軍も徐々に
包囲網を狭めつつある状況下で
これ以上の進軍は無理と判断したのでした。
前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に
嘆願書・始末書を提出して
一橋慶喜への取次ぎを乞いましたが、
幕府軍はこれを斥け、
17日までに降伏しなければ
総攻撃を開始すると通告してきたのでした。
山国兵部らは「降伏」では
体面を損なうとして反対したのですが、
総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、
払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が
後方から殺到すると、
ついに加賀藩に投降して武装解除し、
一連の争乱は鎮圧されたのでした。

小浜神社

【天狗党員への厳しい仕打ち】
永原甚七郎は投降した
天狗党員を諸寺院に収容し、
かなりの厚遇をもって処したそうです。
けれども、田沼意尊率いる幕府軍が
敦賀に到着すると状況は一変したそうです。
関東において天狗党がもたらした惨禍を
目の当たりにしていた意尊らは
この光景に激怒し、
加賀藩から引渡しを受けると
ただちに天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に
放り込んで厳重に監禁し、
藤田小四郎ら一部の幹部達を除く者共には
手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、
一日あたり握飯一つと
湯水一杯のみを与えるだけにしました。
腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る
狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために
衛生状態は最悪であり、
また折からの厳寒も相まって
病に倒れる者が続出して
20名以上が死亡したとのことです。

【天狗党員の処刑・処罰】
この時捕らえられた天狗党員828名のうち、
352名が処刑されました。
元治2年2月4日(1865年3月1日)、
武田耕雲斎ら幹部24名が
来迎寺境内において斬首されたのを最初に、
3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、
他は遠島・追放などの処分が科されたのでした。

【乱後】
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、
水戸藩では市川三左衛門ら
諸生党が中心となって
天狗党の家族らをことごとく処刑したのでした。

一方、遠島に処せられることになった
武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名の身柄は
敦賀を領していた小浜藩に預けられていました。
14代将軍の徳川家茂が死去して
慶喜が15代の将軍位に就くと、
配流は中止されて謹慎処分へと
変更されることになったのでした。
小浜藩主の酒井忠氏は、
先代の忠義が南紀派の中心人物の一人として
安政の大獄を主導したことを怨む徳川慶喜
小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、
武田金次郎らを
若狭国三方郡佐柿(福井県美浜町)
の屋敷に移して厚遇したのでした。

【戊辰戦争の勃発で報復に出る】
慶応4年(1868年)、
戊辰戦争が勃発すると、
武田金次郎ら天狗党の残党は、
長州藩の支援を受けて京に潜伏していた
本圀寺党と合流し、
朝廷から諸生党追討を命じる
勅諚を取り付けました。
天狗党と本圀寺党は
水戸藩庁を掌握して報復を開始し、
今度は諸生党の家族らが
ことごとく処刑されたのでした。

弘道館戦争】
水戸を脱出した諸生党は
北越戦争・会津戦争等に参加しましたが、
これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、
9月29日には水戸城下に攻め寄せましたが
失敗に終わったのでした。
彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けましたが、
10月6日の松山戦争で壊滅しました。
こうして市川弘美ら諸生党の残党も
捕えられて処刑されました。
が、武田金次郎らはなおも
諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、
水戸における凄惨な報復・私刑は
しばらく止むことが無かったのでした。

【人材の多くを失った結果】
水戸学を背景に尊王攘夷運動を
当初こそ主導した水戸藩でしたが、
藩内抗争は他藩にも例を見ないほどの
凄惨な殲滅戦となり、
優秀であった人材をことごとく失ったのでした。
その為、水戸藩出身者が
創立当初の新政府で
重要な地位を占めることはありませんでした。

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