青天を衝け

渋沢平九郎について~幕末のイケメンで渋沢栄一の見立養子で義兄弟、墓と終焉地は越生にあります。

渋沢平九郎




【渋沢平九郎】

渋沢 平九郎(しぶさわ へいくろう、
弘化4年11月7日〈1847年12月24日⇒
慶応4年5月23日〈1868年7月12日〉)は、
江戸時代末期の豪農出身の武士です。
兄に富岡製糸場の
初代工場長となった尾高惇忠と尾高長七郎、
従兄に渋沢成一郎(喜作)、渋沢栄一がいます。
渋沢栄一の見立養子となり、
幕臣の子として彰義隊・振武軍に参加しました。
諱は昌忠といいます。

【誕生】
弘化4年(1847年)11月7日、
武蔵国榛沢郡下手計村
(現・埼玉県深谷市下手計)
名主の尾高勝五郎保孝の末子として生まれました。
勝五郎には長男・新五郎(惇忠)、
長女・みち、次女・こう、
次男・長七郎(弘忠)、
三女・千代、四女・くにがいました。
尾高家は米穀、塩、菜種油などの商売や
藍玉の製造販売、養蚕、農業を営んでいました。
長男の尾高惇忠は家業のかたわら、
自宅に私塾を開き、
近郷の子弟に学問を教えており、
渋沢栄一も門弟の一人でした。

そのような環境の中で、
渋沢平九郎は幼少期から
学問・文芸に親しみ、
また10歳で神道無念流を学び始めました。
19歳の頃には剣術を
人に教えるまでに上達していました。
兄の尾高惇忠の
「渋沢平九郎昌忠伝」では、
渋沢平九郎は温厚で沈勇果毅な性格で、
所作は美しく色白で背が高く
腕力もあると記されています。
(写真を拝見しますと、容姿端麗ですものね)

渋沢平九郎 姿

ちなみに、神道無念流を極めて
百姓の出ながら川越藩の剣術師範となり、
尾高惇忠や渋沢栄一らにも剣術を教えた
大川平兵衛の息子の修三に、
渋沢平九郎の長姉みちが嫁いでおり、
修三とみちの子で
実業家の大川平三郎に栄一の娘が嫁いでいます。

【渋沢栄一と義兄弟へ】
安政5年(1858年)、
渋沢平九郎の姉・千代と
渋沢栄一が結婚すると、
渋沢平九郎は栄一と義兄弟となりました。

【尊王攘夷運動】
黒船来航から尊王攘夷思想が
本格化し始めたころ、
水戸学信奉者の尾高惇忠と渋沢成一郎、
渋沢栄一らは尾高家で、
高崎城乗っ取り、
横浜外国人居留地焼き討ちの計画を立てました。
けれども文久3年(1863年)、
京都から帰郷した長七郎に説得され、
計画は未遂に終わっています。
この時、渋沢平九郎も参画予定でした。

翌年の元治元年(1864年)6月5日、
尾高惇忠が水戸天狗党との関係を疑われ
捕縛されると、
家宅捜索を受けた渋沢平九郎は一晩拘留、
手錠、宿預けとなりました。
尾高惇忠は6月13日に赦免されています。

【渋沢栄一の見立養子へ】
一方、京都に出奔していた渋沢栄一と渋沢成一郎は、
元治元年2月に一橋慶喜の家臣となり、
慶応2年(1866年)、
一橋慶喜の将軍就任に伴い幕臣となりました。
翌年の慶応3年(1867年)、
渋沢栄一は将軍の名代として
パリ万博へ出席する
徳川慶喜の弟である
清水昭武の随員として、
フランスへ渡航することになりました。
渋沢平九郎の人生は渋沢栄一の渡欧によって一変します。
10月、渋沢栄一の見立養子(相続人)となり、
江戸での生活が始まりました。





【幕末の動乱の渦に巻き込まれていく】
けれどもその矢先、
大政奉還の一報が江戸に届き、
渋沢平九郎はすぐさま下手計村の
尾高惇忠のもとへ行き、相談をもちかけています。
続いて12月に王政復古の大号令、
翌年の慶応4年(1868年)1月には
鳥羽・伏見の戦い、徳川慶喜追討令と、
幕末の動乱に当時数え22歳の
渋沢平九郎は巻き込まれていったのでした。

【渋沢栄一に宛てた手紙】
慶応4年正月10日付で、
渋沢平九郎がフランスの
渋沢栄一に宛てた手紙があります。

「御国の形成昨孟冬中より追々大変ニ相成、
(省略)正月三日京坂の間ニ而薩長士其外と大戦争有之」
「上様御事御帰朝ニは不被成候哉 乍恐徳川氏の御大危急と奉存候」
渋沢栄一がフランスへ渡航してから
約1年の間で様変わりした
日本の状況を伝え、
今は徳川氏にとっての危険な事態が差し迫っており、
早急な徳川昭武の帰朝が
必要であると述べているとのことです。
また、この手紙には渋沢平九郎が抱いていた
幕臣の子としての覚悟を表している
以下の文章があるとのことです。

「御国事ニ乍恐周旋も被致候」
「実ニ臣子の身痛心の至ニ候」
国事周旋に尽力しするとともに、
幕臣の子としてこのような状況は
心痛の至りであると述べているとのことです。

【彰義隊・振武軍への参加】
慶応4年(1868年)2月、
徳川慶喜が江戸城を出て寛永寺に蟄居すると、
これに不満を抱いた有志たちは
徳川慶喜の復権に向けて集議を重ねました。
同志の数は膨れ上がり、
23日に彰義隊が結成され、
頭取は渋沢平九郎の従兄・渋沢成一郎です。
渋沢平九郎は計画段階から参画しており、
彰義隊大ニ青隊伍長に任命されました。
4月に江戸城が開城し、
徳川慶喜が水戸へ退隠すると、
渋沢平九郎は慶喜の様子を見に行っています。

彰義隊では次第に頭取の渋沢成一郎と
副頭取の天野八郎との間で軋轢が生じ、
4月28日には渋沢平九郎宅が
天野八郎派の隊士に取り囲まれる事件が発生しました。

閏4月、渋沢成一郎は彰義隊と袂を分かち、
振武軍を結成します。
渋沢平九郎は自邸の障子に
「楽人之楽者憂人之憂、喰人之食者死人之事 昌忠」
と書き残して彰義隊を離脱し、振武軍に加わりました。

振武軍は箱根ヶ崎に本営を設置し、
隊長は渋沢成一郎、
中軍の将に尾高惇忠、
右軍頭取に渋沢平九郎が就任しました。

渋沢平九郎は各地に赴き情報を集めており、
5月15日、渋沢平九郎から
上野戦争勃発の報告を受けた渋沢成一郎は
彰義隊の救援を画策しますが、
時はすでに遅しで、
彰義隊の残党とともに本営に引き返しています。

【飯能戦争】
同月18日、振武軍は飯能に入り、
翌日に本営を能仁寺に構えました。
一方で新政府軍は残党の掃討命令により、
彰義隊を討伐した勢いそのままで
飯能まで迫ってきていました。
23日の明け方、
新政府軍と振武軍の戦いが始まりました。
昼前には振武軍は壊滅し、
新政府軍の勝利に終わったのでした。
この戦いで、能仁寺ほか3か寺、
飯能市街地のほぼ半分が焼失してしまいました。

【はぐれた渋沢平九郎】
渋沢成一郎や尾高惇忠とはぐれた
渋沢平九郎は、
飯能と越生の境にある
顔振峠にたどり着きました。
峠の茶屋の女主人は、
すぐに渋沢平九郎が
旧幕府軍の隊士であると見抜いたようで、
新政府軍の目の届かない
秩父へ抜ける道を勧めたとのことです。
渋沢平九郎は百姓に化けるため
大刀を預けましたが、
何か考えがあってのことなのか
越生方面へ下りていってしまいました。





【渋沢平九郎の最期】
午後4時頃、黒山村(現・越生町黒山)
に下った渋沢平九郎は、
新政府方の広島藩神機隊四番小隊の
藤田高之一隊の斥候と
遭遇してしまいます。
敵方3人に小刀で応戦し、
1人の腕を切り落とし、
1人にも傷を負わせましたが、
右肩を斬られ、足には銃弾を受けてしまいました。
渋沢平九郎の気魄に恐れをなした
斥候隊の一人が仲間を呼んで戻ってくると、
渋沢平九郎は川岸の岩に座して
既に観念の自刃を遂げていたのでした。
享年は22歳の若さでした。

渋沢平九郎 終焉の地

【全洞院に埋葬される】
渋沢平九郎の首は刎ねられ、
今市宿(現・越生町市街地)に晒されました。
一方、骸は黒山村の人々が
全洞院(越生町黒山)に埋葬しました。
住職は白木位牌に
「慶應四年戊辰年 五月二十三日 真空 大道即了居士 位」
「俗名不知 江戸之御方而候 於黒山村打死」と記しました。

全洞院 説明板

黒山の村人たちは、
渋沢平九郎の壮絶な最期を讃えて
「脱走の勇士様」(だっそさま)と呼び、
首から上の病に効く神様と崇めたそうです。
命日には、墓前にしゃもじを供えて
冥福を祈る風習がありました。

全洞院 入り口

【成一郎と惇忠】
飯能戦争で敗れた渋沢成一郎と尾高惇忠は、
吾野を経て上州の伊香保、草津、
前橋へと転々としたのち、
渋沢成一郎は榎本武揚率いる
旧幕府軍とともに箱館戦争に参戦し、
尾高惇忠は下手計村に帰郷しました。
尾高惇忠のもとに、
飯能戦争で一人の脱走士が
入間郡黒山村で勇戦し亡くなったという噂が届きます。
7月、尾高惇忠は
入間郡黒山村(入間郡越生町大字黒山)に向かい、
人々に話を聞いて回り、
その勇士が平九郎であると悟ったのでした。

【渋沢平九郎の最期の絵】
渋沢平九郎の最期の様子を
描いた絵が残っているとのことです。
明治元年(1869年)5月23日、
官軍に召集された
安戸村(秩父郡東秩父村安戸)
の医者である宮崎通泰は、
治療に当たった3人の負傷兵から、
小刀で彼らに応戦し、
最期まで勇ましく戦った脱走兵の話を聴き、
その最期を絵にしたためたということです。
それから月日は流れ、
榛沢郡中瀬村(現・深谷市)
の斎藤喜平がこれを見聞きし、
尾高惇忠に伝えたということです。
明治23年(1890年)7月、
第一国立銀行仙台支店の
支配人になっていた尾高惇忠は、
絵を所有していた丸橋一之のもとへ出向き、
絵に「渋沢平九郎昌忠戦闘之図」と題し、
添え書きを記したということです。

【遺刀のゆくえ】
平九郎の愛刀で
現在確認されているのは3振です。

◆勝村徳勝作の大刀
◆勝村徳勝作の小刀
◆月山貞一作の大刀

勝村徳勝の大小は、
飯能戦争時に渋沢平九郎が佩刀(はいとう)
していたとされています。
討死の際に佩刀していた小刀は、
神機隊の川合鱗三の手で保存され、
明治26年(1893年)に
渋沢栄一のもとへ戻りました。
茶屋の女主人に託した大刀も
渋沢栄一のもとへ戻っています。

月山貞一の大刀は、
昭和15年(1940年)1月に
青森県の佐々木磐夫より
渋沢家に送られました。
刀身の表に
「摂州浪花住月山雲龍子貞一作之 慶応三卯年八月日」、
裏には「應渋澤平九郎需」の銘文が刻まれているとのことです。

【渋沢平九郎の墓】
明治6年(1873年)8月、
渋沢栄一の命により
側近の柴崎確次郎(義行)は、
渋沢平九郎の首と骸を収容し、
谷中の渋沢家墓地に改葬しました。
その後、全洞院に渋沢平九郎の
墓石が建てられました。

渋沢平九郎の墓

明治32年(1899年)6月、
70歳の尾高惇忠と60歳の渋沢栄一は、
振武軍の本陣が築かれた
能仁寺を詣でたのち、越生で1泊した。
翌日、2人は渋沢平九郎自決の地と
全洞院にある墓を詣でています。

全洞院 渋沢平九郎の墓 入り口

さらに明治45年(1912年)4月、
渋沢栄一は越生町での講演会の後、
渋沢平九郎自決の地と墓を詣でています。

渋沢平九郎の墓参りをする渋沢栄一

【渋澤平九郎埋首之碑】
法恩寺(越生町大字越生)
新政府軍によって晒された渋沢平九郎の首は、
今市村の島野喜兵衛と
黒岩村の横田佐兵衛が密かに
法恩寺(ほうおんじ)に埋葬したとのことです。

昭和39年(1964年)、
渋沢元治の題字、
山口平八の撰文による
「渋澤平九郎埋首之碑」が建立されました。





【渋沢平九郎自決の地】
<越生町指定史跡>
昭和29年(1954年)、
梅園村(現・越生町)と
八基村(現・深谷市)の男女青年団により、
「澁澤平九郎自決之地」の碑が建立されました。
表の碑文は、渋沢敬三、
裏の撰文は山口平八によるとのことです。
ちなみに、渋沢平九郎が座して
自刃した岩(自刃岩)の傍らには、
渋沢平九郎の血の色を
宿しているかのように
赤い実を結ぶグミの木(平九郎グミ)があります。
全洞院から上流300mほどの道路沿いにあります。
黒山三滝とは反対方向になります。

渋沢平九郎自決の地

<所在地>
〒350-0424 埼玉県入間郡越生町黒山
渋沢平九郎自決の地(向かい側)
※駐車場はないですが、
向かい側に停車して写真を撮りました。

【全洞院】
曹洞宗寺院の全洞院は、岩松山と号します。
全洞院は、龍穏寺六世喜州善欣が開山、
洞嶽石瑞が中興したとことです。
龍穏寺の末寺であり、
七福神めぐりのひとつ、
武蔵越生七福神の布袋尊が祀られています。
黒山三滝の手前にあります。

全洞院

<所在地>
〒350-0424 埼玉県入間郡越生町黒山674

全洞院 武蔵越生七福神の布袋尊

<駐車場>
全洞院入り口の道路を挟んだ向かい側にあります。
敷地は結構広いです。

<トイレ>
男女一緒ですがあります。

2021年NHK大河ドラマ
青天を衝け」では
岡田健史(おかだ けんし)さんが演じられています。

渋沢栄一生地にある旧渋沢邸「中の家(なかんち)」

渋沢栄一記念館について

尾高惇忠生家及び尾高惇忠について

筑波山事件・天狗党の乱について~幕末の水戸藩の大悲劇~水戸幕末争乱

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