史跡・城跡

井出の沢古戦場跡~中先代の乱~南北朝黎明期、足利直義と北条時行が激突した合戦の場

井出の沢古戦場



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井出の沢古戦場跡】

「中先代の乱」の舞台となった地のひとつで、
建武2年(1335年)には
足利尊氏の弟である足利直義が、
信州から南下した北条時行の軍を
迎撃した場所です。
この場所は鎌倉街道沿いにあり、
鎌倉幕府の防衛拠点として
鎌倉街道が整備された際に
城が築かれた場所との事です。

現在でも交通の要所としての鎌倉街道。
更にこの地点から鶴川街道への分岐となるので、
古来から交通の要所でありました。
町田の台地から恩田川に下る
台地の先端部分になります。
ここまでくれば、
鎌倉まではほぼ平坦な道のりとなるので、
ここで北条時行らを迎え撃つには
最適の場所となります。
湧水もあるので、飲料水の確保も出来ました。

古戦場のエリアは、
菅原神社、町田市立体育館、
市営グラウンド一帯とのことです。

<菅原神社 御神水>
菅原神社 ご神水

ちなみに井手の沢は鎌倉期の歌謡、
宴曲抄「善光寺修行」に
「かれいい食うべしいにしえも、
かかりし井手の沢辺かとよ、
小山田の里に来にけらし」と詠まれるほど、
弁当の干し飯を食べるに必要な
きれいな水が湧き出ていた
休憩地として有名であったそうです。
地下水位は少し下がったものの、
現在も境内の下を清水が流れているそうです。
(参考:菅原神社公式サイトより)

<菅原神社 境内>
菅原神社 境内
井出の沢城の土塁なのか、
河岸段丘なのかは不明です。
また井出沢城の主が
誰であったかも今となっては定かではありません。

菅原神社の社殿へは急な階段を上ります。
崖になっています。
現在は「菅原神社」があります。
<菅原神社 鳥居>
奥に階段が見えます。
菅原神社 鳥居

<菅原神社 社殿>
菅原神社 社殿

<井出の沢古戦場の碑がある辺り>
高くなっています。
菅原神社 高台

【所在地】
〒194-0032 東京都町田市本町田802番地
(菅原神社)

【交通アクセス】
<徒歩>
JR・小田急「町田」駅から徒歩30分程度。
<バス>
小田急線町田駅より
鶴川駅行、
藤の台団地行、
本町田団地行で「菅原神社前」下車。
所要時間は約10分です。

【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
20台ほど余裕で駐車できるスペースです。

【トイレ】
あります。

【中先代の乱】

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、
建武2年(1335年)7月、
北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児である
北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、
鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱のことです。
先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、
一時的に鎌倉を支配したことから、
中先代の乱と呼ばれています。
また、鎌倉支配が20日余りしか
続かなかったことから、
廿日先代(はつかせんだい)の
異名もあるとのことです。

【建武の新政】
鎌倉幕府滅亡後、
建武の新政により、鎌倉には、
後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし
足利尊氏の弟である足利直義が執権として
これを補佐する形の
鎌倉将軍府が設置されました。

【武家の支持が得られない】
けれども建武政権は武家の支持を得られず、
北条一族の残党などは
各地で蜂起を繰り返していたのでした。




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【信濃国の場合】
北条氏が守護を務めていた
信濃国もその1つで、
千曲川(信濃川)周辺では
たびたび蜂起が繰り返され、
足利方の守護小笠原貞宗らが
鎮圧にあたっていました。

【西園寺公宗らの陰謀】
建武2年(1335年)6月には、
鎌倉時代に関東申次を務め、
北条氏と繋がりがあった
公家の西園寺公宗らが
京都に潜伏していた
北条高時の弟である北条泰家(時興)を匿い、
持明院統の後伏見法皇を擁立して
政権転覆を企てた陰謀が発覚します。

【逃れた北条泰家】
西園寺公宗らは後醍醐天皇の暗殺に
失敗して誅殺されましたが、
北条泰家は逃れ、
各地の北条残党に挙兵を呼びかけたのでした。

【北条時行の挙兵】
信濃に潜伏していた北条時行は、
御内人であった諏訪頼重や
滋野氏らに擁立されて挙兵しました。
北条時行の信濃挙兵に応じて
北陸では北条一族の名越時兼が挙兵します。
北条時行勢の保科弥三郎(保科氏)や
四宮左衛門太郎らは
青沼合戦において
守護である小笠原貞宗を襲撃し、
この間に諏訪氏・滋野氏らは
信濃国衙を焼き討ち襲撃して、
建武政権が任命した
公家の国司(清原真人某)
を自害させたのでした。

【反乱軍の情報を掴んでいなかった建武政権】
ところが、京都の建武政権は当初、
反乱軍が北条時行を擁しているとの
情報を掴んでおらず、
京都では反乱軍は木曽路から
尾張国に抜け、
最終的には政権のある
京都へと向かうと予想したために、
鎌倉将軍府への連絡が遅れ、
それが後の鎌倉陥落につながったと
みられています。

【勢いにのった北条時行軍】
勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り、
鎌倉に向けて進軍します。
7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)で
渋川義季や岩松経家らが率いる
鎌倉将軍府の軍を、
小手指ヶ原(同県所沢市)で
今川範満の軍を、
武蔵府中で救援に駆けつけた
下野国守護小山秀朝の軍を打ち破り、
これらを自害あるいは討死させたのでした。

【井出の沢で足利直義軍と激突】
続いて、井手の沢(東京都町田市)にて
鎌倉から出陣して
北条時行軍を迎撃した
足利直義をも破ったのでした。
足利直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、
後醍醐天皇の皇子である
成良親王らを連れて鎌倉を逃れます。
鎌倉には建武政権から失脚した
後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が
幽閉されていましたが、
足利直義は鎌倉を落ちる際に、
密かに家臣の淵辺義博
護良親王を殺害させたのでした。
7月23日のことでした。

【護良親王殺害の理由】
鎌倉に護良親王を将軍、
北条時行を執権とする
鎌倉幕府が再興され、
建武政権に対抗する存在に
なることを恐れていたからと
考えられています。

【北条時行、鎌倉へ入る】
翌日の24日は鶴見
(神奈川県横浜市鶴見区)にて
鎌倉将軍府側は
最後の抵抗を試みましたが、
佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死。
翌25日に北条時行は鎌倉に入り、
一時的に支配することとなったのでした。
更に北条時行勢は、
逃げる足利直義を
駿河国手越河原で撃破しました。
足利直義は8月2日に
三河国矢作に拠点を構え、
乱の報告を京都に伝えると
同時に成良親王を返還しています。

【後醍醐天皇、尊氏の要請を拒否】
北条時行勢の侵攻を知らされた
建武政権では、足利尊氏が
後醍醐天皇に対して
北条時行討伐の許可と同時に
武家政権の設立に必要となる
総追捕使と征夷大将軍の役職を
要請しましたが、
後醍醐天皇は要請を拒否したのでした。

【足利尊氏、無許可で出陣】
8月2日、足利尊氏は
勅状を得ないまま出陣し、
後醍醐天皇は足利尊氏に追って
征東将軍の号を与えたのでした。




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【兄弟合流と各地での激戦】
足利尊氏は足利直義と合流し、
9日に遠江国橋本(静岡県湖西市)、
12日に小夜の中山にて
今川頼国の手により名越邦時戦死、
14日に駿河国の清見関および国衙、
17日に相模国箱根
18日に相模国相模川では
足利尊氏方は源義経来の北条方に
遺恨を持つ中村経長が
獅子奮迅の働きをするも、
今川頼国・頼周兄弟が戦死するなど
各地が激戦に見舞われたのでした。

【20日あまりの鎌倉占領】
北条時行勢は次第に劣勢となり、
戦線は徐々に後退していきます。
19日には相模国辻堂で敗れた
諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害して、
北条時行は鎌倉を保つこと
20日余りで逃亡となりました。

【後醍醐天皇と足利尊氏の考え】
後醍醐天皇は足利尊氏へ出陣の許可は
与えませんでしたが、
8月30日の小山朝氏への
下野国司兼守護への補任は
足利尊氏の奏請に
応じたものと考えられています。
また間に合わなかったのですが、
九州の大友貞載に出陣を求める
綸旨を出していることから、
少なくてもこの段階では
足利尊氏と天皇の方針に
大きな違いはなかったと
見られています。

【延元の乱】
ところが、9月27日になり、
足利尊氏は鎌倉において、
乱の鎮圧に付き従った将士に
勝手に恩賞を分配を行うための
袖判下文を発給し、
建武政権の上洛命令を
無視したりするなど、
建武政権から離反したのでした。

【北条時行に従った多くは御内人】
北条時行に従った武士には
名越氏のような北条氏一門もいましたが、
大部分が諏訪頼重のような
御内人でした。
彼らの中には千葉氏・宇都宮氏・三浦氏などの
関東有力武家の庶流の
出身者が多数含まれており、
結果的に関東武士が
多数含まれることになったのでした。

【関東の御家人は足利に】
これに対して佐竹氏・小山氏などの
関東の御家人が鎌倉将軍府側に加わり、
更に既に将軍府に出仕していた
旧幕府吏僚や御内人の多くも
北条時行の動きには従わずに、
足利直義ともに鎌倉から脱出しています。

【公式の幕府文書を発給できなかった時行】
このため、鎌倉に入った足利時行は
公式の幕府文書を発給することが出来ず、
御内人のみで出せる
得宗家の奉行人連署奉書で
命令を下していました。

【御内人同士の戦いに成り下がる】
そして、建武政権に仕えていた
旧幕府吏僚や御内人の中にも
足利尊氏とともに
北条時行討伐に参加する者がおり、
北条時行および御内人の挙兵は
結果的には御内人同士の戦いとなって
鎌倉幕府再興の可能性を失わせるとともに、
室町幕府や鎌倉府を支える
吏僚層を形成する
きっかけとなったと言われています。

【北条時行の行方】
北条時行は鎌倉を逃れた後も
各地に潜伏し、南北朝成立後は
吉野南朝から朝敵免除の綸旨を受けて
南朝に従い、
新田氏や北畠顕家の軍などに属して
足利方と戦いましたが、
正平7年/文和元年(1352年)に
足利方に捕縛され、
翌年、鎌倉において処刑されたと伝わります。
けれども、洞院公賢の日記園太暦や
今川了俊の難太平記などによると
北条時行は脱走し、
行方を晦ましたとあるそうです。

【菅原神社】

【ご由緒】
【時は室町、永享年間】
室町期の永享年間、
(1429年9月5日から1441年2月17日)
近在の大沢左近正次は、
先祖の大沢七郎正純が
鎌倉期元応年間に
京都北野天神へ詣でた折に得た
天神像(大沢家の守り本尊とのこと)を、
井手の沢の山上に奉安したとのことです。

【江戸時代】
時は下ってその子孫の大沢玄蕃(げんば)は、
江戸期初頭の寛永7年(1630年)、
新たに渡唐の天神像を刻ませてこの地に奉安いたし、
この地を寄進して本町田の鎮守としたとのことです。

(参考:菅原神社公式サイトより)

竹之下合戦古戦場~足利尊氏が新田義貞に大勝した地~時代は南北朝へ!

篠村八幡宮「旗立楊」ここから鎌倉幕府打倒が始まった足利尊氏出陣の地

小山田城址・築城は小山田氏の祖である小山田有重、小山田神社に小山田氏の足跡あり。

報国寺~鎌倉で特に大人気の竹寺、歴史では鎌倉における足利公方の終焉の地です。

足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。

渋川館について~梶原景時及び梶原一族と合戦になり自害に追い込んだ入江一族。

甲斐・須沢城~南北朝・観応の擾乱にて落城、須沢城の悲劇として後世に語られる逸話があります。

海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。

三河・今川城~今川氏発跡地、今川一族の足跡は常に鎌倉・室町幕府の歴史の渦中にいました。

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