女性

糸(早川殿)~政略結婚で今川氏真の正室になりましたが、最期まで添い遂げました。

小田原城三の丸外郭 相模湾



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【糸(早川殿)】

早川殿/早河殿(はやかわどの、
生年不詳 – 慶長18年2月15日
(1613年4月5日))は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての女性です。
相模国の戦国大名北条氏康の娘です。
甲相駿三国同盟の一環として、
駿河国の戦国大名今川氏真の室となりました。

実名は不明です。
法名から蔵春院殿(ぞうしゅんいんでん)、
蔵春院とも称されます。
なお、2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では「糸」の名になります。

【出生について】
出生年や生母を確定できる史料はありません。
長らく系図類をもとに
北条氏康の庶出の長女、北条氏政の異母姉」
とされてきましたが、
小田原北条氏・今川氏の家族関係の
研究の進展に伴い
「北条氏康と瑞渓院今川氏親の娘)の
間の嫡出の女子で、
北条氏政の同母妹」との説が出ています。

生母の問題については、
瑞渓院の北条家嫁入の
時期の問題が関わるとのことです。
従来、北条氏康の正室である
瑞渓院は天文6年(1537年)嫁入とされ、
北条氏政は天文7年(1538年)生まれと
されたため、早川殿を「北条氏政の姉」
とする場合は瑞渓院以外の
所生と考えられていました。
けれども、瑞渓院の嫁入は
天文4年(1535年)頃とする見解が
有力視されるようになり、
たとえ早川殿が「氏政の姉」であっても
瑞渓院所生(氏政の同母姉)
であることが成り立つとのことです。
今川氏との通婚という
重要な政治課題を担う上では、
瑞渓院の所生(今川氏真とはいとこ婚になる)
と見た方が妥当視されるとのことです。

「氏政の姉」という理解は、
「寛政重修諸家譜」や
「小田原編年録」所収系図において、
早川殿が北条氏政よりも
先に掲げられていることから
来ているとのことです。
ところで北条氏政は
今川氏真と同年とされており、
早川殿が「氏政の姉」すなわち
「氏真より年上」となりますと、
30代半ばから4人の子を産むという
高齢出産になります。
また結婚から出産までの時間が
空いており、第一子の生年の問題が
関わってきますが、
幼少で嫁入したという推測が成立します。




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【駿相同盟】
小田原北条氏と駿河の今川氏は
もともと小田原北条氏の始祖である
伊勢盛時(北条早雲)の姉である
北川殿が今川義忠の正室であり、
今川義忠と北川殿の子である
今川氏親を伊勢盛時が
家臣として補佐していたことから
同盟関係にありました。

【河東の乱】
けれども、天文6年(1537年)に
今川氏親の子である今川義元
小田原北条氏と敵対関係にあった
甲斐の武田氏と駿甲同盟を結んだことから
敵対関係に入り、
富士川以東をめぐる争奪戦
が約10年にわたり繰り広げられていました。

【三国同盟の成立】
武田・小田原北条・今川氏の間で
甲相駿三国同盟が結ばれると、
早川殿はその婚姻政策の一環として
天文23年(1554年)7月に
今川義元の嫡子氏真(17歳)の許に嫁ぎました。

行列の行程や婚儀の具体的な様子についての
史料は残されていませんが、
甲斐で記された「勝山記(妙法寺記)」には、
輿入の行列の見事さが
伝聞として記されています。

「駿河の屋形様へ相州屋形様の
御息女を迎い御申し候、御供の人数の煌めき、
色々の持ち道具、我々の器用ほど成され候、
去るほどに見物、先代未聞に御座有る間敷く候、
承け取り渡しは三島にて御座候、
日の照り申し候事は言説に及ばず、
余りの不思議さに書き付け申し候」

(現代語訳)
「北条家から供奉した家臣は、
きらめくような武具(持ち道具)で
婚姻行列を飾り、
沿道は見物人で前代未聞というほどの
賑わいを見せたという。
花嫁の受け渡しは、
境目である三島で行われた。
この日はことのほか天気が良かったという。」

伊豆と駿河の国境を流れる
境川に架けられた農業用水の千貫樋は、
北条氏康からの
聟引出物として建設されたという
伝承があります。

永禄10年(1567年)前後、
長女(吉良義定室)を授かりました。

永禄11年(1568年)11月11日付で、
同年3月に没した寿桂尼の所領であった
笹間郷上河内村の峯叟院(島田市)に
寺領安堵の朱印状を発行しており、
寿桂尼の所領の少なくとも一部を
継承しています。

【武田氏による駿河侵攻】
永禄11年(1568年)12月、
甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を行うと、
今川氏真とともに遠江国掛川城へ逃れました。

【氏康激怒、越相同盟】
この逃避行の際、
武田氏は早川殿の保護を
怠ったために、
早川殿が徒歩で逃げる羽目になりました。
このことに父の北条氏康は激怒し、
武田との同盟を破棄して
長年の宿敵だった
上杉謙信との同盟に切り替え、
今川氏を支援するために駿河に出兵しました。

【和睦】
翌年5月、今川・小田原北条家と
徳川家の間に和睦が成立し、
掛川城は開城となりました。
今川氏真・早川殿と長女は、
在城衆とともににより
小田原北条家に迎えられ、
おそらく海路で蒲原城に引き取られました。
今川家臣は小田原北条家の軍事指揮下に置かれ、
駿河支配は北条氏政に委任されることになり、
早川殿の甥の国王丸(のちの北条氏直)が
今川氏真の養子として
今川家の名跡が譲渡されたのでした。




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【早川郷へ、嫡男誕生】
今川氏真と早川殿夫妻は沼津に移った後、
伊豆国境に位置する
駿東郡東南端の大平郷(今川家御料所であった)に移り、
大平城を築いて拠点としました。
早川殿は元亀元年(1570年)4月には
小田原近郊の早川郷へ移りました。
「早川殿」の称はここから来ています。

小田原 早川方面

今川氏真は大平城にとどまっていましたが、
大平城も攻撃にさらされる戦況となり、
8月までに大平城を退去し、
妻のいる早川郷に移住しました。
この元亀元年(1570年)、
早川殿は長男今川範以を生みます。
今川氏真が33歳で得た嫡男です。

【北条氏康の死去と甲相同盟の復活】
元亀2年(1571年)10月、
父親である北条氏康が死去しました。
甲相同盟が復活し、
北条家が駿河を武田領国と
承認することで、
今川氏真の駿河帰国は
頓挫することになりました。
最終的に今川氏真夫妻は
小田原を出て浜松の徳川家康
頼ることになりますが、
出国の時期は
明らかにはなってはいません。
従来、甲相同盟を受けて
間もなく小田原を退去したと
されてきましたが、
史料で確認される限り、
今川氏真はその後も早川に暮らしており、
元亀3年(1572年)5月には
早川の久翁寺で
今川義元の十三回忌法要を行っています。

【今川氏康夫妻の出国】
今川氏真が徳川家康
庇護下に入っているのが
確認できるのは、
天正元年(1573年)8月とのことです。
今川氏真の出国には、早川殿をはじめ、
それまで同行していた家族も同行しました。

【浜松、駿府へ】
早川殿も夫とともに、浜松周辺、
ついで天正14年に徳川家康が本拠を移した
駿府で暮らしていたとみられています。
天正4年(1576年)、
次男である品川高久を授かっています。
さらに三男である西尾安信、
天正7年(1579年)には
四男澄存を産んでいます。

京都へ、長男に先立たれる】
天正18年(1590)の北条家滅亡と
徳川家関東転封を機に、
今川氏真と早川殿は京都に移りました。
慶長12年(1607年)11月には
長男範以に先立たれます。

【そして江戸】
慶長17年(1612年)には京都を離れ、
江戸品川に移ります。
次男の高久はすでに徳川秀忠に出仕していました。

【死去】
慶長18年(1613年)2月15日、
今川氏真に先立って江戸で死去しました。
法名・蔵春院殿天安理性禅定尼。




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【早川殿の墓所】
早川殿の死に際し、
末子である澄存は高野山高室院で
日牌供養をおこなっています。
25回忌の折に澄存によって
造立された墓が、
高家今川氏の所領であった
観泉寺(現・東京都杉並区今川二丁目)
に現存しています。

【夫妻の肖像画】
また、元和4年(1618年)著賛のある、
今川氏真夫妻の肖像画が現存しています。
(米国の個人蔵)。
今川夫妻の没後まもなく遺族により
追慕のために制作されたものとみられています。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
志田未来(しだ みらい)さんが演じられます。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。

今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。

お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

駿府城(日本100名城)~最初は今川氏による領国支配の中心地、そして徳川家康大御所時代の居城となりました。

掛川城 (日本100名城)~東海の名城と謳われた程で日本初の本格木造天守閣が復元されたお城です。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

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