北条家

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

伊勢盛時(北条早雲)公の像




伊勢盛時

伊勢盛時(いせもりとき)こと
伊勢宗瑞(いせそうずい)は、
室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、
戦国大名となった
小田原北条氏の祖であり初代です。
一般的には北条早雲(ほうじょう そううん)の名で
知られていました。
北条早雲の代の時はまだ伊勢姓でした。

【名前】
諱は長らく長氏(ながうじ)
または氏茂(うじしげ)、
氏盛(うじもり)などと
伝えられてきましたが、
現在では盛時(もりとき)が定説となっています。
通称は新九郎(しんくろう)。
号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。
生年は、長らく永享4年(1432年)が
定説とされてきましたが、
近年新たに提唱された
康正2年(1456年)説が
定説となりつつあるとのことです。

【北条姓となった時期】
伊勢姓から改称して北条姓を称したのは
伊勢盛時(北条早雲)の死後、
嫡男である北条氏綱の代からでした。
伊勢盛時(北条早雲)自身は
北条早雲と名乗ったことはなく、
伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったそうです。

【生涯】
【出自】
これまでは、一介の中高年の
浪人から戦国大名にのし上がった
下剋上の典型尚且つ、中高年の星とする説が
通説とされてきました。
けれども、近年の研究では
室町幕府の政所執事を務めた
伊勢氏を出自とする考えが主流となっています。
伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、
備中荏原荘(現井原市)で
生まれたという説が有力となり、
その後の資料検証によって
荏原荘の半分を領する領主
(300貫といわれる)であることがほぼ確定しました。

幕府申次衆の書状と
駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、
記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が
同一である事が判明しました。
さらに「備中伊勢氏」説は
史料が最も豊富で
多岐にわたる事も出自解明に寄与したのでした。

【伊勢盛時の父親】
近年の研究で伊勢盛時(北条早雲)の
父である伊勢盛定が
幕府政所執事伊勢貞親と共に
室町幕府8代将軍足利義政の申次衆として
重要な位置にいた事も明らかになってきています。
伊勢盛時(北条早雲)は、
伊勢盛定と京都伊勢氏当主で
政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれました。





【生まれた場所】
伊勢盛時(北条早雲)は、
伊勢盛定の所領である備中荏原荘で生まれました。
井原市神代町の高越城址には
「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。
備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など
小田原北条氏の家臣が出ています。

【幕府申次衆・奉公衆】
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、
駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わりました。
今川義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、
その申次を伊勢盛時(北条早雲)の
父の伊勢盛定が務めています。
その縁で伊勢盛時(北条早雲)の姉(または妹)の
北川殿が今川義忠と結婚したと考えられています。
文明5年(1473年)に北川殿は
嫡男の龍王丸(後の今川氏親)を生みました。

【所領没収問題について】
なお、伊勢氏との関係について、
寛正6年(1466年)に発生した
遠江今川氏の所領没収問題を巡ってですが、
伊勢貞親の実弟である伊勢貞藤が、
所領の没収と御料所化推進の中心的存在でした。
そしてこの処分に反発する
今川義忠・伊勢盛定の
対立構図が生まれていました。
また、伊勢貞藤は細川勝元と対立して
応仁の乱では西軍に属しています。
かつてあった、伊勢盛時(北条早雲)の
出自の有力説の1つに、
伊勢貞藤の子とする説がありましたが、
これらの事実と
その後の伊勢盛時(北条早雲)の
経歴を考慮すると、
この説の成立は難しい、ということになります。

京都で伊勢盛時(北条早雲)は、
室町幕府8代将軍である足利義政の
弟の足利義視に仕えたとされていますが、
近年有力視されている
康正2年(1456年)生まれとすると、
足利義視が将軍後継者と擬されていた時期
(1464-1467年)には
10歳前後で幼すぎ、
更に応仁元年(1467年)以降、
足利義視は西軍に走っています。

「伊勢新九郎盛時」の名は、
文明13年(1481年)から文書に現れます。
文明15年(1483年)に、
9代将軍足利義尚の申次衆に任命されています。
長享元年(1487年)に奉公衆となるのでした。

また、京で幕府に出仕している間、
伊勢盛時(北条早雲)は、
建仁寺と大徳寺で禅を学んでいます。

【駿河下向】
文明8年(1476年)、
今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで
西軍に属していた遠江の守護である
斯波義廉の家臣横地氏、
勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にとなりました。
遠江の政情は複雑で、
近年の研究では、西軍と見られていた
これらの国人は東軍の斯波義良に
属するものだと考察されており、
今川義忠は同じ東軍と戦ったことになります。

【今川家中を二分する家督争い】
残された嫡男の龍王丸は幼少でした。
このため今川氏の家臣である
三浦氏、朝比奈氏などが一族の
小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を擁立して、
家中が二分される家督争いとなりました。
これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入。
それぞれ執事の上杉政憲と
家宰の太田道灌を駿河国へ
兵を率いて派遣しました。
小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、
太田道灌も史料に
小鹿範満の「合力」と記されています。
このことは龍王丸派にとって、
情勢は不利なものでした。

【盛時、家督代行を決着させる】
北川殿の弟(または兄)である
伊勢盛時(北条早雲)は駿河へ下り、
「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」
と双方を騙して調停を行い、
龍王丸が成人するまで小鹿範満を
家督代行とすることで決着させました。
これにより、上杉政憲と太田道灌も撤兵させました。
なお、この時に太田道灌と
会談したという話もあるります。
旧来の説ならば、伊勢盛時(北条早雲)と
太田道灌は同年齢でした。
太田道灌も長尾景春の乱への対処のため、
帰国を急ぐ必要があったのでした。
両派は浅間神社で神水を酌み交わし、
和議を誓ったとのことです。
家督を代行した小鹿範満が駿河館に入り、
龍王丸は母親の北川殿と
小川の法永長者(長谷川政宣)の
小川城(焼津市)に身を寄せました。

【今川氏の家督相続介入の為】
この調停成功は、今までの説ですと、
伊勢盛時(北条早雲)の抜群の知略による
立身出世の第一歩とされてきました。

けれども近年では、
これは伊勢貞親と伊勢盛定の命により
駿河守護家今川氏の家督相続介入の
目的のための下向、という説が
有力となっています。

今川氏の家督争いが収まると
伊勢盛時(北条早雲)は京都へ戻り、
9代将軍の足利義尚に仕えて
奉公衆になっています。





【家督を戻さない小鹿範満】
文明11年(1479年)、
前将軍である足利義政は、
龍王丸の家督継承を認めて
本領を安堵する内書を出しているとのことです。
けれども、龍王丸が15歳を過ぎて
成人しても小鹿範満は
家督を戻そうとはしませんでした。

【龍王丸、今川氏親となる】
長享元年(1487年)、
伊勢盛時(北条早雲)は再び駿河へ下り、
龍王丸を補佐すると共に
石脇城(焼津市)に入って同志を集めました。
同年11月、伊勢盛時(北条早雲)は兵を起こし、
駿河館を襲撃して小鹿範満と
その弟の小鹿孫五郎を殺害しました。
龍王丸は駿河館に入り、
2年後に元服して、
今川氏親を名乗り正式に、
今川家当主となったのでした。

興国寺城拝領】
伊勢盛時(北条早雲)は、
伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に
所領を与えられました。
通説である興国寺城拝領については
実は史料の確認が取れないとして
異論があり、善得寺城もしくは
そのまま石脇城を居城とした説もあるそうです。

【駿河守護代としての可能性】
駿河へ留まり、
今川氏の家臣となった
伊勢盛時(北条早雲)は
甥である今川氏親を補佐し、
守護代の出す「打渡状」を
発行していることから
駿河守護代の地位にあったとも考えられています。

【伊勢盛時の結婚と嫡男の誕生】
この頃に伊勢盛時(北条早雲)は、
幕府奉公衆である小笠原政清(まさきよ)
(元続の祖父、元続の子である康広と
細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)
の娘(南陽院殿)と結婚し、
長享元年(1487年)には
嫡男である伊勢(北条)氏綱が生まれています。

【研究が進んだ伊豆討入り】
伊勢盛時(北条早雲)が
堀越公方足利政知の子である茶々丸
(11代将軍足利義澄の異母兄)を襲撃して滅ぼし、
伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、
新興勢力が勃興する下克上の始まりであるとされ、
戦国時代の幕開けとされています。

政治が腐敗した京都を捨てて、
関東に志を立てたように
描かれてきた伊勢盛時(北条早雲)ですが、
近年の研究では、
実は中央の政治と連動した
動きを取っていたことが
判明したのでした。

【享徳の乱】
享徳の乱で鎌倉公方であった
足利成氏が幕府に叛き、
将軍の命を受けた今川氏が
鎌倉を攻めて占領。
足利成氏は古河城に逃れて
古河公方と呼ばれる反対勢力となり、
幕府方の関東管領上杉氏と
激しい合戦となりました。

【堀越公方】
8代将軍であった足利義政は
足利成氏に代る鎌倉公方として
異母兄の足利政知を送りますが、
足利成氏方の力が強く、
鎌倉に入ることもできず
伊豆北条を本拠に留まって
堀越公方と呼ばれるようになりました。
文明14年(1483年)に
足利成氏と上杉氏との和睦が成立。
これで足利政知の存在は宙に浮いてしまい、
伊豆一国のみを支配する存在となりました。

足利政知には長男に茶々丸がいました。
けれども正室の円満院との間には
清晃(のちの足利義澄)と
潤童子をもうけていました。
清晃は出家して京にいました。
足利政知は勢力挽回のために、
日野富子や管領細川政元と連携して
この清晃を将軍に擁立しようと
図っていたとの噂があると、
長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っています。
しかも、この計画には伊勢盛時(北条早雲)と
今川氏親の関与説もあるそうです。





【茶々丸、円満院と潤童子を殺害】
延徳3年(1491年)に足利政知が没すると、
茶々丸が円満院と潤童子を殺害して
強引に跡目を継ぐという事件が起きました。

【伊勢盛時と出家の意味】
伊勢盛時(北条早雲)は、
延徳3年(1491年)5月までは
「伊勢新九郎」の文書が残っています。
が、明応4年(1495年)の史料では
「早雲庵宗瑞」と法名になっており、
この間に出家したと見られています。
この時代の武士の出家には
政治的な意味があることが多く、
清晃の母の円満院の横死が
理由とする見方や、
または伊豆乱入に伴う
幕府奉公衆からの退任を意味する
とする見方などがあるそうです。

【そして、伊豆討ち入り】
明応2年(1493年)4月、
管領細川政元が明応の政変を起こして
10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放し、
清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立しました。
清晃は還俗して義遐を名乗り、
後に義澄と改名しました。
権力の座に就いた義遐は母と弟の
敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、
茶々丸の近隣に城を持つ
伊勢盛時(北条早雲)へ命じたとされています。
この命を受け伊勢盛時(北条早雲)は、
同年夏か秋頃に
伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃しました。
このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、
松下三郎右衛門尉らは
伊勢盛時(北条早雲)に
いち早く参じたとされています。
この事件を伊豆討入りといいます。
この時期に東国戦国期が始まったとする説があり、
一方で享徳の乱が東国の戦国期の始まりである、
とする説もあります。

韮山城を居城として伊豆国の統治】
この他、伊勢盛時(北条早雲)は、
伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を
新たな居城として伊豆国の統治を始めました。
其の政策は、高札を立てて
味方に参じれば本領を安堵すると約束し、
一方で参じなければ作物を荒らして
住居を破壊すると布告した、とのことです。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
病人を看護するなど善政を施し、
茶々丸の悪政に苦しんでいた
伊豆の小領主や領民は
たちまち伊勢盛時(北条早雲)に従いました。
そして、それまでの煩瑣で
重い税制を廃して四公六民の租税を定め
領民は歓喜し、
伊豆一国は30日で平定された」とされています。

【明応の大地震】
こうした伊豆国の統治の政策を、
明応7年(1498年)8月25日に発生した
明応の大地震の被災者救済策とみる
考えもあるそうです。
実際、明応の大地震から数日後に
茶々丸は自害に追い込まれており、
明応7年8月の出来事とすると、
一連の逸話が整合性のあるものとなるのです。

【茶々丸の最期、史書より】
軍記物語などでは、
自害したと言われる茶々丸は史書においては
堀越御所から逃亡しており、
武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに
擁せられて伊勢盛時(北条早雲)に
数年に渡って抵抗したとあります。
伊勢盛時(北条早雲)は
伊豆の国人を味方につけながら
茶々丸方を徐々に追い込み、
明応7年(1498年)8月に、
南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、
5年かかってようやく伊豆を平定しています。
なお、同年の8月25日に、
明応の大地震と津波で
伊豆・駿河両国は大被害を受けています。
震災で深根城一帯も甚大な被害を受けて、
抵抗不可能になった茶々丸を
伊勢盛時(北条早雲)は動員可能な
少数の手勢で討ち取ったとみられており、
この際に茶々丸を擁していた
城主の関戸吉信らを皆
殺しにして力を示したとされています。
ただし、茶々丸の死去地を甲斐国とし、
深根城の皆殺しは別の出来事とする考えもあります。

【今川氏親との連携】
伊豆を平定する一方で、伊勢盛時(北条早雲)は
今川氏の武将としても活動しています、
明応3年(1494年)頃から
今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻、
中遠まで制圧しています。
このように伊勢盛時(北条早雲)と
今川氏親は連携して領国を拡大していくのでした。





小田原城奪取】
明応3年(1494年)、
関東では長享の乱と呼ばれる
山内上杉家と扇谷上杉家の抗争が再燃し、
扇谷家の上杉定正は
伊勢盛時(北条早雲)に援軍を依頼します。
上杉定正と伊勢盛時(北条早雲)は、
荒川で山内家当主で
関東管領上杉顕定の軍と対峙しますが、
上杉定正が落馬して死去したことにより、
伊勢盛時(北条早雲)は兵を返しました。

扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を
支柱としていましたが、
この年にそれぞれの当主である扇谷定正、
三浦時高、大森氏頼の3人が
死去するという不運に見舞われています。

伊勢盛時(北条早雲)は
茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、
明応4年(1495年)に
甲斐に攻め込み、
甲斐守護武田信縄と戦っています。
同年9月、
相模小田原の大森藤頼を討ち、
小田原城を奪取しました。

【小田原城を奪い取った経緯】
「北条記」によりますと、
伊勢盛時(北条早雲)は
大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、
最初は警戒していた大森藤頼も
心を許して伊勢盛時(北条早雲)と
親しく歓談するようになりました。
ある日、伊勢盛時(北条早雲)は
箱根山での鹿狩りのために
領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、
大盛藤頼は快く許しました。
伊勢盛時(北条早雲)は、
屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れたのです。

その夜、千頭の牛の角に
松明を灯した伊勢盛時(北条早雲)の兵が
小田原城へ迫り、勢子に扮して
背後の箱根山に伏せていた
兵たちが鬨の声を上げて火を放ちます。
数万の兵が攻め寄せてきたと、
おびえた小田原城は大混乱になり、
大盛藤頼は命からがら逃げ出して、
伊勢盛時(北条早雲)は、
易々と小田原城を手に入れたということです。

【各地の似たエピソードと明応地震】
似たような話は織田信秀那古野城奪取、
尼子経久月山富田城奪取にもあります。
土石流を「牛」になぞらえた伝承があるというで、
伊勢盛時(北条早雲)が
1495年に起きた明応地震の津波に乗じて
小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と
呼ばれたようになったと推測している専門家も
いるそうです。

【火牛の計】
あるいは火牛の計は中国の戦国時代、
斉の将軍田単が用いた戦術で、
教養を持つ知識層には
知られていた可能性があります。
これが事実用いられたか、
武勇伝作りに利用されたと
考えることもできるとのことです。

【小田原城奪取の時期】
この小田原城奪取は
明応4年(1495年)9月とされていますが、
史料によってその年月が異なります。
その根拠としては、
明応5年(1496年)に
山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、
扇谷家の守備側の名に大森藤頼と
伊勢盛時(北条早雲)の弟である
伊勢弥二郎の名が
山内顕定の書状に見えることからです。
また、二つ目の根拠として、
伊勢盛時(北条早雲)の子である幻庵が
大森氏出身の海実から
箱根権現別当の地位を譲られたことや
享徳の乱の頃に大森氏で
内紛があったことなどです。
その内紛に乗じて伊勢盛時(北条早雲)が
進出していったとの説があります。

【いつ頃小田原城を領有したか?】
明応10年3月28日
(文亀元年/1501年)に
伊勢盛時(北条早雲)が
小田原城下にあった
伊豆山神社の所有地を
自領の1ヶ村と交換した文書が
残されており、
この時点では、
伊勢盛時(北条早雲)が
小田原城を既に領有していたと
みられています。





【韮山城に終生居城する】
小田原城は後に、
小田原北条氏の本城となりますが、
伊勢盛時(北条早雲)は終生、
伊豆韮山城を居城としていました。

【小田原城奪取の目的】
小田原城奪取など伊勢盛時(北条早雲)の
一連の行動は茶々丸討伐という
目的だけでなく、自らの勢力範囲を
拡大しようとする意図もあったと
従来は見られていました。
けれども近年の研究では、
足利義澄-細川政元-
今川氏親-伊勢盛時(北条早雲)の陣営と、
足利義稙-大内政弘-
足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、
即ち明応の政変による対立構図の中での
軍事行動であることが
明らかになってきているとのことです。
更に、近年の研究では
この小田原城奪取も、
大森藤頼が山内上杉氏に
寝返った為のものと考えられています。

【茶々丸を討つ】
明応8年(1498年)、
伊勢盛時(北条早雲)は甲斐で茶々丸を捕捉し、
殺害することに成功しました。
茶々丸を討った場所については、
伊豆国の深根城とする説もあります。

徳川家康の高祖父との戦い】
今川氏の武将としての活動も続き、
文亀年間(1501年⇒1504年)には
三河にまで進んでいます。
文亀元年(1501年)9月、
岩付(岩津)城(愛知県岡崎市岩津町)下にて
松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、
三河侵攻は失敗に終わりました。
松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の
働きがあったということです。
ただし、徳川実紀では
永正3年(1506年)8月20日とされています。

【相模平定】
その後、伊勢盛時(北条早雲)は
相模方面へ本格的に転進し、
関東南部の制圧に乗り出しました。
けれども伊豆・西相模を失った
山内顕定が足利義澄・細川政元に接近したため、
今川氏親・伊勢盛時(北条早雲)
の政治的な立場が弱くなりました。
更に、細川政元が
今川氏と対立関係にある
遠江守護斯波義寛と
山内顕定の連携を図ったことから、
両者の挟撃も警戒されるようになったのです。

【関東進出へ!】
それでも伊勢盛時(北条早雲)と今川氏親は、
今度は足利義稙-大内陣営に与し、
徐々に相模に勢力を拡大していったのでした。
こうした関東進出の大きな区切りとなったのは、
永正元年(1504年)8月、
武蔵立河原の戦いでした。
扇谷上杉定正の甥で
扇谷上杉家当主上杉朝良に味方した
伊勢盛時(北条早雲)は、
今川氏親と共に出陣して
山内上杉顕定に勝利したのでした。

【山内家・扇谷家の両上杉家と敵対】
この敗戦後に山内上杉顕定は、
弟の越後守護である上杉房能と
同守護代である長尾能景の来援を得て
反撃に出たのでした。
相模へ乱入して、扇谷上杉家の諸城を攻略。
翌年の永正2年(1505年)、
河越城に追い込まれた扇谷上杉朝良は降伏しました。
これにより、伊勢盛時(北条早雲)は
山内家、扇谷家の両上杉家と
敵対することになったのでした。

【検地をおこなう】
永正3年(1506年)に
相模で検地を初めて実施して
支配の強化を図っています。





【永正の錯乱】
永正4年(1507年)には、
管領である細川政元が、
排除されたことを恨んだ養子であった
細川澄之により暗殺されるという
「永正の錯乱」が勃発しました。
直後、細川政元と結んでいた
越後守護上杉房能が
守護代の長尾為景上杉謙信の父)に
殺される事件が起き、
細川政元勢力の変動を機とした
足利義稙は永正5年(1508年)、
大内義興の軍勢と共に足利義澄を追って
京に返り咲いたのでした。
これらの動きにより、
今川氏親と伊勢盛時(北条早雲)に
政権からの圧迫が無くなり、
伊勢盛時(北条早雲)は、
長尾為景や長尾景春と結んで
山内上杉顕定を牽制しました[53]。

【今川氏と伊勢盛時の動き】
永正6年(1509年)以降は
伊勢盛時(北条早雲)の
今川氏の武将としての活動は
ほとんど見られなくなりました。
その分、伊勢盛時(北条早雲)は、
相模進出に集中することができました。
ただし、少なくても永正9年(1512年)頃まで、
伊勢盛時(北条早雲)の駿府訪問が確認でき、
同年には山内上杉顕定に反抗する
長尾景春の駿河亡命に伊勢盛時(北条早雲)が
関わったと考えられることから、
その後も伊勢盛時(北条早雲)と
今川氏の関係は続いていたと考えられています。
また、伊勢盛時(北条早雲)の娘である
長松院殿が今川氏の重臣の子である
三浦氏員と婚姻したのは
永正12年(1515年)頃と推定されています。

【扇谷上杉との戦い】
永正6年7月、
山内上杉顕定は大軍を率いて越後へ出陣。
同年8月、この隙を突いて伊勢盛時(北条早雲)は
扇谷上杉朝良の本拠地江戸城に迫りました。
上野に出陣していた扇谷上杉朝良は、
兵を返して反撃に出て、
翌年の永正7年(1510年)まで
伊勢盛時(北条早雲)と武蔵、相模で戦いました。
伊勢盛時(北条早雲)は、
権現山城(横浜市神奈川区)の
上田政盛を扇谷上杉家から離反させ
攻勢に出ましたが、同年7月になって
山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、
権現山城は落城となりました。

【三浦氏との戦いで敗北する】
三浦義同(道寸)が伊勢盛時(北条早雲)方の
住吉要害(平塚市)を攻略して
小田原城まで迫り、
伊勢盛時(北条早雲)は敗北を喫し、
扇谷家との和睦で切り抜けたのでした。

【永正の乱】
一方、同年6月20日には
越後に出陣していた山内上杉顕定が
長尾為景の逆襲を受けて敗死。
死後に2人の養子である
顕実と憲房の争いが発生しました。
そして古河公方家でも、
足利政氏・高基父子の抗争が起こり、
扇谷上杉朝良はこれらの調停に追われたのでした。





【三浦氏について】
三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、
鎌倉幕府創立の功臣として
大きな勢力を有していました。
けれども嫡流は執権の北条氏に
宝治合戦で滅ぼされています。

【相模三浦氏との戦い】
しかしながら、
傍流は相模の豪族として続き、
相模三浦氏としてで大きな力を持っていました。
この頃の三浦氏は扇谷家に属し、
同氏の出身で当主の三浦義同(道寸)が
相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、
三浦半島の新井城
または三崎城(現三浦市)を子の
三浦義意が守っていました。
伊勢盛時(北条早雲)の
相模平定のためには、
三浦氏を滅ぼさなくてはなりませんでした。

【相模の支配権を握る伊勢盛時】
敗戦から体勢を立て直した
伊勢盛時(北条早雲)は、
永正9年(1512年)8月に
岡崎城を攻略し、
三浦義同を住吉城(逗子市)に敗走させました。
更に勢いに乗って住吉城も落とし、
三浦義同は三浦義意の守る三崎城に逃げ込みます。
伊勢盛時(北条早雲)は鎌倉に入り、
相模の支配権をほぼ掌握しました。
扇谷上杉朝良の甥の扇谷上杉朝興が
江戸城から救援に駆けつけましたが、
伊勢盛時(北条早雲)はこれを撃破します。
さらに三浦氏を攻略するため、
同年10月、鎌倉に玉縄城を築きました。

【追い詰められていく三浦氏】
三浦義同はしばしば兵を繰り出して
伊勢盛時(北条早雲)と戦火を交えましたが、
次第に圧迫され、
三浦半島に封じ込められてしまいました。
扇谷家も救援の兵を送りましたが、
ことごとく撃退されてしまいました。

【相模三浦氏の最期】
永正13年(1516年)7月、
扇谷上杉朝興が三浦氏救援のため
玉縄城を攻めましたが、
伊勢盛時(北条早雲)はこれを打ち破り、
三浦義同・義意父子の篭る
三崎城に攻め寄せました。
激戦と長い籠城戦の末に
三浦義同・義意父子は討ち死となります。
荒井城の付近の海は
真っ赤になってしまったとか・・・。
こうして名族三浦氏は滅び、
伊勢盛時(北条早雲)は
相模全域を平定したのでした。

【房総半島へ渡る】
その後、伊勢盛時(北条早雲)は、
上総の真里谷武田氏を支援して、
房総半島に渡り、
翌年の永正14年(1517年)まで
転戦しています。

【最期】
永正15年(1518年)、
家督を嫡男である伊勢(北条)氏綱に譲り、
翌年の永正16年(1519年)に死去しました。
享年は64歳されていますが、
従来は88歳ともいわれていました。
確かな事は子年生まれであることです。
後嗣の伊勢(北条)氏綱は、
2年後に菩提寺として
早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させています。

<早雲寺>
早雲寺(箱根)

北条五代墓所>
北条五代墓所

<北条五代の墓>
北条五代の墓(早雲寺)

【戦国大名による最古の検地】
伊勢盛時(北条早雲)は、
領国支配の強化を積極的に進めた
最初期の大名であり、
その点から、戦国大名の先駆けと
評価されています。
「早雲寺殿廿一箇条」という家法を定め、
これは分国法の祖形となったそうです。
ただし、成立時期については明らかではないそうです。

永正3年(1506年)に
小田原周辺で指出検地を実施しています。
(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)
これは、戦国大名による
検地として最古の事例とされています。





【独自の公権力の発揮】
死の前年から伊勢(北条)氏は、
虎の印判状を用いるようになりました。
印判状のない徴収命令は無効とし、
郡代・代官による百姓・職人への
違法な搾取を止める体制が
整えられたのでした。
更にこれを関東の諸勢力
(古河公方・両上杉氏など)との対抗上、
足利一族である今川氏の権威を
必要とし続けていた
伊勢盛時(北条早雲)が
独自の公権力を発揮し始めたことを
示しているという評価もあります。
もっとも、今川氏親の母である北川殿は
まだ健在(享禄2年(1529年)没)であり、
伊勢盛時(北条早雲)は
最後まで今川氏親の家臣としての立場を
棄てることは無かったと考えられています。

【北条五代への道を歩む】
早雲の後を継いだ氏綱は、
北条氏(後北条氏)を称して
武蔵国へ領国を拡大していきます。
以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、
5代に渡って関東に覇を唱えることになるのです。

小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。

興国寺城~国指定史跡~(伝)伊勢盛時の旗揚げの城であり今川・小田原北条・武田・豊臣・徳川と領地争奪戦の城。

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

青木城跡~横浜市街地にある「多米氏」の城。権現山城と併せて訪れたい街中の城跡。

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