城跡

鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。

鉢形城跡 三の曲輪



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鉢形城

鉢形城(はちがたじょう)は、
埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある
戦国時代の日本の城跡です。
構造は連郭式平山城。
標高は最高点(三の曲輪)で122mあります。

鉢形城跡 曲輪配置図

【城郭構造】
連郭式平山城

【築城主】
長尾景春

【築城年】
文明8年(1476年)

【主な改修者】
田丸直昌、森忠政

【主な城主】
長尾景春、上杉顕定、北条氏邦

【廃城年】
天正18年(1590年)

【遺構】
土塁、堀、土橋、石垣の一部、
復元石垣

【指定文化財】
国の史跡

【地理地形と構造】
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する
付近の両河川が谷を刻む断崖上の
天然の要害に立地しています。
その縄張りは唯一平地部に面する
南西側に大手、外曲輪、
三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、
両河川の合流地点である
北東側に向かって順に
二の曲輪(二ノ丸)、
本曲輪(本丸)、笹曲輪と、
曲輪が連なる連郭式の構造となっています。
搦手、本丸、二ノ丸、
三ノ丸および諏訪曲輪には
塹壕をともない、
また北西側の荒川沿岸は断崖に面しています。

鉢形城跡

【築城者と城主たち】
初めて築城したのは
関東管領山内上杉氏の
家臣である長尾景春と
伝えられています。
その後、小田原北条氏時代に
北条氏邦によって整備拡張され、
小田原北条氏の上野国支配の
拠点となったほか、
甲斐・信濃からの侵攻による
最前線として重要な役割を担ってきました。
その後、下野国遠征の足がかりになりましたが、
その滅亡とともに廃城となりました。
また跡地の周辺には殿原小路や
鍛冶小路などの小路名が伝わっており、
小規模ながら初期的な城下町が
形成されていたことがうかがえます。




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【国の史跡と鉢形城公園】
関東地方に所在する戦国時代の城郭としては
比較的きれいに残された城のひとつといわれています。
1932年(昭和7年4月19日)に
「鉢形城跡」(はちがたじょうあと)として
国の史跡に指定されました。
1984年(昭和59年)からは
寄居町による保存事業が開始されました。
現在は鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)
として整備され、
園内にはガイダンス施設である
鉢形城歴史館が設置されています。

鉢形城跡 外曲輪

【頑強な要害】
稀に見る頑強な要害だったとされ、
武田信玄上杉謙信前田利家
上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、
小田原征伐では3万とも5万とも
言われる北国軍に包囲されて
1ヶ月に渡って籠城したのちに
「開城」という形になったのでした。

【構造】
城跡は西南旧折原村を大手口とし、
東の旧鉢形村の搦手としています。
本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、
諏訪曲輪などがあり、
西南部には侍屋敷や
城下町の名前が伝えられており、
寺院、神社があり、
土塁、空堀も残存しています。

<馬出し>
鉢形城跡 馬出

<四脚門>
鉢形城跡 三の曲輪 四脚門

<石積土塁>
鉢形城跡 石積土塁

<伝秩父曲輪>
鉢形城跡 伝秩父曲輪

<二の曲輪~三の曲輪>
鉢形城跡 二の曲輪~三の曲輪

<三の曲輪>
鉢形城跡 三の曲輪

【鉢形城の歴史】
【築城】
文明5年(1473年)6月、
山内上杉氏の家宰であり、
山内上杉家の実権をふるった
長尾景信が古河公方足利成氏
攻める途中、戦闘は優位に進めたものの
長尾景信自身は五十子において陣没しました。
長尾家の家督を継いだのは
長尾景信の嫡男である
長尾景春ではなく弟の長尾忠景であり、
山内上杉家の当主上杉顕定も
長尾景春を登用せず忠景を家宰としました。
長尾景春はこれに怒り、
文明8年(1476年)、
武蔵国鉢形の地に城を築城し、
足利成氏側に立って
上杉顕定に復讐を繰り返すこととなります。
これが鉢形城の始まりとなります。

鉢形城跡 堀

【上杉家の入城と合戦】
文明10年(1478年)
扇谷上杉氏の家宰である
太田道灌が鉢形城を攻め、
ようやく上杉顕定が入城しました。




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長享2年(1488年)、
扇谷の上杉定正が鉢形城の
上杉顕定を攻めるため兵をおこし、
城の近くで両軍が遭遇して
高見原の戦いが起こりました。
このとき、上杉定正は戦闘には
勝利しましたが、
鉢形城は落とすことができず
撤退となりました。

鉢形城跡 曲輪

【山内上杉家が守る】
明応3年(1494年)
上杉定正は再度鉢形城の
上杉顕定を攻めようと
伊勢盛時(北条早雲)とともに
高見原に打って出ましたが、
上杉定正はこのとき荒川渡河中に
落馬して死去しました。
以後、上杉顕定の存命中、
鉢形城はその手にあり、
上杉顕定の後を継いだ
養子の上杉顕実
(実父は古河公方足利成氏)も
鉢形城を拠点としたのでした。

【山内上杉家同士の争い】
永正9年(1512年)、
上杉顕実は同じ上杉顕定の養子であった
上杉憲房の軍に包囲されて
鉢形城は落城、
上杉顕実は命を助けらましたが、
山内上杉家当主の座を失いました。

【長尾景春の離反や扇谷上杉・北条氏綱
永正12年(1515年)
上杉憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、
同年に上杉顕実が死ぬと
関東管領職をも継ぎました。
けれども、家臣として仕えていた
長尾景春が離反し、
扇谷上杉家の上杉朝興、
相模の小田原北条氏2代北条氏綱
甲斐の武田信虎などとの
長年にわたる抗争のなか、
大永5年(1525年)3月に病没しました。
後を養子の上杉憲寛が継ぎましたが、
のちに争いの末、実子の上杉憲政が継ぎました。

鉢形城跡 大手付近

北条氏康、武蔵国の覇権確立】
天文15年(1546年)
北条氏3代北条氏康川越城を包囲した
上杉朝定・上杉憲政を打ち破る
河越夜戦が起き、それに勝利して
北条氏が武蔵国における覇権を確立しました。
永禄7年(1564年)、
この地方の豪族であった
藤田康邦に入婿した、北条氏康の四男である
北条氏邦が鉢形城へ入城しました。
以後、鉢形城は北条氏の
北関東支配の拠点となりました。
その後も戦略上の重要性から、
各地の戦国大名の攻防の場となっており、
永禄1年(1569年)には
武田信玄による攻撃を受け、
天正2年(1574年)には、
上杉謙信が城下に火を放っています。




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【開城、徳川家康の関東入り】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、
鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸
徳川家康麾下の浅野長政本多忠勝
島田利正、鳥居元忠らの連合軍(3万5千)
に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら(3千)が
約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城となりました。
その後、徳川家康の関東討入にともない、
成瀬正一、日下部定好が代官となって
周辺の統治を行いました。

鉢形城跡 大手付近

【現代】
昭和7年(1932年)4月19日、
遺構の残存状況がきわめて
良好な考古資料であり、
関東地方の戦国時代の状況を示す
文献資料も豊富に
残されていることから、
「鉢形城跡」として国の史跡に指定されました。

2006年4月6日、
日本100名城(18番)に選定されました。

【エドヒガンと鉢形城】
城跡内には町天然記念物に指定されている
バラ科サクラ属の植物の一種
「エドヒガン」が生存しています。
このエドヒガンは、
一旦伐採され2本幹の株元から
12本の芽が成長した珍しいものです。

2009年(平成21年)現在で
樹齢は約150年。
高さは18m、枝張りは、
東西23.5m/南北21.8mで、
根回りは6.5mほどもあります。

ソメイヨシノの片親である
「エドヒガン」ですが、
名前のとおり関東では
ソメイヨシノよりやや早めの
彼岸のころ満開となり、
満開の時期には多くの写真家や
画家が訪れるとのことです。

2018年、寄居町は
鉢形城主の北条氏邦にちなんで
この樹の愛称を「氏邦桜」としました。

【鉢形城歴史館】
<開館時間>
午前9時30分~午後4時30分
(入館は午後4時まで)
駐車場の利用は開館日の午前9時~午後5時

<休館日>
月曜日(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、
祝日の翌日、年末・年始
100城スタンプは、
駐車場正面入口の郵便ポストに設置してあります。

<入館料>
一般:200円(団体;100円)
学生等:100円(団体:50円)
70歳以上、小学生・中学生以下、
障害者手帳をお持ちの方/無料 (申請書は不要です)
※20名以上の団体は、団体料金が適用となります。

※ペット同伴の入館はだめです。
盲導犬等の身体障害者補助犬を
伴っての入館は可能です。

<日本100名城スタンプの設置場所>
日本城郭協会による
「日本100名城スタンプ」は、
鉢形城歴史館の受付に置いています。
鉢形城歴史館の閉館時は、
駐車場正面入口右側に
設置された郵便ポストの中に、
スタンプが置いてあります。




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【所在地】
〒369-1224埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2

【交通アクセス】
(鉄道・バス)
東武東上線・秩父鉄道秩父線・JR八高線
「寄居」駅下車、徒歩約25~30分。
または、イーグルバス(元東秩父村営バス)
「和紙の里」行きで「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分。

(自動車)
関越自動車道「花園」ICから
国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6km、15分程度。

【駐車場】
無料駐車場有ります。

【鉢形城・所在地】
〒369-1224 埼玉県大里郡寄居町鉢形

滞在所要時間:30分~2時間30分程度

雉岡城~山内上杉氏による築城で後に小田原北条氏、竹谷松平氏の居城となりました。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父、鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住しました。

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

千石墻の砦~小幡信真の配下であった浅香播磨守重明が秩父地方の攻略時に築いた砦とのことです。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

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