城跡

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

八王子城本丸址



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八王子城

八王子城(はちおうじじょう)は、
16世紀の武蔵国
(現代の東京都八王子市元八王子町)に
存在していた日本の城です。
八王子城跡 鳥観図

【別名】
武州八王寺城

【城郭構造】
山城

【築城主】
北条氏照

【築城年】
天正15年(1587年)頃

【主な城主】
北条氏照

【廃城年】
天正18年(1590年)

【遺構】
石垣、曲輪、御主殿跡、
堀切、井戸、竪堀

【指定文化財】
国の史跡

【再建造物】
石垣・虎口・曳橋、礎石
八王子城跡 曳橋 虎口

【八王子城について】
八王子城は北条氏の本城である
小田原城の支城であり、
関東の西に位置する軍事上の拠点でした。
標高445m(比高約240m)の深沢山
(現在の城山)に築城された中世山城です。

八王子城跡 主要城郭鳥観図

【八王子の名の由来】
深沢山の麓、華厳ヶ谷に
庵を結んだ華厳菩薩妙行が
延喜13年(913年)に山頂で修行中、
牛頭天王と8人の王子が現れたとして
延喜16年(916年)に
八王子権現を祀ったことから、
八王子城と名付けられました。
なお別の説では山王権現を祀る
日吉大社の末社である山王社が
多摩地区には広く存在しており、
深沢山にも山王社があったために
日吉大社の神体山にちなんで
「八王子山」とも呼ばれていたことから
八王子城と名付けられたとする説もあるとか。
ちなみに城跡には今日も「山王台」
と呼ばれる場所があるともことです。

八王子城は、関東屈指の山城です。
落城時はまだ未完成の
状態であったと考えられています。

八王子城は大まかに、
城下町に当たる「根小屋地区」、
城主である北条氏照の館のあった
「御主殿跡」などの「居館地区」、
戦闘時に要塞となる「要害地区」
に分かれています。

八王子城跡 史跡区域

【縄張り】
縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた
東西約3km、南北約2~3kmの範囲に及び、
山の尾根や谷など複雑な地形を利用して
いくつかの地区に分けられています。
山頂に置かれた本丸、
松木曲輪や小宮曲輪など
何段もの曲輪を配置した要害地区、
城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ
館を構えてその東側に
アシダ曲輪で防衛している居館地区、
城山川に沿った麓に城下町を形成した
根小屋地区、などで構成されていました。

八王子城跡 主要城郭周辺陰陽図

要害地区にはいくつもの砦を配し、
それらを結ぶ連絡道の要所には
深い堀切や竪堀、
兵舎を建てるための曲輪などが
造成されていました。
特に、居館地区の南側尾根にある
太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、
南側を石垣で固めるなど、
容易に尾根を越えられない構造となっていました。




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城下町には、武家屋敷のある中宿、
刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、
滝山城下から移転した商業地区の八日市、
横山、八幡といった3つの宿場が
あったともいわれています。
また出城には、
搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、
小田野城の他、初沢城などがありました。

<初沢城>
初沢城(八王子)

<小田野城>
小田野城(八王子)

<浄福寺城>
浄福寺城(八王子)

【八王子城の遺構と範囲】
八王子市文化財課が管理する
現在の「八王子城跡」としての範囲には
太鼓曲輪尾根の南斜面などの
区域が含まれておらず、
16世紀当時より狭い範囲に
限定されています。
史跡に含まれていない区域は
霊園や私有地が
入り組んでいるため、
住宅地の中にも多くの遺構を
確認することができます。

心源院の土塁>
心源院の土塁(八王子城)

裏山にある秋葉神社の尾根からは、
高さ10m程の細長い土塁(心源院堤)が
南北に伸びています。
当時は八王子城とも古道で繋がっていました。

【心源院】
八王子にある心源院(しんげんいん)は、
滝山城主・大石道俊(大石源左衛門道俊)、
または大石定久(大石遠江守源定久)が
開基の曹洞宗の寺です。
1582年、
武田勝頼が自害した際に、
武田信玄の娘・松姫が逃れて
金照庵に身を隠しました。
やがて北条氏照が八王子城主となると、
この心源院の僧侶も
「僧兵」として
出陣しているのが見られ、
八王子城の支城的な役割も
担っていたとのことです。

<所在地>
〒192-0154 東京都八王子市下恩方町1970

【八王子城の歴史】
【築城時期】
北条氏康の三男である
北条氏照が元亀2年(1571年)頃より築城し、
天正15年(1587年)頃に本拠としました。
ただし、近年の研究では
古文書などの分析により、
元亀段階には小規模な
城砦みたいなものが存在した
可能性はあるとされていますが、
本格的な築城は
天正6年(1578年)頃とみる説が
有力となっています。
なお、かつては古文書を根拠とした
永禄3年(1560年)説・
永禄5年(1562年)説もありましたが、
永禄12年(1569年)に
武田氏との間で滝山城の
籠城戦が行われているため、
今日では否定的となっています。
また、近年滝山城の築城を
永禄6年(1563年)以降とする
有力説があり、この説を採用した場合には
永禄年間初頭説では、
滝山城より八王子城の方が
先に築城されてしまうことになるので
その意味でも成立しないとみられています。

【築城の理由】
北条氏照は当初、大石氏の由井城、
後に滝山城に拠っていましたが、
小田原攻撃に向かう甲斐国の
武田信玄軍に攻められた際、
(廿里古戦場、三増峠の戦い)に
滝山城の防衛の限界を感じて
本拠を八王子城に移したとされています。
また、北条氏と武田氏は
その後一旦は和睦しましたが、
天正6年(1578年)に始まった
御館の乱の対応を巡って
甲相同盟が破綻しており、
甲斐方面からの軍事的圧力に
対抗するために築城した可能性も
指摘されているそうです。
滝山城ジオラマ(ガイダンス施設)

【あえての山城構築と増築】
このとき、織田信長の築城した
安土城を参考に石垣で固めた
山城構築を行いました。
滝山城は広大かつ多くの角馬出や
内枡形を備えた近世的な平山城でしたが、
山城である八王子城に移ったことで
北条氏照は時代に逆行したとも言われています。
けれども、八王子城は一般的な山城のような尾根と
堀切を利用した縦深防御に加えて、
侵入してくる敵に対し、
いたる所から側射をかける
仕組みとなっていました。
織豊系城郭と比較すると、
より近世的な戦術を志向しています。
なお、織豊系城郭
(しょくほうけいじょうかく)とは
織田信長・豊臣秀吉とその配下の
家臣団・諸大名によって
築城・改修された、
共通する特徴をもつ城郭のことです。

八王子城ジオラマ(ガイダンス施設)

最も北条氏照が入った時は、
御主殿など含む主郭部と
一部の主要な要所部分のみの完成であり、
北条氏照が小田原へ
援軍へ向かって不在となっても
八王子城は、増築を何度も
八王子城合戦の日まで
繰り返されていました。




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【八王子城合戦】
小田原征伐の一環として
天正18年6月23日(1590年7月24日)、
八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の
軍勢に加わった上杉景勝前田利家
真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。
当時、城主の北条氏照以下家臣は
小田原本城に駆けつけており、
八王子城内には城代の横地監物吉信、
家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、
近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、
領内から動員した農民と
婦女子を主とする領民を加えた
約3千人が立て籠っていました。

【激戦!】
豊臣側は前夜のうち霧をぬって
主力が東正面の大手口(元八王子町)と
北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、
力攻めにより早朝には要害地区まで
守備隊を追いやったとのことです。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、
一時は攻撃の足が止まったとのことですが、
搦め手側別働隊の奇襲が成功し、
総崩れの状態となって、
その日のうちに城は陥落したとのことです。

【血に染まった御主殿の滝】
北条氏照正室である比左を初めとする
城内の婦女子は自刃、
あるいは御主殿の滝に身を投げ、
滝は三日三晩、血に染まったと
言い伝えられています。
このような伝承になるほどに、
小田原攻めで他に例を見ない
殲滅戦となったのでした。
城代の横地監物は落城前に
檜原村に脱出しましたが、
小河内村付近にて切腹しています。
落城時に御主殿にいた
北条方の婦女子や武将らが
滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと
言われています。
麓の村では城山川の水で米を炊けば
赤く米が染まるほどであったと伝えられ、
現代でも受け継がれている風習として、
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた
「あかまんま」(すなわち赤飯)
を炊くことは、
この逸話がもとになっていると
いわれています。
寳生寺が受難者の法要を続けています。

<供養碑>
御主殿の滝 供養碑(八王子城)

<動画・御主殿の滝>

・・・南関東のなかでも強力な
心霊スポットとして様々な話が
語られていますものね・・。
中には泣ける話もあって、
創作かもしれませんが、
怖い、というより悲しいという
感情が先にでます。

圏央道建設にあたって、
八王子城の下を道路が通ることが
決まった時もいろいろと言われました。
北条家臣の墓

【北条氏の敗北と廃城】
この八王子城攻防戦を含む
小田原征伐において北条氏は敗北し、
城主の北条氏照は兄である
北条氏政とともに切腹となりましたた。
のちに新領主となった
徳川家康によって八王子城は廃城となりました。
北条氏照と家臣の墓

【現代の八王子城跡】
昭和20年(1945年)ごろは、
山頂付近を除く城山一帯が
戦時中の木材伐採のため
禿山となっていしまいました。
戦後米軍機の撮影した
航空写真(国土交通相保管)に
残されています。
戦後、ヒノキなどが植林され、
現在の状況となりました。

【国の史跡】
昭和26年(1951年)6月9日、
国の史跡に指定されて
発掘調査や整備が進み、
御主殿跡付近の石垣、虎口、
曳橋などが復元されました。
八王子城跡 虎口 曳橋 石垣

【圏央道】
2004年に、城山要害部の
西端直下を通る
首都圏中央連絡自動車道の
八王子城跡トンネルが竣工しました。

日本100名城
2006年4月6日、
日本100名城(22番)に
選定されました。
八王子城跡 城址碑

日本遺産
2020年6月19日、
「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」
のタイトルで文化庁による
日本遺産に高尾山とも認定されました。
滝山城も構成要素として
関連史跡として認定されています。
なお滝山城は「続日本100名城」に
選定されています。




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【ガイダンス施設】
麓には2012年に完成した
八王子城跡ガイダンス施設があります。
展示解説スペースのほか、
休憩、レクチャースペース、トイレがあります。
八王子城の歴史について掲示され、
ゲーム感覚で八王子城の特徴を学習できる設備や、
直接手で触れることができる
八王子城の小模型や
日本100名城のスタンプ台があります。
園路を進んだ先には
屋根付の大きな八王子城の模型があり、
詳細な説明板が付属しています。
八王子城 模型

<開館時間>
午前9時~午後5時

<休館日>
12月29日~1月3日
臨時休館日あり。

<日本100名城スタンプ台>
日本100名城スタンプ(ガイダンス施設)

<御城印>
御城印 八王子城

<電話・ファクシミリ>
042-663-2800

【駐車場・トイレ】
無料で利用することができる
見学者専用駐車場があります。
駐車場は普通車で
約50台分のスペースがあります。
利用時間は午前9時から
午後5時までとなっています。
八王子城 駐車場

【八王子城跡管理事務所】
駐車場の先を100mほど進むと
1992年に完成した
八王子城跡管理事務所があります。
ここにもスタンプ台と
トイレが整備されています。
飲み物の自販機もあります。
ガイダンス施設完成前は
唯一の公的有人施設でした。
管理事務所では2009年4月より
ボランティアによるガイド(無料)が
始まっています。
当初はガイドの範囲は
御主殿跡まででしたが、
ガイドの人員に余裕があれば、
山頂付近の要害部、
その最も奧の伝大天守まで
利用できるとのことです。
また現在は私有地となって
原則は立入禁止となっている
「アシダ曲輪」「近藤曲輪」付近も
ガイド同行ですと立ち入ることができます。
八王子城案内 ガイド

山頂付近には、八王子神社などの建物や
ベンチ等がありますが、
売店などの有人管理の施設や
自動販売機や照明はありません。
地図には記載されていた
トイレも見当たりませんでした。
八王子城 フィールドインフォメーション

八王子城址に行くまでに、
ガイダンス施設の後ろに当たる
丘の部分には北条氏照と
家臣の墓(供養塔)があります。
また私設の八王子城址歴史資料館(有料)が
あるとのことです。

【発掘・復元状況】
居館地区など、重機が入り易い区域の
発掘調査や復元作業は進んでいますが、
城山要害部については
一部を除いては
ほとんど行われておらず、
樹木の伐採も行われてはいません。
僅かに残された石垣は
土砂崩れや樹木が
根こそぎ倒れたことによって
失われつつあり、
崩落により通行不能となった
水平道もあります。
自然や人の往来による遺構の破壊の他、
林道の整備や、
登城道(新道)の整備によって、
部分的に失われた遺構も多いとのことです。




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【城郭図について】
八王子城の城郭図は
江戸時代の初期(1648年)に描かれた
「慶安の古図」や
西尾市岩瀬文庫所蔵の絵図と
旧広島藩主浅野家に
伝えられた城絵図集「諸国古城之図」や
鳥羽藩が兵学研究用に収集して
保管していた「日本古城絵図」、
旧日本陸軍築城部が
城郭史を編纂すべく
大正初期から資料の収集に着手した
「日本城郭史資料」があります。
未だに当時からの絵図は
見つかっておらず、そ
の全貌は不明な部分が多いとのことです。
八王子城古図(1648年)

【発掘品】
発掘により、八王子城が
畿内で発展した安土桃山時代の
新式の城の影響を受け、
広い大手道や大きな城門を備えた
大がかりなものであったことが
明らかになってきました。
遺跡からは発掘により
五彩磁器皿などの磁器や茶道具、
香炉、ベネチアンガラスなどが出土し、
城内の華やかな生活をしのぶことができます。
八王子城 発掘品

【城山の麓】
【御主殿跡】
落城後は徳川氏の直轄領、
明治以降は国有林であったため、
落城当時のままの状態で
保存されていました。
御主殿跡(八王子市城)

発掘調査の結果、
礎石を沢山つかった建物の跡や
水路の跡、多数の遺物が出土しました。
御主殿跡の整備

なお礎石は土砂で被われ
表面は芝生となっていますが、
今でも当時のまま残っています。
2012年から地中の遺物の
レプリカを地上に設置する整備が行われ、
2013年に完成しました。
庭園部にある石の1つのみは
戦国時代当時のものであるとのことです。
庭園遺構 説明

【虎口】
石垣や石畳は当時のものを
そのまま利用し、
できるだけ忠実に復元されています。
御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は
当時の門をイメージして復元されました。
虎口(八王子城)

<虎口・説明>
御主殿虎口 説明

<冠木門>
冠木門(八王子城)

<櫓門跡>
櫓門跡(八王子城)

<櫓門跡・説明>
櫓門跡・説明(八王子城)

【古道と大手の門跡】
当時御主殿へ入る道として
使われていました。
古道(大手道) 八王子城

<古道・説明>
古道(大手道)説明 八王子城

門の礎石や敷石が1988年の
確認調査で発掘されましたが
保存のために埋め戻されています。
大手の門跡(八王子城)

<現在の大手の門跡>
現在の大手の門跡(八王子城)

<御主殿への経路・説明>
御主殿への経路・説明 八王子城

【曳橋(ひきはし)】
古道から御主殿へわたるために
城山川に架けられた橋です。
橋脚の部分しか資料が
発見されていないため、
橋脚以外の部分は
現在の建築技術で
16世紀当時の道筋を再現して
架けられました。
築城当時の構造については諸説あります。
敵の侵入時に板を外せる構造や、
橋桁ごとスライドする構造
(八王子城管理事務所内所蔵)
などが考えられています。
曳橋(八王子城)

<曳橋・説明>
曳橋 説明

御主殿側の橋台の位置は
築城当時より5mほど東側にずれており、
このため段差が生じて石段が
設けられています。
橋台の西側の石垣は、
林道整備のために削られ、
移築されています。
曳橋 石垣 虎口 御主殿入口

<曳橋と石垣>
曳橋と石垣(八王子城)

【御主殿の滝】
御主殿の滝の林道側には、
高さ3m、幅10m程の小山が
残っていますが、
元々は御主殿方向に
繋がった土塁でした。
現在は林道整備により
半分以上が削られています。
この土塁をダムにして、
上流に御主殿の先まで続く
大きな溜め池があったとする説が
有力となっています。
御主殿の滝(八王子城)

【城山の麓から中腹】
<福善寺>
千葉県に福善寺と呼ばれる寺があります。
円通寺住職の余生を送るためや、
若い僧の修行に使う隠居寺でした。
福善寺が江戸時代に荒廃し、
円通寺は明治の始に
渋谷の吸江寺と合併した為、
拙堂和尚が城跡に福善寺を
復興したとのことです。




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観音堂があります。
福善寺はアシダ曲輪(アンダ曲輪)にあり、
一説によりますと、
阿弥陀堂が建っており、
そこから名がついたとか。
なお、観音堂はアシダ曲輪の上部にある
近藤曲輪にあるとのことです。
ただし、曲輪の名称の位置が
地図によってずれている可能性があります。

<注意!>
現在は私有地のため、ガイドなしでは
立ち入ることができません。
アシダ(アンダ)曲輪に行く橋

【路傍の石仏(観音像)】
108体あるといわれる観音ですが、
現代では16体しか確認できないそうです。
御主殿跡へのルートとして、
古道を通るルート以外、
石仏を巡りながらのルートもあるとのことです。
<注意!>
見つけることができませんでした。
前述のガイドなしでは
立入禁止区域にあるのかもしれません。

【金子丸跡(金子曲輪)】
金子三郎左衛門家重が
守備をしていたといわれています。
尾根をひな壇状にし、
敵の侵入を防ぐ工夫がされています。
現在は天守へ向かう
最初の休憩所として
ベンチが設置されています。
次の休憩所は8合目までありません。

金子丸跡(金子曲輪)

【本丸跡(城山山頂)】
城の中心で最も重要な曲輪です。
横地監物吉信が守備していました。
頂上の平地部は10m四方程度の
広さが残っています。

本丸跡(城山山頂)八王子城

【本丸周辺の曲輪】
本丸周辺の曲輪 八王子城

【松木曲輪跡】
(展望スペース)
八王子神社の奧に位置し、
中の丸とも二の丸とも
呼ばれていました。
中山勘解由家範が守備し、
前田利家軍を
相手に奮闘しましたが、
多勢に無勢で防ぎ切れなかったのでした。
もうすぐ松木曲輪

<松木曲輪・説明>
松木曲輪・説明

【小宮曲輪跡】
三の丸とも一庵曲輪とも
呼ばれていました。
狩野一庵が守備していましたが、
搦手の隠し通路である
棚沢道を突き止めた
上杉軍に背後から奇襲され、
落とされました。

小宮曲輪への道が狭く、
草藪で覆われており、
道がよくわからなかったので
行くのを断念しました。

【八王子神社】
八王子神社

大手側からも搦手側からも
最終的にはここに誘導されるように
なっていますが、
三方を本丸、松木曲輪、
小宮曲輪に囲まれた窪地であり、
十字砲火に晒されるキルゾーンと
なっていました。

松木曲輪方面

【井戸】
山頂付近にはいくつか井戸が
確認されています。
南側斜面にある坎井(かんせい)
という井戸は、
水質検査にも合格する
レベルであるとのことですが、
飲用としての厳密な管理は
されてはいません。

【伝大天守跡】
本丸が陥落した際に
最後の拠点にするべく
構築された詰城で、
部分的に石垣が残っているとのことです。
天守閣跡と伝わっていますが、
それらしき建物が
建っていた痕跡はありません。
背後(西側)には
深さ10m以上の大堀切があり、
背後からの敵の侵入を阻止しています。
さらに北側と東側の尾根筋には
両翼600mに渡って
石塁が築かれていました。
ほとんど崩れてしまってはいますが、
石自体は残っているとのことです。




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【整備工事】
整備工事は御主殿跡の虎口と、
そこに至る大手道を
整備範囲として行われました。
石垣はゆがんだり
欠落していたため、
築城当時の工法で積み直し、
さらに失われてしまった石材は
補充して復元されました。
橋や門、柵、塀は、
はっきりした痕跡が
発見されなかったため、
八王子城の特徴的な
城の守り方を理解できるように、
築城当時の
通路形態を想定して再現されました。

八王子城 本丸への道

【山頂付近へのアクセス】
麓から山頂付近までは、
東西南北に様々なルートがあります。
管理事務所から登るルート(新道)は
比較的道も広く、
軽装で登ることができます。
新道ルートは金子丸跡まで約10~20分、
そこから八王子神社まで
約30~45分かかるルートとなります。

<登城口>
八王子城 登城口

とはいえ、「山」なので、
靴はトレッキングシューズで
ポールは持参されたほうが
よろしいかと存じます。
普段、山道を歩かない方には
少々きついです(自分含む)。

<新道>
八王子城 新道

新道の北斜面には
旧道ルートが並行してありますが、
道が狭い上、雨水による侵食が酷いです。

<広い新道>
広い新道(八王子城)

8合目(柵門跡)で旧道と新道は合流します。
ベンチが設置されており、
休憩スペースにもなっています。

8合目(柵門跡) 八王子城

<柵門跡・説明>
柵門跡・説明

<柵門跡・ベンチ>
柵門跡・ベンチ 八王子城

<旧道>
旧道・合流 八王子城

<高丸への矢印>
高丸への矢印 八王子城

【都心の展望】
9合目あたりで見ることができます。
9合目 都心の展望 八王子城

「頂上」と書かれた小さな石碑の先にある
階段を上ると八王子神社があり、
左手に進むと二つの大きな慰霊碑のある
展望スペースと休憩所(松木曲輪)があります。

八王子神社 階段

本丸跡と小宮曲輪跡へは、
八王子神社裏手の坂道を更に登ります。
本丸跡も小宮曲輪跡も
八王子神社から約5~15分で到達します。
本丸と小宮曲輪 矢印

御主殿から山王台を経て
本丸付近まで直登する「殿の道」は
短時間で本丸付近に到達できるそうです。
道中には築城当時の石垣群が
見られるとのことです。
ただし、足場が悪く険しい道であるそうです。
通行可能か否かは
事前確認が必要かもしれません。

なお柵門跡から山王台への道は
2022年11月時点では
通行止めとなっていました。
柵門跡から山王台への道

柵門跡と金子丸の間から、
御主殿跡に行く道があります。
ただし、道幅がかなり狭い箇所があり、
歩けますが、草藪もかなり
覆われていますので
ご注意ください。
進行方向・登り方面で左側にあります。
冠木門(御主殿側)

【所在地】
<八王子城跡ガイダンス施設>
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3丁目2664ー2

<八王子城跡>
東京都八王子市元八王子町3丁目、西寺方町、下恩方町

<管理棟>
東京都八王子市元八王子町3-2715-2

<日本100名城スタンプ設置場所>
◆八王子城跡管理棟前
◆ガイダンス施設




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【交通アクセス】
(電車・バス)
JR高尾駅北口1番バスのりばより、
西東京バス「
高尾の森わくわくビレッジ」
「宝生寺団地」「恩方ターミナル」
「大久保」「大久保・陣馬高原下」
「グリーンタウン高尾」「美山町」行きに乗車。
バス停「霊園前・八王子城跡入口」下車、
徒歩約20分。

土曜日・日曜日・祝日のみ、
JR高尾駅北口1番バスのりばより、
「八王子城跡」行が運行されます。

(車)
圏央道「八王子西」ICから高尾方面へ約10分程度。
または、中央道「八王子」IC第2出口から、
甲州街道を経由して約40分程度。

<カーナビ設定について>
八王子城跡は広範囲で
指定されている史跡です。
カーナビに「八王子城跡」という名称
又は管理棟の住所
(東京都八王子市元八王子町3-2715-2)
を入力すると、システムによっては
適切なルートで案内されない場合があるそうです。
八王子城跡にカーナビを利用して来られる場合は、
八王子城跡の入口となる
八王子城跡ガイダンス施設」の住所
〒193-0826東京都八王子市元八王子町3-2664-2
を入力してください。

滞在所要時間:2時間30分~4時間程度
(詰城(伝大天守跡)含まず)
(北条氏照と家臣の墓含む)

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。

高月城~滝山三城の一つ、築城は武蔵国の守護代・大石顕重で後に大石氏は北条氏の家臣となります。

二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?

武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。

網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性があります。

武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。

檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。

幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。

阿伎留野城~武州南一揆の三宮氏(三内氏)が築城との推定、南一揆の統率者は平山氏、小宮氏、梶原氏など。

武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。

小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。

浄福寺城~築城は大石氏で由井城の説あり、後に八王子城の出城として運命を共にしました。

鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

由木城跡(柚木城跡)~大石氏館跡・大石定久公の像とお墓~永林寺にて

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

前田利家とまつ~加賀百万石の礎を築いた二人は従兄妹同士~まつの生き方が凄い!!

沢山城(三輪城)~北条氏照の書簡があることから小田原北条氏の支城の可能性あり。

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