城跡

不摩城(下野・秋葉城)について~戸矢子有綱が築城したと伝わる古城~藤姓足利氏と源姓足利氏。

不摩城(秋葉城)入り口



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【不摩城】


別名は秋葉城ともいいます。
本丸に秋葉神社があるため、
地元の人々は「秋葉城」と呼んでいるそうです。
登城口は東麓にある秋葉神社の入り口となります。
もう一つ別名がありまして
部屋子城とも称するとの事です。
不摩城のあるこの辺り一帯の
昔の地名が戸矢子と称していたので
そこからきたのかもしれません。

尾根続きの先端部で
比高90mほどの場所が
城跡であるようです。

<不摩城・遠景>
不摩城・遠景

【城の歴史】
伝承によれば、
平安時代末期に戸矢子保と呼ばれていた
この辺り一帯を領した
戸矢子有綱(へやこ ありつな)(足利有綱)
なる人物によって築城されたそうです。
築城の目的は
唐沢山城の支城として、とのことです。
其の後、島津氏が在城したとのことです。
島津氏」と言えば、
あの薩摩の大名の島津家が有名ですが、
島津氏の発祥は相模です。
その島津氏の一族がこの地へも
やってきた模様です。

島津氏の居城としては、
県道を挟んで東南側にある
「藤沢城」があります。
「藤沢城」とこの「不摩城」とで
街道の要所を取り締まっていたかもしれません。

戸矢子保は妻の戸矢子尼、
娘の加賀局を経た後に
加賀局の再婚相手である
島津氏の島津忠佐によって
領有されたということです。

【所在地】
〒328-0205 栃木県栃木市鍋山町

<場所>
青印は「秋葉城入り口」の石碑がある辺りです。
またその近くにある空き地で写真を撮りました。

【戸矢子有綱】


戸矢子 有綱(へやこ ありつな)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
通称は足利七郎。
足利有綱とも呼ばれています。
鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする
藤姓足利氏の庶流で、
佐野氏、阿曽沼氏、木村氏などの祖です。

寛政重修諸家譜や源平盛衰記など
一部資料では戸矢古、
部矢古などの表記も見られます。
戦場で射抜かれた眼を自分で洗ったと
伝えられています。




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【戸矢子保にきた理由】
覚仁の跡を継ぎ、
東大寺領だった戸矢子保・保司となり、
(現・栃木市藤岡町部屋から鍋山町、梅沢町、
大久保町、尻内町、都賀町木、梓町、千塚町辺り)
蓬莱山(栃木市鍋山町根古谷)に
不摩城(秋葉城、部屋子城とも)
を築いたとされています。

【源氏に味方する】
宇治平等院の戦いでは、
兄である足利俊綱の子・足利忠綱と共に
源頼政を攻めて平氏に味方しましたが、
野木宮合戦では子の足利基綱(佐野基綱)と共に
源氏に味方し、
足利俊綱と足利忠綱を敗走させたということです。

【源姓足利氏との戦い】
文治2年6月1日(1186年6月19日)、
源姓足利氏と赤見山(佐野市赤見町)で戦います。
その最中に山鳥の矢で左眼を射られて敗走。
途中の井戸で目の傷を治療しましたが、
石室(現・佐野市戸室町)に参籠した
戸矢子有綱は、老体のため、
馬の鞍に腰をかけて自害したということです。
墓は当初没地に建立されていましたが、
時は流れて大永3年(1523年)、
和尚尊永によって
領有地の戸矢子保があった
大悲山平等院大安寺に移転されたのでした。

【有綱亡き後の戸矢子保】
戸矢子保は妻の戸矢子尼、
娘の加賀局を経た後に、
加賀局の再婚相手である
島津氏の島津忠佐によって領有されました。
また没地の石室は
戸矢子保有綱の戸矢子から
一字取って戸室と改名し、
後にこの地は戸矢子保有綱の末裔である
佐野氏庶流の戸室親綱によって領有され、
彼は戸室氏を称するようになったということです。

また嫡子の基綱は
佐野基綱(さのもとつな)とし、
下野国安蘇郡佐野庄に土着し、
佐野氏初代となりました。
通称は佐野太郎。
または足利基綱とも呼ばれました。

【二つの足利氏】
藤原秀郷からの系譜である藤姓足利氏は
足利地域への土着を強め、
広大な領域をもつ
足利庄の庄司となっていきました。
けれども一方、
源姓足利氏である源義国が
(源義家の四男)
足利方面への勢力を強めると、
藤姓足利氏と源姓足利氏で
所領を巡る争いが
生じるようになっていったのでした。

【藤姓足利氏】
藤原秀郷の子孫である足利大夫成行は、
天喜年間(1053年⇒1057年)に
足利駅の西北の山上に
足利城を築いたとされています。
子孫に成綱・家綱・俊綱・忠綱などがいて、
代々足利に領地を広げていきました。

【源姓足利氏】
久安6年(1150年)、
源義国が足利に住み、
その子孫が足利氏と称されたことから、
両氏を区別して、
藤姓足利氏、
源姓足利氏と呼ばれています。

【争いの果てに】
源姓足利氏が勢力を増してくると、
両氏の間に領地をめぐる争いが生じました。
源姓足利氏に対抗するためでもあったのか、
足利俊綱・忠綱は平氏の側に属し、
源頼朝の勢力との戦いに
臨むことになっていったのでした。

この頃、
藤姓足利氏の流れを汲む足利成俊は、
唐沢山城を再興したとも、
春日岡城佐野城)に
館を築いたとも言われています。
また、佐野の庄司とされていることから、
佐野地域へ関わりを深めていったと考えられます。




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【藤姓足利氏の分裂】
その後、源頼朝の平氏追討や、
源氏の勢力争いにおいて、
藤姓足利氏は分裂していったのでした。
一族の総領家である足利俊綱と
その子である忠綱は平氏や反源頼朝にくみし、
敗けてしまい、藤姓足利氏は、
やがて滅亡となってしまったのでした。

【藤姓足利氏は佐野氏へ】
一方で、兄弟である成俊、
戸矢子有綱、その子の基綱は、
源頼朝にくみし、
藤姓足利氏の命脈を繋いでいくことになります。
やがて、戸矢子有綱の嫡子である
足利基綱は佐野太郎ともいわれ、
佐野庄を基盤として、
佐野氏の基礎を築いていったのです。

【そのほかの支流・分家】
阿曽沼氏(武家)
⇒戸矢子有綱の四男阿曽沼四郎広綱を祖とする佐野氏族
山上氏(武家)
⇒足利家綱の子で戸矢子有綱の兄弟の五郎高綱を祖とする
大胡氏(武家)
⇒足利成行の庶子で足利家綱の兄弟である
重俊が大胡太郎を称したのに始まる。
園田氏(武家)
⇒足利成行の子で足利家綱の兄弟である園田成実から始まる。
木村氏(武家)
⇒足利成行の玄孫で戸矢子有綱の子である木村信綱から始まる。

大胡城跡~上杉氏と小田原北条氏の攻防、そして徳川家康の天下の狭間で紡ぐ歴史

下野・藤沢城~下野の島津氏~佐野氏家臣、鍋山衆としての小曾戸氏

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

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