【結城城】
結城城(ゆうきじょう)は
茨城県結城市結城にあった日本の城です。
室町時代には結城合戦の
舞台となった事で知られています。
江戸時代には結城藩の藩庁が置かれました。
結城市指定史跡。
【別名】
臥牛城
【城郭構造】
平山城
【築城主】
結城朝光
【築城年】
寿永2年(1183年)
【主な改修者】
水野勝長
【主な城主】
結城氏、水野氏
【廃城年】
慶応4年(1868年)
【遺構】
空堀、土塁
【城について】
小山下野大掾政光の四男朝光が、
志田義広の乱制圧の功により
結城郡の地頭職に補任され、
当地に城を築いたのが
結城城の始まりであるとされています。
その後、室町時代まで結城氏が
引き続き拠っていましたが、
永享12年(1440年)、
永享の乱で敗死した
鎌倉公方足利持氏の遺児である
春王・安王兄弟を擁立し、
室町幕府に反旗を翻しました。
結城氏朝・持朝他反幕府方は
結城城に篭城し、
一年近く多勢の幕府方に
抵抗しましたが、
嘉吉元年(1411年)、
結城氏朝・持朝は討ち死にし、
結城城も落城し、
結城氏は一時没落することとなったのでした。
文安4年(1447年)、
足利成氏が鎌倉公方再興を許されますと、
佐竹氏の庇護を受けていた
結城氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、
結城城に入りました。
その後、江戸時代初頭まで
結城氏の居城として用いられました。
小田原征伐後、結城家は
徳川家康の次男である秀康を
養子として迎え、関ヶ原の戦いの後
秀康が越前に移封となると、
結城の地は一時天領となり、
結城城も廃城となりました。
廃城に際して、徳川家康の命により
結城城の御殿、隅櫓、御台所、
太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を
埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され
結城御殿と呼ばれました。
移築された御殿は
百十四畳敷きの大方丈「金の間」、
九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。
大方丈は将軍来訪の際に
使用されたことから
「御成の間」とも呼ばれたとのことです。
また、「金の間」には徳川家康の像が、
「銀の間」には黒本尊と呼ばれる
結城秀康の念持仏が置かれていました。
さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も
移築されたとのことです。
元禄13年(1700年)、
水野家宗家筋の水野勝長(水野勝成の曾孫)が
能登より1万8千石で封じられ、
以後明治維新まで水野氏10代が
この地を治めました。
元禄16年(1703年)には
結城城の再興が許され、
築城が開始されました。
戊辰戦争の際には佐幕派が
城を占拠したため、
新政府軍の攻撃を受け、
城の建物は多くが焼失となりました。
昭和39年(1964年)9月1日付で
市指定文化財(史跡)に指定されました。
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【城の構造】
北に田川が流れ、東に深田が入り込む、
台地北東端に占地しています。
西および南には
田川の旧河道等を利用した
堀が設けられ、台地との間を遮断しています。
城域内部は、北東端の実城、実城西側の西舘、
実城の南の中城、中館の更に南の東館、
の大きく四つの郭に区分され、
それぞれの郭間に深い堀が設けられていました。
堀の作りは全体的に直線的で
単調ではありますが、
中城の周りの空堀には
折れが見られるとのことです。
【遺構】
現在城域は公園および宅地として
開発されており、
遺構の保存状態は必ずしも
良くはありません。
各郭間に設けられた堀も
多くが失われてしまいましたが、
実城西から南および
中城南西部に空堀が残っているとのことです。
また、中城の東から西館の西、
および、東館の南から東に掛けて、
それぞれ水堀の跡が残っているとのことです。
城跡の東側には藩祖水野勝成を祀る
聡敏神社があるとのことです。
(〒307-0001 茨城県結城市結城1484)
また福山市の福山城址北に鎮座する
福山八幡宮境内にも同じく
聡敏神社として祀られているとのことです。
【交通アクセス】
(電車)
JR水戸線「結城」駅から徒歩約20分
(車)
東北自動車道「佐野藤岡」ICから約30分
【所在地】
〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【結城合戦】
結城合戦(ゆうきかっせん)は
永享12年(1440年)に
関東地方で起こった室町幕府と
結城氏ら関東の諸豪族
との間の戦いです。
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永享7年(1435年)からの
鎌倉公方・足利持氏と
補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から
永享10年(1438年)に永享の乱が発生。
足利持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡。
その乱後に6代将軍である
足利義教が実子を鎌倉公方として
下向させようとしますと、
永享12年(1440年)3月に
足利持氏の残党や
下総の結城氏朝・持朝父子などが
永享の乱で自殺した
足利持氏の遺児を擁立し、
室町幕府に対して反乱を起こしたのでした。
幕府方は総大将・上杉清方や
今川範忠・小笠原政康などの諸将や
関東の国人などを
討伐のために派遣して、
永享12年7月29日、
結城氏朝らの立てこもった
結城城を包囲したのでした。
嘉吉元年(1441年)4月16日、
結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城。
足利持氏の遺児のうち、
春王丸、安王丸は
足利義教の命を受けた
長尾実景によって美濃で殺され、
永寿王丸(後の足利成氏)は
京都に送られました。
ただし、近年の研究では、
足利成氏の幼名は
万寿王丸が正しいこと、
更に万寿王丸は信濃国の
大井持光の庇護下のまま
少年期を過ごしており、
京都に護送されたのは
遅れて上杉軍に捕らえられた
弟の乙若(後に出家して定尊)
であったと考えられているとのことです。
【その後】
戦火は鎌倉公方の支配下にあった
奥州にも飛び火しました。
足利持氏の叔父でありながら
永享の乱で幕府側に寝返った
篠川公方・足利満直が
結城氏を支持する諸将に討たれ、
翌年には京都において
結城合戦の祝勝会の名目で招かれた
将軍の足利義教が家臣の
赤松満祐に暗殺されたのでした。
これは嘉吉の乱と称されています。
足利義教は次男である義永を
次の鎌倉公方に任命するべく
工作していましたが、
自身の死によって
頓挫することになったのでした。
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【享徳の乱へ】
文安3年(1446年)、
関東諸将の要請で足利持氏の遺児である
足利成氏の鎌倉帰還が実現し、
鎌倉府が復活しましたが、
足利成氏は後に上杉氏と対立し、
享徳の乱を起こしたのでした。
【総括】
結城合戦は永享の乱の
延長線上の出来事ですが、
合戦の規模は永享の乱よりも
大きいものでした。
結城合戦を描いた「結城合戦絵詞」も
存在しています。
なお、読本「南総里見八犬伝」は
父親と一緒に結城側で戦った
里見義実が、死を決意した父親と
別れて落ち延びるところから始まります。
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。
中久喜城~平安末期に小山政光が築城、小山氏城跡として国の史跡に指定されています。
網戸城と寒川尼墓~網戸郷の地頭となった寒河尼と築城した孫の網戸朝村。
小泉城~結城一族である富岡氏の居城~土塁や水堀が良好に残っている市街地の城
白川城(搦目城) ~国の史跡で築城は伝・結城祐広であり、白河結城氏の旧本拠地でした。
古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。
御城~梶原景時の六男である梶原景則が築城したとの伝承、近くには梶原氏の菩提寺があります。
下野・川崎城~藤姓塩谷氏の塩谷朝業が鎌倉時代初期に本拠地として築城、塩谷(しおのや)氏とは?
小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。
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結城秀康~徳川家康の次男、父から冷遇され兄の信康の計らいで対面を果たし、秀吉、結城氏の養子となる。
緒川城~水野氏五代の居城、徳川家康の生母である於大の方の出生地です。
刈谷城~元は「刈屋城」、水野忠政が築城、信元が後を継ぎ於大の方はこの城から岡崎に嫁いでいます。
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