城跡

白浜城 (安房国)~安房里見氏の始まりの城、里見義実が拠点としました。

白浜城(安房)



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【白浜城】

白浜城は房総半島最南端、
野島埼灯台の北kmほどの
丘陵に位置する中世の山城です。
戦国時代に安房(あわ)を領有した
里見氏の祖である里見義実(さとみよしざね)
が「結城合戦」に敗れ、
この城を拠点に
安房平定に乗り出したとされます。
安房に進出し、最初の拠点としたのが白浜城です。

御賓頭廬(おびんづる)尊者像のある
青木観音堂の脇から、
整備された城山巡視道(じょうやまじゅんしみち)
が通じています。
東側入口の青木観音堂あたりが正門とされ
堀切や土塁のない初期の山城構造で、
切通しや切岸などの遺構を
確認することができます。
登山口近くの青根原神社前には
里見二代となる里見成義の墓碑があります。

<展望台入り口(西側)>
写真の道の入り口に
「展望台入り口」の立て札があります。
白浜城 第2展望台入り口

【遺構】
曲輪、堀切

【縄張形態】
山城

【主な城主】
里見義実

【標高(比高)】
137.4m

城山(じょうやま/標高144m)には
東側入口の青木観音堂から
徒歩20分の場所に第1展望台、
さらに徒歩10分の場所に
第2展望台が設置されています。
展望台からは野島埼灯台や海岸線、
伊豆の島々、そして冬から春の季節には
露地栽培の花畑を一望にする
大パノラマを得ることができるそうです。

白浜城(安房) 西口

晴れていれば八丈島まで眺望でき、
青ヶ島を除く伊豆諸島は一望できます。

良く晴れた日であれば見える島影は
八丈島、御蔵島(みくらじま)、
三宅島、神津島、式根島、
新島、鵜渡根島(うどねしま/無人島)、
利島(としま)、大島です。

第2展望台からの方が眺めは良いとの事です。

白浜城(安房) 野島崎より

直接の駐車場がありません。
野島埼灯台入口の国道410号沿いの
白浜駐車場(白浜野島崎園地)があります。
西側入口からなら第2展望台まで
白浜駐車場から徒歩35分とか。
西側登城口となる
第2展望台入り口付近には、
バイクなら大丈夫ですが、
四輪車が駐車できるスペースはありません。
東側登城口も原則として駐車場はないそうです。




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【所在地】
〒295-0102 千葉県南房総市白浜町白浜

【交通アクセス】
(電車)
JR内房線「館山」駅から
JRバス関東(南房州本線)に乗り
「安房白浜」駅で下車、徒歩20分程度。

(車)
館山自動車道「木更津南」ICから120分程

<登城される際のご注意>
道幅は広くなく、崖路となっており、
また季節によっては藪や蜂が多いとの事です。
前日の天候にもよりますが、
落ち葉や折れた枝などで滑りやすいと事なので
登城される際には十分にお気をつけ下さい。

【里見氏】

里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつです。
中世に日本の武家としてはじまりました。
本姓は源氏(河内源氏)です。
源(新田)義重の子である義俊を祖とする氏族で、
新田氏の庶宗家となります。
戦国時代、一族からは
房総地方を領する戦国大名安房里見氏が出ました。

里見氏は新田氏の庶宗家であり、
「大新田」氏とも呼ばれていました。
鎌倉時代には御家人として将軍に近侍し、
鎌倉時代末の動乱では
惣領家の新田義貞と行動をともにしました。
南北朝期には一族も分かれ、
南朝方・北朝方に別れて戦ったのでした。

新田神社

安房里見氏の家伝では、
里見氏の嫡流である里見義実が
安房に入国したとされていますが、
系譜関係は定かではありません。
安房里見氏は戦国大名として
成長して房総に割拠し、
江戸時代初頭には
安房一国を治める館山藩主となりましたが、
1614年に里見忠義の代で改易されました。

このほか、鎌倉時代から室町時代にかけて
諸国に分かれた里見氏があります。
出羽里見氏、美濃里見氏、
越後里見氏、榛名里見氏(仁田山里見氏)などが挙げられます。

【里見氏の起こり】
里見氏は贈鎮守府将軍で
新田義重の庶長子である
新田義俊(里見太郎)を初代とします。
里見の名は新田義俊が
上野国碓氷郡(八幡荘)里見郷
(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)
に移り、その地の名を苗字としたことに発しているとのことです。

【鎌倉時代・室町時代】
鎌倉時代になると、
新田義俊の長子である里見義成が
源頼朝に仕えて御家人となりました。
里見義成は源頼朝に重用され、
源頼朝の死後も代々の将軍に近侍しました。

鎌倉時代末の里見義胤(新田義俊の6世の孫)は、
本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加しました。
新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、
戦後越後国の守護代に任ぜられました。
南北朝の動乱では
南朝方に従っていたものの、
宗家が没落すると
一族の中に北朝側に参加する者が現れました。
室町幕府に従って美濃国に所領を得た
里見義宗もそのひとりとされています。
里見義宗は観応の擾乱で足利直義に従いましたが、
足利直義は敗北して美濃里見氏は所領を失い、没落しました。

その後、鎌倉公方足利満兼に召しだされて
常陸国に所領を得た人物に、里見家兼がいます。
里見家兼の子の里見家基は、
足利持氏に奉公衆として仕えました。
里見家基は、上野国・常陸国などに
所領を与えられていました。
けれども永享の乱で里見家兼が自害し、
続いて結城合戦で里見家基・里見家氏父子が討たれ、
上野里見氏嫡流はここで断絶となったのでした。




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里見家基のもうひとりの子とされる
里見義実は安房国に落ち延び、
のちに安房里見氏の祖
となったとされています。
けれども、近年において、
里見義実(あるいは里見家兼)を
旧来の伝承による
上野里見氏嫡流ではなく、
美濃里見氏である里見義宗の末裔
であったとする説が出されています。

白浜城(安房) 西側

室町時代以降、
発祥地である上野国における里見氏は、
里見義連(義胤の子)の三男である
仁田山氏連の系統に属して、
戦国時代に二階堂政行配下で
仁田山城主であった
里見家連(宗連)などが散見され、
里見家連は後に上杉謙信の討伐を受けて
戦死を遂げて、子の里見宗義(後に戦死)と
里見義宗は碓氷郡里見郷に逃れて、
榛名里見氏と称したということです。
また、家連の許には同族の縁を頼り、
安房国を追われた安房里見氏一族の
里見勝広という人物が
身を寄せたと伝えられています。

【安房里見氏】
安房里見氏(あわさとみし)は、
戦国時代に安房国を掌握し、
房総半島に勢力を拡大し、
戦国大名化した氏族です。
「関東副帥」(関東管領の異称)
もしくは「関東副将軍」を自称しました。

安房里見氏初代となる里見義実は、
結城合戦で討死した
里見家基の子息とされる人物で、
安房国に移り安西氏を追放して
領主となったとされています。
(里見義実の安房入国伝説)。
けれども、里見義実の出自や
安房入国の経緯についての詳細は不明です。
同時代の文書で確認できる
最初の安房里見家当主は、
3代目とされる里見義通です。

永正5年(1508年)9月25日に
安房国一宮鶴谷八幡宮に
納められた棟札には
「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」
の名とともに
「副帥源義通(里見義通)」
の名が記されています。
これは里見義通の実在性と
安房支配の確立を示す明証であると
考えられています。
その後の古河公方家の内紛に際しては、
小弓公方足利義明を奉じ、
上総・下総・相模へたびたび侵入し、
小田原北条氏をはじめとする
反小弓公方派の大名・国人と争いました。




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【鶴岡八幡宮の戦い】
大永6年(1526年)11月26日には、
里見氏の軍勢が
(4代当主里見義豊の後見人であった
叔父の里見実堯の軍勢とされていますが、
当主である里見義豊本人とする説もあります)
三浦郡・鎌倉郡へ侵入し、
鶴岡八幡宮を焼き、
玉縄城下で小田原北条方と戦っています。
この戦いも小弓公方の意向に
従ったものであるとされています。

鶴岡八幡宮(遠景)

【天文の内訌(稲村の変)】
天文2年(1533年)7月27日、
里見義豊が叔父の里見実堯を討ちます。
が、翌年4月6日には
討たれた里見実堯の実子である里見義堯が、
小田原北条氏の与力を得て、
里見義豊の籠もる稲村城を落し、
里見義豊を自害に追い込み家督を継ぎました。
この一連の内紛を天文の内訌(稲村の変)と呼びます。

【宗家に対する下克上】
天文の内訌については、
若年の里見義豊が無思慮に
後見人である叔父を排除したことが
きっかけであると描かれてきましたが、
近年の史料発掘の結果として、
里見義豊はすでに壮年を迎えており、
庶流である里見実堯・里見義堯父子による
宗家に対する下克上の一環
であったとの見方が強まっています。

【小田原北条とは手を切る】
天文の内訌において
小田原北条氏と結び、
第5代当主となった里見義堯でしたが、
その後は小田原北条氏と手を切り、
再び小弓公方方につきます。
その後は小田原北条氏や
上総武田氏とたびたび交戦となっています。
里見氏は、
天文7年(1538年)の
第一次国府台合戦における大敗、
小田原北条氏による
安房攻めなどでたびたび苦境に陥りましたが、
越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜け、
上総に勢力を伸張したのでした。

【第二次国府台合戦】
里見義堯と里見義弘の親子は、
永禄6年(1563年)および
永禄7年(1564年)の
第二次国府台合戦で
小田原北条氏に敗北します。

【三船山合戦】
けれども永禄10年(1567年)の
三船山合戦で北条氏を破り、
上総での勢力圏を確固たるものにしたのでした。

【甲房同盟】
小田原北条氏が上杉氏と連携すると、
これに対抗して里見義弘は
甲斐の武田氏と同盟を組み、
次々と勢力を拡大します。
やがて下総南部にも影響を及ぼすようになり、
最盛期を迎えます。

【房相一和】
けれども、天正2年(1574年)に
里見義堯が没した頃より
小田原北条氏の巻き返しが発生し、
天正5年(1577年)、
里見義弘はたびたび交戦した北条氏政
和睦して下総から撤退し、
以後領国経営に専念します。

【家督争い】
里見義弘が天正6年(1578年)に没すると、
嫡子梅王丸と弟である
里見義頼(義弘の庶子とも)
との間で家督争いが発生します。
また上総国人の離反などにより
一時家勢は衰えました。
(家督争いが起こったお家は必ず斜陽となる・・・)

けれども家督争いを制して
当主となった里見義頼は
豊臣秀吉に接近し、
安房・上総全域と下総南部の安堵を
得ることに成功したのでした。




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【ピンチの後の徳川氏との接近】
里見義頼の跡を継いだ里見義康は、
小田原征伐に参陣するも、
惣無事令違反を犯したために
豊臣秀吉の怒りを買います。
これにより上総・下総は没収され、
安房一国のみが安堵されました。
けれどもこのとき
徳川家康がとりなしたことにより、
以降里見氏は徳川氏と誼(よしみ)
を通じるようになるのでした。

【大名になるも突然の改易という名の配流】
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、
論功行賞によって
常陸鹿島領3万石が加増され、
館山藩は都合12万2000石の大名となりました。
慶長19年(1614年)には
里見義康の長男で宗家を継いだ
里見忠義が舅(しゅうと)である
大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、
鹿島の代替地として
伯耆倉吉3万石に転封となったのでした。
しかし実際には、彼には100人扶持ほどの
糧米しか与えられておらず、
これは実質に配流と同じ扱いでした。

大久保忠隣公幽居の跡

そして元和8年(1622年)、
里見忠義が病死すると、
跡継ぎがいないとして改易されたのでした。

【安房里見氏の末裔】
実際には、里見忠義には正室に
2人の女子がいたほか、
側室に3人の男子がいたといわれています。

里見忠義の子であるとされている里見利輝は、
もと家臣の印東氏に育てられたということです。
子孫は越前鯖江藩主間部氏に仕えました。
他の子も子孫を残しており、
それぞれ150俵取りの下級旗本や
他家に仕官したということです。

里見忠義の叔父である義高(元板鼻藩主)は改易後、
酒井家に預けられ、
子孫は出羽庄内藩の家臣として仕えています。

また、里見義堯の五男に里見義政がおり、
その五世の孫となる
里見義冬が常陸水戸藩士となっています。

昭和前期の実業家及び社会教育家である
里見純吉(大丸第2代社長、千葉県出身)も、
安房里見氏の一族であるとのことです。
その祖は江戸期に
遠江掛川藩(太田氏)に仕えていましたが、
明治維新期の藩主転封(上総国松尾藩)
によって房総に戻ったということです。

【南総里見八犬伝
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、
安房里見氏の初期の時期を
設定年代としています。
曲亭馬琴の構想は、
結城合戦に敗れ安房に落ちのびて
子の義成(成義)とともに10世代に及ぶ
房総二国の支配の基礎を打ち立てた
里見義実を歴史から取り上げ「仁君」とし、
その仁政の根拠を八犬士という虚構に
裏づけようとしたものと捉えることができます。

南総里見八犬伝よりイベント

【八犬士のモデル】
安房里見氏最後の当主である里見忠義が没すると
8人の家臣が殉死を遂げました。
その遺骨を分骨し、供養したものと伝わる墓が
館山・城山公園の南側にあります。
この殉死した8人の家臣が
南総里見八犬伝の八犬士のモデルになったとも
言われています。

安房里見氏 八遺臣の墓(館山・城山公園)

城山公園の南端にあるので結構歩きます。
裏口からの方が歩きやすいです。

稲村城 (安房国)~天文の内訌の舞台の城、古代以来安房国内で 最も生産性の高い地域。

岡本城(安房国)~里見氏城跡として国の史跡に指定、里見水軍の拠点として改修されています。

安房勝山城~里見水軍の本拠地の海城、安房に逃れた源頼朝を迎え入れた安西氏の出城との伝承有り。

三舟山(三船山)古戦場~北条氏政VS里見義弘の激闘の結果、里見氏の勝利で勢力挽回の契機 

金谷城~上総と安房の国境の城、天文の内訌で謀殺された里見実堯が在城していたと云われています。

佐貫城~室町中期から幕末まで 城主が替わりながら存続、経済交通の重要地でもありました。

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

鹿野岡城~鴨川富士に築かれ、近年になって城址と判明された城跡で登山道整備。

勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。

館山城と八遺臣の墓~安房里見氏最後の城であり、南総里見八犬伝のモデルとなった8人の家臣が眠っています。

造海城~真里谷氏が築城、里見水軍の拠点として活用、灯籠坂大師の切通しトンネルは必見です。

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

御坂城(甲斐)~標高1500mの峠に小田原北条氏が築城、徳川方の鳥居元忠らが黒駒合戦で勝利しました。

葛西城~葛西氏が築城し、遠山綱景へ~鎌倉時代から下総国への拠点の城

浦賀城~東叶神社境内、安房里見軍に備えて小田原北条氏が水軍を配置、浦賀水道から房総半島が一望できる。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父、鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住しました。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

野島崎・伝説の岩屋~安房に逃れた源頼朝が武運再興の願掛けをした「隠れ岩屋」です。

大福寺(崖観音)~千葉県最古の摩崖仏、漁師の安全と豊漁を祈願して奈良時代に彫刻と伝わります。

赤山地下壕(館山海軍航空隊赤山地下壕跡)、太平洋戦争末期に造られたとされる戦争遺跡

野島崎~房総半島最南端の地・ダイナミックな波の響きと風光明媚な景勝地です。

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