城跡

御坂城(甲斐)~標高1500mの峠に小田原北条氏が築城、徳川方の鳥居元忠らが黒駒合戦で勝利しました。

御坂城(甲斐国)



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御坂城

御坂城(みさかじょう)は甲斐国、
現在の山梨県笛吹市と
南都留郡富士河口湖町の境に所在する
日本の城跡です。
笛吹市側は市指定史跡に、
富士河口湖町側は町指定史跡に、
それぞれ指定されています。

武田氏滅亡及び本能寺の変の後、
甲斐国をめぐって戦った
徳川家康北条氏直
新府と若神子で対峙した際、
膠着状態を打破しようと
北条氏が送り込んだ
北条氏忠率いる一万の兵が
徳川の背後を窺って御坂峠に布陣しました。
峠を丸ごと要塞化したのが
御坂城であるとのことです。
標高1500mの峠に
万の人数が布陣するという
稀有な状況の中での築城でした。
尾根と並行する長大な堀や、
長々と続く加工された尾根など、
他ではなかなか拝めない景色が
あるとのことです。
よって城跡としての整備は
まったく行われていないとのことです。

【城郭構造】
山城

【廃城年】
天正10年(1582年)

【遺構】
土塁、堀

【指定文化財】
富士河口湖町指定史跡
笛吹市指定史跡

【標高(比高)】
1570m(680m)

【築城主】
小田原北条氏

【築城年】
天正10年(1582年)

【廃城年】
天正10年(1582年)

【主な城主】
小田原北条氏

【遺構】
土塁、空堀、竪堀

【概要】
武田氏滅亡後、小田原北条氏によって
築かれたとのことですが、
それれ以前も武田氏の狼煙台が
あったという話があるとのことです。
織田信長が「本能寺の変」で倒れ、
いわゆる「天正壬午の乱」が起こると
小田原北条氏は小山田氏の本領であった
郡内地方を制圧し、
甲斐侵攻の前線として城を築きました。
武田氏時代に築かれたという
狼煙台か砦を利用したと考えられており、
北条氏忠が修築し守備につきました。
一方の徳川家康小山城に陣を構え、
鳥居元忠を配しました。
両者はほぼ中間地点で合戦(黒駒合戦)となり、
北条氏は敗れました。
その後、北条・徳川間で和睦が成立すると、
甲斐は徳川家康の領地となり、
そのまま廃城となりました。
現在城址には土塁や空堀などの
遺構が残っているとのことです。
実際に登城された方の体験談では
南を向いた武田の丸馬出&三日月堀、
北を向いた北条の角馬出が
埋もれながらも確かに存在していた、
ということです。




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天正壬午の乱にて】
天正10年(1582年)3月、
織田・徳川連合軍による
甲州征伐によって武田氏は滅亡しました。
同年6月、織田信長が
本能寺の変に倒れると、
相模国の北条氏直
三河国の徳川家康らが
甲斐・信濃を巡り争います。
甲斐では七里岩一帯において
北条・徳川両氏が対峙し、
御坂城は都留郡を制圧した
北条軍の前線の城となりました。
御坂城には北条一族の北条氏忠が修築し、
その守備についたとのことです。
北条・徳川間で和睦が成立すると
北条氏は撤兵し、
甲斐国は徳川家康のものとなり、
城もそのまま廃城となったと
見られています。

城地の所在場所は長らく不明でした。
昭和43年(1968年)に
御坂城の古地図が発見され、
調査の結果遺構も
発見されたとのことです。

【登城】
天下茶屋から登城できるとのことです。
旧御坂トンネル脇に登城口(登山口)
があるとのことです。
健脚の方で休みながらも1時間20分程度。
見学は45分~1時間程度。
戻りは1時間強とのこと。
女性の足だと往復4時間との情報もあります。
目指すところは御坂峠とのことですが、
時間と体力を要するため、
標高の高さを含めた
万全の準備が必要とのことです。
尾根道に出てからも
アップダウンが多く距離もあるとのことです。
案内表示は尾根道に出た所と
御坂山山頂にあるとのことです。
道中富士山が良く見える所があるそうです。
鎌倉往還道の峠を封鎖する様に
城域が展開しているとのことです。
更に御坂山方向と黒岳方向に
それぞれ城域は伸び、
峠を見下ろせる城郭になっているとのこと。
御坂城(甲斐国)

【交通アクセス】
(車)
中央自動車道「河口湖」ICから約35分
中央自動車道「一宮御坂」ICから約40分
東富士五湖道路「富士吉田」ICから35分




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【駐車場】
御坂トンネル南側の
天下茶屋付近に
駐車スペースがあるとのこと。

【御坂峠「天下茶屋」】
創業は昭和9年です。
ここから南に富士山と
河口湖を一望できることから、
古くから富士見三景の一つとして
数えられています。
太宰治の逗留にちなみ、
2階に太宰治文学記念室を併設しています。

<所在地>
〒401-0304 山梨県南都留郡富士河口湖町河口2739
<TEL / FAX>
0555-76-6659

<営業時間>
午前10時~午後5時

<休業日>
冬季は休業になることがあるそうです。

【御坂城・トイレ】
廃墟の建屋であり、
扉もなく使用できないとのこと。

【御坂城所在地】
〒401-0304 山梨県南都留郡笛吹市

【天正壬午の乱】

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)、
壬午の乱、壬午の役は、
天正壬午年(天正10年・1582年)中に
山梨県(甲斐国)など武田氏の
旧領だった織田氏の領地で起きた
一連の争乱です。

若御子対陣
若御子対陣(わかみこたいじん)は、
天正10年(1582年)6月の
本能寺の変の後、同年7月下旬から
10月下旬まで続いた、
甲斐国の若神子・新府における徳川家康と
北条氏直の対陣に象徴される、
織田信長の遺領を巡る両氏の抗争です。
10巻本「北条記」や「北条盛衰記」などの
近世の軍記で「若御子対陣」と呼ばれています。
徳川氏創業史の諸軍記では
「家康公の甲州発向」のような言い方が
多いとのことですが、
「参陽実録」に「若御子対陣」の呼称が
用いられているとのことです。

1980年に田代孝氏が
若御子対陣のことを特定して
天正壬午の戦いと呼んで以来、
若神子対陣を「天正壬午の乱」
と呼ぶ例が多くなっているとのことです。

【徳川家康の甲州発向】
本能寺の変が発生した
天正10年6月2日、
堺に滞在していた徳川家康は、
畿内を脱出(伊賀越え)して
同月4日に三河の岡崎城に帰還します。

同月5日に、徳川家康は
遠江国桐山に潜伏させていた
甲斐国武川衆の折井次昌、米倉忠継に
甲斐の武士を徳川方に帰属させる
工作を進めるように
下知したとのことです。
同月6日に、駿河衆・岡部正綱
書状を送り、畿内脱出の途中で
死去した穴山梅雪の本拠である
甲斐河内領の下山館(身延町下山)における
城普請を命じ、富士川・駿州往還(河内路)沿いに
菅沼城(身延町寺沢)が築城されました。

同月10日頃、徳川家康は、
織田氏の家臣として甲斐一国と
信濃諏訪郡を統治していた
河尻秀隆のもとへ家臣の
本多信俊(百助)を派遣し、
河尻に協力の要請を行います。
(「当代記」)




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依田信蕃の動き】
また伊賀越えの最中に、
徳川領国に潜行していた
信濃佐久郡の国衆・依田信蕃に、
武田遺臣の調略と
信濃の本領回復を指示した書状を送り、
佐久郡へ向かわせます。
(「当代記」)、
依田信蕃は6月12日に
中道往還の迦葉坂(甲府市)で
自身の「鐘ノ旗」を掲げて、
武田遺臣の結集を呼び掛けると、
その数3000人に達し、
本領の春日城に入ったとのことです。

【岡部正綱の動き】
岡部正綱は6月12日から
同月23日にかけて、
曽根昌世と連署で甲斐衆に
知行安堵状を発給し、
その後、徳川家康家臣である
大須賀康高が参加し、
やがて大須賀康高が
知行安堵状の発給を独占しました。

河尻秀隆が本多信俊を殺害】
6月14日に岩窪館において
河尻秀隆は本多信俊を殺害しました。
(「三河物語」)
「武徳編年集成」では、
河尻秀隆は本多信俊に不審感を抱き、
徳川家康が一揆を扇動し、
甲斐を簒奪する意図があったと疑い、
本多信俊を殺害したとのことです。

【河尻秀隆、殺害される】
翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こし、
河尻秀隆は脱出を図りましたが、
18日に一揆勢、または
甲斐の土豪らに殺害されたとのことです。

【北条氏の進軍】
6月11日に織田信長の横死を確信した
北条氏政は、6月12日に
軍事動員をかけたとのことです。
6月中旬に、秩父往還(雁坂口)を
守備していた浄居寺城
中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)の
大村忠堯(三右衛門尉)・大村忠友(伊賀守)に
率いられた山梨郡倉科(山梨市牧丘町倉科)の
土豪である大村党が、
大野砦(山梨市大野)に籠城して、
小田原北条氏方に帰属しました。
(「甲斐国志」)
中牧城(浄古寺城) 北西側の堀

【御坂城の築城と結集】
小田原北条氏は、御坂城を築きます。
小田原北条氏は6月13日までには、
甲斐国都留郡岩殿城を奪取し、
6月15日に、北条領内に亡命していた
都留郡の土豪渡辺庄左衛門尉を
本領に帰還させ、味方の結集を指示してました。
6月18日に河尻秀隆が一揆の蜂起により敗死し、
甲斐国内は内乱状態へと陥りました。
中でも特に小田原北条氏に味方した一揆は、
大村党と大井氏らの「東郡一揆」と、
渡辺庄左衛門尉らの「郡内一揆」
であったとのことです。
御坂城(甲斐国)

【徳川方は穴山衆
そこで徳川方は甲斐で唯一
大きな軍事力を保持していた
穴山衆を出陣させた結果、
東郡一揆は壊滅、郡内一揆も勢力を失いました。
が、依然として甲斐が徳川方に帰属するか、
それとも小田原北条方が制圧するかは
予断を許さなかった状態であったとのことです。
そのため徳川家康は、6月28日に大久保忠世
石川康道、本多広孝・康重父子を増援として
甲斐に派遣し、甲斐・信濃の土豪や
国衆を味方につけようと図ったとされています。




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真田昌幸の動き】
北条軍の上野侵攻とほぼ時を同じくして、
信濃の真田昌幸が独自に吾妻郡や
沼田城の回復に積極的に動き始めていました。
沼田城は滝川一益の決断で、
武田氏滅亡時に城を保持していた
真田昌幸に引き渡すことが確定され、
6月13日、真田が軍勢を率いて
沼田城を受け取ったとのことです。
(「里見吉政戦功覚書」)

【北条氏直の動き】
北条氏直は6月19日の
神流川の戦いで滝川一益を撃破し、
まず上野国の制圧に取り掛かかります。
6月下旬までには、沼田の手前を
北限に西部は信越国境まで、
東部は従属していない
厩橋城の北條芳林を除く
地域までの、
上野国の主要な国衆を押さえ、
信濃への侵攻を急いだのでした。
7月14日、北条氏直軍は、
上杉景勝軍と
川中島の千曲川で対峙します。
7月29日に北条氏直は、
上杉軍と徳川軍の挟撃だけは
避けたいと考えます。
上杉方の思惑も合致して、
北条と上杉の間で停戦合意となります。

【黒駒合戦に向けて】
上杉景勝との講和がなったことで、
小田原北条氏は徳川に戦力を
向けることができるようになり、
約4万の主力軍は南へ転進をはかります。
さらに、北条氏忠・北条氏勝ら1万を
甲斐・御坂峠に張り付かせ、
また北条氏邦にも
秩父から甲斐を窺う体勢をとらせ、
徳川1万を三方向から半包囲する形で
信濃・甲斐への侵攻を始めます。
なお、御坂峠の北条1万には
未だ房相一和が完全には
破綻していなかった安房の里見義頼
援軍を出していました。

酒井忠次の撤退】
8月1日、諏訪・高島城を攻城していた
酒井忠次ら3千は
小田原北条の大軍が来るとの報に
甲斐に向けて後退します。
小田原北条主力軍4万3千は、
佐久経由で酒井軍を追撃しますが、
徳川勢は甲斐・新府城への撤退に
成功したのでした。




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【北条氏直、若神子城に着陣】
これを追う小田原北条勢も甲斐に入り
若神子城(北杜市須玉町若神子)に着陣し、
8月6日には徳川勢と対峙。
徳川家康は本陣を甲府城下の
尊躰寺(甲府市城東一丁目)におきましたが
後に旧一条信龍屋敷(甲府市北新一丁目)に移転し、
さらに8月8日には
新府城(韮崎市中田町中條)へ移転しました。
10日に徳川家康は南の府中の留守を
鳥居元忠ら2千に任せ新府城に陣を移し、
徳川方は8千となりました。

【黒駒合戦】
8月12日、北条氏忠・氏勝勢1万が
徳川家康の背後を襲うべく
甲斐東部の郡内地方へ進撃。
これに対し、鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2千が
黒駒付近(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で
果敢に応戦し、小田原北条勢を
討ち取って撃退したのでした。

なお、小田原北条軍の敗戦の理由として
北条氏忠軍の油断ともいえる行動だったと
指摘があるとのことです。
徳川軍は甲府、小山城、大野砦らからかき集めても
1500~2000人ほどであったとされています。
そのため北条氏忠軍は徳川方を手薄であると
判断したのか御坂峠を下ると間もなく
兵を分散させて、放火と略奪行為に
熱中し始めたとされています。
しかしながら、徳川軍の鳥居元忠、
内藤信成、水野勝成、高力正長らは
小勢ながら果敢にも迎撃に出たとのことです。
その結果、分散して放火と略奪行為に
熱中していた北条軍は徳川軍に各個撃破され、
各地で大混乱に陥り崩れていったとのことです。
更に鳥居元忠は上黒駒に回り込み
敗走する北条軍の退路を遮断し、
これにより上黒駒から下方にいた北条軍は
包囲されてしまったとのことです。
徳川軍も負傷者が続出したとのことですが、
北条軍も支えきれずに
総崩れとなったとのことです。

【信濃諸将の北条離れ】
依然、北条と徳川の兵力差は
圧倒的なものでしたが、
この黒駒合戦で小田原北条方が
敗北したことにより
信濃諸将の北条離れが
進んでいくことになるのでした。
8月22日に木曾が家康側に寝返ります。
さらに9月に入ると真田が依田信蕃に加勢。
徳川家康は依田と真田に曽根昌世らをつけて
戦力を強化し、ゲリラ戦によって
信濃・上野間の兵站を乱すように仕向けます。

【次第に追いつめられる北条勢】
8月下旬に北条方の
大豆生田(まみょうだ)砦の陥落。
9月上旬、北条氏直軍の
後方の要所に当たる
江草小屋(砦)らが
徳川軍により陥落。
この砦は若神子城から
信濃国佐久郡を結ぶ穂坂路(小尾街道)上の
拠点であったとのことです。
9月25日、三島合戦にて
激戦の上に北条軍の撃退に成功。
9月27日、小尾小屋(砦)が徳川軍により陥落。
10月中旬頃までに真田昌幸が
北条氏直に「手切れ」を通告して
徳川軍の支援の為の軍事行動を開始。




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【和睦の成立】
10月になって織田体制の
織田信雄織田信孝双方から和睦の勧告があり、
10月29日、織田信雄を仲介役として
小田原北条と徳川家康の間で
講和が締結されました。
講和の条件は以下のとおりでした。

氏直に家康の娘督姫を娶らせる
甲斐・信濃は家康に、
上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、
相互に干渉しない

【和睦後の動向】
和議成立後、甲斐では河内領は
穴山勝千代に安堵され、
かつて小山田氏の支配地域だった
郡内領には鳥居元忠が配置されました。
甲斐中央部の国中領は
躑躅ヶ崎館を本拠とし、
平岩親吉と岡部正綱
(天正11年の岡部没後は平岩単独)が
派遣されて支配を行いました。

天正10年10月の和議の後も、
信濃国では徳川氏と
在地勢力の間で抗争が続いたとのことです。

依田信蕃は小田原北条方の
大道寺政繁が撤退した後の
小諸城も任され、周辺の勢力が
続々と依田信蕃の下に集ってきましたが、
これを良しとしない勢力は、
小田原北条方の信濃佐久郡
岩尾城主の大井氏の下に集まったとのことです。
その後、依田信蕃は大井行吉が守る
岩尾城攻めで落命したとされており、
大井氏は岩尾城を開城したとのことです。

【上野・沼田領の動き】
上野・沼田領の帰属問題では、
真田氏上杉氏と結んで徳川氏と対立します。
信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配し、
上田合戦に発展していきます。
上杉氏は北部4郡の支配を維持、
徳川氏は上杉領・真田領を除く
信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得しました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

鳥居元忠~竹千代時代からの側近で伏見城にて玉砕、その最期は血染め畳と血天井として後世に伝えられています。

督姫~徳川家康の次女、和睦の為に北条氏直に嫁ぎ、その後は池田輝政と再婚して5男2女を授かりました。

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

白浜城 (安房国)~安房里見氏の始まりの城、里見義実が拠点としました。

木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。

織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。

武田信春公館~甲斐源氏第12代及び武田氏9代当主であった武田信春の居館跡です。

栗原氏館跡(甲斐国)~甲斐守護・武田信成の子である武続が始祖となる栗原氏の館跡です。

恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。

旧高野家住宅 甘草屋敷~国の重要文化財に指定された民家建築で江戸幕府御用の甘草の栽培と管理を担ってきました。

甲斐・琵琶城~武田氏第13代当主武田信満の庶子である倉科信広が築城したとのことです。

中牧城(浄古寺城)~武田信玄時代に築城、後に徳川家康家臣が城代、遺構規模が多い城跡。

小田野城(小田野山城)(甲斐国)~甲斐源氏である安田義定が築城したと伝わる山梨県内最古の部類の山城。

穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。

刈谷城~元は「刈屋城」、水野忠政が築城、信元が後を継ぎ於大の方はこの城から岡崎に嫁いでいます。

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