鎌倉殿の13人

木曾義仲(源義仲)河内源氏で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化に疎かった。

鎌形八幡宮




木曾義仲源義仲)】

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、
平安時代末期の信濃源氏の武将。
河内源氏の一族、源義賢の次男です。
源頼朝・範頼・阿野全成源義経兄弟とは
従兄弟にあたります。
木曾義仲(きそ よしなか)の名でも知られています。
「平家物語」においては
朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。

以仁王の令旨によって挙兵します。
都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、
倶利伽羅峠の戦いで
平氏の大軍を破って入京します。
連年の飢饉と荒廃した
都の治安回復を期待されていましたが、
治安の回復の遅れと
大軍が都に居座ったことによる
食糧事情の悪化、
皇位継承への介入などにより
後白河法皇と不和となります。
法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して
征東大将軍となりましたが、
源頼朝が送った源範頼及び源義経の軍勢により、
粟津の戦いで討たれました。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
久寿元年(1154年)
【死没】
寿永3年1月20日(1184年3月4日)
享年31歳

【改名】
駒王丸、義仲

【別名】
木曾義仲、木曾次郎、
木曾冠者、朝日将軍(旭将軍)

【戒名】
徳音院義山宣公

【墓所】
滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺
京都市東山区法観寺(首塚)
長野県木曽郡 徳音寺

【官位】
従四位下、左馬頭、越後守、伊予守
征東大将軍

【氏族】
清和源氏為義流(河内源氏)

【父】
源義賢

【母】
小枝御前

【養父】
中原兼遠

【兄弟】
仲家、義仲、宮菊姫

【妻】
正室:女(信濃の妻)?、
藤原伊子?、山吹御前
妾:巴御前

【子】
義高、義重、義基、義宗

【生い立ち】
河内源氏の一門で
東宮帯刀先生を務めた源義賢の
次男として生まれました。
幼名は駒王丸です。
源義賢は武蔵国の最大勢力である
秩父重隆と結んでその娘を娶りますが、
木曾義仲の生母は遊女と伝えられています。
木曾義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、
出生地は源義賢が館を構えた
武蔵国の大蔵館
(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられています。

生誕地 鎌形八幡宮

現在は生誕地には鎌形八幡宮が建ち、
木曾義仲の産湯を汲んだとされる
清水が残されています。

<鎌形八幡宮・産湯の清水>
鎌形八幡宮・産湯の清水

なお、源義賢が関東に下り
最初に居住した
上野国多胡郡(現・群馬県多野郡)
の可能性もあるとのことです。

【父が源頼朝の兄に討たれる】
「平家物語」や「源平盛衰記」によりますと、
父親である源義賢は
その兄(義仲にとって伯父)である
源義朝との対立により
大蔵合戦で源義朝の長男(義仲にとって従兄)である
源義平に討たれました。

<源義賢公の墓所>
源義賢公の墓所

当時2歳の駒王丸は源義平によって
殺害の命が出されますが、
畠山重能・斎藤実盛らの計らいで
信濃国へ逃れたということです。
「吾妻鏡」によりますと、
駒王丸は乳父である
中原兼遠の腕に抱かれて
信濃国木曽谷
(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、
中原兼遠の庇護下に育ち、
通称を木曾次郎と名乗ったとのことです。
異母兄の源仲家は源義賢の死後、
京都で源頼政の養子となっています。

【木曾義仲が匿われていた場所】
「源平盛衰記」では、
「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。
義仲ここに居住す」と記されており、
現在の木曽は当時美濃の国であったことから、
源義仲が匿われていたのは、
今の東筑摩郡朝日村
(朝日村木曽部桂入周辺)
という説もあるそうです。
諏訪大社に伝わる伝承では一時期、
下社の宮司である
金刺盛澄に預けられて
修行したといわれています。
そうしたつながりであるかは
定かではありませんが、
後に手塚光盛などの
金刺一族が挙兵当初から
中原一族と並ぶ
木曾義仲の腹心となっています。

【兄の源仲家の死】
治承4年(1180年)、以仁王が
全国に平氏打倒を命じる令旨を発します。
叔父である源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけます。
八条院蔵人となっていた
兄の源仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、
源頼政と共に宇治で討死しています。

【戦いに連勝】
木曽義仲は小見「麻績」の戦い、
合田の戦いに勝利します。
同年9月7日、木曾義仲は兵を率いて
北信の源氏方救援に向かいます。
(市原合戦)
そのまま父の旧領である
多胡郡のある上野国へと向かいます。





【木曾義仲の挙兵】
2ヵ月後に信濃国に戻り、
小県郡依田城にて挙兵したのでした。
上野から信濃に戻ったのは、
源頼朝あるいは
藤姓足利氏と衝突することを
避けるためと言われています。

【北陸に勢力を広めていく】
翌年の治承5年(1181年)6月、
小県郡の白鳥河原に
木曾衆・佐久衆・上州衆など
3千騎を集結させます。
越後国から攻め込んできた城助職を
横田河原の戦いで破り、
そのまま越後から北陸道へと進みました。
寿永元年(1182年)、
北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、
以仁王挙兵を継承する立場を明示します。
また、源頼朝と結んで南信濃に進出した
武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために
源頼朝及び武田信光の勢力が
浸透していない北陸に勢力を広めていくのでした。

【嫡男の源義高(木曽義孝高)を鎌倉へ】
寿永2年(1183年)2月、
源頼朝と敵対し敗れた志田義広と、
源頼朝から追い払われた
源行家が木曾義仲を頼って身を寄せます。
この2人の叔父を庇護した事で
源頼朝と木曾義仲の関係は悪化しますす。
また「平家物語」や「源平盛衰記」では、
武田信光が娘を木曾義仲の嫡男である
源義高(木曽義高)に嫁がせようとして
断られた腹いせに、
木曾義仲が平氏と手を結んで
源頼朝を討とうとしていると
讒言したといい説があります。
両者の武力衝突寸前に和議が成立し、
3月に義高を人質として
鎌倉に送る事で
源頼朝との対立は一応の決着がついたのでした。

木曽清水冠者義高公の墓

【平家の進撃】
平維盛を大将に平家は
十万の大軍を率いて北陸へ進みます。
越前火打城の戦い 「燧ヶ城」、
「三条野の戦い」で勝利した平氏は,
加賀「安宅の関」と
連戦連勝で破竹の進撃を続けます。
木曾勢の築いた城を攻め、
越前・加賀・越中の木曽軍の城(砦)を
攻略し越前、加賀の国も支配し残るは
越中のみとなりました。

【般若野の戦い】
こうした中、木曽義仲の四天王の1人である
今井兼平は6千の先遣隊を
平家・平盛俊の先遣隊が陣を張る
般若野を奇襲します。
この奇襲が功を奏して
平家軍が倶利伽羅峠の西に戻る事になりました。

【木曾義仲軍の連戦連勝】
5月11日、
越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで
10万とも言われる平維盛率いる
平氏の北陸追討軍を破り、
続く篠原の戦いにも勝利して
勝ちに乗った木曾義仲軍は
沿道の武士たちを糾合し、
破竹の勢いで京都を目指して進軍します。

延暦寺での交渉】
6月10日には越前国、
13日には近江国へ入り、
6月末に都への最後の関門である
延暦寺との交渉を始めたのでした。
右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は
「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、
もし悪徒平氏に助力するのであれば
我々は大衆と合戦する事になる。
もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」
という恫喝めいたものだったのでした。

延暦寺

【木曾義仲ら一部の源氏の不穏な動き】
7月22日に木曾義仲が東塔惣持院に
城郭を構えたことが明らかとなりました。
また、源行家が伊賀方面から進攻し、
安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、
摂津国の多田行綱も
不穏な動きを見せるようになります。
25日、都の防衛を断念した平家は
安徳天皇とその異母弟である守貞親王
(皇太子に擬された)
を擁して西国へ逃れていきます。
なお平家は後白河法皇も伴うつもりでしたが、
危機を察した後白河法皇は
比叡山に登って身を隠し、
都落ちをやりすごしたとのことです。

【木曾義仲の入京と守護】
7月27日、
後白河法皇は木曾義仲に同心した
山本義経の子である
錦部冠者義高に守護されて都に戻ります。
木曾義仲は翌日28日に入京し、
源行家と共に蓮華王院に参上し、
平家追討を命じられます。
2人は相並んで前後せず、
序列を争っていたとのことです。
30日に開かれた公卿議定において、
勲功の第一が源頼朝、
第二が木曾義仲、
第三が源行家という順位が確認され、
それぞれに位階と任国が
与えられることになりました。
同時に京中の狼藉の取り締まりが
木曾義仲に委ねられることになりました。
木曾義仲は入京した同盟軍の武将を
周辺に配置して、
自らは中心地である
九重(左京)の守護を担当したとのことです。

【源行家の不満】
8月10日に勧賞の除目が行われました。
木曾義仲は従五位下・左馬頭・越後守、
源行家は従五位下・備後守に任ぜられました。
16日、木曾義仲は伊予守、
源行家は備前守に変わりました。
「平家物語」では、ここで木曾義仲が
朝日の将軍という称号を得て、
木曾義仲と源行家が任国を嫌ったので
木曾義仲が源氏総領家に
ゆかりのある伊予守に、
源行家が備前守に変わったしていますが、
木曾義仲と差があるとして
不満を示したのは源行家のみで、
木曾義仲が忌避した記録は見られないとのことです。





【皇位継承問題への介入】
後白河法皇は天皇の神器の返還を
平家に求めましたが、
交渉は不調に終わりました。
やむを得ず、都に残っている
高倉上皇の二人の皇子のうち
三之宮(惟明親王)もしくは
四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)の
いずれかを擁立することに決めます。
ところがこの際に木曾義仲が、
今度の大功は自らが推戴してきた
北陸宮の力であり、
また平家の悪政がなければ
以仁王が即位していたはずなのだから
以仁王の系統こそが正統な皇統として、
北陸宮を即位させるよう
比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てたのでした。

【朝廷の反感を買ってしまった木曾義仲】
しかし天皇の皇子が二人もいるのに、
それを無視して王の子にすぎない
北陸宮を即位させるという
皇統を無視した提案を
朝廷側が受け入れるはずはありませんでした。
摂政・九条兼実が
「王者の沙汰に至りては、
人臣の最にあらず」と言うように、
武士などの
「皇族・貴族にあらざる人」
が皇位継承問題に
介入してくること自体が、
皇族や貴族にとって不快であったのでした。
朝廷では木曾義仲を制するための御占が
数度行なわれた末、
8月20日に四之宮が皇位を継承しました。
兄であるはずの三之宮が
退けられたのは、
後白河法皇の寵妃である
丹後局(高階栄子)の夢想が
大きく作用したということです。

【「粗野な人物」としての烙印】
いずれにしても北陸宮推挙の一件は、
伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、
宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない
「粗野な人物」として疎まれてしまいました。
山村に育った木曾義仲は、
半ば貴族化した平家一門や
幼少期を京都で過ごした
源頼朝とは異なり、
貴族たちの世界に触れる機会が
存在しなかったのでした。

【治安回復の遅れ】
また木曾義仲は京都の
治安回復にも期日を要しました。
養和の飢饉で食糧事情が
極端に悪化していた京都に、
遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、
遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行します。
9月になると治安は悪化の一途を辿ります。
京中守護軍は木曾義仲の部下ではなく、
源行家や安田義定、
近江源氏・美濃源氏・摂津源氏
などの混成軍であり、
木曾義仲が全体の統制など
出来る状態ではなかったとのことです。

後白河法皇は19日に木曾義仲を呼び出します。
「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」
と責めたとあります。
立場の悪化を自覚した木曾義仲は
すぐに平家追討に向かうことを奏上し、
後白河法皇は自ら剣を与え出陣させました。
木曾義仲は、失った信用の回復や
兵糧の確保のために、
戦果を挙げなければなりませんでした。
木曾義仲は腹心の樋口兼光を
京都に残して播磨国へ下向した。

【後白河法皇への抗議】
木曾義仲の出陣と入れ替わるように、
朝廷に源頼朝の申状が届きます。
内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」
「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」
「降伏者は斬罪にしない」と言うものでした。
「一々の申状、義仲等に斉しからず」と
朝廷を大いに喜ばせるものでした。
10月9日、後白河法皇は源頼朝を本位に復して赦免、
14日には寿永二年十月宣旨を下して、
東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えたのでした。

【源頼朝の弟の活躍が耳に入る】
木曾義仲は、西国で苦戦を続けていました。
閏10月1日の水島の戦いでは
平家軍に惨敗し、
有力武将の矢田義清・海野幸広を失いました。
戦線が膠着状態となる中で
木曾義仲の耳に飛び込んできたのは、
源頼朝の弟が大将軍となり
数万の兵を率いて上洛するという情報でした。

【後白河院に猛抗議する】
驚いた木曾義仲は平家との戦いを切り上げ、
15日に少数の軍勢で帰京しました。
20日、木曾義仲は、
源頼朝の上洛を促したこと、
源頼朝に宣旨を下したことを挙げ、
「生涯の遺恨」であると
後白河院に激烈な抗議をしたとのことです。
木曾義仲は、源頼朝追討の宣旨
ないし御教書の発給、
志田義広の平家追討使への起用を要求したのでした。

【瓦解状態の京中守護軍】
木曾義仲の敵はすでに平家ではなく
源頼朝に変わっていたのでした。
19日の源氏一族の会合では
法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、
26日には興福寺の衆徒に
源頼朝討伐の命が下されました。
けれどもし、前者は源行家、土岐光長の猛反対で潰れ、
後者も衆徒が承引しませんでした。
木曾義仲の指揮下にあった
京中守護軍は瓦解状態であり、
木曾義仲と源行家の不和も公然のものだったのです。
木曾義仲に従ったのは子飼いの部下を除くと、
結局、志田義広と近江源氏だけでした。
志田義広は木曾義仲滅亡後も抵抗を続けましたが、
元暦元年(1184年)5月4日に
鎌倉軍との戦闘で討ち取られました。
近江源氏の山本義経は
法住寺合戦後に若狭守に任じられますが、
その後の消息は不明となりました。





【法住寺殿の武装化】
11月4日、源義経の軍が
布和の関(不破の関)にまで達したことで、
木曾義仲は源頼朝の軍と
雌雄を決する覚悟を固めます。
一方、源頼朝軍入京間近の報に
力を得た後白河法皇は、
木曾義仲を京都から放逐するため、
木曾義仲軍と対抗できる
戦力の増強を図りはじめます。
木曾義仲は源義経の手勢が少数であれば
入京を認めると妥協案を示しましたが、
後白河法皇は延暦寺や園城寺の
協力をとりつけて
僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、
堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計りました。
さらに木曾義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを
味方に引き入れて、
数の上では木曾義仲軍を上回りました。

【木曾義仲への最後通告】
院側の武力の中心である源行家は、
重大な局面であったにもかかわらず
平家追討のため京を離れていましたが、
圧倒的優位に立ったと判断した法皇は
木曾義仲に対して最後通告を行いました。
その内容は
「ただちに平家追討のため西下せよ。
院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、
宣旨によらず義仲一身の資格で行え。
もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」
という、木曾義仲に弁解の余地を
与えない厳しいものだったとのことです。

【伝わらなかった木曾義仲の想い】
これに対して木曾義仲は
「背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば
戦わざるを得ないが、
入京しないのであれば西国に下向する」
と返答したとのことです。
九条兼実は
「義仲の申状は穏便なものであり、
院中の御用心は法に過ぎ、
王者の行いではない」
と木曽義仲を擁護しています。
木曾義仲の返答に法皇が
どう対応したのかは定かではありませんが、
18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、
天台座主・明雲が御所に入っており、
木曾義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われます。

【法住寺合戦】
11月19日、
追い詰められた木曾義仲は法住寺殿を襲撃します。
院側は土岐光長・光経父子が奮戦しましたが、
木曾義仲軍の決死の猛攻の前に大敗しました。
木曾義仲の兵士たちは、
御所から脱出しようとした
後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げたとのことです。
木曾義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉します。
この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死しました。
九条兼実は
「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」
と慨嘆しています。
木曾義仲は天台宗の最高の地位にある
僧の明雲の首を「そんな者が何だ」
と川に投げ捨てたということです。
20日、木曾義仲は五条河原に
土岐光長以下百余の首をさらしたとのことです。

【木曾義仲と藤原伊子の婚姻】
21日、木曾義仲は松殿基房(前関白)
と連携して
「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じ、
22日、松殿基房の子である松殿師家を
内大臣・摂政とする
傀儡政権を樹立しました。
「平家物語」は木曾義仲が
松殿基房の娘(藤原伊子とされる)
を強引に自分の妻にしたとのことですが、
実際には復権を目論む松殿基房が
木曾義仲と手を結び、
娘を嫁がせたと見られています。
最も、木曾義仲と松殿基房の娘の婚姻を語るのは
「平家物語」だけで、「玉葉」「愚管抄」には
記述がないため、
「平家物語」の創作とする見解もあるとのことです。

【木曾義仲、軍事の全権を掌握】
11月28日、新摂政となった
松殿師家が下文を出し、
前摂政であった近衛基通の家領八十余所を
木曾義仲に与えることが決まり、
中納言・藤原朝方以下43人が解官されました。
12月1日、木曾義仲は院御厩別当となり、
左馬頭を合わせて
軍事の全権を掌握しました。
10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、
形式的には官軍の体裁を整えたのでした。

【平家物語での美しい主従の絆】
平家物語には、
木曾義仲が幼い頃から
苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、
今井兼平との語らい等、
巴御前や今井兼平の
木曾義仲へのお互いの
苦しいいたわりの気持ち、
美しい主従の絆が書かれています。

【鎌倉軍、美濃国へ】
寿永3年(1184年)1月6日、
鎌倉軍が墨俣を越えて
美濃国へ入ったという噂を聞き、
木曾義仲は戦慄を感じたとのことです。
15日には自らを征東大将軍に任命させました。
平家との和睦工作や、
後白河法皇を伴っての
北国下向を模索しましたが、
源範頼及び源義経率いる鎌倉軍が
目前に迫り開戦を余儀なくされたのでした。

宇治川の戦い】
木曾義仲は京都の防備を固めましたが、
法皇幽閉にはじまる一連の行動により
既に人望を失っていた
木曾義仲に付き従う兵など無く、
宇治川や瀬田での戦いには惨敗したのでした。

唐橋 瀬田川

【木曾義仲の最期】
戦いに敗れた木曾義仲は
今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びましたが、
20日、粟津の戦いと称された
近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で
討ち死にしました。

その最期はまず巴御前を逃がします。
今井兼平が囮となりますが、
木曾義仲の馬が深田に足を取られて動けなくなり、
そこへ流れ矢が飛んできて当たってしまったとの事です。
享年は31歳でした。





【嫡男の木曾義高
木曾義仲が戦死したとき嫡男である木曾(源)義高は
源頼朝の娘である大姫の婿として
鎌倉にいましたが、逃亡を図って(逃亡を仕組まれた説有り)
討たれました。

【班渓寺】
班渓寺は、木曽義仲(源義仲)の妻であった
山吹御前によって創建されたと伝わります。
山吹御前は「平家物語」にもその名が記されており、
巴御前と共に木曾義仲(源義仲)軍に
従軍していましたが、体を壊して
京都に残ったという記事があります。
木曾義仲(源義高)の息子、
木曾義高(源義高)の母親ともされ、
非業の死を遂げた夫である木曾義仲と息子の
木曾義高の菩提を弔うために
寺を創建したとも言われています。

班渓寺 木曾義仲生誕地

寺には山吹御前のものとされる位牌や、
墓とされる五輪塔があります。
毎年3月には木曾義仲等を弔う
慰霊祭が行われています。

班渓寺 顕彰碑

またこのお寺のある一帯は
源義賢の下屋敷があった場所とされています。
この場所に、木曾義仲の母親である
小枝御前が住んでいたとされています。

班渓寺 説明板

【所在地】
〒355-0225 埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907

戦国大名の木曾氏】
木曾義仲の家系は絶えたとされていますが諸説あり、
戦国大名の木曾氏は木曾義仲の子孫を自称しています。

【容貌】
「源平盛衰記」では
「眉目形はきよげにて美男なりけれども、
堅固の田舎人にて、
あさましく頑なにおかしかりけり」
「色白う眉目は好い男にて有りけれども
立ち居振る舞いの無骨さ、
言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」
とのことです。
要は、容姿は整っておりイケメンではあるけれど
何せ田舎の武骨者で
立ち居振る舞いがダメダメ、ということです。
ま、原石で磨けばすごいんです。
俳人の松尾芭蕉や作家の芥川龍之介が
惚れこんだ人物でもあります。

【子孫】
【木曾義基(源義基)】
きそよしもと(みなもとのよしもと)。
木曾義仲の三男です。
母は巴御前とされています。
父親の木曾義仲の敗死後、
安曇郡の豪族仁科義重に臣従し、
曽山神明宮(長野県大町市八坂)に庇護され、
のちに木曽谷の領主に据えられました。

あるいは粟津の戦いで木曾義仲が戦死すると、
家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏、
町田・小野沢・萩原・串渕・宮川・諸田などに匿われ、
現在の群馬県渋川市北橘村箱田に
落ち延びたともされています。
木曾義仲の崇敬社である
岡田神社、沙田神社、阿禮神社の分霊を勧請し
木曾三社神社・木曾三柱神社を創建しました。
箱田に住居を構えたことが始まりとされています。
墓は群馬県渋川市北橘町箱田777番地の
木曾三柱神社境内に朝日塚古墳として残っています。

【葦原検校(木曾義長)】
(あしはら けんぎょう)
木曾義仲の子孫と称した
江戸幕府の奥医師です。
木曾氏の再興を目指した人物とのことです。
幼少時に失明して当道座に入り、
松代藩に仕えた後、
徳川御三家の信任を得て、
江戸幕府奥医師に取り立てられました。

<当道座(とうどうざ)>
中世から近世にかけて
日本に存在した男性盲人の自治的互助組織。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
青木 崇高(あおき むねたか)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。

善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。

山吹御前~木曾義仲(源義仲)の妻妾で木曾義高(源義高)の生母とも伝えられています。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

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