鎌倉殿の13人

山吹御前~木曾義仲(源義仲)の妻妾で木曾義高(源義高)の生母とも伝えられています。

班渓寺




山吹御前

山吹御前(やまぶきごぜん)は、
平安時代末期の女性です。

「平家物語」によりますと、
巴御前と共に信濃国から京へと
付き添ってきましたが、
木曾義仲(源義仲)の敗北の際には
病、もしくは妊娠の為に
動けなかったため同行できなかったということです。
山吹御前が登場するのは
軍記物語の「平家物語」のみであり、
当時の一次史料や
鎌倉幕府編纂書の「吾妻鏡」には、
その存在は確認されてはいません。
「平家物語」でも語り本系のみに登場し、
読み本系の「延慶本」や
「源平盛衰記」には登場しないとのことです。

【山吹御前の出自】
巴御前と同様に中原兼遠の一族とされ、
巴御前とは姉妹とのこともありました。
けれども金刺氏の持ち城に
山吹城という城がある点と
「諏訪大明神絵詞」に
「諏訪下社大祝である
金刺盛澄(弓馬の名手)が木曾義仲を婿にとり、
女の子が生まれた」と記述されている点から
金刺一族の出身であるとの
見解を示している方々もおられます。

なお、後述する班渓寺の説明板には
山吹姫は木曾育ちの娘、とあります。

【金刺氏(かなさしし)】
起源は、部民制における
名代の一つである
金刺部(かなさしべ)にあるとされています。
金刺部は欽明天皇の皇居であった
磯城嶋金刺宮に由来し、
その資用に充てられた
料地等の管理に従事した人々のことでした。
出自は二系統あります。
科野国造(多氏)の後裔が信濃国に、
珠流河国造(物部氏)の後裔が
駿河国に分布していたとのことです。

奈良時代から平安時代初期の
信濃の地方政治は
金刺部舎人氏や
他田部舎人氏の活動を中心に
繰り広げられたと見られています。
伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の
各郡の郡司を占めていました。
信濃の郡司を代表する人物に
伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいます。
貞観4年(862年)には
信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が
小県郡権少領他田舎人藤雄と共に
外従五位下に叙されたとのことです。
更に翌年には
右近衛将監金刺舎人貞長が
太朝臣への改姓が許され、
その弟の貞継は八色の姓で宿禰を賜与されました。
さらに翌年には長田(他田)直利世と
共に外従五位下に序され3年後には
三河の介に任ぜられています。
けれども、彼らの名は
その後諏訪大社、
特に下社神官として残り
政治の舞台からは遠のいていきます。

その後は金刺氏と称して
代々諏訪神社下社大祝をつとめていました。
鎌倉時代には弓馬の名手として
金刺盛澄などが活躍しました。
この金刺盛澄の婿として木曾義仲の
記述があるとの事です。

永正15年(1518年)に
上社大祝の諏訪頼満に攻められて滅亡しました。

【木曾義仲の正室(妻)】
木曾義仲(源義仲)の妻(正室)は
藤原伊子と山吹姫であると主張している説があります。
便女と記載されているのは
軍記物語である「平家物語」のみであり、
当時の一次史料や
鎌倉幕府編纂書の「吾妻鏡」には、
その存在は確認されてはいません。
「平家物語」は文学的脚色である
可能性が高く、
敗者であるが故に
便女と妻を取り違えて解釈しているのは
紛れもない冒涜・虐めであるとのことです。
正確には地方豪族や敗者の娘を妾とし、
同盟国の娘や皇別の娘を妻や正室との説です。





山吹御前の出自が「金刺氏」であるならば
巴御前よりも身分が高く、
それこそ「便女」は失礼を通り越して
作者は教養が足りない・・とされてしまいますものね。
また、巴御前よりも身分が高いことから
木曽義高の母説が出ているとも云われています。

【山吹御前に関する伝承】

【愛媛県】
愛媛県伊予市(旧双海町と旧中山町)
にかけての一帯に、
山吹御前に関する伝承があります。
木曾義仲(源義仲)が伊予守であったという事実から、
山吹御前が伊予国まで逃避行し、
双海町上灘の沿岸部に上陸し、
上灘川に沿って東方向に
移動する中で息を引き取り、
中山町佐礼谷の山中に
埋葬されたという内容です。
このルート上で、
伊予市立翠小学校付近の大栄口から
佐礼谷方面への上り坂は、
病に倒れた山吹の屍を
笹舟に乗せて引き上げたことから
「曳き坂」という名前が残っています。
山吹御前の墓とされる
五輪塔が残る集落は
山吹集落という名前であり、
山吹神社が鎮座しています。
佐礼谷には山吹集落の北側に
「源氏」という名前の集落もあります。
また、伊予市立翠小学校付近の集落では、
山吹御前が追手から見つかるのを防ぐため、
幟を揚げることを控えたとされ、
現在も住民は慣習として
鯉のぼりを揚げないそうです。
なお、同様の例は
平家の落人の里にも散見されています。

【滋賀県】
また、滋賀県大津市には、
京洛より木曾義仲(源義仲)を追って
逢坂山を越え近江へ入ったところ、
現在のJR大津駅の地にあった
秋岸寺で敵刃に倒れたとの伝承があります。
現在大津駅のそばに「山吹地蔵」の
小祠があるとのことです。





【班渓寺】

木曾義仲生誕地と伝わっています。
班渓寺がある辺りは、元々は
木曾義仲(源義仲)の父親である
源義賢の屋敷であったそうです。
木曾義仲の母親である小枝御前のために
下屋敷をこの場所に建築して
住まわせていたそうです。

実際にこの辺りに清水が
湧いているそうですが、
現在は立ち入ることができないそうです。

班渓寺 本堂

そして班渓寺を創建したのは
木曾育ちの山吹御前であるとのことです。
亡くなった夫である木曾義仲と
若くして殺されてしまった
我が子の木曽義高の
菩提を弔うために創建したと
寺の由来にあります。
また寺の梵鐘にその旨の文章が
刻まれているとの事です。
実際に「威徳院殿班渓妙虎大姉」と
書かれた山吹御前の位牌が
安置されているそうです。
また寺には山吹御前の墓と伝わる
小ぶりの五輪塔があります。

<山吹御前の墓>
山吹御前の墓(班渓寺)

<山吹御前の墓の目印の石碑>
石碑には當寺開基 威徳院殿斑渓妙虎大姉  
建久元(一一九〇)年十一月二十二日寂
と刻まれています。 
山吹御前の墓の目印

比較的新しいものですが
木曾義仲公の顕彰碑もあります。

<木曾義仲公の顕彰碑と鎮守堂>
木曾義仲公の顕彰碑と鎮守堂

<所在地>
〒355-0225 埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907

【山吹御前は正室だったのか?私的見解】
お寺を建立するだけの力があるのだから、
やはりそれなりの家柄の出であることは
間違いないと思います。
但し正室ではなかったのかなと見ます。
この時代の正室は業務がたくさんあり、
いうなれば家を仕切る事でした。
この時代の「家」は
よく現代の会社に例えられることが多く、
夫がCEOで正室がCOOであるとのことです。
ちなみにCOOとは「最高執行責任者」で
COOは企業トップである
CEOの下で働くナンバー2に位置付けられます。

しかも本家のみならず、
分家・側室たちの家・家来たちの家も
仕切りの対象となるとの事です。
夫が戦などで不在の時
家の事、所領地の事、
田畑や財産など
全ての管理を行わなければなりません。
夫婦そろって出かけているとなると
それこそ敵に攻められてしまいます。
共に戦場で戦うどころではありません。
その「戦場」も異なるとの事です。
本家・分家・側室たちの家・家臣の家、
全てを守り抜くことが
正室としての務め(戦い)だったのかもしれません。

ちなみに源頼朝の愛妾の家を
ぶっ壊したエピソードを
お持ちの北条政子さんも
それなりの役目を果たしておられました。
例えば討死した
木曾義仲の妹(娘とも伝わる)の宮菊には
今後の生活に困らないようにと一村を与えたり、
産んだばかりの赤子を殺された静御前
餞別を持たせたりとしていました。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。

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