鎌倉殿の13人

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

源(木曽)義高の墓 常楽寺



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【源義高】

源 義高(みなもと の よしたか)は、
平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。
清水冠者(志水冠者)と号していました。
なお、冠者とは元服して間もない若者のことです。
木曾義高とも称され源義仲の嫡男でした。
母は中原兼遠の娘です。
諱(実名)は文献によって異なり
「義高」は「吾妻鏡」の記述によるものです。
「尊卑分脈」では「義基」、
「平家物語」では「義重」となっています。
これは他の史料との整合性や
比較批評が必要となります。
説話的な題材や虚構も交えられていることもあります。

源(木曽)義高 石碑

【時代】
平安時代末期

【生誕】
承安3年(1173年)?

【死没】
元暦元年4月26日(1184年6月6日)

【別名】
木曾太郎、清水(志水)冠者、義重、義基

【墓所】
鎌倉市 常楽寺(木曽塚・首塚)

【氏族】
清和源氏為義流(河内源氏)

【父】
源義仲

【母】
中原兼遠の娘
山吹御前

【兄弟】
義高、義重、義基、義宗

【妻】
大姫

【経歴】
寿永2年(1183年)、
挙兵した父親の源義仲は以仁王の遺児である
北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、
同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せていました。
また源頼朝と対立していた
叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、
3月には源頼朝と源(木曾)義仲は武力衝突寸前となります。
源(木曾)義仲が11歳の嫡子である義高を
人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立しました。

大姫との出会いと父・義仲の死】
源義高は信濃の名族の子弟である
海野幸氏や望月重隆らを伴い、
源頼朝の長女である大姫の婿という名目で
鎌倉へ下りました。
なお、木曾義高と大姫は又従兄妹の関係になります。
同年7月、源(木曽)義仲は
平氏を破って入京します。
けれども木曾義仲は京を治めることに失敗し、
後白河法皇とも対立します。
源頼朝は都に源範頼源義経を代官とした
木曾義仲追討軍を派遣し、
寿永3年(1184年)1月、
木曾義仲は宇治川の戦いで
追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれたのでした。

【木曾義高の死】
父である木曾義仲が討たれたことにより、
人質として鎌倉にいた木曾義高の立場は悪化。
4月21日(6月1日)、
源頼朝が木曾義高を
誅殺しようとしていることを知った大姫は、
木曾義高を密かに逃がそうとしたのでした。
木曾義高と同年の側近で、
いつも双六の相手をしていた海野幸氏が
木曾義高に成り代わり、
木曾義高は女房姿に扮して
大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、
大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出します。
行先は生まれ故郷である
武蔵国男衾郡(現在の埼玉県比企郡嵐山町)の菅谷館、
鎌形館とするもの、
また奥州藤原氏を頼ろうとしたとの伝承もあります。
なお、菅谷館としては、
自分の父親を助けた畠山重能(畠山重忠の父)
の屋敷であったから、という説もあるとの事です。




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けれども夜になって事が露見し、
激怒した源頼朝は海野幸氏を捕らえ、
堀親家ら軍兵を派遣して
木曾義高を討ち取るよう命じました。
木曾義高は4月26日(6月6日)、
武蔵国で追手に捕らえられ、
入間河原で堀親家の郎党である
藤内光澄に討たれました。
享年は12歳です。

入間川

5月1日(6月10日)に
木曾義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、
謀反を企てているとして
信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われました。

【生い立ち】
木曾義高は木曾義仲の嫡男です。
源氏一族の木曾義仲も
源頼朝と同じく以仁王の令旨を奉じて
治承4年(1180年)に挙兵していました。
この時木曾義仲は27歳でした。
源頼朝と木曾義仲は従兄弟の関係になります。
源頼朝と木曾義仲は対立状態となった時に、
寿永二年(1183年)3月に
嫡男の義高を鎌倉に人質として送り和議をしました。
源頼朝は木曾義高と娘の大姫を婚約させました。
木曾義高11歳、大姫5歳の時でした。
けれども木曾義仲の没落で状況が一変し、
将来の禍根を絶つべく源頼朝は
木曾義高の殺害を決意したのでした。

北条政子と大姫は、
密かに木曾義高を逃がしましたが、
追っ手に捕らえられて討たれました。
未来の夫と成るべく人であった木曾義高が
よりによって自分の父である
源頼朝に殺されたと知った大姫は、
悲しみの余り病に伏せる身となり
父親の源頼朝の薦める縁談にも耳をかさず、
鬱々とした日々を過ごすばかりとなりました。

建久8年に大姫は20歳の若さで死去。

【木曾義高のお墓】
神奈川県鎌倉市大船にある
常楽寺に木曾義高の墓と
伝わる塚(木曽塚)があります。
訪れた時は、
小さな鯉のぼりが2本、
供えられていました。

木曽清水冠者義高公の墓

常楽寺側から入り、粟船山を登っても行けますが、
反対側の住宅地からも行けます。
急な階段を上ると公園になります。
大船むくどり公園

その公園内(広くはない)をフェンスに沿って
歩くと木曽義高の墓にたどり着きます。

大姫の墓とされている祠もあり、
二人は今は同じ敷地で眠っています。
なお、この祠は
3代執権の北条泰時の娘の墓ともされています。

伝大姫の墓(常楽寺)

また大姫を祀ってある岩船地蔵が
亀が谷切通しの近くにあります。
但し、このお堂は次女の乙姫(三幡
を祀ったお堂とも言われています。 

海野幸氏と望月重隆は
その後も源頼朝に仕えて
鎌倉幕府の御家人となっています。

【常楽寺】
<所在地>
〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29
<交通>
大船駅より徒歩15分、
もしくは江ノ電バス常楽寺バス停より徒歩5分。
車の場合は神奈川県道21横浜鎌倉線常楽寺交差点より
大船駅方面へ向かう市道に入り、
100メートルほど先を右折すると山門にあたります。

<常楽寺 入り口>
常楽寺 入り口

<常楽寺 山門>
常楽寺 山門 鎌倉市大船

【「大船」の地名の由来】
常楽寺がある丘陵は
「粟船山(ぞくせんざん)」と呼ばれていました。
大姫もしくは北条泰時の娘の墓と伝わる
姫宮墓所の隣には
「粟船稲荷」の祠があります。

<粟船稲荷>
常楽寺 粟船稲荷

この「粟船山(ぞくせんざん)」が変化して
「大船(おおふな)」になったと伝えられています。

常楽寺の山門には「粟船山」と書かれた
扁額がかかっています。

<山門の扁額>
常楽寺 山門 扁額 粟船山

【岩船地蔵堂】
<所在地>
神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目3−21
<交通アクセス>
JR「鎌倉」駅より徒歩15~20分




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【清水八幡宮】
木曾 義高が討たれたとされる地
(現在の埼玉県狭山市入間川)
に鎮座する神社です。
木曾義高を祭神としています。
義母であった北条政子は
木曾義高の供養を行うこととしました。
首を取られた木曾義高の遺体が
その最期を憐れんだ里人の手によって
討伐地の入間河原に葬られていたことを受け、
その年の5月、
その墓の上に義高を祀る社を建てたとのことです。
なお、これには畠山重忠らの
口添えもあったということです。

清水八幡宮

そしてこのお社は北条政子の
手厚い保護を受けることになり、
北条政子自身もここに参拝したとの伝が残っています。
当時は赤の玉垣をめぐらした
壮麗な社殿を持つ大社でしたが、
応永9年(1402年)8月の
大洪水の被害を受けて大破し、
その後は再建されることなく
現在の狭山市中央公民館付近にあった
成円寺(現在廃寺)の境内に移されていたとのことです。

清水八幡宮 社

その後、幕末になって
永享2年(1430年)の年号、
鎮座の由来と当社の来歴を刻んだ
石の祠が現在地より出土しました。
「新編武蔵風土記稿」によりますと、
ご神体は法体の木曾義高が
うちわを持って立っている像であるとのことです。

明治時代に入って廃仏毀釈により
神仏分離が行われた際、
既に元の社地が不明となっていたことから、
この祠の出土地をかつての
清水八幡宮の鎮座地として遷座。
件の祠を本殿とし、
その上から木造の覆殿をかけることとしたそうです。

清水八幡宮 本殿

現在、お社は国道16号線と
本富士見橋に向かう道が交わるそばに
たたずむ小社となっております。
境内には「清水冠者源義高終焉の地」
の標柱や説明板以外
目立ったものはありません。
狭山市指定文化財となっています。

【所在地】
〒350-1305 埼玉県狭山市入間川3丁目35−10
専用の駐車場はありません。

【生安寺の地蔵尊】
<所在地>
〒390-0861 長野県松本市蟻ケ崎4丁目5−39
<交通アクセス>
北アルプス線「北松本」駅 から徒歩15分
北アルプス線・JR篠ノ井線・上高地駅
「松本」駅から徒歩25分

生安寺は、元は松本城下町の
「地蔵尊出現霊水地碑」あたりにあり、
地蔵像もそこで掘り起こされたとのことです。
現在は移転した生安寺と共に
現在の場所に移設されています。
地蔵尊は、舟型の後背を持った地蔵です。
文永3年(1187年)の銘が刻まれ、
松本盆地で一番古い石仏とのことです。
清水冠者義高の霊を慰めるために
鎌倉から贈られたものではないかと
伝えられています。
伊豆石で造られており、
まったく同じ石仏が鎌倉にも一体あるそうです。
それは鎌倉亀ヶ谷切通しの手前の角に
「岩船地蔵堂」の中です。
木造の地蔵が安置されていますが、
さらに床下に石の地蔵があったそうです。
やはり舟型の後背を持った地蔵で、
源頼朝の娘「大姫」の守り本尊とされています。
「岩船地蔵堂」は平成13年(2001年)に
新しい堂に建て替えられました。
木造地蔵尊を前に
石造地蔵尊をその奥に安置しています。
外から拝観できるのは、
木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできません。

木造地蔵尊 岩船地蔵堂(鎌倉市扇ケ谷(亀ヶ谷)

【班溪寺】

 班渓寺(はんけいじ)は、
平安時代の終わり頃にあった源平の合戦で、
源氏の大将の一人として活躍した武将である
木曽義仲(源義仲)の妻であった
山吹姫(山吹御前)によって
創建されたと伝わっている寺です。
 山吹御前(山吹姫)は「平家物語」にも
その名が記されており、
巴御前(姉妹ともされています)と共に
木曾義仲(源義仲)軍に従軍していましたが、
体を壊して京都に残ったという記事があります。
木曾義仲(源義仲)の息子、
源義高(木曽義仲)の母親ともされ、
非業の死を遂げた夫の木曾義仲と
息子の木曾義高の菩提を弔うために
寺を創建したとも言われています。

班渓寺

寺には山吹のものとされる位牌や、
墓とされる五輪塔があり、
毎年3月には木曾義仲等を弔う
慰霊祭が行われています。

【所在地】
〒355-0225 埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907

【駐車スペース】
お寺の前に1台くらいのスペース有り。

【物語化】
大姫と木曾義高のエピソードは
室町時代に
「清水冠者物語」
「しみず物語」
「木曽義高物語」等の名で物語化されています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
市川 染五郎(いちかわ そめごろう)さんが演じられます。

河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。

一条忠頼~甲斐源氏棟梁である武田信義の長男、駿河を掌握するも源頼朝の命を受けて誅殺された。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

山吹御前~木曾義仲(源義仲)の妻妾で木曾義高(源義高)の生母とも伝えられています。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

赤見城~藤姓足利氏である足利俊綱が平安時代末期に築城、戦国期は赤見氏の城で400年の歴史があります。

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