鎌倉殿の13人

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

熊野川




源行家

源 行家(みなもとの ゆきいえ)は、
平安時代末期の武将です。
河内源氏第五代源為義の十男です。
初めの名乗りは義盛(よしもり)でした。
新宮十郎、新宮行家とも称されます。
以仁王の挙兵に伴い、
諸国の源氏に以仁王の令旨を
伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物です。
源頼朝源範頼阿野全成源義経
叔父にあたります。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
永治元年(1141年)から康治2年(1143年)頃

【死没】
文治2年5月12日(1186年6月1日)

【改名】
本名は義盛。後に行家と改める。

【別名】
新宮十郎、十郎蔵人

【氏族】
清和源氏為義流(河内源氏)

【父】
源為義

【母】
未詳(鈴木重忠の娘?)

【兄弟】
義朝、義賢、義広、頼賢、頼仲、為宗、
為成、為朝、為仲、行家、鳥居禅尼、他

【子】
光家、行頼、西乗、行寛、
山田重忠室

【源行家の一生】
永治年間から
康治年間(1140年代の前半)の初めに、
源為義の十男として生まれました。
母の名は伝わってはいませんが、
鈴木重忠(熊野新宮禰宜)の娘ともされています。

熊野三山の要職に就いていた
新宮別当家嫡流の行範
(のちに19代熊野別当に就任)の
妻となった鳥居禅尼
(たつたはらの女房)の同母弟となります。

しばらく熊野新宮に住んでいたので
新宮十郎と称していました。
平治元年(1159年)の平治の乱で
は兄である源義朝に味方して従軍します。
戦闘には敗れましたが、
戦線離脱に成功して熊野に逃れ、
その後約20年もの間、
熊野に雌伏していました。
治承4年(118年)、
摂津源氏の源頼政に召し出され、
山伏に扮して以仁王の
平家追討の令旨を各地の源氏に伝達しました。
八条院の蔵人に補され、
行家と改名したのはこの時とされています。
なお「覚一本平家物語」では、
源行家の動きは
熊野別当湛増に気付かれて
平家方に密告され、
以仁王の挙兵が露見する
原因になったとされています。

【挙兵】
甥の源頼朝に決起を促したのも源行家でした。
けれども源頼朝の麾下には入らず
独立勢力を志向したのでした。
三河国、尾張国で勢力圏を
築きつつあったのですが、
養和元年(1181年)、
おなじく甥の源義円らと共に
尾張国の墨俣川の戦い、
三河国矢作川の戦いで二回に亘り
平重衡ら平家方と交戦しましたが、
いずれも壊滅的な敗北を喫し、
源頼朝のもとに逃れて
相模国松田に住み着きました。
けれども、源頼朝に所領を求めましたが、
拒否されたため対立し、
以降はおなじく甥の
源義仲の幕下に走っています。
源(木曽)義仲の下では
能登国の志保山の戦いに参加、
上洛に当たっては
伊賀方面から進攻し、
平家継と合戦となったとのことです。

【源(木曾)義仲と源頼朝の和議】
なお、源行家と、鎌倉を攻撃した
異母兄の志田義広を庇護したことで
源義仲と源頼朝は
一時武力衝突寸前となりましたが、
両者の話し合いで
源義仲の嫡男である源義高を
源頼朝の長女である大姫の婿として
鎌倉に送る事でひとまず
和議が成立したとのことでした。





【入京】
寿永2年(1183年)、
源(木曽)義仲とともに入京します。
後白河院の前では源義仲と序列を争い、
結局相並んで前後せずに拝謁したとのことです。
朝議の結果、勲功の第一が源頼朝、
第二が源(木曽)義仲、
第三が源行家という順位が確認され、
従五位下・備後守に叙任されましたが、
源(木曽)義仲と差があるとして不満を述べ、
すぐに備前守に遷任します。
さらに平家没官領のうち
90か所余りを与えられています。
山村育ちで無骨な木曽義仲
法皇や貴族らの不興を買う一方、
近畿育ちで弁舌が立つ源行家は院内にいりびたり、
法皇の双六の相手などをして取り入ったそうです。
そしてほどなく木曽義仲とも不和となり、
身の危険を感じて、
平家討伐に名を借りて京を脱出します。
播磨国で平知盛・重衡軍との室山の戦いで
またしても敗北を喫します。
この戦いで、一説によりますと
源行家はわずか270人、もしくは500騎。
それに対して平知盛・重衡軍は2万と云われていました。
これでは勝つ方が奇跡といえるでしょう。
勝つには奇襲が必須ですが、
先の尾張国の墨俣川の戦いでは、
奇襲を仕掛けたつもりが、
逆に奇襲で敗れる、という結果で終わっています。

そのあと河内国の長野城へ立て籠もりましたが
今度は源義仲が派遣した樋口兼光に敗れて
紀伊国の名草へ逃げ込んでいます。

【源行家の人物評価】
この源行家という人物は、
生来交渉力があり、
扇動者としての才と
権謀術数は得意であったようですが、
軍略面での才能には乏しかったと評価されています。
軍師的な人物が身近にいなかったか、
全ての事において
「自分がやらないと気が済まない」という
性格だったかもしれません。
戦は弟たちに任せて、
自分は政治に専念した甥の
源頼朝とは全く異なりますね。
但し、上記のような絶対不利な状態や、
案の定、負け戦となっても、
戦死せず、離脱する機敏さがあります。
この方は、戦よりも
交渉役が合っているのかもしれませんね。

【半ば独立して和泉国と河内国を支配】
源義仲が源頼朝が派遣した源頼朝の
異母弟の源範頼及び
源義経兄弟の軍勢に討たれた後、
源行家は元暦元年(1184年)2月に
院の召しによって帰京しています。
その後の鎌倉源氏軍による
平家追討には参加しておらず、
甥の源義経に接近しながらも
鎌倉に参向しようとはせず、
半ば独立した立場をとって
和泉国と河内国(河内源氏の本拠地)
を支配していたと見られています。

元暦2年/文治元年(1185年)8月、
源頼朝が源行家討伐を計ると、
源行家は壇ノ浦の戦い後に、
源頼朝と不和となっていた源義経と結びます。
10月に反源頼朝勢力を結集して
後白河院から源頼朝追討の院宣を受け、
「四国地頭」に補任されたそうです。
なお、源義経は「九国地頭」とのことです。
けれども源行家らに賛同する
武士団の数は少なく、更には
源頼朝が鎌倉から大軍を率いて
上洛する構えを見せますと、
11月3日、源行家と源義経一行は都落ちしました。

【河尻の戦い】
途中で、同族である摂津源氏の
多田行綱らの襲撃を受け、
これを撃退しますが、
大物浦で暴風雨にあって
西国渡航に失敗した後は、
次第に追い込まれていきます。





【源行家の最期】
逃亡の末に、
和泉国日根郡近木郷の在庁官人である
日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)
に潜伏したのでした。
翌文治2年(1186年)5月、
地元民の密告により見つかってしまい、
鎌倉幕府から命を受けた
北条時定の手兵によって捕らえられ、
山城国赤井河原にて
長男の源光家及び次男の源行頼とともに
斬首されてしまいました。
40数歳だったということです。

【源行家の子孫は続いた】
「尊卑分脈」の記述によりますと、
長男の源家光(もしくは源光家)の子孫が
5代後まで都の官人として存続しており、
また三男で僧となった
中納言房西乗の子である為貞は
尾張国中野に居住して
中野源三を称したということです。
戦国時代には、
織田信長の家臣として名が見える
中野一安が為貞の後裔を称したほか、
同じく新宮氏の当主である新宮行朝も
熊野別当家出身の諸説があるなど
明確な系譜は不明ですが、
源行家の末裔を称していたとのことです。

【源行家関連の遺跡】
<新宮十郎行家屋敷跡の比定地>
和歌山県新宮市に
源行家が居住していたとされる
新宮十郎行家屋敷跡の比定地があります。
ただし遺構などは
特に残されておらず、
現在は案内板があるのみ、とのことです。

<五井城>
愛知県蒲郡市には源行家が
築いたとされる五井城があったそうです。
その後、そこを居城とした松平氏が
関東に移って廃城となりました。
長泉寺、真清寺の山門は
この城の門の移築で、
八幡社の前の池は
城の堀であったなどの説があります。

<烏帽子形城>
大阪府河内長野市にあった
烏帽子形城は、「平家物語」「室山」に登場する
源行家が篭城した「長野城」の
有力候補地のひとつとされているそうです。
理由としては当時の烏帽子形城があった地域が
長野荘と呼ばれていたためであることからです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
杉本 哲太(すぎもと てった)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

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