鎌倉殿の13人

平維盛~平清盛の嫡孫で桜梅少将と称される美貌の貴公子でしたが、最期は自ら散ります。

平維盛



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【平維盛】

平 維盛(たいら の これもり)は、
平安時代末期の平家一門の武将です。
平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男です。

平氏一門の嫡流であり、
美貌の貴公子として
宮廷にある時には「光源氏の再来」と称されました。
治承・寿永の乱において
大将軍として出陣しますが、
富士川の戦い倶利伽羅峠の戦い
二大決戦で壊滅的な敗北となります。
父である平重盛の早世もあって
一門の中では孤立気味であり、
平家一門が都を落ちたのちに
戦線を離脱し、那智の沖で
入水したとされています。

【生誕】
平治元年(1159年)

【死没】
寿永3年3月28日
(1184年5月10日)?

【改名】
維盛、浄円

【別名】
惟盛、権亮三位中将、小松三位中将、
桜梅少将、光源氏

【墓所】
奈良県吉野郡十津川村五百瀬
(旧南望山宝蔵寺)、
静岡県富士宮市上稲子西ヶ谷戸、
紀伊半島に他多数

平維盛の墓(富士宮)

【官位】
蔵人頭、右近衛権中将、従三位

【氏族】
桓武平氏維衡流(伊勢平氏)

【父】
平重盛、

【母】
官女(平時信の娘の坊門殿か)

【兄弟】
維盛、資盛、清経、
有盛、師盛、忠房、宗実、その他

【妻】
正室:新大納言局(藤原成親次女)、
妾:建春門院新中納言(平親宗娘)、
妾:藤原光忠娘

【子】
高清(六代)、夜叉御前

【平維盛の生涯】
平治元年(1159年)、
平家棟梁である
平清盛の嫡男の平重盛の長男として生まれました。

母は官女とされていますが、
出自など詳細は不明です。
一説によりますと平時信の娘で
掌侍で内裏女房だった坊門殿ではないかと
言われております。
もし坊門殿が母ならば平維盛は
平清盛の後妻の平時子や
その弟妹の時忠や
建春門院滋子達の甥であると同時に
宗盛達や高倉天皇とは
従兄弟という間柄になります。

祖父である平清盛と共に
保元の乱・平治の乱を戦い、
乱の勝者となった
父親の平重盛は権勢をふるい、
平維盛はその長男として
順調に出世を重ねていました。




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【立嫡】
嘉応2年(1170年)7月に
異母弟の平資盛が起こした
殿下乗合事件を記した
九条兼実の日記「玉葉」によりますと、
平資盛を「嫡男」と記しており、
さらに平維盛の従五位下叙位が
9歳の時の仁安2年(1167年)であるのに対し、
年下の平資盛の従五位下叙位が
その前年である事から、
平維盛は元々は平重盛の庶長子であり、
後になって嫡男として
立てられたとの見解が成されています。
なお、平維盛立嫡の時期については、
「玉葉」の記事のある
嘉応2年(1170年)7月から
平維盛が平資盛の官位を追い抜いた
同年12月の間の時期に行われたと
推定されています。
この時、平維盛は12歳でした。
承安2年 (1172年)、
14歳で藤原成親の次女である
新大納言局を正室に迎えています。

【桜梅少将】
安元2年(1176年)3月4日、
後白河法皇50歳の祝賀で、
烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、
その美しさから桜梅少将と呼ばれます。
青海波の様子は「玉葉」や
「安元御賀日記」などにも
詳細に記されております。
臨席した四条隆房はその様子を、

「維盛少将出でて落蹲(らくそん)入綾をまふ、
青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、
おももち、けしき、あたり匂いみち、
みる人ただならず、
心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ」

河津桜

と記しています。
また「建礼門院右京大夫集」では
「今昔見る中に、ためしもなき(美貌)」とされ、
その姿を光源氏にたとえています。
さらに平家を嫌う九条兼実でさえも
「容顔美麗、尤も歎美するに足る」
と評している程です。

【父・平重盛の死】
治承3年(1179年)7月、
平清盛の後継者と目されていた
父親の平重盛が病死します。
そして叔父の平宗盛が平家の棟梁となると、
平維盛ら平重盛の息子達は
平家一門で微妙な立場となるのでした。
平重盛の母方には有力な親族がおらず、
更には鹿ケ谷の陰謀で殺害された
藤原成親の妹が妻であったことで、
平重盛の後継者としての地位が
生前から揺らいでいたのでした。
また、平維盛自身も
藤原成親の娘を娶っていたことが
いっそう影響していたとのことです。

【越前国の没収と後白河院の幽閉】
そうした中で平重盛の死後に
後白河法皇が平重盛の知行国である
越前国を没収したことは、
平重盛の遺児である
平維盛らの生活基盤を脅かすものでした。
更に平重盛一族(小松家)の離反回避に
努めていた清盛を強く刺激したものになりました。
一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が
治承三年の政変による後白河法皇幽閉にまで
発展した背景には、
平清盛と平重盛及びその子供達との
微妙な関係があったと考えられています。

【治承・寿永の乱】
治承4年(1180年)5月26日、
以仁王の挙兵では大将軍として
叔父である平重衡と共に
反乱軍を追討すべく宇治に派遣されます。
同行した平維盛の乳母父で
侍大将の伊藤忠清ら平氏家人の奮戦により、
乱は鎮圧されました。
この際、伊藤忠清は兵を
南都(奈良)へ進めようとする
平重衡及び平維盛の勇み足を
「若い人は兵法を知らない」と諫めて制止しています。




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【富士川の戦い】
同年9月5日、
源頼朝ら源氏の挙兵に際して
平維盛は東国追討軍の総大将となります。
出発しようとする平維盛と
日が悪いので忌むべきだという
侍大将の伊藤忠清で内輪もめとなり、
結局出発は月末まで遅れてしまいました。
なお出陣する大将である平維盛の武者姿は、
絵にも描けぬ美しさだったということです。

【出発が遅れた代償として】
東海道を下る追討軍は、
出発が伸びている間に
各地の源氏が次々と兵を挙げ、
進軍している情報が広まっていたために
兵員が思うように集まらず、
更には夏の凶作で糧食の調達も
ままならなかったとのことです。

【鉢田の戦い】
それでも何とか兵員を増やしながら
駿河国に到着します。
追討軍の到着を待って
甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった
平家側の駿河国目代は、
富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗しました。

10月17日、
当時の戦闘の作法として
武田軍が平維盛の陣に送ってきた書状の
「かねてよりお目にかかりたいと
思っていましたが、幸い宣旨の使者として
来られたので、
こちらから参上したいのですが
路が遠く険しいのでここはお互い
浮島ヶ原で待ち合わせましょう」
という不敵な内容に伊藤忠清が激怒し、
使者2人の首を斬っていまいます。
(「山槐記」「玉葉」「吉記」)。

10月18日、
富士川を挟んで武田軍と向き合う平家軍は
「平家物語」では
7万の大軍となっていますが、
実際には4千騎程度で、
しかも逃亡や休息中に敵軍へ投降するなどで、
残兵は1千から2千騎ほどになっていたとのことです。
更には鎌倉の源頼朝も大軍を率いて
向かっており、もはや平家軍に
勝ち目はなかったのでした。

平家越

平維盛は引き退くつもりはなかったとのことです。
しかし伊藤忠清は再三撤退を主張し、
もはや士気を失っている兵達も
それに賛同しており、
平維盛は撤退を余儀なくされたのでした。
そして富士川の陣から撤収の命が出た夜、
富士沼に集まっていた数万羽の水鳥が
いっせいに飛び立ち、
その羽音を敵の夜襲と勘違いした
平家の軍勢はあわてふためき
総崩れとなって敗走したのでした。

【平維盛、京入りを禁止される】
11月、平維盛はわずか10騎程度の兵で
命からがら京へ逃げ帰ったとのことです。
平清盛はこのような平維盛の醜態に激怒し、
「何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、
おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥である」
として平維盛が京に入ることを禁じたといいます。

【祖父の死と戦での勝利】
養和元年(1181年)閏2月、平清盛が亡くなりました。
3月、墨俣川の戦いで叔父の平重衡らと共に大将軍となり、
勝利を収めました。
6月10日、右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれます。
平維盛はこの年の12月に従三位に叙しましたが、
公卿昇進は平宗盛の長男である
平清宗に1年遅れたとのことです。

【北陸に向かった平家軍】
寿永2年(1183年)4月、
平維盛を総大将として
木曾義仲追討軍が逐次出発し、
平家の総力を結集した
総勢10万(一説には4万とも)
の軍勢が北陸に向かいました。
「平家物語」の「北陸下向」によりますと、
遠征軍は進軍路で兵糧調達のため
乱暴な取り立てを行いながら進軍したとのことです。
これは養和の大飢饉の後のため、
兵糧米が京都付近では
十分に調達出来なかったので、
進軍路での兵糧調達「追捕(ついぶ)」を
朝廷から許可を受けたためでした。
また出発前に京でも兵糧調達のために
乱暴したことが「玉葉」に記述されています。

【倶利伽羅峠の戦い】
5月、倶利伽羅峠の戦いで
木曾義仲軍に大敗しました。
「玉葉」によりますれば、
4万の平家軍で甲冑を付けていたのは
4~5騎で平家軍の過半数が討死、
残りは物具を捨てて
山林に逃げたものの
討ち取られたということです。
平家第一の勇士であった
侍大将の平盛俊、藤原景家、
藤原忠経(伊藤忠清の子)らは
一人の供もなく敗走しました。
敵軍はわずかに5千、
かの3人の侍大将と大将軍(平維盛)らで
権威を争っている間に
敗北に及んだということでした。

【平家の都落ち】
同年7月、平家は都を落ちて西走しました。
「平家物語」の「一門都落ち」では、
嫡男六代を都に残し、
妻子との名残を惜しんで遅れた
平維盛とその弟たち平重盛系一族の変心を、
平宗盛や平知盛が疑うような場面があります。




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【平維盛の死の謎】
寿永3年(1184年)2月、
平維盛は一ノ谷の戦い前後、
密かに陣中から逃亡しました。
これ以降は文献により説が分かれています。
正式な死亡日とその死因は今も不明のままです。

「玉葉」の2月19日条によりますと、
「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)
又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」とあり
30艘ばかりを率いて南海に向かったということです。
この時異母弟の平忠房も同行していたという説があります。

【補陀落渡海】
「平家物語」では平維盛はのちに
高野山に入って出家し、
熊野三山を参詣して3月末、
船で那智の沖の山成島に渡り、
松の木に祖父の平清盛、父の平重盛と
自らの名籍を書き付けたのち、
沖に漕ぎだして補陀落渡海に船出したと
されています。

平維盛入水の噂は都にも届き、
親交のあった建礼門院右京大夫は
その死を悼む歌を詠んでいます。

「春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる」
「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける」

建礼門院右京大夫集より。

【熊野の伝承】
熊野の伝承では一ノ谷の戦い後に戦線を離脱し、
小森谷渓谷(龍神村)に隠れ
住んでいたということです。
そこで地元に住むお万という娘と
恋仲になりましたが、
壇ノ浦の戦いで平家が敗れたことを知り、
護摩壇山で平家の行く末を
占ったところ凶が出たため、
平維盛は小森谷を出て那智の海に
入水したとされています。
それを知ったお万は滝に身を投げたといわれており、
小森谷渓谷には平維盛の屋敷跡と伝わる場所があるほか、
お万が白粉を流した「白壺の滝」、
紅を溶かした「赤壺の滝」、
身を投げたとされる「お万が淵」があります。

熊野川

【「禅中記」の異説】
その一方、「源平盛衰記」に記された
藤原長方の日記「禅中記」の異説によりますと、
平維盛は入水ではなく
熊野に参詣したのち都に上って
後白河法皇に助命を乞い、
後白河法皇が源頼朝と交渉し、
源頼朝が平維盛の関東下向を望んだため
鎌倉へ下向する途中の
相模国の湯下宿で病没したということです。
最も今では「禅中記」のこの部分は存在していません。




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【「吉記」】
「吉記」の寿永3年(1184年)4月の条に、
平維盛の弟である平忠房が密かに関東へ下向し、
許されて帰洛するという
風聞が記されていますが
平忠房は同記に翌年の12月に
鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと書かれています。
内容が矛盾しているので
前者の平忠房は平維盛の誤りとみることができます。
寿永3年2月、一ノ谷の戦い前後に
屋島を脱走して4月ごろ相模で病死したとも
考えられています。

【墓所】
入水した、とされるため、
確定した墓所はありません。
那智の補陀洛山寺には供養塔があります。
けれどもそれ以降の生存説があり、
また全国各地に隠棲・落人伝説が残るため
各地に墓所とされるものが残っています。
奈良県十津川村大字五百瀬の山中、
静岡県富士宮市芝川町稲子、
三重県津市芸濃町の成覚寺、
などに、
平維盛の墓所とされるものが残っています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
濱 正悟(はま しょうご)さんが演じられます。

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

平知盛~入道相国最愛の息子、一門の最後を見届け散り行く様は歌舞伎になりました。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

義円~源義朝の八男で源義経と阿野全成とは同母兄弟で源頼朝の異母弟、墨俣川の戦いで散る。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

秋山光朝~加賀美遠光の長男、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝に疎まれ謀殺されます。

板額御前~鎌倉時代初期に実在した女武将、後に弓の名手の浅利与一の妻になりました。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

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