鎌倉殿の13人

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

平清盛




平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、
平安時代末期の日本の武将・公卿です。

【概要】
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、
平氏の棟梁となりました。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、
平治の乱で最終的な勝利者となり、
武士としては初めて
太政大臣に任じられました。
日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、
宋銭を日本国内で流通させ
通貨経済の基礎を築き、
日本初の武家政権を打ち立てました。
しかしながら独自の武士階級としての
権力と組織をもたず、
藤原氏の政治を踏襲したに
過ぎなかったのでした。
やがて平家の権勢に反発した
後白河法皇と対立し、
治承三年の政変で法皇を幽閉して
徳子の産んだ安徳天皇を擁し
政治の実権を握りますが、
平家の独裁は公家・寺社・武士などから
大きな反発を受け、
源氏による平家打倒の兵が挙がる中、
熱病で亡くなりました。

【平家】
武家平氏で平姓を残したのは
伊勢平氏など数は少ないです。
その伊勢平氏の傍流ではありましたが、
いわゆる平家政権を打ち立てた
平清盛とその一族を特に「平家」と呼びます。
ただし、「平家」という言葉は本来、
数多い平氏の中でも
特定の家もしくは集団を指す言葉です。
平家政権時においても
清盛一族のみならず、
彼らに仕えている家人や郎党らを
含めた軍事的及び政治的集団
を指す用法としても用いられ、
この場合の「平家」には
清盛に従った藤原氏や
源氏の武士も含まれることになります。
勿論、本来の「平家」である
高棟王流は明治維新まで
存続したので、
その意味では、
壇ノ浦の戦い以後も「平家」は
存続していたとも言えます。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
永久6年1月18日
(ユリウス暦1118年2月10日、
先発グレゴリオ暦1118年2月17日)

【死没】
治承5年閏2月4日
(ユリウス暦1181年3月20日、
先発グレゴリオ暦1181年3月27日)

【別名】
平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道

【戒名】
浄海(じょうかい)
【墓所】
能福寺、神戸市切戸町、
六波羅蜜寺、祇王寺、彦島

【官位】
従一位、太政大臣

【主君】
崇徳天皇(鳥羽院)⇒近衛天皇(鳥羽院)⇒
後白河天皇⇒二条天皇(後白河院)⇒
六条天皇(後白河院)⇒高倉天皇(後白河院)
⇒安徳天皇(後白河院・高倉院)

【氏族】
桓武平氏維衡流坂東平氏系伊勢平氏

【父】
平忠盛(白河院?)

【母】
白河院女房(祇園女御の妹?)

【継母】
池禅尼

【兄弟】
清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度、他

【妻】
正室:高階基章の娘
継室:平時子(二位尼)
側室:厳島内侍、常盤御前

【子】
重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、盛子、
重衡、維俊、知度、清房、完子、御子姫君、
坊門信隆室、花山院兼雅室、冷泉隆房室、
廊御方?

【伊勢平氏の嫡男として】
伊勢平氏の棟梁である
平忠盛の嫡男として生まれ、
後に棟梁となります。
なお、白河院の隠し子という説も有力です。
出身地は京都府京都市という説が有力です。
生母は不明ですが、
もと白河法皇に仕えた女房で、
平忠盛の妻となった女性である
可能性が高いとのことです。
「平家物語」の語り本系の諸本は
平清盛の生母を祇園女御としていますが、
読み本系の延慶本は平清盛は
祇園女御に仕えた中﨟女房が産んだと
記述が見られるとのことです。
近江国胡宮神社文書(「仏舎利相承系図」)は
平清盛生母を祇園女御の妹とし、
祇園女御が平清盛を猶子としたと記されています。
平清盛が平忠盛の正室の子ではなく、
あるいは生母が始め正室だったとして
亡くなった可能性もあるにもかかわらず
嫡男となった背景には、
後見役である
祇園女御の権勢があったとも考えられています。

【早い出世と祇園女御と落胤説】
大治4年(1129年)正月、
12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任。
同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれますが、
平清盛の馬の口取を
祇園女御の養子とされる内大臣である
源有仁の随身が勤めていることから、
幼少期の平清盛は
祇園女御の庇護の下で成長したと
推定されています。
祇園女御の庇護下で育ったことから、
平清盛の実父は白河法皇であるとの
噂も当時からあったとのことです。
落胤説の事実性は乏しいものの、
平清盛が公卿を輩出したことのない
院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず、
令制最高職の太政大臣にまで
昇進したことは、
皇族との身内関係が
当時信じられていたゆえといわれています。





【正室の出産と死】
若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣である
藤原家成の邸に出入りしていました。
藤原家成は、平清盛の継母である池禅尼の
従兄弟でした。
高階基章の娘との間に
平重盛及び平基盛が生まれましたが、
死別したと推測されています。

平宗盛の誕生】
久安3年(1147年)、
継室に迎えた平時子との間に
平宗盛が生まれました。
平時子の父である平時信は
鳥羽法皇の判官代として、
葉室顕頼・信西とともに
院庁の実務を担当していました。

【祇園闘乱事件】
この年6月15日、
平清盛は祇園社に赴きますが、
郎等の武具を咎めた神人と
小競り合いとなり、
郎等の放った矢が宝殿に
当たるという事件が発生しました。
祇園社を末社とする延暦寺
平忠盛及び平清盛の配流を
要求して強訴しましたが、
鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から
平忠盛と平清盛を保護し、
平清盛の罪を贖銅三十斤という
罰金刑にとどめたのでした。
その後、平清盛に代わり
正室の産んだ子である
異母弟の平家盛が
常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現します。
既に母を亡くし
問題を起こした平清盛に替わって、
母方の後見の確かな
平家盛が家督を継ぐ可能性もあったのでした。

【平氏一門の棟梁へ】
けれども、久安5年(1149年)に
平家盛は急死し、
平清盛の嫡流としての地位は磐石となります。
平家盛の同母弟である平頼盛
15歳の年齢差もあって統制下に入り
平清盛も兄弟間の
第二の者として遇しますが、
平経盛及び平教盛に比べて
その関係は微妙なものでした。
その後安芸守に任じられて
瀬戸内海の制海権を手にすることで
莫大な利益をあげ、
父と共に西国へと勢力を拡大させていきました。
またその頃より宮島厳島神社
信仰するようになり、
仁平3年(1153年)、
平忠盛の死後に平氏一門の棟梁となりました。

【保元の乱】
保元元年(1156年)の保元の乱では
義母である池禅尼が崇徳上皇の子である
重仁親王の乳母であったため
平清盛の立場は難しいものでした。
が、平氏一門の結束につとめ、
後白河天皇側について
勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となりました。

【平治の乱】
信西と藤原信頼及び二条親政派の対立では
中立的立場をとっていましたが、
平治元年(1159年)の平治の乱で
政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方
などの反信西派を一掃することで、
急速にその政治的地位を高めることになりました。
この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった
有力武士が滅亡したので、
平清盛は武士の第一人者として
朝廷の軍事力・警察力を掌握し、
武家政権樹立の礎を築いていきます。

【天皇の乳父として】
継室の時子が二条天皇の乳母であったことから、
平清盛は天皇の乳父として
後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、
後白河上皇の院庁の別当にもなり、
天皇・上皇の双方に仕えることで
磐石の体制を築いていきます。

久寿2年(1155年)、
時子との間に徳子(後の建礼門院)が生まれ、
後の承安元年(1171年)には
後白河法皇の猶子として
入内することになります。





【後白河院の院政停止】
応保元年(1161年)9月、
後白河上皇と平清盛の妻の妹である
平滋子(建春門院)の間に
第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、
平時忠・平教盛が立太子を画策しました。
二条天皇はこの動きに激怒し、
平時忠・平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して
後白河院政を停止しました。
平清盛は天皇の御所に
武士を宿直させて警護することで、
二条天皇支持の姿勢を明確にしました。

【二条天皇を支持】
翌年3月には平治の乱で配流されていた
二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、
6月には平時忠・源資賢が
二条天皇を賀茂社で
呪詛した罪で配流となりました。
平清盛は二条天皇の厚い信任を受け、
親政を軌道に乗せていきます。
さらに関白・近衛基実に
娘である盛子を嫁がせて、
摂関家とも緊密な関係を結んだのでした。

【二条天皇の崩御】
けれども院政を停止させられた
後白河上皇への配慮も怠りなく、
長寛2年(1164年)に
蓮華王院(三十三間堂)を
後白河上皇のために造営しています。
蓮華王院には荘園・所領が寄進され、
後白河上皇の経済基盤も強化されました。
二条天皇は後白河上皇の動きに
警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に
平重盛を参議に任じて
平家への依存を深めましたが、
7月28日崩御しました。

【院制復活は望まない】
後継者の六条天皇が幼少であるため、
近衛基実が摂政として政治を主導し、
平清盛は大納言に昇進して
近衛基実を補佐しました。
9月、平時忠が帰京を許され、
12月25日に憲仁親王が
親王宣下を受けると、
平清盛は勅別当になりました。
後白河院政派は次第に
勢力を盛り返していましたが、
平清盛は後白河上皇の
行動・性格に不安を覚え、
院政復活を望みませんでした。

【院制復活と摂関家領の管轄の成功】
けれども永万2年(1166年)7月26日、
近衛基実が急死して後白河院政が復活します。
近衛基実の子である近衛基通が
幼少であることから
弟の松殿基房が摂政となります。
近衛基実の領していた
摂関家領が松殿基房に移動すれば、
それは平氏にとって大打撃です。
平清盛は藤原邦綱の助言により、
殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を
除いた私的家領を
後家の盛子に相続させることで、
摂関家領の管轄に成功しました。
10月10日に
憲仁親王が立太子すると
平清盛は春宮大夫となり、
11月には内大臣となりました。

【福原開発のための政界引退】
仁安2年(1167年)2月、
平清盛は太政大臣になりますが
福原開拓のために、わずか3ヶ月で辞任します。
政界から表向きは引退し、
嫡子である平重盛が同年5月、
宣旨により東海・東山・山陽・南海道の
治安警察権を委任され、後
継者の地位についたことを
内外に明らかにしたのでした。





【厳島神社 客神社祓殿】
仁安3年(1168年)、
平清盛の援助によって
今日のような海上社殿が造られました。

厳島神社

【平清盛の出家】
仁安3年(1168年)、
平清盛は病に倒れ、出家します。
原因は、本人の証言に基づけば
絛虫(さなだむし)であったそうです。
平清盛の病状が政情不安を
もたらすことを危惧した
後白河上皇は、
当初の予定を早めて
六条天皇から憲仁親王に譲位させることで
体制の安定を図りました。

【厳島神社の整備・日宋貿易の拡大】
病から回復した平清盛は
福原に別荘・雪見御所を造営して、
かねてからの念願であった
厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭します。

【後白河「法皇」となる】
嘉応元年(1169年)、
後白河上皇は出家して法皇となり、
平清盛は後白河法皇とともに
東大寺で受戒して協調につとめました。
この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、
平清盛の娘の徳子が高倉天皇に入内、
福原で後白河法皇と平清盛が
千僧供養を行うなど
両者の関係は友好的に推移していました。

【「平家にあらずんば人にあらず」by平時忠】
この間、平氏一門は隆盛を極め、
全国に500余りの荘園を保有し、
日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、
平時忠をして「平家にあらずんば人にあらず」
といわしめたのでした。

そうです、おごれる平家の象徴のような
この悪名高い有名なフレーズは
平清盛ではなく、平時忠が言い放った言葉(暴言)だったのです。

【光が強くなれば影も強くなる】
ところが、この平清盛の余りにも
眩しすぎる程の勢力の伸張に対して、
後白河法皇をはじめとする
院政勢力は次第に
不快感を持つようになり、
建春門院の死を契機に、
平清盛と対立を深めていくのです。

周防大島 海と雲と光

【鹿ケ谷の陰謀】
治承元年(1177年)6月、
鹿ケ谷の陰謀が起こります。
これは多田行綱の密告で露見しましたが、
これを契機に平清盛は院政における
院近臣の排除を図るようになります。
西光は処刑、藤原成親は
平重盛の悲願によって死罪は免れましたが、
備前国へ流罪、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪、
但し後白河法皇に対しては
罪を問いませんでした。

【相次ぐ身内の死と後白河法皇の強硬策】
治承3年(1179年)6月、
娘の盛子が死亡。
すると後白河法皇は直ちに
盛子の荘園を清盛に無断で没収したのでした。
これは近衛基実の正室である盛子が、
近衛基実の死後も領地を所有していたためです。
さらに7月、平重盛が42歳で病死します。
するとまた、後白河法皇は
平重盛の知行国であった越前国を没収しました。
さらに、法皇は20歳の近衛基通
(室は清盛女・完子)をさしおいて、
8歳の松殿師家を権中納言に任じました。
この人事によって
摂関家嫡流の地位を
松殿家が継承することが
明白となり、
近衛家を支援していた平盛にとっては
大いに不服なものでした。

【治承三年の政変】
11月14日、
平清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、
クーデターを決行しました。
いわゆる治承三年の政変です。
平清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、
藤原師長など反平氏的とされた
39名に及ぶ公卿・院近臣を全て解任し、
親平氏的な公家を任官しました。
後白河法皇は恐れを覚えて
平清盛に許しを請いますが、
平清盛はこれを許さず、
11月20日には
鳥羽殿に幽閉してしまいました。
こうして後白河院政は完全に停止されました。
平清盛は、後の処置を平宗盛に委ね
福原に引き上げました。
けれども、院政停止後の
政権構想は巧みではありませんでした。





【平清盛、政界引退できず】
高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人は
いずれも政治的経験が未熟であり、
結局は政界からは引退したはずの
平清盛が表に出てこざるを得ませんでした。
平清盛は、解官していた
平頼盛・花山院兼雅の処分を
解除するなど一門の結束につとめ、
近衛基通の補佐のため、
藤原氏の有力者である左大臣の藤原経宗、
右大臣の九条兼実の懐柔を図りました。
実際の政務に関しては、
平時忠・四条隆季・土御門通親などの
能吏が平清盛の代弁者となりました。

【安徳天皇の践祚】
治承4年(1180年)2月、
高倉天皇が譲位し、
言仁親王が践祚し、
安徳天皇となりました。
安徳天皇の母は言うまでもなく
平清盛の娘の徳子です。
名目上は高倉上皇の院政でしたが、
平家の傀儡政権であることは
誰の目にも明らかでした。
さらに、後白河法皇を幽閉して
政治の実権を握ったことは
多くの反平家勢力を
生み出すことになったのでした。

【以仁王の挙兵】
平家一門の独裁に対して
反抗の第一波となったのは、
後白河法皇の第3皇子である
以仁王の挙兵でした。
以仁王は優秀でしたがそれゆえ、
平家方である建春門院の圧力で
親王宣下も受けられず、
八条院の猶子となって
即位の機会を伺っていましたが、
今回のクーデターで
その望みは絶望的となっていました。
以仁王には、八条院直属の武力ともいえる
源頼政・下河辺行義・足利義清・
源仲家などが付き従い、
平家に反発する興福寺・園城寺も
この動きに同調しました。
しかしこの計画は未然に発覚し、
平清盛の手早い対策により、
検非違使で平氏家人の
藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、
以仁王と源頼政は討ち取られました。

【福原行幸の強行】
けれども、寺社勢力、特に園城寺と同じ
天台宗で親平家の延暦寺でも
反平家勢力の動きを見せたのでした。、
平清盛は有力寺社に囲まれて
平家にとって地勢的に不利な京都を放棄します。
6月に一門の反対を押し切り、
平家の拠点である
国際貿易港の大輪田泊
(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)
を臨む地への遷都を目指して、
福原行幸を強行したのでした。

【相次ぐ源氏の挙兵】
しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火し、
8月には伊豆に流されていた源頼朝
武田信義を棟梁とする甲斐源氏、
9月には信濃国において木曾義仲が挙兵します。
これに対して、平清盛は
源頼朝らの勢力拡大を防ぐため、
平維盛を総大将とした大軍を
関東に派遣しましたが、
富士川の戦いでは交戦をせずに
撤退してしまったのでした。

【反乱勢力の勢いと平安京への還都】
この敗戦を契機として寺社勢力、
特に以仁王の反乱に協力的であった
園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始めます。
さらに、近江源氏が蜂起し
園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、
物流の要所である琵琶湖を占拠し、
反乱勢力は旧都を攻め落とす
勢いにまで成長したのでした。
また、九州でも反乱が勃発し、
高倉帝や公家衆、
さらに平氏一門や延暦寺からも
遷都を望まない声が高まり、
11月23日、平清盛は平安京に還都したのでした。





【近江攻防】
12月になると、平清盛は
平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる
軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、
近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、
近江の平定に成功しました。

【南都焼討】
次に平清盛が標的としたのは、
畿内最大の反平家勢力である興福寺でした。
平清盛は背後の脅威を一掃することを決め、
平重衡を総大将とした大軍を
南都に派遣し、12月28日、
興福寺・東大寺など
南都の諸寺を焼き払ったのでした。
これにより都周辺の反平家勢力の動きは
鎮静化しましたが、この南都焼討では
数千もの民が犠牲となり、
同地方にある大仏の殆どを
焼失させる惨事となり、
平清盛自身も「仏敵」の汚名を
着ることになったのでした。

東大寺 在りし時の伽藍

【拡大化する反乱の動き】
治承4年(1180年)末までには、
平氏の勢力基盤である
西国においても
伊予国の河野通清・通信父子、
翌年の治承5年(1181年)には
豊後国の緒方惟栄・臼杵惟隆・
佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、
伊勢志摩においても反乱の動きがありました。
東国においても平氏方であった
佐竹秀義などが源頼朝によって討伐されました。

【平清盛、病に倒れる】
このような状況下で、
平清盛は京都を中心に新体制を築くべく、
畿内近国の惣官職を置いて平宗盛を任じました。
これは天平3年(731年)に
京・畿内を対象に
兵馬の権を与えられた
新田部親王の例に倣ったものであり、
畿内近国に兵士役と
兵糧米を課して臨戦体制を築いたのでした。
また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、
平盛俊を任じました。
さらに、越後国の城資永と
陸奥国の藤原秀衡
源頼朝及び武田信義追討の宣旨を与えています。
2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、
平宗盛以下一族の武士が
東国追討に向かうことが
決められていましたが、
平清盛は27日に謎の熱病に罹って倒れたのでした。
なお、病状の記録から、
大陸から伝来して流行していた
マラリアに罹ったとされています。

【平清盛の死】
死期を悟った平清盛は、
自分の死後はすべて
平宗盛に任せてあるので、
平宗盛と協力して政務を行うよう
法皇に奏上しましたが、
返答がありませんでした。
そのため恨みを残して
「天下の事は宗盛に任せ、
異論あるべからず」と言い残し、
閏2月4日、鴨川東岸にある
平盛国の屋敷で死去しました。
享年は64歳でした。
また、当時平清盛は南都を焼き払ったために、
死因は仏の焼罰だと噂されてもいました。

【平清盛の遺言】
平清盛の死により、
平家の新体制作りは計画倒れに終わりました。
「平家物語」では平清盛が死の床で
「葬儀などは無用。
頼朝の首を我が墓前に供えよ」
と遺言を残したとしています。
死亡した年の8月1日、
源頼朝が密かに後白河院に
平家との和睦を申し入れましたが、
平宗盛は平清盛の遺言として
「我の子、孫は一人生き残る者といえども、
骸を頼朝の前に晒すべし」
と述べてこれを拒否し、
源頼朝への激しい憎悪を示したとのことです。

【平清盛の死後の平家の行く末】
平清盛の死後、嫡子の平重盛はすでに病死し、
次男の平基盛も早世していたため、
平家の棟梁の座は三男の
平宗盛が継ぎましたが、
全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、
更には後白河法皇の奇謀(思い付き)に翻弄された上、
後白河院政方も勢力を盛り返すなど、
平家は次第に追いつめられていきました。
しかも、折からの飢饉(養和の大飢饉)
という悪条件なども重なって、
寿永2年(1183年)、
倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、
木曾義仲軍の攻勢の前に
成す術無く都落ちしたのでした。
その後も一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、
元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに
敗れて平家は滅亡したのでした。





【墓所】
【能福寺の平相国廟】
<所在>
兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1

平清盛の薨去によって
能福寺寺領内に墓所として
平相国廟が造立されたといわれています。
現在ある平相国廟は、
昭和55年(1980年)2月に
執り行われた平清盛公800回大遠忌に
再建されたものであるそうです。

【六波羅蜜寺の平清盛塚】
<所在>
京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町

【切戸 清盛塚 石造十三重塔】
<所在>
兵庫県神戸市兵庫区切戸町1

供養塔としての十三重石塔です。
「弘安九」「二月日」の銘があり、
「西大寺の叡尊が弘安8年8月14日
(1285年9月14日)に
兵庫で平清盛の石塔供養に臨んだ」
との旨の記録と関連があると
考えられています。
そのことから、係る石塔が
「清盛塚」と呼ばれた供養塔と目されています。

【祇王寺 平清盛の供養塔】
<所在>
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町
祇王寺は、大覚寺
(旧・嵯峨御所大覚寺門跡)の塔頭寺院です。

【彦島の清盛塚】
<所在>
山口県下関市彦島江の浦町4-15

寿永3年(1183年)、
時の中納言であった平知盛は
亡き父である平清盛の遺骨を携えて彦島に入り、
平家最後の砦・根緒城(彦島城)
の築城に取りかかり、
砦と定めたこの丘陵の小高い場所に
納骨して墓碑を建立したとされています。

【平清盛の人となり】
<平家物語>
「平家物語」では、
悪虐、非道、非情の描写から、
かつての平清盛は成り上がりの
暴君・傲慢な性格の持ち主だという評価が
定着していましたが、
現在では実際の平清盛の人物像は
温厚で情け深いものであったと変化しています。
実際、後の源頼朝や源義経など
源義朝の遺児を殺さずに
伊豆への流罪、仏門入りで
済ませたことが災いして
後に平家を滅ぼすことにもなりました。
最もこれは池禅尼、もしくは彼女の背後の
上西門院や源頼朝の母方の実家の
熱田大宮司家の意向も働いていると言われています。

また若い頃に世話になった
藤原顕時の息子である
葉室行隆が苦境に
陥っていることを知って
援助を申し出るなど、
義理堅い一面が描かれています。

<十訓抄>
「十訓抄」7-27には、
若い頃の清盛について以下の記述があります。

「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、
冗談と思うことにした」
「やったことがちっともおかしくなくても、
相手への労わりとしてにこやかに笑い、
とんでもない誤りをしても、
役立たずと声を荒らげることはない」
「冬の寒い時に身辺に奉仕する
幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、
彼らが朝寝坊をしていたらそっと
床から抜け出して存分に寝かせた」
「最下層の召使いでも、
彼の家族や知り合いの見ている前では
一人前の人物として扱ったので、
その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」

<愚管抄>
平治の乱前後の平清盛についての記述があります。

如才なく諸方に気を配る人物であり、
複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。
しかし大きな権力を持つようになると、
それを維持するために
院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で
強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。

とのことです。

<源平盛衰記>
僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を
偶然に過ぎないと一蹴したり、
経が島では平清盛が
人柱を廃止したという伝説があるなど、
迷信に囚われない開明的な
考え方の逸話が見られるとのことです。

<政治面からの平清盛の功績>
政治的には
財政基盤の開拓(日宋貿易)、
通貨経済の基礎を築き
(宋銭を日本国内で流通)
公共事業の推進(経が島築造)、
貴族的要素が強いとは言え、
貴族政治を打ち破り、
日本初の武家政権を打ち立てるなど、
優れた功績を残しています。
また中途で失敗に終わってしまったとはいえ、
福原(今の神戸)に目をつけ、
交易を通じて第二の都として
発展させようとしたことから、
先見性も高かったことが伺えます。

<武将としての平清盛>
軍記物で政治上手の戦下手と
書かれることが多いですが、
平治の乱では、
複数の部隊を連携させた戦術で
藤原信頼軍を撃破し、
御所や市街地の被害も
最低限に抑えることに成功しています。

<仏教勢力の抑制>
京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた
仏教勢力の抑制に努めました。
強大な武力をもつ宗教勢力が
重大な政治問題に関わることを阻止したのでした。
当時はすこぶる評判が悪かったのですが
この功績は敵である
鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や
念仏宗の保護といった
穏健化した形で受け継がれていったのでした。

【独り言・織田信長を彷彿とさせる】
平清盛の先見性があり革新的て
常識や偏見にとらわれない柔軟な思考回路が
どことなく織田信長を彷彿とさせます。
織田信長は「平氏」と称していましたから
平家の棟梁たる平清盛の生き様を知識として
頭に入れていたのかもしれません。

若い時はヤンチャだったこと、
また暴君とされているけれど、
実は優しくて情のある人物だよ、というところもです。
でも、権力を握るうちに(過度のストレス?)
強硬な手段にでるようになったところも
実によく似ています。
その存在や生き様にスター性を感じさせるところ、
仏教勢力を抑制し、実力行使に出て悪評を買ったところ、
そして志半ばで成し得ず、倒れてしまったところも
やはり似ています。

【時代が求めた人物たち】
時代は廻っていて、
その時々に「時代の寵児」なる
人物が必ず現れます。
「平清盛」は正に「時代の寵児」だったと思います。
その「平清盛」が成しえなかった事を
同じく「時代の寵児」であった
「織田信長」が引き継いで
成し得ていったのだと思ってしまうのです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
松平 健(まつだいら けん)さんが演じられます。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

関連記事

  1. 報国寺 竹の庭 伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は…
  2. 日暮八幡神社 日暮八幡神社~源頼朝が八重姫に会うために待ったひぐらしの森~日暮…
  3. 源範頼(墓所) 源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められ…
  4. 岩船地蔵堂 鎌倉 扇ケ谷 大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気…
  5. 土肥実平と夫人像 土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を…
  6. 岩殿観音正法寺 観音堂 岩殿観音正法寺 ・開基1300年の古刹、源頼朝の庇護の下比企能員…
  7. 山木判官平兼隆館跡 山木判官平兼隆館跡~伊豆目代平兼隆の襲撃~源氏再興の狼煙はここか…
  8. 津幡城跡(物見砦) 津幡城~平維盛が砦を築き、富樫氏が戦い、上杉謙信が布陣、前田利家…

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 高幡城跡~新選組・土方歳三の菩提寺である高幡不動尊~分倍河原の戦いにて上杉憲秋の終焉の地 高幡城跡 

ピックアップ記事

  1. 三箇城址の碑
  2. 比企一族の墓 妙本寺
  3. 小田原城址 天守閣
  4. 蜷川氏館跡(最勝寺)
  5. 長宗我部元親の像
PAGE TOP