鎌倉殿の13人

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

伊東祐親公の像



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伊東祐親

伊東 祐親(いとう すけちか)は、
平安時代末期の武将であり、
伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)の豪族です。
工藤氏の6代目であり、
伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫であり、
河津氏の祖です。
河津祐親(かわず すけちか)とも。

物見塚公園 伊東祐親像

【生誕】
不明

【死没】
養和2年2月15日
(1182年3月21日)

【別名】
次郎、祐近、助親、伊東入道、祐親法師

【墓所】
静岡県伊東市大原

【氏族】
藤原南家、伊東氏、河津氏

【父】
伊東祐家

【養父】
工藤祐隆(祖父)

【兄弟】
祐継、祐親

【子】
河津祐泰、祐清、
北条時政前室、三浦義澄室、
万劫御前(工藤祐経前室、土肥遠平室)、
八重姫
ほか

【同族間の所領争い】
伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった
父親の伊東祐家が早世すると、
祖父である工藤祐隆(法名・寂心)は
後妻の連れ子である継娘が産んだ子
(異説としてその実父は祐隆本人ともされる)
である伊東祐継を養子とし、
嫡男として本領の伊東荘を与えます。
一方同じく養子にした孫の祐親には
次男として河津荘を与えたのでした。
嫡孫として約束されたはずだった
総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、
祐継の死後にその子である工藤祐経が上京している間に
伊東荘を奪った上、
工藤祐経に嫁がせた自身の娘である万劫御前とも
離縁させてしまいます。

曽我兄弟の仇討ちの原因】
これを深く恨んだ工藤祐経は安元2年(1176年)10月、
郎党に命じて狩りの場にいた伊東祐親を襲撃させます。
刺客の放った矢は伊東祐親を外れましたが、
共にいた嫡男である河津祐泰は射殺されてしまいます。
これがのちに伊東祐親の孫達が起こす
曾我兄弟の仇討ちの原因となるのでした。

【祐親と源頼朝
東国における親平家方豪族として
平清盛からの信頼を受け、
平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて
伊豆に配流された源頼朝の監視を任されます。
しかしながら伊東祐親が大番役で上洛している間に、
娘の八重姫が源頼朝と恋仲になり、
更には二人の子供である千鶴丸を儲けたのでした。
伊東祐親はこれを知って大激怒し、
安元元年(1175年)9月、
平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害。
さらには源頼朝自身の殺害を図ります。
頼朝の乳母であった比企尼の三女を妻としていた
次男の伊東祐清が源頼朝に知らせ、
源頼朝は夜間馬に乗って
熱海の伊豆山神社に逃げ込み、
北条時政の館に匿われて事なきを得たということです。
伊東祐親はこの前後に出家しています。




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【源頼朝挙兵】
治承4年(1180年)8月、
源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、
大庭景親らと協力して
石橋山の戦いにてこれを撃破します。
けれども源頼朝が勢力を盛り返して
坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、
富士川の戦いの後に捕らえられ、
娘婿である三浦義澄に預けられます。
源頼朝の妻である北条政子が懐妊した機会を得て、
三浦義澄による助命嘆願が功を奏し、
一時は一命を赦(ゆる)されましたが、
伊東祐親はこれを潔しとせずに
「以前の行いを恥じる」と言い、
三浦義澄邸で自害して果てたとのことです。
なお、異説としては、
神奈川県葉山町史によりますと、
伊東祐親は現在の葉山町にある
鐙摺山(あぶずりやま)で処刑されたとのことです。

<伊東祐親の供養塔(鐙摺山)>
伊東祐親の供養塔(鐙摺山)

鐙摺山には伊東祐親の供養塔があるとのことです。
・・ちんまりとして、うっかりすると見落としがちです。

<鐙摺山(鐙摺城址)>
鐙摺山(鐙摺城址)

【次男の伊東佑清について】
次男の伊東祐清は、
伊東祐親とともに源頼朝軍に捕らえられました。
「吾妻鏡」治承4年(1180年)
10月19日条によりますと、
源頼朝は伊東祐清にかつて
自分を助けた事による恩賞を与えようとします。
けれども伊東祐清は
父が源頼朝の敵となっている以上
その子である自分が
恩賞を受ける事は出来ないとして拒否します。
暇を乞うて平家に味方するために上洛し、
「吾妻鏡」建久4年(1193年)
6月1日条によりますと、
平家軍に加わった伊東祐清は
北陸道の合戦で討ち死にしたということです。
一方で、「吾妻鏡」寿永2年(1182年)
2月15日条では、
伊東祐親が自害を遂げた際、
伊東祐清が自らも源頼朝に死を願い、
源頼朝は心ならずも伊東祐清を
誅殺(ちゅうさつ)したとしています。
(さあ、どっちだ・・)

曽我兄弟の仇討】
源頼朝挙兵の13年後、
建久4年(1193年)5月、
伊東祐親の孫である曾我祐成・時致兄弟が、
鎌倉殿として東国の主となった
源頼朝が催した富士の巻狩りの場で、
父の河津祐泰の仇である
工藤祐経を討ち果たしました。
この事件は曾我兄弟の仇討ちとして
後世に知られる事になりました。

【異説として】

【頼朝と八重姫と政子は同時進行?】
近年、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと
解釈されてきた「曽我物語」記載について、
源頼朝が政子との関係を持ち始めたのは
遅くても安元元年の初夏、
すなわち伊東祐親が京から戻る直前であるおとのことです。
伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴丸を殺害したのは
平家との関係を憚ったのではなく、
源頼朝を庇護する意図があり
娘の八重姫との関係を持つことを
認めていたということです。
けれども縁戚の北条氏の娘の政子とも
関係を持ったことを知っての大激怒し、
千鶴丸殺害及び頼朝襲撃を起こしたとする説です。




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工藤佑経を唆した頼朝?】
源頼朝は伊東祐親が
自分の子供である千鶴丸を殺害したことに
恨みを抱き、同じく伊藤祐親に恨みを持つ
工藤祐経を唆して
奥野の巻狩りの場で伊東祐親を襲撃させて
伊東祐親の嫡男である河津祐泰を殺害させたという説です。

【曽我兄弟の仇討の真の目的は頼朝の暗殺?】
そしてその事情を知った河津祐泰の遺児である
曾我兄弟が仇討と称しながらも、
本当の目的は源頼朝の命を狙ったものであるという説に
つながっていきます。
祖の黒幕は北条時政ともいわれ、
源頼朝を暗殺して弟である源範頼を擁立しようとした
クーデターとのことです。

【伊東祐親の孫】
孫には曾我兄弟の他、
鎌倉幕府第2代執権の北条義時
有力御家人の三浦義村らがいます。

【史跡】

【伝・伊藤祐親館跡】
現在は伊東市役所前の大原物見塚公園となっています。
大原物見塚公園には伊東祐親の騎馬武者像が建てられています。

物見塚公園 館跡の碑 伊東祐親像

高台にあり眺めは良いです。
伊東祐親の地元伊東市では
毎年「伊東祐親まつり」が開催されています。

物見塚公園

【所在地】
〒414-0046  静岡県伊東市大原2-80-1

【交通アクセス】
JR「伊東」駅からバスで6分程度とのことですが、
市街地のコインパーキングに駐車して
市内の史跡めぐりとされてはいかがでしょうか?
坂道はありますが、眺めもいいですし。

【伝・伊東祐親の墓(静岡県伊東市大原町)】
伊東市の指定史跡です。
指定日:1979年9月26日
【所在地】
〒414-0046  静岡県伊東市大原1-11
墓は安山岩の五輪塔で、
空風輪、火輪、水輪、地輪の時期の異なる部材の
組み合わせで構成されています。
文字は、はっきりとした薬研彫りで刻まれており、
高さ140.5センチメートルという大きさから、
領主であった伊東祐親を讃えるものとして
製作されたと伝えられてきたそうです。

伝 伊藤祐親の墓所

空風輪、火輪、水輪は14世紀前半、
地輪が13世紀の製作と思われています。

伝伊藤祐親の墓所 説明板

※駐車場はありません。

この墓所がある界隈は、丘の上で且つ
道幅も広くなく坂道であるので路駐はできません。
市街地のコインパーキングに駐車して
市街の散策巡りの一つとして是非どうぞ。
物見塚公園から徒歩できました。

伝伊藤祐親の墓所エリア

2022年のNHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
辻萬長(つじ かずなが)さん
が辞退したため浅野和之(あさのかずゆき)さんが演じられます。

葛見神社~神の手のような巨大なクスノキが鎮座する伊東家守護の古社で樹齢は全国第2位!

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

真珠院・八重姫御堂~八重姫とは?父親たちの選択によって明暗を分けた娘たち。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

最誓寺(伊東市)~伊東家のお墓及び千鶴丸の菩提寺として~伊東七福神巡りは寿老人です。

伊豆山神社~頼朝が伊東祐親より逃げ込み、政子との逢瀬を重ねた伊豆の地名の発祥の地

大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。

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源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

稚児ケ淵~頼朝と八重姫の子・千鶴丸が沈められたと伝わる場所~松川の上流です。

北条宗時~北条時政の嫡男であったが石橋山の戦いで散る~異説有り。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

三太刀(みたち)城跡~小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?~相模から安芸国沼田荘へ。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

鐙摺山(鐙摺城址)とは?小坪合戦(畠山VS三浦)・伊東祐親終焉の地・亀の前居住・源実朝が一句・三浦道寸が物見

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

丹後局(丹後内侍)~源頼朝の妻妾で比企一族~供養塔が横浜にあります。

虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。

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