鎌倉殿の13人

平賀朝雅~源氏門葉の一族で妻は北条時政と牧の方の娘、故に権力争いの渦中に巻き込まれていきます。

竹藪 愛知



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【平賀朝雅】

平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、
平安時代末期から鎌倉時代前期に
かけての鎌倉幕府の御家人でした。
新羅三郎義光流で源氏門葉として
源頼朝に重用された平賀義信の次男です。
母は源頼朝の乳母である
比企尼の三女です。
源頼朝の猶子となっています。

【生誕】
寿永元年(1182年)

【死没】
元久2年8月2日(1205年9月16日)

【官位】
武蔵守、右衛門佐、伊賀知行国主

【幕府】
鎌倉幕府京都守護

【主君】
源頼朝⇒源頼家源実朝

【氏族】
清和源氏義光流(平賀氏)

【父】
平賀義信

【母】
比企尼の三女

【兄弟】
大内惟義、朝雅、
小野朝信、隆信、小早川景平

【妻】
正室:北条時政の娘

【生涯】
任命時期は不明ながら
父である平賀義信(任期:1184年⇒1195年)、
兄の大内惟義(任期:1195年⇒?)の後を継いで
武蔵守に任じられています。

比企能員の変】
建仁2年(1202年)、
比企氏出身である母が死去しました。
翌年の建仁3年(1203年)9月に
起こった比企氏と北条氏の対立による
比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ
平賀朝雅は北条氏側として
比企氏討伐軍に加わっています。
2代将軍である源頼家が追放され、
3代将軍・源実朝が擁立された直後、
政変による鎌倉幕府の動揺に乗した
謀反を防ぐべく京都守護として
都に派遣されました。

【平家残党の乱(三日平氏の乱)】
同年12月、幕府の政変に乗じて
伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱が起こると、
守護の山内首藤経俊が逃走し、
平賀朝雅に鎮圧が命じられました。
翌年の元久元年(1204年)4月、
平賀朝雅はその鎮圧に成功し、
その功績により
伊賀・伊勢の守護職に任じられました。

【院の殿上人になる】
また「明月記」によりますと、
鎮圧の便宜を図るため、
後鳥羽上皇から伊賀国の
知行国主に任じられており、
御家人としては破格の扱いを受けていました。
なお、平賀朝雅は里見義成を
伊賀守に補任しています。
その後、院の殿上人となって
後鳥羽院に重用されたのでした。

畠山重忠の乱】
建仁3年(1204年)11月、
源実朝の御台所を京都から迎えるため、
朝廷や公家との交渉役を務めます。
その際、御台所を迎えるために
上洛していた武蔵国の御家人である
畠山重保と朝雅の間で口論となりました。
その時は周囲の取りなしで事は収まりましたが、
翌年の元久2年(1205年)6月、
先の口論に端を発した
畠山重忠の乱が起こり、
畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで
討伐されました。




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【原因は牧の方の讒言】
「吾妻鏡」は平賀朝雅が
畠山重保との争いを
妻の母である牧の方に訴え、
牧の方が夫の北条時政に
畠山親子に謀反の疑いがあると
讒言したためとしています。

【武蔵国を巡って畠山氏との対立】
畠山氏は武蔵の最有力御家人で、
武蔵国の国司であった
平賀朝雅とは関係が深いです。
平賀朝雅の舅で幕府の実権を握っていた
北条時政は平賀朝雅の後見人として、
平賀朝雅の上洛後に
武蔵国の行政権を握っており、
武蔵武士団の棟梁である
畠山重忠と対立する
関係になっていたのでした。

【北条時政VS北条義時・政子の対立】
北条時政は畠山父子を排斥すべく
謀反人に仕立て上げたとされ、
北条時政に畠山討伐を命じられた
息子の北条義時と北条時房は
反対したものの押し切られ、
この事件をきっかけに、
北条時政と義時・政子の対立が
決定的になったと「吾妻鏡」は書いています。

【北条家内および畠山氏の軋轢】
これは北条時政の先妻の子である北条義時と
後妻の娘婿である平賀朝雅)を担ぐ
北条時政との北条家内の対立と、
鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る
畠山氏と北条氏の軋轢が
背景にあったものと考えられています。

牧氏事件
元久2年(1205年)7月、
源実朝を廃して平賀朝雅を
新たな鎌倉殿として擁立しようとした
北条時政が失脚しました。
当時、京都守護を兼ねていた
平賀朝雅は8月2日(閏7月26日とも)に
京都で、幕府の実権を握った
北条政子と北条義時の命をうけた
山内首藤通基(経俊の子)によって殺害されました。
「明月記」や「愚管抄」では、
源実朝の名で在京の武士に
「朝雅を討て」と命を下し、
後鳥羽上皇にも奏上。
六角東洞院(中京区)の平賀朝雅の家を
武士が取り巻いて攻めたため、
しばらくは応戦した平賀朝雅も
家に火をかけてから打って出て
大津の方へ落ちていきました。
わざと退路を開けて
落ち延びさせようとしたようで
平賀朝雅は山科(山科区)まで辿り着きましたが、
追ってくる武士もあり、
そこで自害したということです。
伯耆国の守護の金持という武士が
平賀朝雅の首をとって持参したので、
後鳥羽上皇も御車に乗って
大炊御門の面まで出てそれを実検したとのことです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
山中崇(やまなかたかし)さんが演じられます。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

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後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

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