鎌倉殿の13人

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

加藤景廉 一族 墓所




【加藤景廉】

加藤 景廉(かとう かげかど)は
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。
鎌倉幕府の御家人。
藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男です。
源頼朝の4代目にあたる源頼義に
加藤景廉の祖父である
藤原景道が仕えていたとの事です。
この藤原景道が加賀介となり、
「加賀の藤原氏」を「加藤」と略したことから
加藤氏が始まったとも言われているそうです。

【生誕】
保元元年(1156年)頃?

【死没】
承久3年8月3日
(1221年8月21日)

【改名】
景廉、覚蓮房妙法

【別名】
藤次郎、加藤次、景廉法師

【墓所】
静岡県伊豆市牧之郷 一族五輪塔

【官位】
従五位、左衛門少尉、検非違使

【幕府】
鎌倉幕府
【主君】
源頼朝、頼家、実朝

【氏族】
藤原利仁流、加藤氏

【父母】
加藤景員
【兄弟】
光員、景廉

【子】
遠山景朝(遠山氏祖)、
加藤景尚、
加藤景長、
加藤景義、
加藤景経

【人生の歩み】
加藤氏は元々は伊勢国を本拠としていたそうです。
伊勢加藤氏の館は、
安濃津の近くの下部田
(現在の三重県津市南羽所)
にあったと言われていますが、
明確な所在はよくわかっていないそうです。
平氏との争いにより父である
加藤景員に従って伊豆国に下り、
工藤茂光(狩野茂光)らの協力を得て
土着勢力となったそうです。
嘉応2年(1170年)に
伊豆諸島で勢力を伸ばした
源為朝討伐に従軍し、
大敗して自刃した源為朝の首をはねて、
戦功を挙げたと伝わっています。
治承4年(1180年)、
源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、
父や兄と共にその麾下に参じ、
平氏の目代であった
山木兼隆を討ち取るという大功を立てました。
このような武勇に基づき源平盛衰記では
加藤景廉のことを
「殊更きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者」
と記されています。





【石橋山の後に次々と武功をたてる】
源頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、
兄である加藤光員と共に
甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れます。
やがて武田氏と共に駿河国に侵攻します。
鉢田の戦いで目代であった橘遠茂を討ち、
その後は源範頼に付いて瀬戸内海で平家を討ち、
源頼朝の奥州藤原氏攻略の際にも従うなど
幾度かの武功がありました。
その後源頼朝は関東を制圧して
鎌倉殿と称されるようになり、
加藤景廉は側近として源頼朝に仕えました。

【持病有り】
病持ちであったと見られ、
寿永元年(1182年)6月7日、
鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で
酒を飲み過ぎて気を失い、
佐々木盛綱が大幕で加藤景廉を包み抱えて
運び出したというエピソードが残っています。
その翌日、源頼朝が車大路の加藤景廉の家へ
見舞いに訪れています。

【九州から馬で帰っておいで】
元暦2年(1185年)、
源範頼率いる平氏追討に病身を押して
船に乗り九州へ向かいます。
鎌倉に残っていた父の加藤景員は、
息子の加藤景廉がおそらく
死を免れないであろうことを
源頼朝に訴えます。
それを聞いた源頼朝は驚き嘆息し、
親書をもって源範頼に命令して
加藤景廉に療養せしめ、
平癒の後は早く帰すように伝えのでしたた。
そして加藤景廉に懇ろな見舞状と
馬一頭を送ってこれに乗って帰るように
申し送ったとのことです。
(いやいや病でも自力で馬で
帰ってこなきゃいけないのね。
辛いですなぁ・・)

【頼朝の信任厚く】
その後の奥州合戦でも戦功を立てています。
源頼朝からの加藤景廉への信任は厚く、
建久4年(1193年)、
源頼朝の命により安田義資を誅殺し、
その父であった安田義定の所領であった
遠江国浅羽庄地頭職を与えられています。

【御家人たちの粛清の嵐を切り抜ける】
源頼朝が死去した後、
正治2年(1200年)に梶原景時の変で
梶原景時が滅ぼされると、親しかった加藤景廉は
一旦は連座して所領の一部を収公されました。
がしかし、大したことはなかったそうです。
建仁3年(1203年)9月、
比企能員の変において、
北条時政の命で
比企能員を謀殺した仁田忠常を、
北条義時の命によって加藤景廉が謀殺しています。
また比企能員の嫡男の比企余一郎兵衛尉は
女装して戦場を抜け出しましたが、
道中で加藤景廉が首を取っています。
その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、
再度元老の座に返り咲いたのでした。

【実朝暗殺を止められず出家】
三代将軍である源実朝の代に
鎌倉幕府の評定衆となりました。
源実朝が鶴岡八幡宮参詣の際に
警護の任にあたっていましたが、
公暁によって源実朝は暗殺されてしまいます。
この件を受けて加藤景廉は警備不行き届きの責任を感じ、
出家し覚蓮坊妙法と改名します。
承久3年(1221年)6月の承久の乱では
宿老の一人として鎌倉に留まりましたが、
8月3日に亡くなりました。
墓は静岡県伊豆市牧之郷、線路わきにあります。

加藤一族 墓所
※昭和33年9月の狩野川台風の時に流されてしまい、
地元有志の方々が散乱したものを集めて
流失部分を補完して祀ったとの事です。





【領地がたくさん!】
遠江国浅羽荘、伊豆国狩野荘、
甲斐国の大原荘・小松荘、
三河国の河津荘、
上総国の角田荘、
備前国の上鴨荘・下鴨荘、
美濃国遠山荘
(現在の岐阜県恵那市・
中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)
も領地として与えられました。

【遠山荘と加藤景廉】
遠山荘は美濃国恵那郡の大部分で中心地は岩村でした。
文治元年(1185年)に
源頼朝の重臣の加藤景廉が功績により拝領したとあります。
建久6年(1196)に
源頼朝の重臣の加藤景廉が功績により拝領したとあります。
その後、加藤景廉の長男が遠山景朝と称し
遠山氏の初代となりました。
遠山景朝は承久年間(1219年~1222年)、
岩村城の敷地内に八幡神社を創建し、
加藤景廉を誉田別命の配神として祀っています。
岩村町歴史資料館には加藤景廉公の神像が
保存されているとのことです。

【岐阜県恵那市岩村町の加藤景廉伝説】
治承年間の頃、
美濃国の遠山荘では
盗賊が野に充ちて里人が困っていたそうです。
遠山荘の山上邑の邑長は伊
勢神宮を訪れ盗賊の難を免れるよう祈願しました。
するとその夜、神が偉人に命じて
悉く盗賊を誅する夢を見たとのことです。
翌日、宇治橋上に一人の壮士を見たので
名を尋ねたところ、
壮士は自分は伊勢国の住人で加藤景廉と称し、
これから関東へ赴き託する処を求めていると言ったそうです。
邑長は喜び、神が偉人に命じて
悉く盗賊を誅する夢を見たことを伝え、
遠山荘へ招いて盗賊を退治してもらったとのことです。
加藤景廉はその後暫く
遠山荘の山上邑の邑長の家に滞在していましたが
源頼朝が伊豆国で立ち上がったことを聞き
馳せ参じて従っていきました。
そして功を挙げて、
領地を貰う際に遠山荘を請いて
認められたということです。
加藤景廉は山上邑へ戻り、
岩の上に座り城の場所を決めました。
その岩を腰掛岩といい、
その丘を祖父峯(ちちがね)と称したそうです。
今も岩村町の山上家には
加藤景廉が使用したと伝わる
大きな飯椀があるということです。

【兄・加藤光員について】
兄の加藤光員は元久元年(1204年)、
三日平氏の乱で平家残党を追討した賞を受け、
西面武士として検非違使に任ぜられ、
大夫判官と称しました。
その後、伊勢守となり、
承久3年(1221年)の承久の乱では
朝廷方に属したため敗れ、
所領の伊豆国狩野荘牧之郷は没収され、
弟の加藤景廉に与えられました。
没年はわかってはいませんが、
承久の乱の後、
間もなく死去したものと見られています。
加藤景廉の子で、加藤光員の甥にあたる
遠山景朝の領地である
美濃国恵那郡遠山荘の明知
(現在の岐阜県恵那市明智町)の龍護寺に、
加藤光員一族の墓とされる五輪塔が存在しています。

【活躍する子孫】
長男の遠山景朝が岩村城を本拠地として
遠山氏の初代となり、
遠山景朝と称し地頭となり
戦国時代末期まで存続していました。
その分家である苗木遠山氏は
江戸時代に苗木藩1万石の大名となり
廃藩置県まで存続して明治に子爵となりました。
また同じ分家である明知遠山氏
江戸幕府の旗本となりました。
江戸の町奉行となった遠山景元(遠山の金さん)は、
明知遠山氏の分家の子孫です。

武田氏滅亡と共にした加藤氏もあり】
甲斐国都留郡の上野原は
鎌倉幕府に功績のあった加藤景長が支配していました。
戦国時代、加藤氏は数代にわたって
甲斐武田氏や小山田氏に従って当地を支配し、
大倉要害山などに砦を造るなどして
国境を守ったといわれています。
加藤景忠は保福寺や牛倉神社を造営して
当地の支配を強めていましたが、
武田滅亡時に妻子共々討死にし、
その遺領は、近世初頭にかけて
北条・徳川・豊臣の覇権争いに巻き込まれたのでした。

加藤一族の墓

加藤嘉明公も子孫です】
その他に豊臣秀吉の直臣として
活躍した加藤嘉明など、
加藤景廉の子孫は
伊勢、伊豆、甲斐、美濃、
尾張、三河、その他全国に広まっていったのでした。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

仁田館跡~慶音寺に今も残る土塁と堀。仁田忠常とは?

苗木城と苗木遠山氏~天然の巨岩を配し木曽川を従える天空の山城~遠山七頭

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

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