女性

お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。

椿姫観音



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【お田鶴のお方】

お田鶴の方(おたづのかた)は、戦国時代の女性、
飯尾連龍の妻です。
椿姫とも呼ばれています。父は鵜殿長持ですが、
「蛇塚由来記:落城秘怨史」では
父は小笠原鎮実ともされています。
母は今川氏親の娘で今川義元の妹または義妹です。
母方の祖父は今川氏親、
母方の祖母は「尼御台」と言われた寿桂尼です。
今川義元は伯父、北条氏康の正室である瑞渓院は伯母、
徳川家康の正室築山殿とは今川氏の同族で
母同士が義理の姉妹にあたります。
夫の代わりに城を守り城兵や
侍女と共に徳川家康と戦いました。
この逸話から後世の本である
「東海道五十三次:附・名数雑談」では女武者
「皇朝金鑑』では烈女の一人として称されています。

【生誕】
不明(天文19年??(1550年?))

【死没】
永禄11年12月(1568年12月)

【記念碑】
椿姫観音

【別名】
椿姫亀姫(幼名)

【配偶者】
飯尾連龍

【子供】
辰之助、辰三郎、義廣

【父】
鵜殿長持(小原鎮実?)

【母】
今川氏親娘

【親戚】
今川義元(伯父)、
瑞渓院(北条氏康室)(伯母)、
今川氏真(従兄妹)、
北条氏政(従兄妹)、
早川殿(従姉妹(異説あり))、
築山殿(母同士が義理の姉妹)など

【家族】
鵜殿長照(兄)、
西郡局(蓮葉院、徳川家康側室)、
松平伊忠室(姉妹)

【椿姫の生涯】
【出自】
江戸中期に編纂された
「鵜殿家史」の家系図には
三河国宝飯郡上ノ郷城主である
(現在の愛知県蒲郡市)
鵜殿長持の娘が
「飯尾豊前守致実室」と記されており、
現在の愛知県の蒲郡市で生まれたとされています。

上ノ郷城(蒲郡市)

【飯尾連龍の死】
夫の飯尾連龍は、松平家康への内通を
今川氏真に疑われて殺されました。
なお飯尾連龍の死に関しては
諸説存在しています。

<1>
永禄3年(1560年)の今川義元死後、
飯尾連龍は今川氏に背き、
松平氏に心を寄せました。
永禄7年(1564年)に飯尾連龍は
病と称して曳馬城に籠った為、
今川氏真は新野親矩
城を攻めさせましたが城中は堅固で
新野親矩は討死にしました。
その後、永禄8年(1565年)12月に
飯尾連龍も駿河で討たれ討死にしました。
(「遠江」)

<2>
飯尾連龍が今川氏に背き松平家康に内通し、
永禄7年(1564年)に氏真一宮に向かうも
利あらずして退きました。
これが原因で今川氏真は駿府において
逆心を糺明します。
永禄8年(1565年)12月20日には
今川氏真は飯尾連龍を切腹させました。




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<3>
飯尾連龍は己が屋に立て籠もり
兵士を所々に出して大いに力戦、
打手の大将の新野親矩をはじめとして
多くの兵が戦死しました。
その後飯尾連龍は自殺しました。
(「武家事紀」)

<4>
「国別城郭」には上記と異なる事が
記載されております。
永禄7年(1564年)に
飯尾連龍は岡崎に内通して
今川に背きました。
これによって今川氏真は大いに怒り
永禄7年(1564年)12月20日に
飯尾連龍を駿州において自害させたとあります。

<5・井伊直平の死と飯尾連龍>
今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、
曳馬城の城主であった井伊直平は
今川氏真と共に出陣し白須賀で
陣を布いていましたが、
南からの強風が原因で
軍勢から出火し白須賀の
あちこちの集落が焼き払われました。
その件で軍中では井伊直平が
井伊直親の殺害を今川氏真が命じたことの件で
怨んでいたので、白須賀を焼いて
軍の最後尾に被害を与えたのでは
ないかという評価を受けてしまったため、
井伊直平を糾明しようという意見が
軍議のなかで出されたのでした。
井伊直平は火事に関して不慮の事故だと
説明しましたが、今川氏真は過失の埋め合わせとして、
井伊直平に今川氏に背き
武田方に従った遠州八城山城城主の
天野左衛門尉の鎮圧を命じました。
井伊直平が出陣の支度をしていると、
お田鶴の方、天野左衛門尉、
井伊直平の家老だった天野左衛門尉の縁者は
飯尾連龍へ反逆を勧め、共に井伊直平に反逆しました。
永禄6年(1563年)9月18日に
井伊直平が出陣する際、
お田鶴の方が井伊直平に茶を勧めましたが、
その茶には毒が入っており、
井伊直平の先鋒隊が
遠江国領の蔵中瀬村まで達した時、
有玉旗屋の宿にて落馬し井伊直平は死亡しました。
けれども「井伊家伝記」の別の章には
飯尾連龍が井伊直平に毒薬を進め
井伊直平はその毒薬が原因で
死亡したとも記されています。
このように井伊直平の死は謎が多く、
意識不明のまま川名に運ばれ、
川名の鎧橋で落馬して死んだ、
敵の急襲を受け討死したなど、
諸説存在しています。
この時、従者の大石作左衛門が
井伊直平の遺体を故郷の川名に
馬で運ぶと殉死しました。
その後、井伊直平の家臣全員が
曳馬城へ引き返した所に、
飯尾連龍は味方の家臣を従えて
曳馬城の大手門の警護を固め籠城しました。
この時井伊直平の家来も毒死。
生き残った者の多くは飯尾連龍達の
味方になったとのことです。
その後も飯尾連龍は
今川氏真にも反逆を企み従わず、
永禄11年(1568年)に
飯尾連龍は曳馬城の城主となりますが、
後に今川氏真は松居郷八郎という
別懇の武士を以って飯尾連龍に和談を申し入れ
酒宴を催しましたが、飯尾連龍は
辰之助と共に今川氏真によって
駿府で切腹させられたとのいうことです。
(「井伊家伝記」)

<6>
飯尾連龍が松平家康に内通し、
病と称して曳馬城に引き返してる間、
新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに
今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に
三千人の兵を曳馬城へ差し向け、
有無を言わさずにいきなり攻撃するも、
飯尾連龍は防戦し撃退しました。
今川氏真はますます怒り、
大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めましたが
城は落ちず、飯尾連龍は敵陣に対して
矢文で起請文を出し、
今川方の寄せ手はそれを受け取り引き返しました。
その後氏今川真に罪を許された飯尾連龍は
礼謝の為に駿府に来ましたが
今川氏真に謀殺されたのでした。
(「改正三河後風土記」)




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<7>
飯尾連龍が織田信長と松平家康に
内通していたことを知った今川氏真は
曳馬城を攻め込むも落とせず、
後に今川氏真の調略を以って和談しましたが、
飯尾連龍は永禄8年(1565年)12月に
駿府の二の丸の飯尾屋敷に
押し詰められ謀殺されたのでした。
(「浜松御在城記」)

<8>
「皇朝金鑑」「民政史稿.風尚民俗篇」では
永禄10年(1567年)に
飯尾連龍が今川氏真の猜疑によって殺された
と記されています。
なお「修身事蹟:婦女必読」では、
飯尾連龍は今川氏真と戦い
討死と記されているとのことです。

<9>
「武徳編年集成」では上記の史料とは異なり、
飯尾連龍が松平家康へ内通している疑いを
何者かに風説されたため、
永禄8年(1565年)12月20日に
今川氏真は飯尾連龍を駿府城内へ召し寄せ
兵士100名に襲わせたとあります。
飯尾連龍の兵も2~30名の兵で防戦したので、
今川氏真の兵も多く戦死、
この時お田鶴の方が無双の強力で
しばしば出て奮戦したとのことです。
これを同史料では「氏真渠を駿府に召寄軍士百騎計を以て
其屋敷を囲み攻て鏖になす于時飯尾が
士二三十騎死戦をなすゆへ寄手多く討る、
致実が室無双強力屢奮ひ戦ふ」と記していのことです。
この出来事を「駿府の小路の戦い」と称していました。
八切止夫氏の「秘聞 柳生石舟斎」では、
「『武徳編年集成』には何者かが飯尾連龍は
今川の裏切り者であるという風評を
しきりに撒き散らしたので、
今川氏真は飯尾連龍を駿府城内へ呼び、
二の丸にある飯尾の館で遠州から来た
飯尾連龍夫妻が一服していたところを
今川氏真は兵士100名に襲わせた、
この時お田鶴の方は手に滑り止めの
粉白粉をつけ薙刀を奮って
10名余りの今川方の侍を切り伏せたが、
衆寡敵せず飯尾連龍と共に首を取られ、
二の丸大手門に晒された。」
と上記と異なることが記されています。




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【飯尾連龍の死後】
<1>
「井伊家伝記」によりますと、
飯尾連龍の死が原因で遠州引馬の家人は
大いに騒動になり、これによって
飯尾連龍の家老の江間泰顕と
弟の江間時成の流浪は目前になったとあります。
江間時成は徳川氏に、江間泰顕は
兄の一徳を頼り武田氏に内通しようとしましたが、
江間泰顕が江間時成を殺害、江間泰顕は
江間時成の家来の小野田小次郎に殺害されたとあります。

<2>
「遠江」には家老の江間時成、江間泰顕が
城を守るも徳川派と武田派に分裂したため
二人は争い共に討死したと記されています。
「浜松御在城記」には飯尾連龍の死後、
家臣の江間時成、江間泰顕が曳馬城を守るも
江間泰顕は秋山信友を頼り武田氏に、
江間時成は徳川家康に内通しようとしたとのことです。
やがて江間泰顕が江間時成を殺害、
江間泰顕は江間時成の家来の
小野田彦右衛門に殺害されたとのことです。

<3>
「国別城郭」では、お田鶴の方は
曳馬城に立て籠もり飯尾別心無き事を
駿府に訴えていましたが、
飯尾連龍の家臣の江間時成、江間泰顕は
猶岡崎に内通していたと記されています。

<4>
しかし「改正三河後風土記」には
お田鶴の方は夫が今川氏真によって
謀殺された事に対して憤り、
堅固に籠城を決意し、城兵を指揮して、
小国の武藤刑部丞を頼り
武田氏に内通したともあります。

【徳川家康に攻められる】
飯尾連龍の死後、お田鶴の方が
曳馬城を守っていたとされています。
やがて、永禄11年(1568年)12月に
徳川家康が城を攻めてきます。
この時の様子に関しても諸説存在するとのことです。

<1>
お田鶴の方が防戦の指揮をとり、
しばしば突出して、
ついには侍女郎従も従って
奮闘するも討死にしました。
(「遠江」)

<2>
江間時成、江間泰顕と共に城を守っていましたが、
永禄11年(1568年)12月に落城しました。
お田鶴の方は侍女18人と
共に出て力戦しましたが討死したとのことです。
(「武家事紀」)




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<3>
「浜松合戦、井伊後室敗死」という題で
飯尾豊前守後室ではなく
井伊豊前守後室となっております。
しかし「井伊家伝記」では、
これは井伊直平が年老いていたため、
出陣の際に飯尾連竜が代理人として
出陣していたので、
井伊豊前守と
聞き伝えられていたのだと
記されています。
永禄10年(1567年)に徳川家康が
松下常慶、後藤太郎左衛門を
使者として送り、
城を明け渡せば妻子共々
面倒を見るとのことでしたが、
お田鶴の方は
「女と雖(いえど)も弓馬の家の者」
と城を明け渡すのを拒否したため、
徳川家康は12月24日に
城を攻めましたが城兵が突出したため
家康軍は敗北、翌未明に家康軍は再度攻め
二、三の丸を破るも、家康の兵は300人討死し、
城兵も200余り討死したとのことです。
最期は緋威の鎧を着て
長髪が乱れたお田鶴の方と
長刀を持った侍女17人が
左右に並び門を開けて突戦するも
全員討死したとあります。
(「徳川伝記」)

<4>
家老の江間泰顕と江間時成が討たれても
次男・辰三郎を介抱していた
お田鶴の方は降参する様子を
見せなかったため、徳川家康は松下常慶、
後藤太郎左衛門を使者として送り
「おとなしく城を明け渡せば
給与の扶持米も合力米も渡し
妻子共々面倒を見る上に領地も保障する。」
と降伏を勧めましたが、
お田鶴の方は辰三郎を大切に思い
なかなか承引せず、城兵300人余りで
城の守りを固め、そればかりか
過言な返事をしたとのことです。
そのため家康は城を攻めましたが
城兵はこれを防ぎ、
厳しい鉄砲の打ち掛けあいになったそうです。
家康の兵は300人討死し、
城兵も200余り討死しましたが、
家康の軍は大軍だったため崩れず、
家康の兵は二、三の丸を攻め入った時、
お田鶴の方と次男・辰三郎と
侍女18人左右に随え
城外へ討って出て粉骨を尽くすも
全員討死したとのことです。
(「井伊家伝記」)

<5>
飯尾が家臣・時成、泰顕両人の内意で
家康が家臣・松下常慶、
後藤太郎左衛門両人を使者として派遣し、
城を明け渡せば妻子だけでなく
家人共々面倒を見ると言って
諫めようしましたが、
お田鶴の方がどうしても
応じなかったため、
家康が曳馬城を乗っ取る為に
酒井忠次石川数正に攻め込ませましたが、
お田鶴の方が防戦の指揮をして
城兵はしばしば突き出て激しく戦い、
酒井・石川は大いに敗走、
その翌日、酒井・石川がまた激しく攻め立て、
遂に外郭に乗り込まれると、
お田鶴の方が緋威の鎧と同じ
毛の兜を着て薙刀をふるって
敵中に切って入り、侍女7~8人
(「概説静岡県史」では侍女18人)も
同じ装いで出て立ち、城兵5、60人と
同じく勇戦し男女一人も残らず討死したとのことです。
(「改正三河後風土記」「武家名目抄」
「東海道五十三次:附・名数雑談」「概説静岡県史」)




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緋威の鎧と同色の兜を着て
長刀を持って侍女7、8人と
同じく出て左右に立ちはだかりました。
(「古事類苑」)

<6>
永禄11年(1568年)に
お田鶴の方が曳馬城に籠もってたので、
徳川家康は松下常慶、
後藤太郎左衛門を使者として送り、
「城を渡されよ、さらは扶持しまいらせ、
家の子もすへてよきにはからいなむ」
と説得しましたが、
お田鶴の方が応じなかったので
家康は曳馬城を攻めました。
やがて12月24日の夜、
塩市口より切り出て戦いましたが、
徳川家康は数多の軍兵だったため、
翌日二、三の丸を破りました。
しかし家康の兵は300人討死し、
城兵も200余り討死、
お田鶴の方は侍女18人引き連れ
切って出るも一ヶ所で
全員討死したと
板倉家の記に記されているとのことです。
しかし、これは時代の違う
大河内兵庫助の合戦の事で、
実際はお田鶴の方が今川氏の出身なので、
二股左衛門の計らいで人質として
駿河に行ったのではないかとも記されています。
(「遠江国風土記伝」「卑馬拾遺」「浜松御在城記」)

曳馬城(浜松城の前身)

<7>
徳川家康が使者を送り
「城を致さしめ其邑を全からしめんとす。」
と城を渡せば亡き夫の領地を
そのまま渡すと説得しました。
けれどもしかしお田鶴の方は
「妾婦女と雖(いえど)も己に
武夫の家に生(はべ)るものなり、
おめおめ城を開きて降参するは
妾(わらわ)の志にあらず。」
と申したため、
家康は兵を使って城を攻めました。
このお田鶴の方の物言いに家康は
大層立腹したとも伝えられています。
城兵は大いに戦い家康の兵は300人討死、
城兵も200余り討死。
やがて外郭を破る時、お田鶴の方は鎧を着て
髪を垂れ薙刀をふるい侍女17人と共に
左右に並び門を開けて突戦するも全員討死。
「皇朝金鑑」「民政史稿.風尚民俗篇」では
少し異なり髪を被り甲を擐き
眉尖刀をふるい縦横に突戦し、
向かう所披き靡いたが皆戦死したと
記されています。
「修身事蹟 : 婦女必読」では、
後に徳川家康は大いに
この事を惜しんだということです。




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<8>
家康が永禄11年(1568年)12月24日に
使者を使って
「先さに吾に降り今又今川に属す
故に攻むと云へとも城を致さは
飯尾豊前守の後室を扶助すへし」
と城を渡せばお田鶴の方を
扶助するとのことでしたが、
お田鶴の方が承引しなかったため、
12月25日に家康は城を攻めました。
この時お田鶴の方は甲冑を着て300人余り
従えていましたが、
お田鶴の方含む皆戦死、
徳川家康の兵も300人死傷したとのことです。
(「尾参宝鑑」)

【椿姫の伝説】
椿姫観音に関する伝説では
こうも書かれているとのことです。
<1>
「家康の愉快な伝説」では、
永禄11年(1568年)12月、
これまで岡崎城にいた徳川家康は、
織田信長との盟約によって、
徳川家康は三州から中山峠を経て遠江に入り、
後藤太郎左衛門と松下与右衛門の両人を
曳馬城に派遣しました。
この時、曳馬城の城主である飯尾連竜が
今川氏の為に謀殺された為、
その妻のお田鶴の方が城を守っていました。
徳川家康は曳馬城を明け渡すなら
一族共々面倒を見ると言いましたが、
お田鶴の方が拒否したため、
交渉は不調に終わり、徳川の兵が城を攻めました。
この時、気丈夫なお田鶴の方は、
緋縅の鎧に同色の兜を被り、
長刀を振って城門に立つと、
続いて赤い襷に白の鉢巻をし、
薙刀を持った侍女18人と
勇んだ意気軒昂な数百の城兵達と共に
押しよせる徳川の兵に向って打って出て
2、3日は敵を追い払いましたが、
12月24日、城兵は討死し、
お田鶴の方も18人の侍女達と共に
枕を並べて戦死しました。
その後、お田鶴の方含む戦死者の遺骸を埋め
一杯に椿(つばき)の木を植えた塚を作り、
その場所は「椿塚」または
「椿屋敷」というようになりました。
それから何年か経った後に
椿塚には一面に赤い椿の花が咲き誇りました。
椿塚の跡と思われる元浜町に
お田鶴の方を祀った「椿姫観音大菩薩」
の小祠があり、徳川家を憚ってか
祠は大きくはしなかったとのことです。
薄命の佳人への惻隠の情か、
節操高く生きた憧憬の念か、
今も昔も変わらず
この辺りの女性の参拝客が多いということです。




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<2>
「浜松の伝説 上」では、
飯尾連竜の死後、
曳馬城はお田鶴の方が守っていました。
お田鶴の方は美しく
優しく男勝りの気性だったので、
城の侍も町民たちもよく
言い付けに従っていました。
その頃、三河には徳川家康がおり、
徳川家康は何回も使者を出し、
徳川家康は
「城を明け渡し、徳川方にしたがってはどうか。
もし言う事を聞いたら、
たくさんの褒美をとらせよう。」
と言って誘いましたが、
「女と思いあなどりおる。」
ときっぱり撥ね付け、聞き入れませんでした。
やがて、痺れを切らした徳川家康は
曳馬城を取り囲みましたが、
この時、お田鶴の方は
甲斐甲斐しく城兵を指揮して戦いました。
けれども徳川家康の大軍相手に、
城を支えきることができませんでした。
やがて、覚悟を決めたお田鶴の方は
緋縅の鎧に身を固め、
薙刀を抱えながら、
侍女を引き連れ、
敵陣に切り込み攻めよせる
敵兵を切り倒し進みましたが、
多勢に無勢だったため討死しました。
徳川家康は惜しい女性を殺したと、
その後、元浜町にその墓を建てました。
後に椿姫観音が建立され
その場所はお田鶴の方が
住まわれたという椿屋敷の跡だということです。

・・・亡くなった年は
現代だと高校3年生から大学生になった、
あるいは社会人なりたての年齢。
新成人の年齢ですね。
ちなみに北条政子はこの年齢はまだ未婚でした・・・。

【椿姫の名の由来】
椿姫という名は
その死を哀れんだ
築山殿が植えた100本余りの
椿の花に由来しているとのことです。

武勇と節操】
このお田鶴の方の戦いを
「彼妻去就の是非は
論ずるにたらざれども、
其志操の節烈は丈夫にも
まさりたりと感ぜぬ者なし」
とその志操の節烈は
丈夫にも勝りたりと
感じない者はいなかったと
「改正三河後風土記」では記しています。

大正時代に発行された芳賀矢一の
「東海道五十三次:附・名数雑談」でも
このことに関して
「天晴(あっぱれ)武士道の意気地(いきじ)。
武勇は巴板額にも劣らず、
節操は細川氏夫人にも優(まさ)って居る。」と、
「民政史稿.風尚民俗篇」では
「巾幗の身を以って、奮戦、節に死したる、
飯尾豊前が妻の如きは、
最も美とすべきものあり。」
とお田鶴の方の武勇と
節操の高さを讃えています。




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【今川氏真の下知】
「浜松凧・屋台:凧の生みの親椿姫観音」という本の
「椿姫観音由来記」によりますと、
お田鶴の方は
「今川の恩義に最後まで生き、
あわれその落城を彩った
華麗な若き美丈夫で、
侍女18名の方々とともに
卑馬野の露に果てた」と
最後まで今川の恩義に生きたと
記されています。
飯尾連龍の死後、
今川氏真が「飯尾は度々当家に対し忠節したる者。
その家断絶せんは不憫のこと、
其の妻に本領安堵せしむ、
引間の城に居住すべし。
其老臣安藝守同加賀守後見すべし。」
と下知したとも記されています。

【築山殿と椿塚】
御台塚、椿姫塚、蛇塚と呼ぶ塚があり、
最近観音堂が成立されました。
永禄11年(1568年)12月、
お田鶴の方が徳川家康と戦って、
この地で悲壮な最後をとげました。
母同士が義理の姉妹にあたり、
同じ今川一族の出である
築山殿は「あわれなことよ。」
と声をあげて泣き、
侍女達と共に西来院の
儀翁祐和尚を連れて
お田鶴の方の戦死の場所に行き
讀経供養を営んでから、
塚の周囲に百十株の椿を植え、
「この椿ながく年ごとに咲いてたも、
願わくばお田鶴どのの未來に榮えあらせ給え、
護りませ給え。」と念じたとのことです。
不思議にも数日後に椿は、
紅いゆかりの色と香をこめて
微笑むように咲きほころびたということです。
その後も築山殿は足繁くこの塚に詣でました。
ある日、築山殿が塚の前に額づいて、
いつまでも泣いているのを
付き添っていた松平信康
「泣かで、とく歸らせ給え。」と言ったそうです。
すると築山殿は
「ひとの末路の哀れさを泣く、わらわも和子も、
やがて又ひとに哀れを語られる身となるやも知れぬ。
さだめがたき人の世ぞ、ひとごとではない、
みなわが身の上のことじや。」
と諭したというのが
元浜町の椿屋敷の由来だということです。




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【異論、塚の主は椿姫にあらず】
異論もあります。
「曳馬拾遺』は「この塚かの後室の塚にやあるらん。
されど或る記には、
これ大河内兵庫の助勢の合戰の事にして、
時代も違いたる事なり。殊に味方の手負、
死人300もあらば、
名ある將の十餘も討死あるべく侍るなり。
又乗龍の北の方は今川家のやからなれば、
二股左衛門の計らいにて、
事濟みにしあれば、
人質として駿河にこそあるべく侍れ、
若しくは江間安藝の妻などにやあらん。
さればこの塚の主誰なりけん。といっている」
とこの塚はお田鶴の方の塚ではなく、
板倉家記に記された戦いのことは
大河内兵庫の助勢の合戰の事で時代も違い、
味方の死者が300もあれば
名のある将も討死してるだろう、
それにお田鶴の方は今川家の一門なれば、
二股左衛門の計らいにて、
人質として駿河に行ったのではないか、
それとも江間泰顕の妻であろうか。
この塚の主は誰なのか?
といっていると記されているとのことです。
(「浜松風土記」)

【浜松祭り】
お田鶴の方と飯尾連龍の嫡男である
義廣の誕生を城主をはじめ
城下の人々は一同に祝って、
入野村の佐橋甚五郎が
飯尾連竜の嫡男の名前である
義廣と書いた大凧を揚げ、奉祝しました。
これが基となり、家で嫡男が誕生すると、
大凧を揚げ、町をあげてお祝いする
風習が生まれたのが
浜松祭りの起源であると
言われています。
が、近年では創作であるとの
研究が進んでいるそうです。

勇壮な凧あげ合戦と
御殿屋台引き回しで
知られる浜松まつりは
今や日本有数の
お祭りですからね。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
関水 渚(せきみず なぎさ)さんが
演じられます。

西郡局~家康の次女で北条氏直及び池田輝政の妻となった督姫の生母で姉妹にはお田鶴の方(椿姫)がいます。

築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

上ノ郷城 と鵜殿長照~伯父は今川義元、その子らは築山殿・松平信康・亀姫と身柄交換となった。

鵜殿長照~今川家臣、長照の子供達と築山殿・信康・亀姫と人質交換になりました。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。

糸(早川殿)~政略結婚で今川氏真の正室になりましたが、最期まで添い遂げました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

細川ガラシャ(明智玉・明智珠)父・明智光秀~聡明で気高く、愛と信仰に殉じた細川忠興の正室

巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。

板額御前~鎌倉時代初期に実在した女武将、後に弓の名手の浅利与一の妻になりました。

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