徳川家臣

今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。

掛川城と桜



スポンサーリンク



今川氏真

今川 氏真(いまがわ うじざね)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての
武将及び戦国大名で文化人です。
今川氏12代当主となります。

父である今川義元桶狭間の戦い
織田信長によって討たれ、その後、
今川家の当主を継ぎましたが、
武田信玄徳川家康による
駿河侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡しました。
その後は同盟者でもあり
正室の早川殿の実家である小田原北条氏を頼り、
最終的には桶狭間の戦いで
今川家を離反した徳川家康
和議を結んで臣従し庇護を
受けることになりました。
今川氏真以後の今川家の子孫は
徳川家に高家待遇で迎えられ、
江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続したのでした。

江戸城 平川濠 北桔橋門

【家督相続】
天文7年(1538年)、
今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に
嫡子として生まれました。
天文23年(1554年)、
北条氏康の長女である早川殿と結婚し、
甲相駿三国同盟が成立しました。

弘治2年(1556年)から
翌年にかけて駿河国を訪問した
山科言継の日記「言継卿記」には、
青年期の今川氏真も登場しています。
山科言継は、弘治3年(1557年)正月に
今川氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、
今川氏真に書や鞠を送ったりしたことを
記録しています。

今川氏真は永禄元年(1558年)より
駿河や遠江国に文書を発給しており、
この前後に今川義元から
今川氏真に家督が譲られたとするのが、
研究上の見解となっています。

【家督相続した理由として】
この時期の三河国への文書発給は
今川義元の名で行われていることから、
今川義元が新領土である
三河の掌握と尾張国からさらに西方への
軍事行動に専念するため、
今川氏真に家督を譲り形式上は隠居し
本国である駿河・遠江の経営を
委ねたとする見方が提示されています。

【今川義元討たれる】
永禄3年(1560年)5月19日、
尾張に侵攻した今川義元が
桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、
今川氏真は今川家の領国を継承することになりました。




スポンサーリンク



【桶狭間の戦いの損失】
桶狭間の戦いでは、
今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や
国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死しました。
今川義元体制を支えてきた重臣層や
有力国人の戦死は
今川氏内部の体制の変化を
迫るものとなったでした。
三河・遠江の国人の中には、
今川家の統治に対する不満や
当主死亡を契機とする紛争が広がり、
今川家からの離反の動きとなって現れました。

桶狭間古戦場伝説地 国指定史跡

【三河の国人の大きい犠牲】
三河の国人は、今川義元の対織田戦の
陣頭に動員されており、
その犠牲も大きかったのでした。
今川氏真は三河の寺社・国人・商人に
多数の安堵状を発給し、
動揺を防ぐことを試みています。

【松平元康の断交】
しかし、西三河地域は桶狭間の
合戦後旧領岡崎城に入った
松平元康(永禄6年(1563年)に家康に改名)の
勢力下に入りました。
永禄4年(1561年)正月には
足利義輝が今川氏真と松平元康との和解を
促しており、北条氏康が仲介に
入ったこともありますが、
松平元康は今川家と断交し、
織田信長と結ぶことを選ぶのでした。
この事態は今川氏真には痛恨の事態であり、
後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱
などと記して憤りを見せています。

【三州錯乱】
東三河でも、国人領主らは今川氏真が
新たな人質を要求したことにより不満を強め、
今川家を離反して松平方につく国人と
今川方に残る国人との間での
抗争が広がります。
永禄4年(1561年)、
今川家から離反した菅沼定盈の
野田城攻めに先立って、
小原鎮実は人質十数名を
龍拈寺で処刑しましたが、
この措置は多くの東三河勢の離反を
決定的なものにしたのでした。

【今川の勢力が三河から駆逐】
元康は永禄5年(1562年)正月には
織田信長と清洲同盟を結び、
今川氏の傘下から独立する
姿勢を明らかにしています。
永禄5年(1562年)2月、
今川氏真は自ら兵を率いて
牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃しましたが、
「一宮の後詰」と呼ばれる松平元康の奮戦で
撃退されています。
このとき、駿府に滞在していた
外祖父である武田信虎の動きが
不穏であり、今川氏真は途中で
軍を返したともいわれています。
永禄7年(1564年)6月には
東三河の拠点である吉田城が開城し、
今川氏の勢力は三河から駆逐されました。




スポンサーリンク



【遠州惣劇、遠州錯乱
遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、
井伊谷の井伊直親曳馬城主・飯尾連竜
見附の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる
離反の動きが広がりました。
永禄5年(1562年)には
謀反が疑われた井伊直親を
重臣の朝比奈泰朝に誅殺させています。
ついで永禄7年(1564年)には
飯尾連竜が松平家康と内通して反旗を翻しました。
今川氏真は、重臣・三浦正俊らに命じて
曳馬城を攻撃させますが
陥落させることができず、
逆に三浦正俊が戦死してしまいます。
その後、和議に応じて降った
飯尾連竜を永禄8年(1565年)12月に謀殺。
飯尾氏家臣が籠城する曳馬城には
再び攻撃がかけられ、
永禄9年(1566年)4月に
開城することによって反乱は終息したのでした。

曳馬城(浜松城の前身)

【後見は寿桂尼
今川氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて
政治を行っていたと見られています。
永禄3年(1560年)後半から
永禄5年(1562年)にかけて
今川氏真は活発な文書発給を行い、
寺社・被官・国人の繋ぎ止めを図っています。
外交面では小田原北条氏との連携を維持し、
永禄4年(1561年)3月には
長尾景虎の関東侵攻に対して
小田原北条家に援兵を送り、
川越城での籠城戦に加わらせています。
また、永禄4年(1561年)に
室町幕府の相伴衆の格式に列しており、
幕府の権威によって
領国の混乱に対処しようとしたと
考えられています。

【織田信長より先んじた楽市】
内政面では、永禄9年(1566年)4月に
富士大宮の六斎市を楽市と
することを富士信忠に命じ、
徳政の実施を命じたり、
役の免除などを行ったりしました。
楽市は織田信長より先んじた政策でした。
しかし、これらの政策を以ても
衰退を止めることはできなかったのです。

【今川の政権末期】
甲陽軍鑑」など後世に記された諸書には、
今川氏真が遊興に耽るようになり、
家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)
を寵愛して政務を任せっきりにしたとしています。
また、政権末期にはこうした
特定家臣の寵用や
重臣の腐敗などの問題が
表面化しつつあったと指摘されています。

【遊興三昧の今川政権末期】
里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に
駿河を訪問した際に記した「富士見道記」では、
今川氏真を初め領内の寺社や公家宅で盛んに
連歌の会や茶会を興行していることが記録されています。
この時期も三条西実澄や冷泉為益が
駿府に滞在しており、今川氏真政権末期にも
歌壇は盛んでした。
「校訂松平記」によりますと、
永禄10年7月には駿河に風流踊が流行し、
翌年の夏にも再発しました。
この際、今川氏真自ら太鼓を叩いて
興じたということです。
同書は三浦右衛門佐が
今川氏真に勧めて風流踊を
流行させたとしています。

【甲駿同盟のほころび】
今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、
永禄4年(1561年)の
川中島の戦いを契機に
北信地域における
越後上杉氏との抗争を収束させると
外交方針を転換しました。
桶狭間の後に今川氏真は
駿河に隣接する甲斐河内領主の
穴山信友を介して
甲駿同盟の確認を行なっており、
武田信玄も今川氏の重臣である
岡部元信に侫人(ねいじん)が
今川氏真に対して自分に関する讒言を
していることを憂慮して
執り成しを依頼する書状を送っていますが、
永禄8年(1565年)には
今川氏真妹・嶺松院を室とする武
田家嫡男の武田義信が廃嫡される
事件が発生し、
2年後の永禄10年(1567年)11月に
嶺松院は今川家に還され、
甲駿関係においては婚姻が解消されたのでした。




スポンサーリンク



【甲駿関係の緊迫】
同時期に武田家では世子である諏訪勝頼の正室に
織田信長養女・龍勝院を迎え、
さらに徳川家康とも盟約を結んだのでした。
これにより甲駿関係は緊迫し、
今川氏真は越後国の上杉謙信と和睦し、
相模国の北条氏康と共に
甲斐への塩止めを行ったということですが、
武田信玄は徳川家康や織田信長と
同盟を結んで対抗したため、
これは決定的なものにはならなかったのでした。

【甲駿同盟の手切れと駿河侵攻】
永禄11年(1568年)末に
甲駿同盟は手切に至り、
12月6日に武田信玄は甲府を発して
駿河への侵攻を開始しました。
12月12日、薩埵峠で
武田軍を迎撃するため
今川氏真も興津の清見寺に出陣しましたが、
瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・
三浦義鏡など駿河の有力国人21人が
武田信玄に通じたため、
12月13日に今川軍は潰走し、駿府も占領されました。

掛川城へ逃れる】
今川氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れました。
早川殿のための乗り物も用意できず、
また代々の判形も途中で紛失するという逃亡でした。
しかし、遠江にも今川領分割を
武田信玄と約していた徳川家康が侵攻し、
その大半が制圧されました。
12月27日には徳川軍によって
掛川城が包囲されましたが、
朝比奈泰朝を初めとした
家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となりました。

掛川城

【戦国大名としての今川氏の滅亡】
早川殿の父である北条氏康は
救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。
戦力で勝る北条軍が優勢に展開しましたが、
武田軍の撃破には至らず戦況は膠着しました。
徳川軍による掛川包囲戦が
長期化する中で、
武田信玄は約定を破って
遠江への圧迫を強めたため、
徳川家康は今川氏真との和睦を模索します。
永禄12年(1569年)5月17日、
今川氏真は家臣の助命と引き換えに
掛川城を開城しました。
この時に今川氏真・徳川家康・北条氏康の間で、
武田勢力を駿河から追い払った後は、
今川氏真を再び駿河の国主とするという
盟約が成立しました。

しかし、この盟約は結果的に
履行されることはなく、
今川氏真及びその子孫が
領主の座に戻らなかったことから、
一般的には、この掛川城の開城を以て
戦国大名としての今川氏の滅亡、
統治権の喪失と解釈されています。

【徳川家の庇護下となる】
同年、今川家臣の堀江城主である大沢基胤が、
徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しています。
その際に大沢基胤は今川氏真に
降伏を許可して貰うための書状を送っています。
今川氏真は今川家の逼迫した
情勢を考慮して大沢基胤の意見を受け入れ、
「随意にして構わない、
これまでの忠誠には感謝している」と、
徳川家康の軍門へ下ることを許可しており、
また大沢基胤のこれまでの働きを労っています。
大沢基胤は徳川家康に降伏し、
堀江城主としての地位は容認され、
徳川家臣となりました。
これにより徳川家康との主従関係が逆転し、
家康の徳川家による庇護下で
江戸時代を生き残ることになるのです。




スポンサーリンク



【流転の日々】
掛川城の開城後、今川氏真は
正室である早川殿の実家である
北条氏を頼り、蒲原を経て
伊豆戸倉城に入っています。
なお大平城との見解もあります。
そののち小田原に移り、
早川に屋敷を与えられます。
なお、今川氏真夫妻と共に
行動していた人物の中に、
伊勢盛時(北条早雲)の娘で
今川氏重臣・三浦氏員の妻であった
長松院がいましたが、
長松院の弟にあたる
北条幻庵が北条氏康父子らに
彼女の救助を掛け合っていたことが知られ、
また早川に幻庵の所領があったことから、
今川氏真夫妻の庇護にも
北条幻庵が関与していたとする見方があります。

【国王丸(後の北条氏直)を猶子とする】
永禄12年(1569年)5月23日、
今川氏真は北条氏政の嫡男である
国王丸(後の北条氏直)を猶子とし、
国王丸の成長後に駿河を譲ることを約しました。
なお、この時点で嫡男の範以は
まだ生まれてはいません。
しかし、実際には縁組から程なく、
今川氏の家督を国王丸に譲らされ、
今川氏真の身分は「隠居」
ということにされています。

越相同盟
また、武田氏への共闘を目的に
上杉謙信に使者を送り、
今川・北条・上杉三国同盟を結びました。
実態は越相同盟です。
駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、
花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を
継続するなど今川勢力の活動は
なお残っており、今川氏真を後援する
北条氏による出兵も行われました。

【駿河に若干の直轄領?】
抗争中の駿河に対して今川氏真は
多くの安堵状や感状を発給しています。
これらの書状の実効性を
疑問視する見解もありますが、
今川氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、
国王丸の代行者・補佐役として
北条氏の駿河統治の一翼を担った
との見方もあります。
けれども、蒲原城の戦いなどで
北条軍は敗れ、今川家臣も
順次武田氏の軍門に降るなどしたため、
元亀2年(1571年)頃には大勢が決し、
今川氏真は駿河の支配を
回復することはできませんでした。

【甲相一和】
元亀2年(1571年)10月に
北条氏康が没すると、
後を継いだ北条氏政は外交方針を転換して
武田氏と和睦しました。
従来の説ではこの年の12月に
今川氏真は相模を離れ、
徳川家康の庇護下に入ったとされていました。




スポンサーリンク



【徳川家康の庇護下に入った年代】
けれども、近年になって元亀3年(1572年)5月に
今川義元の13回忌が今川氏真夫妻によって
小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し、
少なくても徳川家康の元に向かったのは
それ以降のことであったことが確定しました。
また、この法要の主催が
今川氏真夫妻であることや
既に嫡男の範以が生まれていること、
北条氏側でも北条氏政の正室である
黄梅院が死去したために
北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、
今川氏真と(北条)氏直との縁組は
この時点で既に解消されて今川氏真が
当主に復帰していたとする指摘もあります。
いずれにしても、掛川城開城の際の
講和条件を頼りにしたと見られていますが、
徳川家康にとっても旧国主の保護は
駿河統治の大義名分を得るものであったのでした。

【浜松にも滞在】
元亀3年(1572年)に入ると、
今川氏真は興津清見寺に文書を下すなど、
若干の動きを見せています。
天正元年(1573年)には
伊勢大湊の商人に預けていた
今川氏真の茶道具を織田信長が
買い上げようとしたことがあり、
その際に織田信長家臣と
大湊商人の間で交わされた文書から、
今川氏真が浜松に
滞在していたことがわかっています。

浜松城

【父の仇の織田信長と会見】
天正3年(1575年)の行動は、
この年1月から9月頃までに詠んだ歌
428首を収めた私歌集「今川氏真詠草」
(内閣文庫蔵)に書き残されています。
今川氏真は1月に恐らく浜松から
吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、
京都到着後は社寺を参詣したり
三条西実澄ら旧知の公家を
訪問したりしています。
信長公記」によりますと、3月16日に
徳川家康の同盟者にして「父の仇」でもある
織田信長と京都の相国寺で会見しています。
織田信長は今川氏真に蹴鞠を所望し、
同20日に相国寺において公家達と共に
織田信長に蹴鞠を披露しています。
「今川氏真詠草」にはこの会見に関する
感慨は記されてはいません。

長篠の戦い
4月、武田勝頼が三河長篠に
侵入したことを聞くと、
京都を出立して三河に戻り、
5月15日から牛久保で後詰を務めています。
今川氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、
徳川家康の許に使者に訪れた際に
設楽原での戦闘に参加し、
内藤昌豊を討ち取り、
徳川家康の直臣になったということです。

【剃髪】
長篠の合戦後、今川氏真も残敵掃討に従事したのち、
5月末からは数日間旧領駿河にも進入し、
各地に放火しています。
7月中旬には諏訪原城
(現在の静岡県島田市)攻撃に従っています。
諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名します。
なお、同年7月19日に宗誾(そうぎん)と
署名した文書を発給しており、
この時までに剃髪していたことが分かります。

【短い期間の牧野城主】
天正4年(1576年)3月17日、
徳川家康は牧野城主に今川氏真を置き、
松平家忠・松平康親に補佐させました。
けれども、天正5年(1577年)3月1日に
今川氏真は浜松に召還されています。
1年足らずでの城主解任でした。
また、城主時代に剃髪したらしく、
牧野城主解任時に家臣である
海老江弥三郎に暇を与えています。
この文書が、今川家当主として
今川氏真が発給した現存最後の文書となります。

【後半生】
牧野城主解任後の動向は不明ですが、
天正11年(1583年)7月、
近衛前久が浜松を訪れ、
徳川家康が饗応した際には、
今川氏真も陪席しています。
(「景憲家伝」「明良洪範」)。
この後しばらくの消息は再び不明となります。




スポンサーリンク



【京都在住、文化人】
天正19年(1591年)9月、
山科言経の日記「言経卿記」に
今川氏真は姿を現します。
この頃までには京都に移り住んだと
推測されています。
仙巌斎(仙岩斎)という斎号を
持つようになった今川氏真は、
言経初め冷泉為満・冷泉為将ら
旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、
冷泉家の月例和歌会や連歌の会などに
しきりに参加したり、
古典の借覧・書写などを
行っていたことが記されています。
文禄4年(1595年)の「言経卿記」には
山科言経が今川氏真と共に石川家成
(徳川家康の母方の従兄、石川数正の叔父)
を訪問するなど、この時期にも
徳川家と何らかの繋がりがあることが
推測されています。

京都 白川

京都在住時代の今川氏真は、
豊臣秀吉あるいは徳川家康から与えられた
所領からの収入によって
生活をしていたと推測されています。

のちの慶長17年(1612年)に、
徳川家康から近江国野洲郡長島村
(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」
500石を安堵されていますが、
この「旧地」の由来や
性格ははっきりとはしていません。

【子供や孫が徳川秀忠に出仕】
慶長3年(1598年)、
今川氏真の次男である
品川高久が徳川秀忠に出仕しています。
慶長12年(1607年)には
長男である範以が京都で亡くなりました。
慶長16年(1611年)には、
範以の遺児である範英(直房)が
徳川秀忠に出仕しました。

【江戸へ、早川殿との死別】
「言経卿記」の今川氏真記事は、
慶長17年(1612年)正月、
冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した
記事が最後となります。
4月に今川氏真は、郷里の駿府で
大御所徳川家康と面会しています。
「寛政重修諸家譜」によりますと、
今川氏真の「旧地」が安堵されたのは
この時であり、また徳川家康は
今川氏真に対して
品川に屋敷を与えたということです。
今川氏真はそのまま子や孫のいる
江戸に移住したものと思われ、
慶長18年(1613年)に
長年連れ添った早川殿と死別しています。




スポンサーリンク



【今川氏真の死去と墓所】
慶長19年(1615年)12月28日、
江戸で亡くなりました。
享年は77歳でした。
葬儀は今川氏真の弟である一月長得が
江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られました。
寛文2年(1662年)、
萬昌院が牛込に移転するのに際し、
今川氏真の墓は早川殿の墓と共に、
今川家知行地である
武蔵国多摩郡井草村
(現在の東京都杉並区今川二丁目)
にある宝珠山観泉寺に移されました。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
溝端 淳平(みぞばた じゅんぺい)さんが
演じられます。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

糸(早川殿)~政略結婚で今川氏真の正室になりましたが、最期まで添い遂げました。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。

北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。

西郡局~家康の次女で北条氏直及び池田輝政の妻となった督姫の生母で姉妹にはお田鶴の方(椿姫)がいます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

岡部元信~今川家の忠臣で歴戦の武将、後に甲斐武田家に仕え、徳川家康の前に立ちはだかり高天神城で散る。

関口氏純(親永)~築山殿の父親であり出自は今川一門の瀬名氏であり今川家の有力家臣でした。

巴~家康の正室である築山殿(瀬名)の生母で今川義元の妹とされていますが実は?

築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

駿府城(日本100名城)~最初は今川氏による領国支配の中心地、そして徳川家康大御所時代の居城となりました。

掛川城 (日本100名城)~東海の名城と謳われた程で日本初の本格木造天守閣が復元されたお城です。

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

近衛前久 行動力抜群のスーパー関白~織田信長・上杉謙信・徳川家康と親交のあった流浪の公家

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

塚原卜伝~剣聖と謳われ、室町幕府将軍の指南役にもなった剣士の生涯について。

関連記事

  1. 佐藤忠能 佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美…
  2. 富士山本宮浅間大社 湧玉池 穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼が…
  3. 清光寺(北区豊島) 清光寺~豊島清元(豊島清光)開基で居館が近くにあり豊島氏発祥の地…
  4. 加藤清正公の銅像 (妙行寺)(名古屋市中村区) 加藤清正~多くの戦功、治水事業、農業、商業に手腕を発揮し築城の名…
  5. 毛受の森 毛受勝照(毛受兄弟)・柴田勝家の身代わりとなって若き命を散らす~…
  6. 黒井城・遠景 赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防…
  7. 信貴山城跡と朝護孫子寺 松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の…
  8. 肥田城跡 肥田城・野良田の戦い~浅井長政の華々しい初陣と六角氏衰退のはじま…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 大田原城~武蔵七党・丹党の一族である大田原氏が築城、326年間外様城主大名として存続。 大田原城跡

ピックアップ記事

  1. 亀石
  2. 利家とまつ
  3. 大田原城 天守閣
  4. 伏見(桃山)城
  5. 岡崎城
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP