その他

大谷吉継~石田三成とは深い友情で結ばれ真田信繁の岳父であり秀吉から才能を認められた知将。

大谷吉継 敦賀城主



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大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。
領地・石高は越前敦賀5万7千石。
名前については「吉隆」とも
されますが、現存する古文書で
「吉隆」と署名する文書は確認できず、
いずれも「吉継」であるとのことです。
通称は紀之介、号は白頭。
官途は刑部少輔で、
大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の
通称でも知られています。

業病を患って失明し、関ヶ原の戦いでは
輿に乗って軍の指揮を執りましたが、
小早川秀秋らの離反で敗戦すると
家臣・湯浅隆貞(五助)の介錯で
切腹して死去しました。

【生誕】
永禄8年(1565年)
永禄2年(1559年)説もある。

【死没】
慶長5年9月15日(1600年10月21日)

【改名】
桂松(幼名)

【別名】
吉隆、
通称:紀之介、平馬、大谷刑部

号:白頭

【墓所】
福井県敦賀町永賞寺、
岐阜県関ケ原町、
滋賀県米原市

【官位】
従五位下・刑部少輔

【主君】
豊臣秀吉⇒秀頼

【氏族】
大谷氏

【父】
大谷吉房または大谷盛治

【母】
東殿

【兄弟】
妹:こや(小屋)
北政所侍女、御倉番)、
下間頼亮室、石川貞清

【子】
吉治(吉勝)、木下頼継、
竹林院真田信繁正室)

【出自について】
【生まれた年】
永禄2年(1559年)に
近江国(滋賀県)で生まれたと
されてきましたが、
現在は6年後の永禄8年(1565年)を
生年とする説が有力となりつつあり、
その場合は享年も従来の42歳から
36歳と改められることになります。
琵琶湖 西側

そうすると真田信繁とは
2歳違いとなりますね。

【父親】
従来の説では父は
大友氏の家臣である大谷盛治とされ、
父が病気治療のために
豊後国に赴いてそのまま一時期、
大友氏の家臣になっていた折に
生まれたという説がありました。
が、当時の大友家中に
平姓大谷氏は存在せず、
六角氏の旧臣である
大谷吉房とする説が
有力であるとのことです。

「華頂要略」の坊官大谷家系図に
吉継の名があること、
本願寺坊官・下間頼亮室が
妹であることなどから、
青蓮院門跡坊官である
大谷泰珍の子という説も
あるとのことです。

【母親】
母が大政所ないし
高台院の縁故者であったことは、
すでに作者不詳の「校合雑記」に
記載があったとのことです が、
「校交雑記」が引く
「兼見卿記」の確認作業により、
大谷吉継の母は
高台院の取次役であった
東殿であることが
確定したとのことです。
また「関原軍記大成」では
東殿が高台院の生母の
朝日殿の親族であったとも
語られているとのことです。
天正14年(1586年)4月6日、
大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が
国元の家老へ送った書状に
孝蔵主とともにあえて
東殿と名指しでその存在を伝えており、
すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の
次ぎの間に東殿が控えており、
かなりの政治力を有していたことが
うかがえ、豊臣家中で
重責を担っていたと
考えられるとのことです。

【兄弟】
兄弟姉妹が存在し、
栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の
2人の甥が記録に見えるとのことです。

【秀吉に仕える(織田時代)】
天正始め頃に秀吉の小姓となっています。
天正5年(1577年)10月に
秀吉が織田信長から
播磨国攻略を命令されて
姫路城を本拠地としたとき、
脇坂安治や一柳直末、
福島正則加藤清正
仙石秀久らと共に
秀吉御馬廻り衆の1人として
大谷平馬の名前が見えるとのことです。
天正6年(1578年)5月4日に
尼子勝久が上月城において
毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、
秀吉は尼子軍を救援するために
出陣しましたが、
このときに大谷吉継も従軍しています。




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その後の三木城攻めには
馬廻として従軍し、
10月15日に平井山で
開かれた秀吉陣中での宴にも
大谷平馬として名を連ねています。
このときの禄は150石とも
250石であったとも
いわれていますが
定かではないとのことです。

天正10年(1582年)4月27日、
秀吉は毛利方の清水宗治
立て籠もる備中高松城を攻めました。
このときも大谷吉継は秀吉の
馬廻りとして従軍しています。
けれども、ここまでの逸話の中で
「武功夜話」が根拠となっている
逸話については偽書説があるために
信憑性については問題があるとのことです。

【織田信長の死と秀吉の台頭】
その2ヵ月後の6月2日に
織田信長が本能寺の変で横死しました。
秀吉は6月13日に
織田信長を殺した明智光秀を討ち、
6月27日の清洲会議
織田氏の主導権を獲得して
台頭してゆくことになります。

【秀吉時代の活躍】
【秀吉と勝家の対立】
秀吉と織田家重臣である
柴田勝家の対立は決定的となり、
大谷吉継はこの時期の
秀吉の美濃国侵攻にも
馬廻衆として従軍しています。
そして天正11年(1583年)に
賤ヶ岳の戦いが起こりました。
この時、大谷吉継は長浜城主・柴田勝豊
調略して内応させています。

【紀州征伐など】
天正13年(1585年)、
紀州征伐においては増田長盛と共に
2千の兵を率いて従軍し、
最後まで抵抗を続ける
紀州勢の杉本荒法師を槍で
一突きにして討ち取った武功が
根来寺焼討太田責細記」に記されています。
秀吉が伊勢長島城に移った
織田信雄を祝いに赴いた際にも
同行しています。
文書の発給もこの頃から見え、
称名寺へ寺領安堵状を
「大谷紀之介」の名で発給しているとのことです。

【「大谷刑部」として】
同年7月11日、
秀吉は近衛前久の猶子となって
従一位・関白に叙任しましたが、
このとき諸大夫12名を置き、
大谷吉継は従五位下刑部少輔に
叙任されています。
これにより「大谷刑部」
と呼ばれるようになります。
この頃から、本来違い鷹の羽であった
家紋を対い蝶に変更したということです。
9月には秀吉の有馬温泉湯治に
石田三成ら他の近臣と共に
同行しているとのことです。
(「宇野主水日記」)




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石田三成の下での実務担当】
天正14年(1586年)の
九州征伐では、
兵站奉行・石田三成の下、功績を立てています。
同年、石田三成が堺奉行に
任じられますと、その配下として
実務を担当しました。
毛利輝元の著した「輝元上洛日記」には
天正16年(1588年)に
毛利輝元が上洛した際、
世話になったり挨拶周りをした
豊臣家や諸大名の名と
それぞれへの献上品が
細かく記されており、
下巻に大谷の名も見えます。
この時点で奉行格に列していたことが
分かるとのことです。

敦賀城主】
天正17年(1589年)に
越前国敦賀郡2万余石を与えられ、
敦賀城主となります。
大谷吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城
(現在の敦賀市結城町、三島町)を
改修したと伝わっていますが、
大谷吉継の前に豊臣秀勝
城主になっており、
天守は秀勝時代に
完成していた説もあるそうです。
笙ノ川・児屋ノ川の二川を
境界として町立てを行い、
町割を川西・川中・川東の三町に
改めています。

【「敦賀5万石」】
天正18年(1590年)の
小田原征伐にも従軍し、
続いて奥州仕置にも従軍し
出羽国の検地を担当しています。
この時、蠣崎慶広と面会し、
独立の承認と豊臣政権への
臣従について助力を依頼されています。
検地においては、配下の代官が抵抗する
農民を斬ったことが発端となり
一揆が発生しましたが、
上杉景勝の支援を要請し鎮圧しています。
帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の
村々六三か村、2万6944石を加増され、
このころにいわゆる
「敦賀5万石」を
領することとなったとのことです。
敦賀新港

【朝鮮出兵(文禄・慶長の役)】
文禄元年(1592年)から始まる
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では
船奉行・軍監として船舶の調達、
物資輸送の手配などを務めて
その手腕を発揮し、勲功を立てています。
同年6月には秀吉の命令で
奉行衆の一人として
長谷川秀一・前野長康・木村重茲・
加藤光泰・石田三成・
増田長盛らと共に渡海し、
特に大谷・石田・増田の三人は
秀吉の指令を受けて
朝鮮諸将の指導にあたると共に
現地報告を取り纏めた
とのことです。
明との和平交渉でも、
明使(謝用梓・徐一貫)を伴って
石田・増田と共に一時帰国し、
文禄2年(1593年)5月23日に
名護屋城で秀吉と明使との
面会を果たしたとのことです。
その後、再度朝鮮へ渡海しましたが、
6月に晋州城攻防戦で
晋州城を攻略すると
戦局は和平交渉により停滞し、
閏9月上旬には帰国しました。
最終的に決裂した和平では、
明国の秀吉冊封に際し、
大谷吉継は石田三成、
小西行長宇喜多秀家
増田長盛とともに
大都督の官位を
受けることになっていました。




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文禄2年の朝鮮からの帰還に際し、
9月吉日付けでに大宰府天満宮
一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、
この鏡は現存しているとのことです。
一つの銘には吉継の名が、
もう一方の銘には
「東・小石・徳・小屋」という
4人の女性名が列挙されています。
この東は大谷吉継の母親の東殿であり、
小石・徳・小屋については
諸説ありますが、大谷吉継の家族
であろうと考えられています。
ちなみに小石・徳・小屋は
大谷吉継の妹と考えられていまする。

【発病と進行具合】
文禄3年(1594年)には
草津に湯治に赴いており、
直江兼続に宛てて
「眼相煩い候間、
慮外ながら印判にて申し上げ候」
との書状を送っています。
慶長2年(1597年)9月24日、
秀吉は徳川家康・富田知信・
織田有楽斎らを伴い、
伏見の大谷邸に訪問しました。
大谷吉継は豪勢な饗宴で出迎えました。
慶長3年(1590年)6月16日の
豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには
病をおして参列し、
秀吉から菓子を賜っています。
慶長4年(1599年)には
神龍院梵舜と女能を見物しており、
病状の好転がうかがえます。

関ヶ原の戦いへ】
【家康の警護】
慶長4年(1599年)、
徳川家康と前田利家の仲が
険悪となり徳川邸襲撃の
風聞が立った際には、
福島正則ら豊臣氏の
武断派諸将らと共に
徳川邸に参じ家康を警護しています。
その後、前田利長らによる
「家康暗殺計画」
の噂による混乱の際は、
家康の命令で失脚していた
石田三成の内衆と共に
越前表に出兵しています。

【三成の決意に賛同】
慶長5年(1600年)、
徳川家康は会津の上杉景勝に
謀反の嫌疑があると
主張して上方の兵を率い
上杉討伐軍を起こしました。
徳川家康とも懇意であった大谷吉継は、
所領地である敦賀・
自らが代官を務める
蔵入地から兵を募り、3千の兵を率いて
討伐軍に参加するべく領国を立ち、
途中で石田三成の居城である
佐和山城へと立ち寄ります。
大谷吉継は石田三成と
徳川家康を仲直りさせるために
石田三成の嫡男・石田重家を
自らの軍中に従軍させようとしましたが、
そこで親友の石田三成から
徳川家康に対しての挙兵を
持ちかけられます。
これに対して大谷吉継は、
3度にわたって
「無謀であり、三成に勝機なし」
と説得しましたが、三成の固い決意を知り
熱意にうたれますと、
敗戦を予測しながらも
息子達と共に石田三成の下に
馳せ参じ西軍に与しています。




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【西軍への行動開始】
8月5日付の石田三成の書状
「備えの人数書」によりますと、
この後北国口の兵
3万100の大将とされています。
また大坂にいた真田昌幸
正室を預かるなど、
西軍の一員としての行動を開始します。
大谷氏は一族挙げて西軍につき、
大谷吉継の母・東殿は
高台院の代理として
宇喜多秀家が行った
出陣式に出席しているとのことです。

浅井畷の戦い
こうして西軍首脳の1人となった大谷吉継は
敦賀城へ一旦帰還し、
東軍の前田利長を牽制するため
越前国・加賀国における
諸大名の調略を行いました。
その結果、丹羽長重山口宗永
上田重安らの諸大名を
味方として取り込むことに
成功したのでした。
さらに大谷吉継は偽情報を流して
前田利長を動揺させ、
8月に前田軍と戦いました。

【関ヶ原、開戦】
9月、大谷吉継は石田三成の要請を受けて
脇坂安治・朽木元綱小川祐忠
戸田勝成赤座直保らの諸将を率いて
美濃国に進出します。
そして9月15日(10月21日)、
東西両軍による関ヶ原の戦いとなりました。
この時、大谷吉継は関ヶ原の
西南にある山中村の藤川台に
大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、
合わせて5700人で布陣。
陣中にはこの他、織田信長の子である
織田信吉と長次の兄弟、
蜂須賀家政の重臣である
高木法斎らが加わっていました。
大谷吉継は病の影響で
後方にあって軍を指揮し、
午前中は東軍の藤堂高虎京極高知両隊を
相手に奮戦していました。

【予想されていた小早川の謀叛】
正午頃、松尾山に布陣していた
小早川秀秋隊1万5千人が
東軍に寝返り大谷隊を攻撃してきます。
初めから小早川隊の謀叛に
備えていた直属の兵600で迎撃し、
更に前線から引き返した
戸田勝成・平塚為広と合力し、
兵力で圧倒する小早川隊を一
時は500m押し戻し
2、3回と繰り返し山へ
追い返したということです。
その激戦ぶりは
東軍から小早川の「監視役」
として派遣されていた
奥平貞治が重傷を負い、
後に死亡ことからもうかがえます。




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【予期できなかった裏切り】
しかし大谷吉継が追撃を仕掛けたところへ、
小早川秀秋の裏切りに備えて
配置していた
脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が
東軍に寝返り突如反転し、
大谷隊に横槍を仕掛けてきます。
これにより大谷隊は前から東軍、
側面から脇坂らの内応諸隊、
背後から小早川隊の
包囲・猛攻を受け
防御の限界を超えて壊滅し、
大谷吉継は自害しました。
享年は42歳もしくは36歳でした。
大谷吉継率いる大谷軍の敗北は
戦場の趨勢を一変させ、
西軍の諸隊に動揺を与え、
西軍潰走の端緒となったのでした。
西軍の諸将の多くが
戦場を離脱したにもかかわらず
自害をしたのは、
高台院の甥である小早川秀秋に
討たれることで、高台院への恩義に
報いようとした結果の
討死にではないかといわれているとのことです。
自害した大谷吉継の首は
側近である湯浅五助の手により
関ヶ原に埋められ(「常山紀談」)、
東軍側に発見されることはなかったとのことです。
異説では切腹した大谷吉継の首を
家臣である三浦喜太夫が
袋に包んで大谷吉継の甥の
従軍僧である祐玄に持たせて
戦場から落とし、
祐玄が米原の地に埋めたとも
言われています。
現地には首塚も建てられています。

大谷吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、
五助は藤堂隊に駆け行って
討ち死にしたとのことです。
居城の敦賀城は
家臣・蜂谷将監が東軍に
引き渡しを行いました。
また、関ヶ原の戦い直後に
勅勘が許されて京都
帰還を許された山科言経と
冷泉為満に与える屋敷地が
公家町の中に用意できなかった
徳川家康は没収していた
原勝胤と大谷吉継の母の屋敷地
(公家町の北隣にあった)を
両者に宛がっているとのことです。

辞世の句は
契りとも 六の巷に まてしばし
おくれ先立つ 事はありとも
」です。

これは戦闘中に訣別の挨拶として
送られてきた平塚為広の辞世

「名のために(君がため)
棄つる命は 惜しからじ
終にとまらぬ浮世と思へば」

への返句となっているとのことです。

【墓所】
墓所は、居城のあった
福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、
岐阜県関ケ原町にも
湯浅隆貞の墓と隣接して
石塔が設けられ、
少なくとも2ヵ所に供養塔があります。
また祐玄が首を持ちかえったとされる
伝承に基づく首塚が
滋賀県米原市下多良に残っています。
大谷吉継 首塚
米原市

<関ヶ原の墓は藤堂高虎が建てたとも>
湯浅五助隆貞は討ち入りますが
藤堂高刑捕らわれました。
主人の首の在処を藤堂に正直に伝えて
供養を頼んだ上で湯浅は討たれました。
敵ながらに感心した藤堂高虎は、
徳川家康からの詰問にも決して
大谷吉継の首の所在を口外せず、
合戦後、約束通り
「大谷吉継の墓」をこの地に
建てたとの言い伝えがあります。

【人物伝】
【業病】
生涯の半ばで
業病を患ったため、
容貌が変質したと伝えられています。
なお業病とは前世の罪の報いとして
発する病気という意味で、
非常に治りにくい病気・
あるいは不治の病の総称として
使われているとのことです。
特に相貌に著しい病変を起こす
ハンセン病は近代になるまで
業病の一種として
忌み嫌われていた経緯があります。
大谷吉継がハンセン病であったと
断定されているわけではありませんが、
1587年に大坂を騒がせた
辻斬(千人斬り)事件では
大谷吉継を犯人として疑う
風説が流れています。
ちなみにこの事件は
宇喜多次郎九郎らが
犯人として捕らえられています。
これに関連して「本願寺日記」
(「宇野主水日記」)では、
大谷吉継が癩病(らいびょう、ハンセン病のこと)
の患者で人体のある部分を
(食するために)必要としたのだとする説を
載せているとのことです。
その他の病名として
組織壊死まで至った末期梅毒説も
あるとのことです。




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【白頭巾は明治以降】
現在では、ドラマなどで
顔を隠すための
白頭巾を纏った姿で
描かれることが多いですが、
これは明治以降のことであり、
江戸時代にはそのような描写は
確認されてはいないとのことです。

【大谷吉継の敦賀統治】
吉継の敦賀入封は
日本海交易の要港、
北国の物資の集散地であった
敦賀港を秀吉直系の家臣に
掌握させることにありました。
敦賀城改築の用材は
秋田実季らが軍役として
賦課されています。
敦賀の地は大谷吉継支配の下、
北国から畿内への輸送の拠点、
出兵時の物資の調達拠点として
機能しました。
大谷吉継は蜂屋頼隆時代から
廻船屋を営む敦賀の川船座の
頭分道川氏の一族・
川舟兵衛三郎に間口19間、
奥行10間の地子、諸役、舟三艘の
役免除の特権を与えて
支配体制に取り込み、
(天正20年2月、「道川文書」)
流通を掌握したとのことです。
文禄3年(1594年)に
伏見城(指月山伏見城)が
築城された際の用材「太閤板」は、
道川氏一族の道川兵二郎の船で
秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、
同じく道川一族の
越後屋兵太郎は大谷吉継に船を
提供しています。
この他、高嶋屋伝右衛門らの
高嶋屋一族も特権を認められて
大谷吉継に協力しています。
慶長元年(1596年)に
木幡山伏見城が築かれた際には
高嶋屋久次が太閤板14間半、
慶長2年(1597年)には
高嶋屋良左衛門が50間を
運んでいます。
伏見城下においては
現在の桃山町日向より北東に
屋敷を構えていたとのことです。
敦賀城絵図

この他、慶長2年(1597年)2月に
鍛冶屋の刀禰家へ
地子本銭790貫文を
永代免許したという記録が残り、
地場産業の育成を
図ったことが見て取れます。

水軍も編成され、
後の関ヶ原の戦いで前田利長が
小松城を攻撃した際には、
「大谷水軍が金沢を攻撃する」
との噂を流させ撤退に
追い込んでいます。




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西福寺に対し発給した禁制など、
文書も相当数が現在に伝わっています。
寺社への寄進も積極的に行い、
秀吉の命を受けて常宮神社を再興、
氣比神宮に朝鮮から
持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、
八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、
灯篭などを寄進しています。
八幡神社 寄進
「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、
義をもつて之を奨励せし故、
皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」
「北国を経略し、士卒を訓練すること
臂の指を使うがごとし」と言われ、
家中の統制も行き届いていたとのことです。

【逸話】
<松の実>
大谷吉継が生まれる前、
両親が子供が出来ないことに
嘆き悲しんでいたとのことです。
父の吉房が八幡神社へ参詣しますと
「神社の松の実を食べよ」という夢を
見たということです。
そこで神社の松の前に落ちていた
松の実を食べると大谷吉継が
生まれてきたという伝説があり、
その幼名も慶松(桂松)といいました。

相州正宗の作、
敦賀正宗を召料としていたとのことです。

<白頭巾>
大谷吉継は当時の仏教観で
先生(せんじょう)の罪業に
因する病として忌み嫌われていた
癩病を患っていたとされ、
崩れた顔を白い布で
覆っていたとのことですが、
江戸中期頃までの逸話集には
この描写は存在していません。
「関ケ原合戦誌記」
「関ケ原軍記大成」などの軍記が
このイメージを広めたとされています。
最も、目を病んでいたのは
確かなことであるようです。
病が重篤化したと推定される
文禄3年10月朔日付けの
直江兼続宛書状の追伸で、
目の病のため花押ではなく
印判を用いたことへの断りを
述べています。

<伊東一刀斎から剣術を学ぶ>
「絵本英雄美談」により、
敦賀城主として
剣豪の伊東一刀斎に
一刀流の剣術を学んだということです。
また婿である真田信繁も
入門したとされています。

<徳川家康との仲>
大谷吉継は石田三成のように
最初から徳川家康を
敵視しておらず、
むしろ親しかったということです。
天正17年(1590年)、
小田原征伐に赴く秀吉が
駿府城に立ち寄ろうとしたとき、
石田三成が
「駿河大納言(家康)殿は
北条左京(氏直)と縁戚であり、
謀略があるやも知れず、
入城を見合わせては」と述べたとのこと。
けれども浅野長政と大谷吉継は
「大納言殿はそのようなことを
される方ではない」と反論して
秀吉に入城を勧めたということです。

慶長5年(1600年)、
諸大名の反対を押し切って
会津征伐を決断した徳川家康を
「まさに天下の主ともなる
人だけのことはある」
と高く評価しているとのことです。
(「改訂後三河風土記」)

・・・本来なら徳川家康と合流して
東軍になるはずでしたからね。




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<三成を諫める>
会津征伐に赴く際、
近江佐和山城に立ち寄って
石田三成から徳川家康に対して
挙兵に及ぶので共にしてほしいと
誘われたときも、
家康と三成の石高・兵力・物量の差から
軍事経験の差、器量の差などを評して
到底家康に勝てるわけがないと
諫めています。

<三成との親密なる友情>
石田三成との間には
深い友情が存在したとされています。
友情意識に疎い
戦国時代においては
両者の親密な関係は美事と思われ、
衆道関係であったとする記録も
存在しているとのことです。
その理由として両名が同世代であり、
出身も同じ近江国だったからだとのことです。
また秀吉は三成・吉継を「計数の才」
に長けた奉行として重用しており、
一緒に行動する機会が多かったことから
友情を培ったのではないかと
いわれています。

<石田三成と茶器>
天正15年(1587年)6月、
九州征伐を終え、筑前国筥崎に
到着した秀吉の機嫌を損ねてしまった
大谷吉継は、筥崎にほど近い
香椎村で蟄居していました。
このとき秀吉主催の茶会があり、
三成がひそかに神屋宗湛へ茶器を
大谷吉継に披露するように依頼しました。
大谷吉継はひそかに船で
香椎より姪浜に渡り、
興徳寺に宿を借りて茶器を
鑑賞したということです。
(「宗湛日記」)

<吉継が口をつけた茶碗を三成は飲む>
天正15年(1587年)、
大坂城で開かれた茶会において、
招かれた豊臣諸将は
茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで
次の者へ回していきました。
この時、大谷吉継が口をつけた茶碗は
誰もが嫌い、後の者達は
病気の感染を恐れて
飲むふりをするだけでした。
けれども石田三成だけ
普段と変わりなくその茶を飲み、
気軽に話しかけてきたのでした。
その事に感激した大谷吉継は、
関ヶ原において共に決起する決意を
したとされています。

<面と向かって率直に三成に物申す>
関ヶ原の挙兵の直前、
石田三成の横柄さを憂慮した
大谷吉継は、
「お主(三成)が檄を飛ばしても、
普段の横柄ぶりから、
豊臣家安泰を願うものすら
内府(徳川家康)の下に走らせる。
ここは安芸中納言(毛利輝元)か
備前宰相(宇喜多秀家)を
上に立てお主は影に徹せよ」
と諫言したということです。
本人を前にして「お前は横柄だから」と
率直に言って諫言していることから、
大谷吉継と石田三成はお互いに
言い合える仲であったことが
うかがえます。
他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては
天下に並ぶ者無しであるが、
勇気は不足していて決断力に欠ける」と
忠告しているとのことです。

<大谷吉継の呪い>
自害する際、小早川秀秋の陣に向かって
「人面獣心なり。三年の間に必ずや
祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)。」
と言って切腹したとのことですが、
この祟りによって小早川秀秋は
関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して
死亡に至ったという噂があります。

<竹林院との続柄>
真田信繁の正室である竹林院は
大谷吉継の娘とされていますが、
妹とする説もあるとのことです。

・・・新し出年が有力だとすると
大谷吉継と真田信繁は
ほぼほぼ同年代ですからね。
竹林院が妹とするのは納得です。




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【子孫】
子の大谷吉治
関ヶ原の戦い後に浪人となりました。
慶長19年(1614年)の
大坂冬の陣では義兄弟に当たる
真田信繁らとともに大坂城へ入城し、
慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣で福井藩主である
松平忠直の軍勢と戦い、討死。
その子孫は帰農しましたが、
後に直系は絶え、
杉山家より養子を迎えて
存続しているとのことです。

<自称・子孫だが・・・>
大坂の陣よりのち、その子孫を称する
泰重(父は大谷吉継と主張)
の子の大谷重政は
越前松平家に仕官し、
その子孫は福井藩家老の家格に列しました。
老中・土井利勝らはこのことを知ると、
「家康公が知ったら喜んだだろう」
と言ったということです。

<竹林院について>
娘(妹、姪を養女としたという説もある)は
真田信繁の室であるとされています。
けれども学説として
信頼できる史料は無いそうです。
関ヶ原の戦い後は真田信繁の配流に従い
九度山に移り大坂の陣で真田信繁が死去すると、
石川貞清の嫡男である
石川重正に嫁いだ娘・おかね夫婦の援助を受け
京都で余生を送ったとされています。
慶安2年(1649年)に死去。
真田信繁の子のうち
幸昌、守信、あくり、阿昌蒲
おかねが子とされています。
なお、大谷吉継の娘の名前は
史料では確認されておらず、
死後の法名・竹林院という号しか
判明していないとのことです。

<津田捨蔵は吉継の子孫>
どの子の系統かは不明ですが、
会津戦争に際して会津藩に
組織された白虎隊士中2番隊の
隊員で飯盛山で自刃したとされる
19名に含まれている津田捨蔵は
大谷吉継の子孫と言われているとのことです。
津田家には大谷吉継の甲冑が伝来し、
逸話を父から聞かされた津田捨蔵は
鎧を着用すると三度宙に躍り上がり
敵の首を斬る動作をしたということです。

【主な家臣】
<湯浅隆貞(五助)>
近習。関ヶ原の折最後まで
本陣に残った四人の家臣の一人。

<湯浅十郎左衛門>
隆貞の子。後高力家に仕官。

<三浦喜太夫>
隆貞の従者。
吉継の首を地中に埋めて隠しました。

<諸角余市>
近習。関ヶ原の折最後まで
本陣に残った四人の家臣の一人。

<土屋守四郎>
近習。関ヶ原の折最後まで
本陣に残った四人の家臣の一人。

<笠井慶秀>
武田旧臣・笠井満秀の子。
関ヶ原後、笠井に日頃
目をかけていた井伊直政
召し出され仕官しました。

<三位融盛>

<岩田五助>

<島信勝>
島清興(島左近)の息子、軍奉行。
名は清正とも。
関ヶ原の戦いで藤堂隊と戦い討死。

<蜂屋将監>
敦賀城留守居役。
関ヶ原敗戦後、東軍に城を引き渡しす。
後福島正則に仕えました。

<蜂屋右京進>
文禄5年(1596年)、
秋田実季に対し
「御橋板」受取状を発しました。

<高橋二郎兵衛>
同上。

<蜂屋市兵衛>
老臣と目される。

<下河原惣左衛門>
老臣と目される。

<佐久間与左衛門>
<岩間伝五郎>
<橋元久八>
<岡部小衛門>
<富永主膳>
<中田六兵衛>

<引塩伝右衛門>
文禄3年(1594年)5月
明の講和使節沈惟敬が来日した際
「唐便萬事用所等承り、
相調可申添奉行」を務めています。

<小岩内膳>
同上。

<大滝源右衛門>
<本多政重>

【現在は公認キャラクターとして】
敦賀城主だった大谷吉継にちなんだ
よっしー」を、敦賀市は
公認キャラクターとしています。
もともとは2006年に
敦賀市立博物館で開かれた企画展の
イメージキャラクターでしたが、
2年後に市の公認キャラクターに昇格し、
2011年7月には
着ぐるみも披露されたとのことです。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
忍成修吾(おしなり・しゅうご)さんが
演じられます。

羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の縁の地~

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藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称され藩政も長けていました。

黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。

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